まとまらない内容。字数が肥大化してますね。
田辺元を扱いかねている感じがひしひしと伝わる。大体『復興文化論』。ほとんど『復興文化論』。
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無常に関する一考察――唐木順三にならって
1,無常と日本の美学
日本人的精神や美の本質を無常観に見出すことは古くから繰り返されてきた紋切り型である。例えば、村上春樹は、2011年の東日本大震災から約半年後、カタルーニャ国際賞のスピーチにおいて、次のように発言している。
1,無常と日本の美学
日本人的精神や美の本質を無常観に見出すことは古くから繰り返されてきた紋切り型である。例えば、村上春樹は、2011年の東日本大震災から約半年後、カタルーニャ国際賞のスピーチにおいて、次のように発言している。
日本語には「無常」という言葉があります。この世に生まれたあらゆるものは、やがては消滅し、すべてはとどまることなく形を変え続ける。永遠の安定とか、不変不滅のものなどどこにもない、ということです。これは仏教から来た世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し別の脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても無駄だ、ということにもなります。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。[1]
震災にかこつけて、外国人好みの日本イメージを補強しているに過ぎないのではないか。ここで問題になるのは、こういう振る舞いを続けるうちに、日本人自身がこの種の無常の感じが、自分たちの唯一の美学だと錯覚してしまうことだ。外国人に「日本の美とは何か」(あるいは「日本らしさとは何か」でもよいだろうが)と問われたとき、こういう「無常観」や、それを背景として生まれた「侘び・寂び」などを挙げてしまいがちではないか。[2]
しかし、私はここで無常観以外の日本の美学を提出したいわけではない。それは手に余るし、授業内容からも逸脱しかねない。[3] そうではなくて、無常観それ自体について分析・整理を試みることで、お題目としての「無常」から脱しようとしたい。
唐木順三が述べているように、無常について既に多くの人が書いており、その結果、一種の教科書的概念ができあがり、無常概念自体が通俗化していることは否定しがたい。唐木の『無常』は、「この教科書的概念規定から、『無常』を救ひ出すことが、私に課せられてゐると、私はさう思って」書かれたものだ。[4] これは、無常の安易な神聖化・神秘化に対抗する別の経路である(注2)。
2,ありふれた無常の感じ
唐木は『無常』を「はかなし」分析から始める。王朝女流文学に見られる、停滞した社会のなかでの女性的で心理的なままならなさとしての「はかなし」。これが、兵(つはもの)の世界、戦乱や動乱、そこに起こる栄枯盛衰、盛者必衰の事実認識と結びついて、無常の哀感、詠嘆的無常観として、「無常感」が生まれた、とする。このような無常の見方からすれば、「人生無常、世間無常、という王朝以来の『はかなし』に通じる普通の無常」では、常ならぬものとして、「名利、財産珍賓、権勢、地位、世情、人情、文名、學名など」が挙げられることになる。仏教的な「無常観」はそれを裏付けるために、いわば表面的に借用された。[5] 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で知られる『平家物語』も、その無常の見方そのものは、石母田正が述べているように、当時のありふれた認識に他ならない。[6]
このような「無常感」に気付いた保田與重郎は、日本文学の死や滅亡、あるいは終末の感覚が「個人」の情念と結び付けられていたと述べる。日本の古代文学は、「片恋や失恋をことのはじめに考え、うらみわびの心をさきに発想して、恋歌のなかに終末感を歌い出すほどに発達してしまっていた」[7]。終末感覚は、国家や社会というよりも、失恋した一人の個人や、恨みつつ死んだ御霊に託されてきた。[8]
ここに述べたのは、ありふれた無常の感じだ。それを唐木的に言えば、仏教的な補強を受けた、王朝以来の流れある「はかなし」に象徴されるような「無常感」となり、保田的に言えば、個人の情念に紐付けられるような終末感覚だと言える。
3,道元の無常観――はかなし的無常感の否定
