(大槻さんは作家としても参加されています。)
伊丹駅のそばにあるギャラリー、創治朗にて、8月11日から9月2日まで開催されています。
過去に、大槻さんの個展について感想を書いたことがあります。
・個展「わたしを忘れないで。」(2015)
・個展「神なき世界のおまもり」(2016)
感想と批評の中間のようなものでしょうか。
今となっては赤面なしに読めないような拙い文章ですが、それぞれの個展に関する大筋の見方は変わっていません。
こうやってみると、一年に一度は展示を観て、感想をだらだらと書いているんですね。
私は、主としてアメリカの思想と文化を対象に、研究をしています。
研究なので、大槻さんと違って、私の武器は「言葉」ですし、フィールドも違います。関心もかなり違うでしょう。
それにもかかわらず、ぽんと示された展示からは、自分と似たものを感じます。
(私が展示を見ているわけだから、そりゃそうなんですが)
似ているけれど、ある程度違う。
だから、自分の位置を捉えなおして、相対化するのに、大槻さんの展示からとてもいい素材ですし、「もっと遠くに行きたい」と思ったとき、類似の中の差異が、道標になるような感じがします。
御託はさておき、展示の感想にかこつけて、少し書いてみます。
しかし、今回写真を撮っていないので、雰囲気をパッと伝えづらいところがあり、個別の作品については踏み込まないでおきます。
どれもいい絵なので、かなり正確にどの絵も覚えています。
個別の絵に言及していないので、すごく抽象的で、展示の感想ともいえないようなものになってしまいました。
この感想でいいのか
1.「作家紹介」の中の、せいとし
SNSなどでは、この展示の名前が「せいとし展」と略されています。
せいとし。
大槻さんがブログで書いているのを読めばわかる通り、これは「掛けことば」なんですね。それも二重の意味とかではなく、色んな読みの可能な。
(この文章は、展示空間でも掲げられています)
該当箇所をピックアップしてみます。
()内の名前は、その文章が解説している作家の名前で、引用文は全て大槻さんが書いたものです。
吉田の言う "夢と現実" は、言い換えれば "過去と現代" なのかもしれませんし、また今回の展示テーマである「せいとし」に沿って言うなら、"死と生"とも言えるかもしれません。あらゆるものが混ざっているところに、超現実的なものを見たような気持ちになるのです。(吉田有花)
自分の肉体をもって生を捉えるのではなく、理想世界から自分の生を見つめることは、ある意味「死」から「生」を考える事に近く、きりさきの描く理想世界に対して、鑑賞者はどこか置き去りにされた人としての心を感じるかもしれません。しかし作品に漂うその違和感こそが鑑賞者と作品とを繋ぐ鍵となり、現代日本における「生」(性)について、その考えを存分に巡らせる事ができるでしょう。(きりさき)
制作のテーマは「性と死」。そうして生まれたものは強さという概念を具現化したようなもので、実際には涙を流したり傷を負っていたりするけれど、決して負けないでいる姿勢を描いており、作品を通して、苦しみながらも戦い続ける人の生き方そのものを肯定しています。(hima://KAWAGOE)
生きる事と死ぬ事。私にとって生きる事とはおおよそが苦悩する事であり、死ぬ事はゼロになる事(なにもなくなる事)です。けれどもそれはあくまで自分自身の事であって、他人に感じる生と死はまた違った形にみえています。(大槻香奈)
中村自身が、全ては世界を維持形成するための一部分でしかないと考えている事から、作品には現象そのものが描かれており、「生」と「死」に関しても等価に扱われているような印象を受けます。(中村至宏)
揺らぎの中に自分の身をまかせる時、あなたはそこでどんな気持ちでいるでしょうか、と。「都市」の人ごみの中で「静」かに問いかけます。(Ayako Ono)大槻さんのブログと違って、展示空間に入ったときに観るであろう順番に引用してみました。
引用箇所以外にも、「せいとし」に絡めた部分はありますが、文章中に出てくる「せいとし」の掛けことばパターンはこれで出揃ったかと思います。
2.可能な「せいとし」
目の前に便利な箱や板がある人は、それで文字を打って変換してみればわかることですが、この展示の作品に絡みそうな「せいとし」の掛けことばパターンは、上に示したもの以外にもたくさんありそうです。
重複も含めて、ざっくばらんに挙げてみると……
生と死
性、都市、愛し(いとし)
静 止、生徒、詩、史、
他にもあるでしょう。
ここでは、二つのことがおさえられたら十分です。
- 様々な作品、多様な作品が提示されているにもかかわらず、「せいとし」という言葉から見ることで、それらの作品(・作家)が、ゆるくつながりあっていることが、「作家紹介」において語られている、ということ。
- そのような繋がりを可能にする共通の特徴は、「生と死」「性」「静」など、「作家紹介」に書かれたものに限らず、ぽろぽろといくつか見つかりそうだということ。
これです。
3.せいとしの、家族的類似
家族的類似(英:family resemblance/独:Familienähnlichkeit)という概念を、補助線として引きたいと思います。
