2012年12月27日木曜日
新宮一成『夢と構造』/精神分析と死への手紙
今回読んだのは、新宮一成先生の『夢と構造』。1988年に出版された本、その時に私は生まれていない。
私の生まれを準備するような時期に、先生はこの本を書きつつあり、そして現に本は書かれた。
書かれた。記述された。エクリチュール。テクスト。シニフィアン。……こうした、言葉を巡る諸々の概念。
この本は、夢=テクストを巡る精神分析の本になっている。
何回か前に、ウンベルト・エーコの『エーコの文学講義』を取り上げた。その本の中でエーコは、度々「森」の比喩を用いていた。本=物語という「森」に迷い込むこと、そこを探検すること。
エーコは同時に「モデル読者」という概念を提出している。楽しく、魅力的に、深いような仕方で、(モデル)作者の作り上げた森を、散策するような読者のことを指している。
この流れで言えば、明らかに私は、本書のモデル読者からは程遠い。
はっきり言って、大陸哲学・大陸思想は苦手だし、内的にはそれほど親近感すら湧かない。(興味はあるし、必要でもあるから、もちろんやるのだけれど)
ポストモダン系の思想家にも、かなり批判的な方だと思う。適当に誹謗中傷を加える、「したり顔」の文系初学者とか、何がしたいかわからない、文系批判したがる理系とか……そういう人間には、ほとほと嫌気がさしているから、そういう人たちを見つける度に、個人としては支持しない思想であっても、精神分析や精神病理学をはじめとする、大陸系思想・学問を擁護したりもする。
――けど、それだけだ。
それだけの思い入れしかない。今回だって、テストに向けて本を読んだに過ぎない。
入学当時に買った、同じ新宮先生の新書『ラカンの精神分析』も、耐え切れなくて20ページほどで投げ飛ばした。
これまた新宮先生の『無意識の病理学』も途中で諦めた。
しかし、今回どうしたものか、これが滅法面白いのだ。
その理由は簡単で、症例の面白さ、文体の平易さ、そして何より、精神分析学との心地いい距離感を見出し始めたこと、この3つだろうと思う。
文体の平易さについて、先に言及しておこう。
別々の媒体に出された論文が元になった論文集でありながら、全体で、迷うに面白い「森」に仕上がっている。
その統一された雰囲気、まさに「夢と構造」に向かい合っているのだという感じ。改稿の成果もあってだろうが(あとがきによると、かなり各論文の接続には気を遣ったようだ)、リーダビリティは本当に高かった。
目次
緒言
第一部 テクストとしての夢
第一章 夢テクストの構成
第二章 夢からの帰路のためのチャート
第二部 シニフィアンとしての夢
第三章 精神療法の経過中に出現する妊娠と赤ん坊の夢心像について
第四章 精神療法の経過中に出現する「文字」の夢心像について
第五章 ロベルト・シューマンの夢と音楽における「文字」の心像について
第三部 夢から妄想を通って自殺へ
第六章 現実生活の象徴的先取りとしての妄想形成
第七章 精神分裂病の妄想世界における自殺の問題
夢一覧表/初出一覧/あとがき
別に、精神分析に対する個人的な違和感や不満を披露しても仕方がないし、それは論争史、学説史の中で、もっと聡明で高名な人びとが論文という形でやっていることだし、繰り返さない。繰り返す意味もない。
読んでいる時になにより感じたことは、「創作がしたい!!」ということだった。
ウラジミール・プロップや、バルト、レヴィ・ストロースを引用している上に、症例の不思議な魅力(被験者自身が、自分の言葉で語ったとされる夢の魔力とでも言おうか)を避ける事はできない。
そもそも、光文社新訳文庫のフロイト『ドストエフスキーと父殺し/不気味なもの』の中にも色々収録されているように、最初から、文学的なものとの相性はいい。
ユングにしたって、延々と神話を扱って、原型を求めている(ユングは全然知らないけど大体合ってると思う)
