2014年5月23日金曜日

マイケル・フィンドレー『アートの価値――マネー・パワー・ビューティ』


全体を通して面白い。
アートディーラーとしての経験・体験が随所に活かされた文章でした。
フィンドレーの略歴自体はネットにpdfで落ちていましたが、本の感想は全くありませんでした。。。
ので! 書きます。


読んでる最中に考えたことは、(もう人に話したりしたので)脇に置くとして眠い頭で考えた「読書感想文()」だけを書くとすれば……芸術作品が〈貨幣〉みたいだと感じた。つまり――お金を払って芸術作品を買っているというより、芸術作品を払ってお金を交換しているようだ、と。
そういう感想の元ネタとしては、マルセル・モースの『贈与論』に出てくる「印章」の話でしょうか。
それに、芸術作品って貨幣と同じで目減りしますよね(経年劣化とか)。


あと、考えれば考えるほど、アートというものって、位置づけが不思議ですね。
ピラミッドとも、プラトン(の思想)とも、『不思議の国のアリス』とも違う。どちらも人類の遺産だけれど、芸術作品と違って、誰も「所有」しようとしないし、できない。
もちろんエジプトに位置しているから、便宜的にエジプト政府が管理したりはしているでしょうけど。少なくとも建前的にはそうなっている。
『不思議の国のアリス』自体は、誰しもが(英語であれ日本語であれ)手に入れることができるし、そのストーリーにアクセスできる。この点では、本物もアウラもくそもない。(プラトンの思想も、この点では同じ)
稀覯本という観点では、確かに『不思議の国のアリス』の初版本は150万ドル(うろ覚え)くらいで落札されたことがあるようだけど、これですら、『不思議の国のアリス』という人類の遺産に対する所有欲ではないし、その芸術性・文学性(あるいは思想でもいい)に対する評価・心酔から来ている所有欲でもない。
(この辺を単なる物質的なフェティシズムに還元できるのかどうか、考える余地はあるだろうけど)

一方で、私たちはウォーホルやモネの作品を所有できるし、同時に人類の遺産だと考えている。これはかなり奇妙で面白い営みだと思う。改めて感じた。



とてもいい本で、エピソードや「実はこうだよ」的な裏話も門外漢には刺激的。「これはいいっ!」って言いたい。
ただし第三章、てめーはダメだ。

三章は「アートの本質的価値」と題されている。
三章以外は好印象だった。アートの市場の話や具体的なオークションのエピソード、作家の態度や制作、コレクターや画商、美術館の所有や設立などなどかなり外在的な説明だったから自分も受け入れられたのかもしれない。

「言葉にされたら終わり」「言葉できないものを表現してる」「言葉にできないものを感じるんだ」「ありのまま感じるんだ」
……みたいな話が突然やってくるんですよ。
けれど、こういうときの「言葉にできない」「言葉は信用ならない」という態度を留保なくとる輩は、(そう言いたい気持ちはわかるにせよ)気に入らないんです。気に入らないは言いすぎだとしても、その感性の繊細さを疑いたくなる。
(ちょうど今の私のように!)あまりに感情的すぎるし、なにより、そう言うときの「言葉にできない」って言葉が安すぎる。


考えてみてください。コミュニケーションをとるときに、相手の感情がいかに言葉にならないものだとしても、私たちは誤解をしたくないなら、延々とその感情と付き合い続けて、言葉を費やし続けますよね。それによって、ずっと私たちは他者の感情の解釈を――それゆえに、他者そのものの解釈を、不断に更新し続けますよね。
考えてみてください。「英語にしきれない日本語がー」って話がよくありますけど、その不可能性はどの程度でしょうか。私たちは思っている以上に伝えているんですよね。注釈による補足や文献への案内、言い換えや具体例、図版の挿入、ルビその他――そういう風に翻訳の工夫だってできます。(なぜ翻訳の話をしているのか、と思う方はinterpretationという言葉を思い出してください)
考えてみてください。草原に立っている私たちの視界にうさぎが入ってきたとき、私たちが「うさぎだ」と言語化する以前に――うさぎだと判断するまでもなく、頭ではうさぎとして処理されています。言語は私たちの現実認識の根っこにあるので、言語抜きの私たちなどもはや想像できないほどの根本から、私たちを作り上げているのです。(言語抜きの私たちを想像できるとしても、それはやはり言語を用いているまでもなく、言語の影響下にある。)

