・帰ってきたボカロ好き、ゆかりコンピを聴く
きゃらあいさんのイラスト。かわいい(かわいい) |
数ヵ月を経た最近、ようやく受け取ることができ、今、こうして聴いているわけです。
引っ越しや「入院」を経て、音楽との接し方自体が変わる中で、しばらくボカロ自体から離れていました。
最近はぽわぽわPの昔買った音源とか、keenoさんの新しいアルバムとかをぽつぽつ聴き始めていたので、ゆかりコンピに入るのには、いいタイミングだったのかもしれません。
前置きはこれくらいにして。問題のゆかりコンピはこちら!!
ボカロから数年離れた立場にもかかわらず、結構気に入ったので、簡単にレビューしてみます。
VocaDBでの、このコンピの情報はこちら。
・全体について
結論から言えば、ものすごくいいコンピでした。
特に、くらげP、さたなさん、翁さんの曲が好みです。
今や「ボカロ好き(自称)」がお似合いの形容詞である私ですが、このコンピに収められている曲は、漠然とではあるけれど、「ゆかりさんっぽい」感じがします。
ミクやルカ、グミではなくゆかりさんが歌う曲だろうなという感じがします。
個人的に衝撃だったのは、名前がわかる(覚えている)ボカロPが二人しかいないことですね……。
面識があって昔から聴いていた翁さん、それから冒頭の曲を作っているくらげP、このお二人だけです。
(結月ゆかりは前から大好きなのですが、くらげPは、自分の中の「ゆかりさんイメージ」を作っている中心的な要因かな、と思います。)
それから、きゃらあいさん!! ジャケットも抜群によかったんですけど、予想以上にグッと来たのは歌詞カードですね。
曲ごとのキャラクターのかわいさとかは言うまでもないと思うんですけど、歌詞カードには、見開きごとのメインカラーが曲とすごく合っている。それが地味にいい。
個人的には、くらげPの「シーベッドタウン」のページの絵が好きです。
※CDの曲順に不備があるそうなので、一応、その件に関する詳細のリンクを貼っておきます。 → こちら
(以下では、一曲一曲簡単に感想を言おう……などと思っていたのですが、気づけば「シーベッドタウン」論みたいになってしまいました。深夜書いているのであしからず。。。)
・「シーベッドタウン/くらげP」
安心して聞けるさわやかな冒頭曲。
歌詞は全体を通してさみしい印象がある。
ちょっと補いつつ、言い換えるとこういう心象を歌った曲です。
〈若さもあって、目の前の世界で手一杯なのに、その「手一杯の世界」が持っているはずの確からしさが感じられない。
世界の確からしさが感じられないなら、もちろん、そこに生きている自分の確からしさも失われているように思える。
自分の立ち居振る舞いもどこか「嘘」くさくて、苦しい。
周囲の人間に嫌われないように、ただそれだけ考えていると、全部「嘘」で出来上がっているような気すらする。〉
・匿名的逃走としての「夜」
この曲には、いくつか上に書いたような心象から逸脱している箇所があります。
そのどれもが、「夜」、あるいは、それと結び付いた「青」へと「逃走」しているシーンです。
「嘘」で塗り固めた「朝」から遠く離れている「夜」は、同時に、その暗さ、つまり、「青さ」でもって、全てを覆い隠すものだ、と位置付けられています。
夜の青さに、自分自身が塗りつぶされることが、日常という「嘘の世界」を忘れさせる。平たく言えば、真っ暗な夜は、日の当たる世界から遠いので、私の救いになっているということでしょう。
「夜明け前が一番暗い」とか、「明けない夜はないんだよ」とか、「夜」はつらさのモチーフになることが多いので、その意味ではやや興味深いと言えなくはないのかもしれません。
夜のブルー ねぇ、ブルー
灯りは泡になって
空へ落ちていく
どこでもない場所に変わる
日常を思わせる光を遠ざけ、匿名的にすべてを染めてしまう「夜」。
普段の文脈から切り離されることの心地よさが印象的なのは、バブリーに鳴り続けるオブリガートの電子音のおかげでしょうか。
・他者と出会う時間としての「夜」