ただ、ロベルト・シューマンの所は、あまりにも「文学的」すぎて、はっきり言ってよくわからなかった。この不満については、なんでシューマンを取り上げるのか説明してあるけど、それを聞いても、趣味的興味以上の理由を感じなかったせいかもしれない。
まぁ、それはいい。
『中二病でも恋がしたい』のアニメ化もされていることですし、第三部に触れないわけにはいきません。(アニメ化決定する前には手に入れてたのにまだ読んでない)
第六章で示される症例、守護妄想という言葉と共に示されるそれは、リアルに想像すれば、戦慄する類のものでした。
彼女は、熱心に宗教体験の如き、自らの経験を医師に伝えるのです。一部を書いてみます。
「その夢の頃から、未来のことが分かるようになった。『おばさま』がいて、その人が教えてくれる。ある日家に帰る途中、いつもの歩道を歩いていると突然気が変わって反対側の歩道へ移った。するとさっきまで歩いていた歩道の上に石が落ちてきた(石の落ちたことは新聞で読んだ。時間的にも符合する)。……」
「自分のことに関しても、私はあと二年で大きな転機を迎えることになると分かっている。そして今、大きな賭けをしている。……」
よく中二病の妄想であるような、「殺される」「組織が…」というのから、「サタン」という言葉も彼女の口からは出てきます。
私が、中二病という時、それはまさに自覚的、少なくとも、半ば自覚的なものとしてあるわけです。ある共有されたネタを自覚的に演じるもの、それが中二病です(よね)。
しかし、彼女は違う。涙を流し、ついには、「二年後」自殺をはかる。
(これでもって、「ほら、宗教はキ印の妄言だ」とか言う人もいそうですが、そういう人はもっと勉強しようね。
例えば中世キリスト教神学の、ある種の伝統では、理的に信仰を捉えるんだ、とやっている人がたくさんいます。つまり、適切な信仰には、理性的な把握が必要だと考えるタイプの伝統。中世ではありませんが、アウグスティヌスもある程度そうだと思います。)
ちなみに、彼女は、一命をとりとめ、しかものちに幸せな家庭を築きます。よかった。
しかし、他のいくつかの症例ではそうではない。未遂もあれば、もうこの世にはいない場合もあった。
分析とか考察という言葉が伴うある種の感じ、それは一言で「冷たさ」といっても言いと思う。人の死んでいる/死んでいく時の苦しい言葉を、分析する言葉の冷たさについて考えざるを得ませんでした。
もちろん、平気であるはずはありません。表面的な言葉の裏に、筆者の思いは透けて見える。
でも、その言葉自体は、現象から遠い感じがする。(その距離感が、分析には必要なのだから当然だ)
まぁ、それは仕方ない。そこを非難するのはお門違いだ。
結局、違う畑であれ、自分のしている/しようとする/したいことも同じであることも忘れていない。
そして何より、私は、本書のどの症例を読んでも「面白い」(interesting的な意味で)と思った。これも事実だ。
『サラダ記念日』のあとがきで、俵万智が述べている感じも同型の問題だと思う。(特に自分の)経験を、上から見つめている自分がいて、「面白い!これでまた、短歌が作れる」と思うのだという。
いずれにせよ、死と喪――これは、「夢と構造」と重なる形で、本書を貫くテーマだったと思う。
自殺に至った症例について読んでいる時に思い出したのは、村上裕一さんの『ゴーストの条件』のあとがきだった。もしかしたら、別の場所で村上さんが話していただけで、これには書いてなかったかも。
いずれにせよ、村上さんが『ゴーストの条件』が出た当時に喋っていたことがある。
そこには、ある自殺事件について書かれてある。
スピリチュアル系の諸々が流行った頃に、ある学生が、ポジティブな遺書を書いて死んだのだという。
「生まれ変わって親孝行しますから」(大意)
彼(確か男)は、輪廻転生を信じていた。
そんなポジティブな自殺があってたまるか、と。
