2013年9月11日水曜日

スパイ小説として「ももたろう」を読んでみる――解釈学的循環を逃れられないこと




解釈学的循環の話をするかもしれない


※今日も今日とて、すごいざっくりした話をします。
※気分転換に、推敲も事前に考えもせずに書いています。
ももたろうをスパイ小説として読み解く妄想をしてて、その勢いで書いています。


ガダマーの解釈学的循環他、細かい用語は、ググっていただくとして。
理論の細部はさておき、新科学哲学と言われていた思想潮流が訴えていたこと――例えば、観察の理論負荷性やパラダイム――は、それと大きな流れの上では連帯するものでした。
クワイン(全体論)とデイヴィッドソン(特に概念図式の話)の議論なんかもそうですね。
そして、ローティの「エスノセントリズム」も。

まぁ、細かい話は置くとして。

ももたろうをみていきましょう。
ももたろうを通じて、解釈学的循環って具体的にどんなプロセスかを見てみます。

「リテラルに(文字通りに)」読むとか。
「解釈抜きで」受け取るとか。
「主観を廃して」受け取るとか。
……よくこんなことを言ったりしますが、そんなことは無理ですよ的なことを言いたいのだと思って頂ければ。


ももたろうは意外とむずかしい?


「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」

「むかし」とはいつだろうか。紀元前5世紀くらいか。この物語を読んでいる読者の時間が、期限後45世紀だったとすると、「むかしむかし」は20世紀辺りのことだと思っても仕方ないかもしれない。
少なくともこの時点ではなんの不都合もない。

では、「あるところ」とは?
紀元前5世紀のカムチャツカ半島かもしれません。
カムチャツカ半島に当時人がいなかったのだとすれば、後に続く「おじいさんとおばあさん」なる登場人物は、未来から避暑に来て、半年くらい過ごしているタイムトラベラーなのかもしれません。
少なくとも、これらを否定する情報はありません。
読者の世界で、タイムトラベルが一般化していて、更に、歴史が大きく断絶した結果、タイムトラベルの技術は人類の歴史が始まった時からあったと考えるのが「常識」であったとすれば、この解釈のラインは、それほど突飛ではないかもしれません。


「おじいさんとおばあさん」という言葉も厄介です。時代によれば、平均寿命がごっそり違うでしょう。文化次第では、40歳くらいで、もう「老人」扱いしているところもあるかもしれません。
現代日本における老人なら、「後期高齢者」をイメージするでしょうか。先に挙げた文章において、「おじいさんとおばあさん」は年金を受け取っているのでしょうか。年金というほどではなくても、社会保障制度があるのでしょうか。
身分はどうでしょうか。王族であることを否定する情報もありません。庶民かどうかもまだわかりません。(もっと言えば、どのような生活をしていれば、彼らの生きている文化圏では、「庶民」とされるのかということを判断する根拠も一切ありません)
しかも、この時点では、「犬のおまわりさん」って歌もあるみたいに、「犬のおじいさんとおばあさん」であることはあり得るかもしれません。


あえて突飛な例を沢山あげてみましたが、私達は、与えられた情報・現象に向かい合う時に、何らかの「理論」を既に前提しています。
ももたろうの解釈で、「理論」というと大げさかもしれません。解釈学という分野では、「先入見」とよばれます。偏見ではありません。前もって持っているイメージとでも思ってください。

「おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」

柴刈りが隠喩である可能性は否めません。
隠喩でないなんてことは誰によっても、何によっても決められていません。
例えば、「大嫌い!」という言葉が「大好き!」にしか聞こえないシーンが存在することを多くの人がイメージできるように、「文字通りに」受け取ることが正しいとは思えないことも現実には多く存在します。
しかし、この物語の語り手の意図(speaker's meaning)は、この時点ではなんとも言えません。文字通りの意味(word meaning)はどうでしょうか。山に行って「柴刈り」をする。
てか、柴刈りってなんでしょうね。普通に薪集めだと思ってたんですけど違うんですかね。

このおじいさん、実は007、ジェームズ・ボンドの変装で、某国への潜入任務に携わっており、山へ行くのは、その山を超えた先にある某国の会議拠点を調査に行くのを隠す「建前」なのです。
つまり、「柴刈り」は、薪集めではなく、「柴刈り(意味深)」! 会議を傍受しに行くことを意味しているのです。

とりあえずこういう風に読んでみましょう。
当然おばあさんは現地の協力者ですね。
挿絵や動画で、異なる「おじいさんとおばあさん」像が展開されていますが、それは某国による歴史の隠蔽工作ですので、信ずるに値しません。


「おばあさんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと大きなモモが流れてきました」

大きな桃ってことは相当大きんですよ。半径3メートルくらい。
そうなると、川もすごい大きいことになっちゃいますね。
でもそうなると、川で洗濯なんて危ないでしょうから、国が工事をして、洗濯希望者が安全に仕事をできるようになっているのでしょう。
この国で、「桃」という単語が出てきた時は注意が必要です。
いわゆる桃と林檎と梨とみかんと葡萄の区別がなされない文化で、これらを合わせて「モモ」と呼んでいたのでそのうちのどれかは不明です。そういうことにしておきましょう。

あれ。でも、おばあさんは「桃を家に持ち帰った」と続きます。
私たちの知る桃だと大きすぎて持ち帰れないでしょうから(おばあさんが筋肉モリモリのマッチョマンであるか、サイキック能力の持ち主である可能性は捨て切れませんが)、「モモ」の中でも、葡萄である可能性が高そうです。
葡萄なら、そのうち一粒をもぎ取って持って帰ったと考えられます。おばあさんが筋肉モリモリマッチョマンじゃないなら、きっと葡萄を一粒持ち帰った。