唐木は『無常』の章の最後を道元に割り当てている。道元が生まれる前年に源頼朝は亡くなっており、八歳の頃には、法然と親鸞が地方に配流されている。十三のとき、『方丈記』が書かれ、二十歳のときは源実朝が殺され、二十二歳のときには承久の乱があった。そういう動乱の青年時代を道元は過ごしていた。八歳で母を亡くし、人生のはかなさを知ったとされる道元は、こういった社会事情を背景にしながら思想を形作っていた。吾我を離れることが仏道の成就につながると考えられていたのだが、そのためには「無常を観ずることが第一の用心」であると、重要視せられている。そして、頼りにならないもの(国王以下、妻子、眷族という世俗の縁)は頼りにならないものとして先取し、積極的にこちらから捨てよ(「捨棄」)とも主張される。こうして無常についての道元の言説を唐木は紹介するのだが、これは何ら特別な発想ではないとする。「言葉の背景にある経験が深いといふだけ」だ、と。しかし、『正法眼蔵』の第九十三「道心」には、「無常の形而上学」と呼ぶべき、彼の思想の独自性・本質が現れていると唐木は述べる[9]。彼が注目するのは次の箇所だ。
唐木は『無常』を「はかなし」分析から始める。王朝女流文学に見られる、停滞した社会のなかでの女性的で心理的なままならなさとしての「はかなし」。これが、兵(つはもの)の世界、戦乱や動乱、そこに起こる栄枯盛衰、盛者必衰の事実認識と結びついて、無常の哀感、詠嘆的無常観として、「無常感」が生まれた、とする。このような無常の見方からすれば、「人生無常、世間無常、という王朝以来の『はかなし』に通じる普通の無常」では、常ならぬものとして、「名利、財産珍賓、権勢、地位、世情、人情、文名、學名など」が挙げられることになる。仏教的な「無常観」はそれを裏付けるために、いわば表面的に借用された。[5] 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で知られる『平家物語』も、その無常の見方そのものは、石母田正が述べているように、当時のありふれた認識に他ならない。[6]
このような「無常感」に気付いた保田與重郎は、日本文学の死や滅亡、あるいは終末の感覚が「個人」の情念と結び付けられていたと述べる。日本の古代文学は、「片恋や失恋をことのはじめに考え、うらみわびの心をさきに発想して、恋歌のなかに終末感を歌い出すほどに発達してしまっていた」[7]。終末感覚は、国家や社会というよりも、失恋した一人の個人や、恨みつつ死んだ御霊に託されてきた。[8]
ここに述べたのは、ありふれた無常の感じだ。それを唐木的に言えば、仏教的な補強を受けた、王朝以来の流れある「はかなし」に象徴されるような「無常感」となり、保田的に言えば、個人の情念に紐付けられるような終末感覚だと言える。
3,道元の無常観――はかなし的無常感の否定
唐木は『無常』の章の最後を道元に割り当てている。道元が生まれる前年に源頼朝は亡くなっており、八歳の頃には、法然と親鸞が地方に配流されている。十三のとき、『方丈記』が書かれ、二十歳のときは源実朝が殺され、二十二歳のときには承久の乱があった。そういう動乱の青年時代を道元は過ごしていた。八歳で母を亡くし、人生のはかなさを知ったとされる道元は、こういった社会事情を背景にしながら思想を形作っていた。吾我を離れることが仏道の成就につながると考えられていたのだが、そのためには「無常を観ずることが第一の用心」であると、重要視せられている。そして、頼りにならないもの(国王以下、妻子、眷族という世俗の縁)は頼りにならないものとして先取し、積極的にこちらから捨てよ(「捨棄」)とも主張される。こうして無常についての道元の言説を唐木は紹介するのだが、これは何ら特別な発想ではないとする。「言葉の背景にある経験が深いといふだけ」だ、と。しかし、『正法眼蔵』の第九十三「道心」には、「無常の形而上学」と呼ぶべき、彼の思想の独自性・本質が現れていると唐木は述べる[9]。彼が注目するのは次の箇所だ。
よのすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、よのはかなく、人のいのちのあやふきことを、わすれざるべし。われは、よのはかなきことを、おもふと、しらざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、わがいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちも、をしまざるべし。発心のために第一に心にかけるべきは、「無常を観ずる」ことだった。頼むべからざるものを頼みとして生きている世人が、出家し得道に至るのには、頼みにしているものが頼みにならないことを確知することが第一の条件というわけだ。「心を無常にかける」ことによって、「よのはかなく、人のいのちのあやふきこと」が知られる。この「心」は主観的な心、吾我のことであるのに対して、「無常」は世界における端的な事実、客観的な現実に他ならない。