ドイツの哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインがPhilosophical Investigations 『哲学探究』という本で有名にした言葉です。
(余談ですが、この概念はヴィトゲンシュタインが「考案した」ものではありません。哲学が専門の研究者でも知らない人が多いですが、この辺、英語のウィキペディアはちゃんと冒頭に書いてくれています。「家族的類似は、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによって有名になった哲学的観念である……」と。英語版ウィキでは、ニーチェから借りたとありますが、私は、ハーバート・スペンサーの教育哲学に関する本で、「家族的類似」という言葉を見たことがあります。以前から存在していた言い回しのようで、ラテン語の用例もあるようです(論文へのリンク)。)
せっかく英語版ウィキペディアに言及したので、説明もそこから引っ張ってみましょう。
家族的類似〔という概念〕が示すのは、ある一つの本質的な共通の性質によって、結び合わされていると考えられえた事物(things)が、実は、重なり合う一連の類似性によって結び合っているということだ。しかもそこでは、どんな性質も、その事物全てには共有されない。ウィトゲンシュタインは、ゲームを例に挙げたので、私もそれでがんばってみます。
チェス、鬼ごっこ、蹴鞠、にらめっこ、じゃんけん、スプラトゥーン、コール・オブ・デューティ(COD)、ゼルダ、スカイリム、Mountain……
これら全てに共通する「本質」なんてあるのでしょうか。
CODとスプラトゥーンは、どちらもFPSですし、ゼルダやスカイリムは、どちらもオープンワールドです。それに、この四つはいずれも「(広義の)ビデオゲーム」に当たります。
けど、ビデオゲームだけがゲームではありません。チェスや将棋はどうでしょう。
ルールとプレイヤーの存在という特徴だけでは、他の社会生活とうまく区別できません(例えば、裁判はルールもプレイヤーもあります)。
さらに、ほとんど操作できないMountainというゲームはどうでしょうか。
コマなどを操作できるということで、ありとあらゆるゲームに「共通の性質」を考えるのも難しそうです。
あまりうまい説明とは言えませんが、そんな感じです。
これを満たせばいい、と言えるような「ゲームそのもの」、「ゲームのイデア」という考え方は、現実に即していないんじゃないのか、という雰囲気を感じてもらえればひとまずオーケーです。
この複雑な実情をどうやって考えればいいかというときに、頼りになるのが「家族的類似」という発想です。
「家族」というメタファーを考えてもらうとすぐに雰囲気はつかめます。(広く「親族」「親戚」くらいの範囲まで含んで「家族」と捉えてください。)
ヴィトゲンシュタインは、こう言っています。
……ある家族のメンバーに成り立つ様々な類似、例えば、体格、顔立ち、瞳の色、歩き方、気性などは……重なり合い、交叉し合っている……。『哲学探究』
父と母の見た目は、大抵、似ていないはずです。
血がつながっていないわけですから。(夫婦は似てくるとは言いますが、それはさておき…)
しかし、息子は、母の「眼」とすごく似ていて、父の髪質とすごく似ているかもしれません。話し方は母に似ているかもしれませんし、関心は父に似ているかもしれません。
娘は、母の「鼻」や「背の高さ」を受け継ぎ、父の「口」や「耳」が……
うちの家族はみんな「わし鼻気味」とか、「背が高い」とか言う人もいるかもしれません。
しかし、それも、家族の全員が当てはまっているといえるかはびみ
とはいえ、父のわし鼻度は、他の三人に比べて低いかもしれませんし、母の身長は他の三人と比べて少し低いかもしれません。
とすると、間違いなく共有している「本質」みたいなものは、ないんじゃないかと言えそうです。
ある講義録では、こう説明しています(引用する際に、わかりやすく書き換えています)。
普通、〔私たちは〕ある一般名詞が指す対象のすべてに共通な何か〔=本質〕を探す傾向〔を持つ〕。例えば、すべてのゲームに共通なものがなければならない[という思い込みだとか]。この共通な性質を根拠にして、一般名詞である「ゲーム」を、様々なゲームに適用して使っている、と私たちは考え勝ちだ。しかしむしろ、様々なゲームは、一つの家族を形成しているのであり、その家族のメンバーに家族的類似性がある。家族の何人かは同じ鼻を、他の何人かは同じ眉を、また何人かは同じ歩き方をしている。そして、これらの類似性は重なり合っている。『青色本』
要するに、家族が共有するのは、様々な「重なり合う特徴」である。
まぁ、こんな感じのイメージです。
4.本質の欠如としての「空虚」
愛そのもの、正義そのもの、ゲームそのもの、机そのもの……
様々な個別の「愛」や「ゲーム」などを貫通して、当のものを成り立たせるような、共通「本質」はなさそうだ、という話でした。
これは、哲学が古代ギリシアに始まって数千年、哲学史の流れの中で、天才の中の天才が議論し続けてたどり着いたところです。
「まぁ、ひとまず、本質とかイデアみたいなものはないって考えていいんじゃないか」と。
