学部一年の頃のレポートです。
連続してアップロードしたレジュメの授業のやつかな。
まだレポートがどんなものかわからないまま書いてるんだろうなと思います。笑
ひどいもんですね。。。サルベージしたところでは、もっとひどいレポートもあったのですがw
まぁ、学部なんてそんなもんですよね。
恥ずかしいことをわかっていながら、なんとなく貼ってみることにします。
封建社会においては、荘園所有によって支配力を強めていたところの地主貴族や下級貴族、あるいは都市貴族が、世襲的な「参審員」として、法名望家層を形成していた。しかし、彼らは読み書きも満足にできない者が多く、学識層とは決していえない。あくまで名望家に過ぎなかった。彼ら「参審員」の権威は、社会的地位にあった。血縁社会のもとでの、その権威が、彼らや彼らの決定に対する、心理的服従の強制が規範の妥当性をなしていた。彼らは個々に独自の地域的慣習法に精通する者だった。
生産の増大などによって社会・経済基盤が変化したこと、そして火器が登場したことで戦術が変化したこと、新興ブルジョア層が台頭したことなどで、封建貴族は没落へ向かっていった。また、権力の中央集権化の流れの中で、地域独自のものでしかなかったドイツの法にも変化の要請が生まれた。領域を貫く法が求められる中で、法というものが複雑化・専門化し、加えて文書行政の要請も生まれたため、併せて法律家のあり方も変化していった。
更には、思想的な転換も、法律家への影響として無視できないものがある。人文主義・ルネサンスの思潮の中で、キリスト教的権威、教会的権威が後退し、思想の世俗化が強力に進んでいった。その流れで、ローマ法が教会法を圧迫し、教会・聖職者による知識の独占が解かれた。知識は商品化されてゆき、法律家がサービス業で発達するところとなった。そして、宗教改革の運動の中で、宗教や道徳の問題が個人に帰せられるようになり、個人主義が浸透した。個々人の訴えが多様化し法知識の専門化・複雑化への要請は高まった。
その一方での話ではあるけれども、宗教改革の辺りで、教会の世俗化が批判されたが、その中で「権威批判」「反世俗」の要素が呼応して、「権威」や「金」に奉仕する法律家も非難されるところとなった。後に述べるところの法律家批判の傾向も、この流れの中の話である。
合理性というものを軸にした「学識」は、従来の出自や身分という要素に代わっていった。つまりは、その「学識」を中核として、エリート層が形成され始めたのである。中世における「学識」は、すなわちキリスト教・教会権威と結びつくものであり、大学は中世の知識の独占した教会の強い影響下にあるものだった。世俗から遊離したところにおいて、研究され生み出された専門知識は、民衆を基盤にしたものではなく非民衆的なものだった。知そのものも、教会・聖職者に独占されていたのである。
この「学識層」に、新興市民層が流入して、その大部分を占めたのだが、この現象は、学識層が民衆化したということを意味するわけではない。大学博士は、下級貴族に列せられたように、学識は一方で世俗化されながらも、そのまた一方で中世的な身分に結びついていたのである。こうして、身分と学識が強く結びつくことで、文書貴族が新貴族層を形成した。中世世界においては、聖職者がそうであったのに類似して、法学者というのは、身分的世界での新たな「風穴」になった。このことは、法学識層へと市民から多数流入したことが象徴している。ゆえにまた、これは急激に変動した社会経済構造の動揺に対する安全弁として働く側面もあった。法学識を身につけることで、現在の身分を脱して上昇する事が不可能ではなかったからである。そのこともあって、学識エリートは、革命に対するブレーキとしての役割を果たしていた、とある種いえる。
イギリスにおける法曹団体(legal profession)やフランスの法官貴族(noblesse de robe)は、市民社会に基盤を持つような政治的な団体にまで発展した。彼らを支えるのは、大学ではなくもっぱらサロンにおいて培われた知識である。一方でドイツにおいては、市民社会が未成熟であり、イギリスやフランスにも遅れをとっていたために、官僚として各領邦国家で、忠実な「家臣」となり、支配を強力に支えた。
近世において、法律家批判の傾向は大きく3つある。1手段を選ばず、なりふりかまわぬような、名声・富への激しい志向、2権力志向、へつらい、3三百代言である。これが意味するところは、法律家が支配層に参入しているということである。旧勢力たる貴族・封臣の専横や介入を嫌って、顧問官としてじきじきに君主が雇っていた。貴族の大きな仕事は、軍役と助言にあったため、君主と共同して政策を決定する仕事を持つ顧問官とは、必然的に対立するところとなっていた。構造としては、君主を間において、旧支配体制の残滓ともいえる、慣習的な貴族と、法学識をもつ顧問官とは対立していた。
当時は他の領邦は外国という意識があった。これもあってしばしば他両方からくる法律家は「雇われ外国人」と呼ばれていたため、貴族の土着的な要素と反発した。知識も、留学などして大学で身につける法律家に対して、貴族はその地域に固有の慣習的なものに頼っていたため、対立の生成は避けられなかった。
下級官吏と顧問官の違いについては、前者が「手と行為」によって仕えると形容されるのに対し、「舌と知性」によって仕えるとされた。その専門的知識、法学識が重要なファクターであった。人文主義・ルネサンスの潮流の中では、顧問官などの中に、つまりは権力の中枢に、半学識者や半法律家がいることへの反発や批判があった。十全に法学識を身につけないまま、学識者や法律家を語る様に、強く非難があつまっていた。それが上の三百代言の意味するところである。
学識法律家の、学識というのは、ローマ法の学識であり、つまり彼らは大学でローマ法を学んできた人のことである。ローマ法を需要する前のドイツでは、ローマ法の知識など全く持たぬ者、例えば聖職者や地方の有徳者が裁判を行っていた。
学識法律家の需要が高まっていく中で、当然大学の設立に対する要請も高まったのである。大学の設立は、世俗権力によるものが多い。とはいえ法学者の需要が高まったから彼らによって設立されたというよりは、当初大方の大学は、神学を中心に据えていたことからもわかるように、聖職者育成が一番の目的であり、カノン法が中心であった。大学成立当初の教師や知識人というのも、もちろん中世的な権威であり、知識を独占していた聖職者が大半であった。このことからも教会と大学の強い結合がうかがえる。学生の集まりからであれ、教師の組合からであれ、いずれにせよ最初は自然発生的に生まれてきた大学であるが、のちに教皇や強力な教会から許可をもらうことで、権威を戴くことがあった。それは、自治権や学位授与権という形であらわれた。
ローマ法の継受を目的に大学が設立されたのではない。大学教授が盛んにローマ法を教える中で、人口増加による効率的で画一的な行政が望まれ、文書官僚が必要とされる中で、ローマ法が結果として栄えていったのではないかと考えられる。
大学は教師や実務家を育成する場ではない。目的や歴史性からいっても違うのだが、多くの大学教授が、実務家を兼務していたことからいっても、事実上、官僚育成機構として役割を果たしていることは否めない。
参考文献
上山安敏、1966年『法社会史』みすず書房。