続く文章で言われているのは、吾我なるものがあって、それが「よのはかなきこと」を思っているのではないということだ。自分の心が主体として、世界を認識しているのではない。むしろ、心や情緒はまずもって捨てるべきものであり、吾我は離れ、捨棄すべきものなのだ。「まづ、『しばらく』心を用ゐて、無常を観ずるのだが、無常を観ずることによつて、反つて逆に、その心、吾我の心それ自体を離れるといふことが起る。それが道心といふものである」。[10] 道心は、吾我の心ではなく、自我を超えている。唐木が言うように、このような道元の道心の捉え方は、王朝的な「はかなし」や「無常感」を批判・否定している。引用文の直前には、「わがこころをさきとせざれ。ほとけのとかせたまひたるのりをさきとすべきし」と説かれているように、世の「はかなき」を思い観ずる自我という固定した実体があり、それが心というものを持っているのではない、というのである。[11]
4,時間の観点から――道元とアウグスティヌス
生死即涅槃という、「ありきたりの言葉」の意味を債権とする。道元も『正法眼蔵』のなかで、「生死はすなはち涅槃なりと覺了すべし。いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし」と述べている。諸行無常偈として知られる涅槃経の句、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」を引きながら、生滅が滅し已んだところが寂滅ないし涅槃とされている。ここで、滅已は終局・生滅の果てと考えられ、性の果てとしての「死」だと考えられている。そしてその死の先に、寂滅涅槃境があると思われている。[12]
「生死即涅槃」は、こういった発想に対する否定となっている。無常なる生死のさきに、常住の涅槃があるのではなく、無常が涅槃、生死が寂滅だというのだ。「つねに生じつねに滅するといふ生滅無常が時間の裸形である。時間は本来無目的、非連続である」。刹那生滅、刹那生起なのである。「目的へ向つて進んでゐるのではないといふ點からいへば、虚無、死、寂静へ向つて進んでゐるのではないといふことになる。反つて、時間は、念々虚無につながつてゐる」。無意味なことの果てしない反復という時間像の下では、その時間が反復される間は虚無である。「人生も諸行も森羅萬象も、この時間においてあるよりほかはないのだから、結局は虚無、無意味である。無常はかくして虚無、無意味をあらはに示してゐるといふことになる。無常は、詠嘆の感情、情緒などとは全く無縁な冷嚴な事實、現實である」。[13]
『正法眼蔵』の第十一「有時」に依拠しながら、時間論を深めよう。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」「時は飛来するとのみ解會すべからず、飛来は時の能とのみ學すべからず。時もし飛来に一任せば、間隙ありぬべし」とある。「山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば山海も壊す、時もし不壊なれば山海も不壊なり」。山も海も念々生起念々生滅、刹那起刹那滅である。山は瞬間ごとに時間によって切断され、非連続である。飛来し、飛去する時間という観点からすれば、切断ごとに「間隙」がある。去来の間として、虚無と言ってもよい。しかし、そういう非連続の存在でありながら、山としては自己同一である。「要をとりていはば、盡界にあらゆる盡有は、つらなりながら時時なり、有時なるによりて吾有時なり。有時に經歷の功徳あり、いはゆる今日より明日に經歷す、今日より昨日に經歷す、昨日より今日に經歷す、今日より今日に經歷す、明日より明日に經歷す」。
田辺元もこの箇所をとりあげ、「時の非連続的有時」と「經歷の主體的同一」に注目した。そして、アウグスティヌスの時間分析になぞらえながら、「今の去來と今の恆常との相卽、時の媒介としての世界と意識との對立的同一が直ちに自己分裂的動性そのものとして、非連続的有時を絶対否定する永遠の動卽靜なることを表はす。經歷とは、時の各瞬間を絕對の現成として絕對的に個別化する裁斷が、直ちに絕對統一としてそれ等を合一せしめる連續の原理なることを意味するであろう」。[14] 飛来という側面から見れば、時間それ自体は無意味に無限に反復されているのであって非連続的だ。一方で、「時は有なり」という側面から見れば、有時が現成して個別化する切断も、意識のレベルでは合一化され統一される。世界の水準からすれば自己分裂的ではあるが、意識からすれば自己同一、あるいは動的ではあるが、静的である。このように言えるだろうか。