誰がどう言って、何を考えようと、文化や時代が違おうと、どんな工夫をして確かめようと、ともかく決まりきった「本質」なるものーーこれはなさそうだ、という主張です。
(こうした立場には、「反哲学」「反本質主義」「反プラトニズム」など色んな名前がありますが、大まかには一緒のことを言っています。)
哲学を雑な仕方で説明するのが目的ではないので、この辺で切り上げますね。
で、何が言いたいかというと、こういうことです。
「揺らぎの中のせいとし展」は、コンセプトの家族的類似で成り立っている展示だと言えそうだ、ということそれゆえ、
満遍なく、間違いなく、みなが同じものを共有しているなんて信じていない展示だ、ということその限りで、
反本質主義(=本質みたいな考えに反対する立場)をとっているということ
そう考えると、大槻さんが繰り返し言及する「空虚」という概念は、「本質の欠如」のことを言っていると言えるかもしれません。
みんなが間違いなく共有する「本質」みたいなものを中心におかなくても、それぞれが似通っている「断片」を、ばらばらに共有しあうこと。
大槻さんの「かみ解体ドローイング」の試みも、そういう風に捉えることができそうです。
パルタジェ(分有)というやつです。
ピザのシェアを思い描くといいかもしれません。
それぞれが分かち合ったピザの一切れは、隣のピザと似ているかもしれません。
モッツァレラとバジルとトマトの乗ったピザであっても、ある一切れには、運悪く「トマト」が全く乗っていないかもしれません。
乗っている具材を、「共通する性質」として、分け合ったものの本質かのように語ることはできません。
そういうイメージでしょうか。
絵も出さずに、むっちゃ抽象的なレベルで話しててすみません。
(個別の作品にも、かなり感想はあるんです!
展示されていた中村さんの絵は、nearで観たときからずっと記憶に残っているとても好きな作品でした、みたいな思い入れとか、吉田さんの絵の注目すべき細部だとかをとりあげたりとか。。)
5.類似は一人で作ることができない(?)
在廊中の大槻さんとお話して面白かったことがあります。
あまり勝手に話すのもどうかと思うので、気になった話題の核心だけ取り出すと、
「私はかつて全部を一人でやろうとしていた」と仰っていました。
様々な表現を、同時に、たくさん、一人でやろうとしていた、と。
多様なことをやっても、ある人がそれをすると、「これとあれは、分野は違うけど、自分としては同じことをしていて……」と自分でも説明したくなるかもしれませんし、周りで見ている人も、「あれと、それは繋がっているんだろうな」と同一性に回収したくなると思います。
つまり、諸々の活動に共通する「本質」みたいなものを、どうしても語りたくなってしまうと思います。
もちろん、人は変わるし、成長するので、そう単純には言えません。
しかし、一人の人が「似たもの」を作っていたとすれば、周りで見ている人は「同じこと」だと判断したくなる(=「同一性」に回収したくなる)ことは間違いないでしょう。
「まぁ、同じ人のやることやし、直接どこかでつながっとるやろ」と考えたくなるとでも言えばいいのか。
自らキュレーションして、作家としても参加して、展示を構成する、というのは、チームとして作品を作っていこうとすることだと思います。
あるいは、家族として。
他者との協働すると、いくら事前・事後に打ち合わせしたところで、自分の想定と全く同じものが成果として出てくるわけではないでしょう。
あくまでも、「類似」しか構成できない。
でも、そもそも、人が一人ですることが、同一性に回収されてしまって、「共通する性質探しゲーム」を生み出してしまうのだとすれば、家族のような「類似」しか構成できないことはむしろ利点のように思えます。
(「似ている」ことは、「同じ」とは違うので。)
ツイッターでは、こんな発言もありました。
今回展示を企画したいと思ったのも、自分の作品だけでは表現したい事が形にならないと実感したからでもあるのだけど。それぞれの作家の良いところを観て欲しいという気持ちと、各作品の対比を眺めながら、なんとなく実感として「平和な時をどう生きるのか」を伝えたかったのだと思う。 #せいとし展
そこに「共通する性質」=「本質」を見出したいという人情に抵抗するために、類似をたくさん作り出して、「家族」を構成すること。
そうしたズレ、揺らぎこそが、創造性の源泉であって、予想もしないものを生み出す力であるとすれば、本質を欠いた形で、様々な「類似」を生み出していくことが、チームでやることの利点なのかもしれません。
類似しかないとしても、ただ別々に観てもつながりを見出しづらいとしても、一定の文脈を整理することで、大まかに共有していることもあるんだと伝えることができる。
(と、最近、大学教育に関する投稿中の論文で、教育活動のコミュニティ化みたいなことを言ったので、「ふむ」と考え直させられた気がします)
……と書いている、この文章は、まさに、大槻香奈という作家の「同一性」に還元しようという試みなのかもしれませんが。。笑
とはいえ、実際の個別の作品については、あまり言及していないことからわかる通り、これだけで全てを語ることができるような展示ではないと思います。
会期残り少ないですが、ぜひ。
(ちなみに、明日、8月31日はミクさんの10周年記念の日です。)