簡単に共感されるのはウザいし、むしろ迷惑だし、悪影響だけれど、それでもあえて用いるとすると、私は彼の思いの全てがわからないとは思わない。
ちょっとはわかると言いたい。
けど、その自分の気持ち、どうしようもなく、逃れようもなく「そう思ってしまう」のだということからは、どんな言葉も経験も、助けてくれないことを知っている。
自然に治癒されるにしても、誰かに治療されるにしても、「健康な状態」に戻るのに時間がかかるのは、「そう思ってしまう」ことから出るのには時間がかかるせいだろうと思う。
自分の思いから、自分の言葉から出られないこと。
それは、時々恐怖だ。本当に。
他人の何でもない言葉が、絶望に突き落とす原因になったり、その逆もある。
だからこそ、ここに記された症例の「言葉」は本当に辛かった。
こういう言葉以外にも自殺にアプローチする方法は実際ある。例えば、その最初期の試みが、エミール・デュルケムの『自殺論』だった。
プロテスタントよりカトリックが、未婚より既婚が、平時より戦時中が、自殺率が低くなっている。……とかとか諸々のデータを使って言っている。つまり、「より統合されている」方が自殺しにくくなる、とデュルケムは考えた。(しかし、過度な統合もいけないと彼は言う。)
この本だけで色々話すことはあるけど、今はこれくらいにしておこう。
いや、本当は色々この「自殺」ということについて言いたいことはある。色々、それを巡ってしてきた経験もある。けど、まぁ、やっぱりやめよう。今でも、そのことを考えるだけで動けなくなる。
いくらチラシの裏でも、不特定多数にベラベラと聞かせるものでもないし。
ということで、さくっと話題を変えて、もうちょっと生産的なことを言うことにする。
本書を読んで思い出したのは、東浩紀さんの初期の文芸批評。『郵便的不安たちβ』(河出文庫)に収録されている「雨音に寄生する文字たちのように――筒井康隆『敵』への批評」(1998)だ。
そして、これはあらゆる意味で正しい想起だと思う。
これについても、御託は抜きにして、本質だけ引用してしまおうと思う。pp200-201
「聞く」ことが聴覚器官の単なる生理学的興奮でない以上、私たちは正確には雨音を聞くことはできない。そもそもそのあまりに微かな音はおそらく大半が閾値下にあるものだろうし、たとえそうでなかったとしても私たちの記憶はその音を正確に蓄えることができない。したがってその音を「聞く」ためには私たちは擬声語を捏造するしかなく、その結果その響きから意味を捏造してしまうのもまた不可避である。ありもしない響きからありもしない意味が生まれる。……雨音をめぐるそのイメージはおそらくは、筒井が長い間「虚構」と呼び続けているものの位置をきわめてよく示している。現実が決して聞こえない雨音だとすれば、虚構はそこに寄生する文字たちである。その文字たちを介することで、私たちははじめて現実=雨音に生を与えることができる。小説とは、擬声語に誤って付された当て字にほかならない。
山崎ナオコーラは、『指先からソーダ』(河出文庫)にあるエッセイで、文芸批評に対して小説家の目線で不満を吐露している。
「新しい女性像がある!」だなんだと、見出すばっかじゃねーか。そんなんじゃなくて、芸術そのものとぶつかるような評論書けよ!(大意)、と。……こんなことを言っていた。
ごく短い文芸批評ながら、これにも真正面から応えている、とても魅力的な文章だと思う。なので、是非読んでね。
ついでに、山崎ナオコーラはエッセイストとしても比類ないので、おすすめ。
この二重の捏造、詳しくないけど、『夢と構造』の中の言葉では、多分「在不在」「断絶」「伸縮」……この辺りの語彙に繋がる話ではないかと。
違うかな? でも、ここでいう「擬声語」「文字」は、本書のテーマに通じていることは確かだと思う。
いずれにせよ、今回もいい読書でした。
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