2015年5月27日水曜日

『後宮小説』と『ジェイン・エア』――二つの「適当な」主体

久しぶりに真面目に何か書いてみる。
読書会で『後宮小説』をとりあげたものの、参加人数が少ないこともあり、結局雑談をして帰ったので、少なくともちゃんと言語化くらいはしておこうと思った。

 酒見賢一の『後宮小説』は、日本ファンタジーノベル大賞の第一回受賞作にあたる。ファンタジーノベル大賞は、佐藤亜紀、森見登美彦など押しも押されぬ作家を何人か排出した登竜門で、今はもうなくなった文学賞。(個人的な印象としては、森見登美彦のように明らかに名前の残った作家と、受賞作しか出さない作家とに二極化している気がする。)

 『後宮小説』は、後宮――まぁ、日本で言う大奥みたいなもの――を舞台にしておきながら、「雲のように風のように」というタイトルで(子供向けに?)アニメ化されていたりもするらしい。同世代にはアニメを見ている人もいたけれど、自分はタイトルすら初耳だった。
 ちなみに、アマゾンの商品紹介はこんな感じ。
時は槐暦元年、腹上死した先帝の後を継いで素乾国の帝王となった槐宗の後宮に田舎娘の銀河が入宮することにあいなった。物おじしないこの銀河、女大学での奇抜な講義を修めるや、みごと正妃の座を射止めた。ところが折り悪しく、反乱軍の蜂起が勃発し、銀河は後宮軍隊を組織して反乱軍に立ち向かうはめに……。さて、銀河の運命やいかに。
『後宮小説』を一言で言えば、貧しい女の子の成り上がりの物語だ。大抵、成り上がること(経済的成長)と「成長」(人間的成長)はリンクしている。支倉凍砂の『ワールド・エンド・エコノミカ』は、そのわかりやすい例だと思う。しかしながら、『後宮小説』はビルドゥングスロマンではない。主人公は、一見成長しているようで全く成長していない。

 主人公の銀河は、好奇心の虫というべき存在だ。「後宮ってなに?」と父親に聞いたりするし、後宮に入れば、それは何かと世話役や同輩、先生に聞いたりする。そのようなシーンは散見される。階級は銀河にとって問題にならない。知りたいことを知る、気になることを知ることが彼女の行動原理だった。実のところ、それ以上でもそれ以下でもない。
 貧民出身の子が後宮に入って立身出世……というと、純朴な少女が衝突しながらも、高慢ちきな貴族出身の他の同輩や宮廷の人々の心を溶かしていく――という物語を想像しそうになるが、決してそのような物語ではない。最初から最後まで銀河は変わらない。彼女は単に行動する。好奇心に従って行動する。そのような彼女に、単に周囲の人間が心動かされたり、動かされなかったりするだけだ(登場人物には、心動かされない種類の人間もかなり多い)。


 酒見賢一の『後宮小説』を読んだとき、私は英国ロマン主義小説の『ジェイン・エア』を思い出した。ジェインという名前はありふれている。ありふれた少女が立身出世を遂げる物語として、提出されているのだと思う。しかし、このジェイン・エアも何かパーソナリティに変化があるかというと、終生にわたって変わらない。冒頭の子供時代から、彼女は一切変わらない。それは銀河も同じなのだが、「まっすぐ」であること、筋の通った人間であることを連想とさせる。ポジティブに言い換えてみせれば、そうなのだろう。ジェイン・エアは様々な困難に直面するし、様々に環境を変える。しかし、彼女は変わらない。そんな「素直な」彼女に、周囲の人々は、心動かされたり、動かされなかったりする。

 ハードボイルド……というわけではないのが面白い。彼女は悲嘆もするし、やけっぱちになったりもする(銀河はしなかったかもしれない。文体の都合上、感情の劇的な表出は描きにくいだろうし)。ハードボイルド小説は、困難や感情の揺れに際しての「強がり」と、職業における「プロ意識」によって特徴付けられているように思う。もちろん、二つの小説にはそんな要素はない。彼女たちは主体としてはどちらかというと、「適当」に思える。
 ジェイン・エアはかなりその場の雰囲気で思い切った行動をとっている。直ぐに決断して育ちの家を出たり、なんとなく決断して適当な家で住み込みの家庭教師を始めたり、思い切って突然の家出を遂げたり、不意にもとの鞘に収まろうとしたり。結構行き当たりばったりで、何かの行動原理に支えられているようにも見えない。彼女は単に、遠くにある心がドキドキする「何か」を求めてそぞろ歩きしている。
 実のところ、この点、銀河はジェイン・エアと異なっている。ジェインは典型的にロマン主義的な主体と言えるのに対して、好奇心が形象化した存在である銀河は目の前にある対象に常に興味を持つ。自分の周囲にあるものに、銀河は好奇心を払う。「ここではないどこか遠くにある何か」にドキドキするというよりも、具体的な現実に銀河は疑問を持ち、興味を持ち、そして行動する。


 時間フレームがどんどん短くなっていく現代社会では、ロマン主義的に「ここではないどこか遠く」にあこがれて、子どものように心をドキドキさせて続けることは非常に困難に思える。そのような時間的・精神的・金銭的余裕は、誰にも許されるわけではない。
 時間フレームがどんどん短くなっていく現代社会では、一貫した自己像を築くことが非常に困難になっているとつとに指摘される。もはや自己という物語を紡ぐことは極めて難しい。

 前者ならば、ジェインはそのヒントを与えるかもしれない(いや、無理な気はするが、励ましくらいはもらえるだろう)。

 後者ならば、銀河の「人生の物語」として仕立てあげられた『後宮小説』は、非常に重要な足がかりになるかもしれない。
 目の前の具体的な現実に注意を払い続ける銀河。単にあちこち見まわるだけでは、注意散漫だろうが、物語の終盤で、自らの哲学を披露している後年の銀河の姿が語られる。経験はばらばらで別々に存在しない。好奇心に従って、自分の近くにある具体的な現実に注意を払う。そのような経験の反復のなかで、のちの経験がそれ以前の経験に左右されていく。そしてその経験が、その後の経験に影響を与える……。こういう営みの連鎖として、銀河の人生を捉えることができる。(伝わってますかね。とりあえず、書き上げることを目的にしているので、文章表現は不適切なものが多いかもしれません。)
 アニメのタイトルは多少示唆的かもしれません。今の雲の形は、ついさっきの雲の形抜きには想定できないでしょう。今の雲の形は、次の雲の形がどうなるかということに大きな影響を持つでしょう。……うまく言えないですけど、まぁそんな感じで。

 とまぁ、そんな感じで、ジェインと銀河――二人の違う、主体の「適当さ」は、興味深いなぁなどと最近思ったりしたのでした。

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