ブログで宣伝することを思いつかなかったので、今更ながらの告知です。
京都大学人間環境学研究科に所属している院生です。
今回はその第三回、最終回(11/7)の宣伝です。
「やっぱり知りたい!プラグマティズム」全3回 / 第3回「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」11月7日(土) 19:00-21:00→詳細
「やっぱり知りたい!プラグマティズム」全3回 / 第3回「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」11月7日(土) 19:00-21:00→詳細
今回の話は、人間の「生」に焦点を当てたものになると思います。この場で、次回の背景になっているテーマを少し書いてみたいと思います。
時代や社会を語るとき、「複雑さ」や「変化」という言葉と積極的に結び付けられるとき、その裏で前景化しているのは、生きることにつきまとう漠とした「不安」であり、「この世界の自明性が失われた」という感覚です。
それを「確実性の源泉」が失われたとか、生きることの「原理」の喪失と呼んでもよいでしょう。
今回のプラグマティズム講座では、原理主義の本家本元、20世紀前半に登場するキリスト教原理主義に焦点を当てます。
プラグマティズムの思想家ジョン・デューイは、キリスト教原理主義の台頭を目撃した同時代人でした。
私たちが今回、原理主義を扱うにあたって、問題にしたいのは冒頭に述べた「自明性の喪失」です。
この話に対する補助線として、2011年紀伊国屋じんぶん大賞に選ばれた國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』の序章を借りながら言い換えてみましょう。
よく言われるように、近代に入り様々な価値が相対化されました。これまで信じられてきた価値に変わって据え置かれたのは、「生命ほど尊いものはない」という原理でした。佐伯啓思さんなら、それを「生命尊重主義」と呼ぶでしょう。
これは正しい。正しいがゆえに人を奮い立たせることはありません。生命尊重主義は、世界の自明性を回復しません。
生きることに拭いがたい不安があり、自分には揺らがない基盤がない感じがするとき、人は自分を突き動かしてくれる力を欲します。
その「力」を与えてくれる最も目立った例として、過激派や狂信者を想定することができます。
「世界の底が抜けた」ように感じられるとき、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者を、人は「恐ろしくもうらやましい」と思うようになるのかもしれません。
自分はいてもいなくてもよいのではなく、何かに打ち込むことで意味ある使命を背負っているのだと実感したい。
強いて単純化して言えば、そういう感覚が、いわゆる「ホームグロウン・テロリズム」や、イスラーム国に参加しようとする人々に共有されているのだと思います。
今回話題にするキリスト教原理主義が、暴力に訴える人々だと言っているのではありません。というか、ここでは暴力的かどうかは問題ですらありません。
キリスト教原理主義は、人間の生の不安に応えて、自分を突き動かす「力」や「原理」を提供している。
国家や民族に回帰する現象(右傾化?)がもはやありふれた風景になっている今、世俗化の最先端にいて、「宗教」というと顔をしかめる日本の私たちだって、決して彼らを後ろ指差して批判できる場所にはいません。
ジョン・デューイの原理主義論の紹介を通じて、私たちが欲している生きることの「確かさの源泉」について、安定・安心して生きたいという感情について、考えてみたいと思います。
およそ百年前の、縁遠いかに思える「原理主義」という現象の考察は、思いのほか、現代日本に生きる人間にとって具体的かつ原理的な洞察を提供してくれるかもしれません。
第一回、第二回とは内容的に独立しているので、気軽にふらっときてください。第一回、第二回の話を聞いてみたいという方は、参加したうえで質疑のときに言っていただければお答えします。
詳細は、下のリンクまで。
わかりやすい、聞きやすい、面白いを心がけてがんばります。前知識は特に必要ありません。
興味があれば、ツイッター(@mircea_moning )にでも連絡をいただければお返事します。
「やっぱり知りたい!プラグマティズム」全3回 / 第3回「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」11月7日(土) 19:00-21:00
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