匿名性というのは、ちょっといかにもありそうな「夜」の特徴なのですが、この曲では夜にいくつかの興味深い解釈が与えられています。
あなたの手を取って、夜に溺れてく
そうしたら、簡単に
世界が変わった
ユートピアとしての「夜」は、ありふれた空想的逃避でないようです。
というのも、この一節を見る限りでは、「夜」が「あなた」という他者との界面になっているようですね(J-POPによくある唐突な「あなた」が出てきているだけだと言えばそれまでですけどねー)。
・時間の周期性による、「夜」と「朝」の重ね合わせ
もう一つ興味深い特徴が「夜」に帰されています(これも、当たり前と言えば、当たり前の話なのですが)。
先に、「明けない夜はない」という慣用句を挙げておきました。
この言葉への対抗的なレトリックとして、「暮れない昼もないんだよ」というものをしばしば耳にします。
「夜はつらいけど、もう少し時間が経つのを待てば、朝(希望・出口)があるんだよ」 という呼びかけに対して、「逆に言えば、また時間が経てば、夜(苦痛)がやってくるってことだよね」と答えるわけです。
この曲でも似た件があります。
青に染まってそれでも、夜は明けてく
嘘だらけの朝がまた来てしまう
夜に苦しみ朝に救いを求める人にも平等に、夜がまたやってくるのと同じように、夜に救いを求める「私」にも朝は平等にやってくる。
苦しみとしての朝は、反復する。繰り返しやってくる。
当然といや、当然の認識ですね。
こんなにも簡単に世界は元に戻る
(中略)
それでもいいんだ
きっと、また会えるから
明日もまた夜が来る
逆に言えば、救いとしての夜も、反復的にやってくる。
朝の周期性が苦しみを定期的にもたらすとしても、夜の周期性は定期的に「自由」をもたらしてくれる。
朝と夜のどちらかを拒絶するのでもなく、好きではない方ともそれなりに折り合いをつけながら、好きな方は心底楽しむことで、両方ともを引き受けつつ前向きにやる。
自己啓発っぽいといえば、そうに違いないのでしょうが、そうでしかありえない認識のような気がします。
コップに半分の水を「もう半分しかない」と思うか、「まだ半分ある」と思うかで人生は変わる、という話がよくありますよね。前者はペシミスト、後者はオプティミスト、みたいな話。
この曲で表現されている認識は、これとは少し違うような気がします。
もうこの世界はどうしようもないくらい嘘っぱちで、だから、私もどうしようもなくて、なんていうか、朝なんて大嫌いだけど、この朝をやりすごせば、いつもの夜がやってくるんだ――みたいな感覚だと思います。
悲観と楽観のどちらかを採用しているのではなく、絶望と希望のどちらかだけを受け取っているのでもない。 両方が一挙に存在していて、両方を同時に受け取っているように思えます。
同じことが夜についても言えます。
「夜は嘘をつかない」し、青に染め上げることで「私」を自由にしてくれる。「あなた」と出会うための時間でもある。 しかし、同時に、夜は朝を準備している。少し時間が経てば、大嫌いな朝がやってくる。夜が楽しければ楽しいほど、朝の接近で苦しく思うことでしょう。
Never let me goに言及しつつ、カズオ・イシグロがこういう趣旨のことを言っていました。
「自分には無限の可能性がある」という感覚と、「自分はもう何者にもなれない」という感覚とが同時に到来するとどうなるか、それを考えて書いたんだ、と。
そんな感じで、朝と夜とが、苦しみと救いとが、悲観と楽観とが、同時に存在し続けている曲だな、とか思ったわけです。
……アッハイ、わりとどうでもいいですよね。
だからといって、なんだというほどのことではないのですが、論文とか中間発表とかを控えてまじめなことばかりやっていると、時々、こういうとりとめもないことを考えたくなるみたいです。
以上の内容を一言で言えば、こうです。
夜の取り扱いが面白い曲だな、と思いました。
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