2015年10月26日月曜日

プラグマティズムに関する講座を11/7に京都でやるよ、という話

ブログで宣伝することを思いつかなかったので、今更ながらの告知です。
京都大学人間環境学研究科に所属している院生です。


イベントスペースのGACCOHさんにて、教養講座「やっぱり知りたい!プラグマティズム」シリーズを催しています。
今回はその第三回、最終回(11/7)の宣伝です。

「やっぱり知りたい!プラグマティズム」全3回 / 第3回「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」11月7日(土) 19:00-21:00→詳細



今回の話は、人間の「生」に焦点を当てたものになると思います。この場で、次回の背景になっているテーマを少し書いてみたいと思います。

時代や社会を語るとき、「複雑さ」や「変化」という言葉と積極的に結び付けられるとき、その裏で前景化しているのは、生きることにつきまとう漠とした「不安」であり、「この世界の自明性が失われた」という感覚です。
それを「確実性の源泉」が失われたとか、生きることの「原理」の喪失と呼んでもよいでしょう。

今回のプラグマティズム講座では、原理主義の本家本元、20世紀前半に登場するキリスト教原理主義に焦点を当てます。
プラグマティズムの思想家ジョン・デューイは、キリスト教原理主義の台頭を目撃した同時代人でした。
私たちが今回、原理主義を扱うにあたって、問題にしたいのは冒頭に述べた「自明性の喪失」です。

この話に対する補助線として、2011年紀伊国屋じんぶん大賞に選ばれた國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』の序章を借りながら言い換えてみましょう。



よく言われるように、近代に入り様々な価値が相対化されました。これまで信じられてきた価値に変わって据え置かれたのは、「生命ほど尊いものはない」という原理でした。佐伯啓思さんなら、それを「生命尊重主義」と呼ぶでしょう。

これは正しい。正しいがゆえに人を奮い立たせることはありません。生命尊重主義は、世界の自明性を回復しません。

生きることに拭いがたい不安があり、自分には揺らがない基盤がない感じがするとき、人は自分を突き動かしてくれる力を欲します。

その「力」を与えてくれる最も目立った例として、過激派や狂信者を想定することができます。

「世界の底が抜けた」ように感じられるとき、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者を、人は「恐ろしくもうらやましい」と思うようになるのかもしれません。

自分はいてもいなくてもよいのではなく、何かに打ち込むことで意味ある使命を背負っているのだと実感したい。

強いて単純化して言えば、そういう感覚が、いわゆる「ホームグロウン・テロリズム」や、イスラーム国に参加しようとする人々に共有されているのだと思います。

今回話題にするキリスト教原理主義が、暴力に訴える人々だと言っているのではありません。というか、ここでは暴力的かどうかは問題ですらありません。

キリスト教原理主義は、人間の生の不安に応えて、自分を突き動かす「力」や「原理」を提供している。

国家や民族に回帰する現象(右傾化?)がもはやありふれた風景になっている今、世俗化の最先端にいて、「宗教」というと顔をしかめる日本の私たちだって、決して彼らを後ろ指差して批判できる場所にはいません。

ジョン・デューイの原理主義論の紹介を通じて、私たちが欲している生きることの「確かさの源泉」について、安定・安心して生きたいという感情について、考えてみたいと思います。

およそ百年前の、縁遠いかに思える「原理主義」という現象の考察は、思いのほか、現代日本に生きる人間にとって具体的かつ原理的な洞察を提供してくれるかもしれません。



第一回、第二回とは内容的に独立しているので、気軽にふらっときてください。第一回、第二回の話を聞いてみたいという方は、参加したうえで質疑のときに言っていただければお答えします。

詳細は、下のリンクまで。


わかりやすい、聞きやすい、面白いを心がけてがんばります。前知識は特に必要ありません

興味があれば、ツイッター(@mircea_moning )にでも連絡をいただければお返事します。

「やっぱり知りたい!プラグマティズム」全3回 / 第3回「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」11月7日(土) 19:00-21:00
お申し込みや参考文献などの詳細はこちら

2015年7月22日水曜日

学部一年時のレポートを発見したので。

学部一年の頃のレポートです。
連続してアップロードしたレジュメの授業のやつかな。


まだレポートがどんなものかわからないまま書いてるんだろうなと思います。笑
ひどいもんですね。。。サルベージしたところでは、もっとひどいレポートもあったのですがw
まぁ、学部なんてそんなもんですよね。
恥ずかしいことをわかっていながら、なんとなく貼ってみることにします。