あれ。でも、その中から「桃太郎」という赤ん坊が生まれてくるんですよね。
桃太郎がエイリアンでないなら、私と同じ人間なら、私とそう変わらないサイズで生まれたはずです。
いくら半径3メートル級の葡萄だとしても、そのうち一粒だったら、人間としてサイズがおかしいですよね。ちょっと小さすぎる。

ということは、先に立てておいた「大きさは半径3メートルくらい」という先入見が怪しくなってきました。
矛盾を無視して進むのは厳しいでしょう。
修正を加えることにします。

大きいといっても、これは誇張で、実際はサッカーボールくらいだった。

こんな風にして、とりあえず「整合的」にももたろうを読み通すとします。


そんな私はある時、精神分析の講義を聴いて衝撃を受けます。
フロイトは、「水は出産に関係する」と言っているそうではありませんか!

一旦、安定期に入っていた私の「ももたろう解釈」はゆらぎます。
おばあさんは拾って帰ったと言っていたけど、元々妊娠していたおばあさんが、出産したことを伝える物語だったんだと解釈を修正することにします。
そうすると、川のサイズも小ぶりでも構わないでしょうし、おばあさんも「おばあさん」とは言いながらも、実は出産適齢期くらいだったという可能性も出てきました。

桃は安産を象徴していて、この物語が語られた文化圏では、直接「出産」について語ることを避ける傾向にあるという話を歴史学者から、私が小耳に挟んだとしましょう。
このデータを得た私からすれば、フロイトの線で解釈していく根拠がより多く集まったと言えるでしょう。


ただのスパイ小説かと思えば、ジェームズ・ボンドは順応しちゃって、そこで現地の協力者との間に子供を作っちゃうという、大いに所帯染みた物語だったのです。



定義の循環とは違うよって言いたかったのかも。それと叙述トリック



……みたいな。

こんな風に、解釈って無限に増殖するんですよね。

これほど単順なお話ですら、信じられないくらい多くの想定(先入見)を必要としているかわかるでしょうか?
伝わればよいのですが。

理解も、お話を聞きながら、この登場人物の年齢はどれくらいで、どんな性格で……とか想像しますよね。
それで、時々「あ、あの印象は間違っていたのか」と気付くことがあります。そうなると、その登場人物に関する情報全体が、再組織されることになって、印象全体も修正されます。

行きつ戻りつしながら、私達は物事を理解していきますよねーってかんじです。
耐え切れないほどの解釈上の矛盾って、実は原理的にはないんだと思います。
矛盾に対して、それを回避する「パッチ」を当てたり、小さい齟齬なら無視して通り過ぎることもできますから。
(それに、私たちは現実の矛盾を、無視したり、適当に「わかりやすく」「単純に」解釈してしまうことで、避けて通っています。
例えば、陰謀論とかは、現実の複雑さに対する対応として典型的な例かもしれません。矛盾を無視するだけでなく、自分の解釈のラインを否定するような証拠をそもそも存在しないものとして扱ったり、隠蔽や誤認の結果とみなすことによって対処します。)


よく「叙述トリック」ってありますよね。
あれは解釈学的循環をうまくつかったお話ですね。

例えば。
奈須きのこ『空の境界』で、登場人物の「式」は、一人称「俺」で展開していく。
どうやら現代日本の話ですし、「俺」っていうと、普通「男」が使う言葉だし、読んでいるとツンデレバディと仲良くやってる小説っぽいなぁと読むわけです。
しかし、ある時、ある登場人物が式を指して、「女の子なんだから」と言います。

今まで抱いてきた「先入見」のままでは、安定しえないほどの齟齬を抱えることになってしまいます。
最初のあの会話は、事実上相思相愛の男女の会話だったのか!と過去のやりとりの印象まで修正せざるを得ないでしょう。

他にも、漫画なら『式の前日』なんてのもありましたよね。表題作は、仲のいいカップルかと思ったら、実は姉弟でしたーってオチです。
あ、とんでもないネタバレ食らわしましたね。気にしないでください。
叙述トリックバレたくらいで、面白くなくなる物語なんて、その程度です。『式の前日』が、どちらかは各自の判断に任せます。


認識にガツン!と修正をせまるような、ズレを与える。このズレこそが、読者にとって強烈な体験になるわけですね。そして、その体験が感情を強く動かす。
その意味では、ミステリでよくある「ミスリード」も同じメカニズムとして考えられそうです。
リプライもらって気付きましたが、ヒッチコックの「マクガフィン」は、どう位置づけられるでしょうか。ちょっと考えてみるのもいいかもしれません。


解釈学的循環とは、ざっくり言って、物語の全体の理解は部分の理解に資するし、部分の理解は全体に資する。行きつ戻りつしながら、絶えず修正していく……という話です。


言葉の印象で、「解釈学的循環」を「定義の循環」のような意味で使う人が多いのですが、そんなことはないですよ。


徒手空拳では何も読み解くことはできないってことですね。それと同時に、「先入見」抜きで、私達は物事を見ることができない。徒手空拳であることもできない。
何らかの知識なり、習俗を持っているから、言い換えると「先入見」を持っているから、物語や言葉、そして世界を受け取れる。
しかも、絶えずその見方を修正しているわけです。
ここに「対話」の地平をみるのも、自然な発想でしょう。


ハイデガーの弟子筋で、彼に大きく影響を受けながら、新たな哲学の地平を拓いたハンス・ゲオルグ・ガダマーは、この先入見に関わるものとして、「伝統」という語彙を持ち出したりするわけですが……いわゆる「伝統」とどう違うのか、彼の意図はなにか、色々考えることはありそうです。
まぁ実際に本を読んでください。

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