ところで、田辺はこの道元の時間論について、「プラトンの突如態(瞬間)、アウグスティヌスの『現在の現在』、ハイデッガーの脱自的統一といふ如きものも、時間の原理として歸趣を同じくするであらう」[15]と述べている。このアウグスティヌスの時間論について、主要な展開を見せるのは、マラルメの『イジチュール』と『双賽一擲』を論じている「マラルメ覚書」、その第三章である。[16]
アウグスティヌスの時間論によると、「常識的にはすでに過ぎ去ってもはや無いと思われるところの過去を、現在記憶に存続するものとしての「過去の現在」と解し、まだ未だ来らざる従ってまだ無い未来を、現在の予期においてあるものとして「未来の現在」と解するのである」。この中間に位置すると考えられる現在において両者が統一されるのではない。その現在は、「過去の現在」および「未来の現在」とあり方が異なっており、その現在も「現象学的に変容」させ、「現在の現在」とする必要がある。言ってみれば、「現在の自覚が、『時』の基底をなす……。アウグスティヌスのいわゆる『現在の現在』は、現前意識の焦点たる現在の、過現未を通ずる普遍本質的自覚に他ならないのである」。しかし、「アウグスティヌスの時間論は、その立場の現象学的なるために、その意味分析が意識面に偏局せられる結果、意識面を超えて否定契機の転換飛躍を、立体的高次超越的に実践する自我の自覚には、達しない」ので、限界があるとも田辺は述べている。[17] 翻って道元は自我意識なるものから離れているという点で、より遠くまで議論が及んでいる。
5.道元・無常観の特色
唐木は「恁麼(いんも)」という語彙に注目している。もとは「このように」という意味だったが、「恁麼事」「恁麼人」などとも使われるとき、「ありのまま」「そのまま」の意味、飛躍して自然法爾と言ってもよい、と唐木は述べている。「恁麼なるに無端に發心するものあり」という道元の言葉は、理由づけや因果を斥けている。『正法眼蔵』第七十「發菩提心」によると、思慮分別の「慮知心」によって無常を観ずることで、菩提心を起こす。菩提心は、個々人(個我)の菩提を求める心ではなく、個人に内在する心を超えた形而上的なもの=「恁麼」である。刹那流転なるままに、「恁麼人」になることができるのは、「發心する者の發心の機が、まさに時を得て、個我を超えたものに逢着する」、すなわち「時節到来」「感應道交」するからだ。これは単なる偶然でも、僥倖でもない。[18]
慮知心をうながし、菩提を求めようとさせるその「心」は、「ひとへにわたくしの所爲にあらず」とされる。私という實體があつて、その私が私の心を働かせるのではない……。恁麼人の恁麼がそれを促し働かせる……。……無常を観じ思はせる心も、この恁麼の働きである。……働きをさまたげる働きも恁麼であるのだから、恁麼ならぬ何ものもない。恁麼の純粹行、無色透明の行為である。[19]
こういう「非情」の、「無色透明」の世界は、なにも時間論に限った話ではなかった。例えば、「この身体」実体があるのではない。衆法すなはち四大五蘊がたまたま合成されたところが、「この身体」というものだというのだ。私という実体があって、それが「起こる」のでもない。四大五蘊の衆法があらしめ、また解体するだけだ。この無為、等閑の世界を、唐木は「虚無といつてよい」と断じる。「彩色せず、抒情せず、その意味で、裸裸、如如である」。道元の無常観の特色は、思慮分別といってよい「慮知心」すら自我に内在するものとみなさない点であると言える。
6.簡易のまとめ
私たちが普段、目にし、耳にし、口にするような「無常」。外国人から質問などで、急に「日本人」であらねばならないときの「無常」。それは、疑うべくもなく、ありふれた無常感、石母田正が『平家物語』で指摘したような陳腐な世界認識でしかない。このとき、福嶋亮大の指摘は非常に興味深い。
「この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける」という思想によって日本を代表させてきたのは、決して村上のような小説家だけではない。例えば、……丸山眞男は記紀神話を例に出しながら、「つぎつぎとなりゆくいきほひ」、つまり自然生成を肯定する意識が日本人の精神構造を深く規定していると見なした。[20]
「自ずから」や、「なる/なります」という語彙をキーワードにした議論を思い出せばよい。他にも福嶋の言うように、日本のポストモダニストたちが、丸山の理論を反転させて自然生成こそを美的なものとして鑑賞してきた。褒めるにせよ、貶めるにせよ、日本やしばしば「無作為」の国、自然の「いきほひ」に身を任せる主体性のない国だと考えられてきた。他でもない日本人自身によってである。[21] このような現状からすれば、その「無常」にあっても、透徹した非情の、冷厳たる世界を描いた道元を論じることは有意義であるだろう。