ヨーロッパ法文化論

 封建社会においては、荘園所有によって支配力を強めていたところの地主貴族や下級貴族、あるいは都市貴族が、世襲的な「参審員」として、法名望家層を形成していた。しかし、彼らは読み書きも満足にできない者が多く、学識層とは決していえない。あくまで名望家に過ぎなかった。彼ら「参審員」の権威は、社会的地位にあった。血縁社会のもとでの、その権威が、彼らや彼らの決定に対する、心理的服従の強制が規範の妥当性をなしていた。彼らは個々に独自の地域的慣習法に精通する者だった。
 生産の増大などによって社会・経済基盤が変化したこと、そして火器が登場したことで戦術が変化したこと、新興ブルジョア層が台頭したことなどで、封建貴族は没落へ向かっていった。また、権力の中央集権化の流れの中で、地域独自のものでしかなかったドイツの法にも変化の要請が生まれた。領域を貫く法が求められる中で、法というものが複雑化・専門化し、加えて文書行政の要請も生まれたため、併せて法律家のあり方も変化していった。
 更には、思想的な転換も、法律家への影響として無視できないものがある。人文主義・ルネサンスの思潮の中で、キリスト教的権威、教会的権威が後退し、思想の世俗化が強力に進んでいった。その流れで、ローマ法が教会法を圧迫し、教会・聖職者による知識の独占が解かれた。知識は商品化されてゆき、法律家がサービス業で発達するところとなった。そして、宗教改革の運動の中で、宗教や道徳の問題が個人に帰せられるようになり、個人主義が浸透した。個々人の訴えが多様化し法知識の専門化・複雑化への要請は高まった。
 その一方での話ではあるけれども、宗教改革の辺りで、教会の世俗化が批判されたが、その中で「権威批判」「反世俗」の要素が呼応して、「権威」や「金」に奉仕する法律家も非難されるところとなった。後に述べるところの法律家批判の傾向も、この流れの中の話である。


 合理性というものを軸にした「学識」は、従来の出自や身分という要素に代わっていった。つまりは、その「学識」を中核として、エリート層が形成され始めたのである。中世における「学識」は、すなわちキリスト教・教会権威と結びつくものであり、大学は中世の知識の独占した教会の強い影響下にあるものだった。世俗から遊離したところにおいて、研究され生み出された専門知識は、民衆を基盤にしたものではなく非民衆的なものだった。知そのものも、教会・聖職者に独占されていたのである。
 この「学識層」に、新興市民層が流入して、その大部分を占めたのだが、この現象は、学識層が民衆化したということを意味するわけではない。大学博士は、下級貴族に列せられたように、学識は一方で世俗化されながらも、そのまた一方で中世的な身分に結びついていたのである。こうして、身分と学識が強く結びつくことで、文書貴族が新貴族層を形成した。中世世界においては、聖職者がそうであったのに類似して、法学者というのは、身分的世界での新たな「風穴」になった。このことは、法学識層へと市民から多数流入したことが象徴している。ゆえにまた、これは急激に変動した社会経済構造の動揺に対する安全弁として働く側面もあった。法学識を身につけることで、現在の身分を脱して上昇する事が不可能ではなかったからである。そのこともあって、学識エリートは、革命に対するブレーキとしての役割を果たしていた、とある種いえる。
 イギリスにおける法曹団体(legal profession)やフランスの法官貴族(noblesse de robe)は、市民社会に基盤を持つような政治的な団体にまで発展した。彼らを支えるのは、大学ではなくもっぱらサロンにおいて培われた知識である。一方でドイツにおいては、市民社会が未成熟であり、イギリスやフランスにも遅れをとっていたために、官僚として各領邦国家で、忠実な「家臣」となり、支配を強力に支えた。