「言葉にできない」「言葉以前の」「言葉にしたら終わり」
こういう言葉の「できなさ」を深く語っている人はほとんど見ません(どういう「できなさ」で、どの程度「できなく」て、結果どのようなことが起こるのか、なぜ「できない」のか)
「言葉以前」というならば、どのような時間的プロセスにのっとった何を想定しているから「以前」と言っていて、どういう段階を経て「言葉」に至るのか、言葉に至ったら至ったで、その段階はどういう部分に分けられるのか――
「終わり」だってそうです。「◯◯はオワコン」程度の適当さで、「言葉なんてオワコン」って言いたいだけに思えるんですよね。

「言葉なんて」って言うやつの、感性の鈍感さが、私には信じられません。
少なくとも、無前提に、留保なく言う人は、言葉について語る繊細さを持ち合わせていないのではないかと思うのです。

……と怒りはこれくらいにしておきます。
(いや、もうちょっとだけ続くんじゃ)


事程左様に第三章のこういう仕方で「美」を語っているような多くの部分が無根拠だし、あまりに叙情的過ぎるのです(「お話」としては「綺麗」ではあるけど)。
はっきり言ってしまえば害悪ですらあると思います。

人間のコミュニケーションの歴史と、コミュニケーションにかける努力・試行錯誤をなめているし、哲学や文学、言語学や翻訳論といった分野が「言葉」や「(他者の)解釈」というものに費やしてきた、祈りのような思いと時間とを、個人的な鈍感さと無関心で粗野に放り捨てている。
フィンドレーは、芸術には敏感かもしれないけれど、それを覆い隠すほどに、言語・言葉には鈍感なのだと思う(自分は逆にどうか――というのは、のちの宿題にするとして)。


少し前、SF作家・神林長平の『言壺』の発言を引用しつつ、こんなことを言いました。
「核になるのは私の場合、言葉ではなく、非言語的な想いであって、表現したいことははっきりしているものの、言語レールにはもともとのせることができなくて、書いているうちになんとなくそれに近づいてくるのをよしとするものなのだ。真実があるとすれば、書くという行為、そのものにある、という説もあるが、なるほど、と思う。書き上げたとき、やはりこれと核になったものは違う、と思うのはそのせいだ。だから、また書く気になれる。これでよし、ということがない。想う能力があるかぎり」神林長平『言壺』
原理論を持ち出せば、そういう非言語的に思える部分、つまり無意識に刻まれた世界や自己に関する一次的な知覚・把握・直観が、「言語」抜きに成立しないものだったりする。それは、もはや表現するときの「言葉」とはかけ離れたものだろうけど

……などという「言語観」「他者観」については、デイヴィッドソンでも読んでください。入門書は、冨田さんのがいいのではないでしょうか。

あ、いや。ほんとに面白い、いい本なのです(今更?)
装丁もきれいだし、文字組も結構いい感じ。訳者注も邪魔じゃない範囲だし、痒いところに手が届く。



以上、本書を読んだからと言って、クリスティーズやサザビーズは一生縁がないだろうな――と思うミルチでした。

ではまた。



※ちなみに冒頭に貼っているのは、(一応は)ネオプラグマティストに数えられることもある、シュスターマンの芸術論・美学です。音楽とかそっち方向で本人は入ったようですが。

※アリスの初版本については、こちらに情報がありました。本書に出てくる金額に比べると、アリスの150万ドルなんてかわいい部類だなぁと思ってしまいます。