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[1] 「非現実的な夢想家として」と題されたスピーチは2011年6月9日にスペインで行われた。/NHK「かぶん」ブログ、2011/06/11(土)http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/800/85518.html で全文閲覧できる。
[2] 唐木順三『唐木順三全集』7巻、241-242頁など。宗祇も世阿弥も利休も芭蕉も禅に関係しているし、殊に利休と芭蕉は、禅に参じ、禅を学んでいる。
[3] 文芸評論家・中国文学研究者の福嶋亮大は、『復興文化論』において無常観を日本精神の主流とする安易な議論に反対し、いくつかの固有名を「復興文化」という視座から流通させることで対抗している。「無常観に対抗」すること自体、無常観が主流と目されていることを再強化しかねない(社会における周縁を指摘することが周縁という立場を強化してしまうのと同じように)とはいえ、有意義な研究であろう。
[4] 唐木順三『唐木順三全集』7巻、4-5頁。その前後で、ニヒリズムが「普遍化し、すでにニヒリズムという實態が観念されえないほどに、ニヒリズムそのものがのさばってゐる」今日、「無常」の自体が眼前にさらけ出していると言ってもよい。それゆえに、今日、「無常」は世界的な意味を持つ、と唐木は語っているが、村上春樹は先のスピーチにおいて「今日、世界的に有意義な概念」として無常を紹介しているのではない。
[5] 同上、4及び212頁
[6] 石母田正『平家物語』(岩波新書、1957年)43-44頁
[7] 保田與重郎『改版日本の橋』(新学社、2001年)41頁
[8] 福嶋亮大『復興文化論』(青土社、2013年)391-392頁
[9] 唐木『唐木順三全集』7、202-209頁。直後にある『正法眼蔵』の「道心」からの引用は、同書209 頁からの孫引き。
[10] 同上、211頁
[11] 唐木は引用文の四つの文章を、発心する、道心を発するための順序・手続きを、順に表現したものだと考えている。「法(のり)を第一とし、吾我の心を離れよといふのである」。この「法」は、我や心をもその内に含んでいる無常であり、対象・客体として認識するような無常ではなく、それゆえ形而上的な無常だと言ってよい。(同書、212-213)それゆえ、唐木は「無常の形而上学」と章題を付けているのだ。
[12] 同上、214頁。寂滅涅槃境のように死・終局のさきにあるようなものとして、「浄土、彼岸、極樂もさういふ聯想で語られてゐる」。
[13] 同上、214-216頁。この冷厳なニヒリズムからの逃避が生み出すものとして、「始原の想定」「終局の想定」「有為の功業」(歴史や流れの意味付け)の三つを挙げている。
[14] 田辺元「正法眼蔵の哲学私観」『田辺元全集』5巻、476-477頁。唐木が同箇所に注目しているのは、同書の221-222頁である。
[15] 同上、477頁
[16] 『正法眼蔵の哲学私観』(1939年)は中期に分類される一方、『マラルメ覚書』(1961年)最晩年・遺作である。「アウグスティヌスの時間論の核心というべきものは、常識的に時間を水の流れの如く客観的に存在する対象と観ることを斥け、時間をあくまで現在の自覚において統一せられる意識の綜合に成立するところの主観の構造と認めたことに存する」。これは、常識的・自然的な時間への態度に対して、「意識の現象学的態度を以て、時間考察の要求」をする立場だと言える。『正法眼蔵の哲学私観』で出てくる「渦旋」という概念が道元に関連して言っている箇所がある。「小生は面授を……、時間的過去(師)と未来(弟)との対決葛藤と解し、両者の商量の行はるる現在は、……前者が後者を媒介するのみならず逆に後者が却て前者を媒介する交互態として、その限り現在の局所的即非局所的なる渦旋が、師弟の同時性を成立せしめるものと思惟します」(唐木順三宛の書簡 1955年11月15日) この論理は、直後の引用文からもわかるように、アウグスティヌスの時間論では、師は「過去の現在」、弟は「未来の現在」に辺り、渦旋が「現在の現在」にあたるものとして考えることができる。
[17] 田辺元「マラルメの覚書」、藤田正勝・編『死の哲学』(岩波文庫、2010年)、78-81頁
[18] 唐木、同書、223-227頁
[19] 同上、234頁
[20] 福嶋、前掲書、397頁
[21] 同上
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