 近世において、法律家批判の傾向は大きく3つある。1手段を選ばず、なりふりかまわぬような、名声・富への激しい志向、2権力志向、へつらい、3三百代言である。これが意味するところは、法律家が支配層に参入しているということである。旧勢力たる貴族・封臣の専横や介入を嫌って、顧問官としてじきじきに君主が雇っていた。貴族の大きな仕事は、軍役と助言にあったため、君主と共同して政策を決定する仕事を持つ顧問官とは、必然的に対立するところとなっていた。構造としては、君主を間において、旧支配体制の残滓ともいえる、慣習的な貴族と、法学識をもつ顧問官とは対立していた。
 当時は他の領邦は外国という意識があった。これもあってしばしば他両方からくる法律家は「雇われ外国人」と呼ばれていたため、貴族の土着的な要素と反発した。知識も、留学などして大学で身につける法律家に対して、貴族はその地域に固有の慣習的なものに頼っていたため、対立の生成は避けられなかった。
 下級官吏と顧問官の違いについては、前者が「手と行為」によって仕えると形容されるのに対し、「舌と知性」によって仕えるとされた。その専門的知識、法学識が重要なファクターであった。人文主義・ルネサンスの潮流の中では、顧問官などの中に、つまりは権力の中枢に、半学識者や半法律家がいることへの反発や批判があった。十全に法学識を身につけないまま、学識者や法律家を語る様に、強く非難があつまっていた。それが上の三百代言の意味するところである。


 学識法律家の、学識というのは、ローマ法の学識であり、つまり彼らは大学でローマ法を学んできた人のことである。ローマ法を需要する前のドイツでは、ローマ法の知識など全く持たぬ者、例えば聖職者や地方の有徳者が裁判を行っていた。
 学識法律家の需要が高まっていく中で、当然大学の設立に対する要請も高まったのである。大学の設立は、世俗権力によるものが多い。とはいえ法学者の需要が高まったから彼らによって設立されたというよりは、当初大方の大学は、神学を中心に据えていたことからもわかるように、聖職者育成が一番の目的であり、カノン法が中心であった。大学成立当初の教師や知識人というのも、もちろん中世的な権威であり、知識を独占していた聖職者が大半であった。このことからも教会と大学の強い結合がうかがえる。学生の集まりからであれ、教師の組合からであれ、いずれにせよ最初は自然発生的に生まれてきた大学であるが、のちに教皇や強力な教会から許可をもらうことで、権威を戴くことがあった。それは、自治権や学位授与権という形であらわれた。
 ローマ法の継受を目的に大学が設立されたのではない。大学教授が盛んにローマ法を教える中で、人口増加による効率的で画一的な行政が望まれ、文書官僚が必要とされる中で、ローマ法が結果として栄えていったのではないかと考えられる。
 大学は教師や実務家を育成する場ではない。目的や歴史性からいっても違うのだが、多くの大学教授が、実務家を兼務していたことからいっても、事実上、官僚育成機構として役割を果たしていることは否めない。

参考文献

上山安敏、1966年『法社会史』みすず書房。

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので③

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので①

以上です。
今はもう読んだ記憶もほとんどないですけど、こんな勉強もしてたんだなぁと思いました。


上山安敏『法社会史』

第十二章 ゲルマ二ステンと政治的運動

三月革命前の時代は、学問が政治的社会的機能を動かした時代だった。ドイツでは、政治が大衆世論という形で、初めて権力構造を変質させた。しかし、この世論は、大学の政治的教授のもので、それは特に法学者と歴史家だった。

ドイツでは、三月革命前の歴史を駆動するのは、法・歴史・言語であった。国民の所属は、自由意思でなく、自然と歴史により規定された運命であるという認識が支配的であった。経済発展につれ、教養層が英仏型の「富と教養の階層」に近接し始め、学識者は次第に政治性を帯び始めた。大学も、純粋な研究の場だと自認しながら、国家の精神的支柱たる存在を固辞することで、政治運動の精神的指導者を生みだす契機を有していた。この中で政治的教授が生まれていった。ドイツにおいてリベラリズムは多義的で幅広い概念だった。彼らは、当時社会的な力となりつつあった与論を合言葉に用い始めていた。

ドイツの統一と自由を求めた運動は、反動体制の道具と化したドイツ連邦でなく、職業を通じた横の連帯を基盤に進められた。ゲルマ二ステン集会は、このような運動の典型だった。この集会では学会母体を、特に法学・歴史・言語に制限した。集会は法律家が主導し、議題も彼らが提示したものが総会の強い関心を引いた。ゲルマ二ステン運動は、その母体の歴史法学と同様、私法から出発したが、同時に新しい公法領域を開拓した。学問の枠を守る動きと政治的運動の微妙な衝突はあったものの、政治的な方向に傾いていった。


1、政治的教授の登場

ドイツにおいて、三月革命前期の歴史を駆動するのは、法・歴史・言語であった。国民の所属は、自由意思でなく、自然と歴史により規定された運命であるという認識が支配的であった。歴史や言語の文化運動は、言語と民族の統合による国民国家の形成という、ドイツ特殊的な政治運動の推進力となった。

フランスのバロのような弁護士団体は革命運動に対して大きな政治的役割を果たした。彼ら弁護士はブルジョア層の富と、学識者の教養とを所有する者であった。一方ドイツでは、経済発展の遅れのため法曹の自由営業化が阻害され、フランス型の政治的弁護士を生まなかった。ドイツでは、市民運動が国民国家・立憲国家・法治国家を作ろうとするとき、大学の法・政治的知識を持つ学識者が必要とされた。多くの人にとって学問は、それら国家との一致が必要であった。

経済が急速に発展するにつれ、教養層が英仏型の「富と教養の階層」に近接し始めた。学識者は次第に政治性を帯び始めた。大学も、純粋な研究の場だと自認しながら、国家の精神的支柱たる存在を固辞することで、政治運動の精神的指導者を生みだす契機を有していた。この中で政治的教授が生まれていった。


2、政治的教授とリベラリズム
ドイツで、リベラリズムとは多義的で幅広い概念だった。当時社会的な力となりつつあった与論を、彼らは合言葉に用い始めていた。また政治的には、立憲主義(中央右派)と議会主義(中央左派)に、大きく分類される。リベラリズムの思想的基調は、反封建、反啓蒙、反フランス革命、反自然法、反絶対制、反官僚制に帰結する。このような態度をとった彼らの理論的支柱は歴史法学の派の依拠した有機的発展理論だった。彼らによると、国家は契約的に建てられた社会でも、目的合理的な構成物でもなく、人間自然において作り出された有機的道義的共同体である。


3、ゲルマ二ステン集会

ドイツの統一と自由を求めた運動は、反動体制の道具と化したドイツ連邦でなく、職業を通じた横の連帯を基盤に進められた。ゲルマ二ステン集会は、このような運動の典型だった。学問と政治的理念が強力に結合した政治的なショーという意味で画期だった。この集会では学会母体を、特に法学・歴史・言語に制限した。集会は法律家が主導し、議題も彼らが提示したものが総会の強い関心を引いた。

集会内部は、三つのグループに分かれていた。旧世代の穏健派、急進派、中間グループである。穏健派はロマ二ステンに対して妥協的であり、集会の中核をなす急進派はドイツ固有のものとして取り入れられたローマ法は排除しようとするものではないとした。中間グループは中庸の態度だった。

ゲルマ二ステン運動は、その母体の歴史法学と同様、私法から出発したが、同時に新しい公法領域を開拓した。学問の枠を守る動きと政治的運動の微妙な衝突はあったものの、政治的な方向に傾いていった。

疑問点・論点

・学者の政治性

・純粋な研究の場は可能か→純粋な研究を自認するあまり、社会的な影響や悪用の可能性を度外視することもあるのでは?逆に政治的であることの弊害(学問の自由が無くなるなど)



同書
第十三章 裁判官層の自由主義化

1、ウィーン会議後のデマゴーグ迫害と警察


ウィーン会議では、勢力均衡や正統主義の下で反動体制がつくられ、一定の秩序が形成された。ドイツでは、ゆるく統合されたドイツ連邦が組織されたが、国民的統一への欲求を満たすものではなかった。体制は革命的潮流を嫌い、ブルシェンシャフトの弾圧に象徴されるように、弾圧の手段は過激化した。革命的な動きを取り締まるために、警察司法省の構成員からなる委員会が設置され、家宅捜索や逮捕が乱発した。

2、裁判所の抵抗
当は、司法は圧倒的にリベラルなもので、一方警察は体制保護的で反動的なものと捉えられた。


3、裁判官の自由主義化

三月革命前の官僚体制は、下からの運動たるリベラリズムの高揚と権力の反動化に伴う政治的対立を内部において反映しており、行政府と司法府との対立という形で現れた。プロイセンで、等族的なイデオロギーの擁護者から、進歩的自由主義の担い手となった司法府は、官僚機構の中でアウトサイダー的な立場を強いられた。


疑問点・論点

・当時の社会での受け取られよう、民衆の反応は?
・司法権の独立、体制との距離感→日本では?
・警察の思想的取り締まり→明治以降、戦前。特高など。