ギャラリー創治朗(伊丹)での展示で、2017年12月12日から27日まで開催しています(いました)。
「がたんごとんひるね」 |
(以下、敬称略)
キャラクター化された人物――幽霊写真について
下の画像を見てほしい。
ゆめしかちゃんの右手には、古い写真を素材にした絵が飾られている。
大槻の展示を見たことのある人なら、必ず目にしているであろうタイプの作品だ。
画像では、小さくて見えにくいが、人が映った写真が使用されている。
ポイントは、その作品では、人の顔を隠すようにキャラクターの顔が書かれていることだ。
人に重ね描きされたキャラクター。
大槻の作品では、顔だけが「キャラ絵」隠されることもあれば、人を全体をかたどり、覆い隠すようにしてキャラクター的身体が描かれることもある。
写真を使った大槻の作品の中には、生身の人間の姿と、キャラクター化された人間が並んでいるものもある。
(会場にあったドローイング集に、その実例が見られたはずだ。)
そうした作品が最もわかりやすいのだが、こうしたその人の「その人らしさ」みたいなものが、キャラクター化によってデフォルメされた印象を受けるだろう。
生身の人間にキャラクターを重ね描きすることは、その人の生がもっていた「個別性」を失って、ある種の匿名化を達成することだと言える。
(ここで、私はアンダーソンの「無名戦士の墓」のようなイメージを思い起こしてしまう。)
少し視点を変えよう。
写真論の古典、『明るい部屋』の中で、ロラン・バルトが、「かつて=そこに=あった」という印象を与えるのが写真の特性だと指摘したことはよく知られている。
(この特性を、うまく利用し、私たちの印象を撹乱するのが、杉本博司の「シロクマ」などの初期作品。)
しかし、私たちは、キャラクターを重ねられた人物(の写真)から、「かつて=そこに=あった」という印象を受け取ることはない。
キャラ化された人物は、その写真において見られるものでありながら、その写真が撮られた時空間に帰属しない。
これは、心霊写真の類に似ている。
いわば、キャラ化された人物は、キャラクター的な重なりによって、「幽霊」になっているのだ。
(キャラクターは、「まんが・アニメ的リアリズム」において捉えられる。こうしたリアリティが私たちの知覚体験に及ぼす影響を考察したことがある。……いつか論文にするつもりです、がんばる。)
幽霊は、死んでいながら、もう死ぬことのない存在として、私たちの生を取り囲むように、さまざまな事物において見出される。
写真に描き込まれ、重ねられたキャラクターは、幽霊と呼ぶ他に適切な名前が見当たらないだろう。
(そこで、写真に重ね書きするシリーズを、「幽霊写真」シリーズとでも呼んでおこう。)
モノにおいて、クリーチャーによって――気配と幽霊写真
ここ1,2年ほど、大槻は「気配」という言葉を多用するようになった。
「気配」という言葉は、そこに実際に人がいるときに、人に対して使うだけでなく、そこに人がいないときにでも、環境や事物に対しても使われる。
実際、植木など、人の生活を取り囲むモノが描かれることは多い。
「気配」という言葉がタイトルに組み込まれた作品にも、こうしたモノは(いささか唐突に)侵入している。
上の写真は、絵の一部分だ。
私の記憶が正しければ、この絵の左下には、犬のようなクリーチャーが描き込まれている。
植物のようなモノだけでなく、人間的現実に属すかどうかも定かでない生き物が。
ここで、中沢新一が、虫取り的な感性の延長に「ポケモン」ブームを捉えたことを思い出そう。
中沢の議論がさしあたりは「子ども」をモデルにした議論であるように、子どもの想像力は、しばしば私たちが生きている日常を取り囲むように、「かわいい」クリーチャーを知覚するだろう。
今、「子ども想像力」と書いたが、実際に子どもである必要はない。子どもに象徴される想像力のことだと思えばいい。
大槻が、不思議なクリーチャー(や図形)を描くのは、私たちの生を、人間的な現実とは異なる秩序に属する「何か」が存在しているという直観を表しているように思われる。
ちょうど、ポケモンや妖怪ウォッチ、妖精が描かれた文学のように。
このことが特徴的に表れているのは、今回の展示で飾られていた作品よりも、ドローイング集の中にあるいくつかの作品だ。
小学校かどこかで、子どもたちの絵を飾った教室の背面を撮った写真を使用した作品のことだ。
背面に掲示された絵のいくつかが、キャラ化されたものや、イヌのようなクリーチャーに書き換えられているのだ。
私たちの日常に、そういう「何か」が、いたのかもしれない。
「幽霊写真」は、バルト的な「かつて=そこに=あった」ではなく、「かつて=そこに=あった=かもしれない」ものを表現するものだと言えるだろう。
「幽霊写真」は、私たちが子どものとき、存在に気づいていたが忘れてしまったことを表現している、あるいは、私たちが気づかなかっただけで存在したかもしれないものを伝えている。
少女たちを通して、(確か花のような)「何か」が透けて見えている。
それと同じように、私たちは、モノや人や環境をそれ単体でまなざすとうよりも、それらにおいて「何か」を見ている。
いずれにせよ、恐らく、「気配」という言葉でかたどられているのは、私たちがモノにおいて「過去」を見るときに抱く「かもしれない」という感覚なのだ。
想像力それ自体の作品化
今、私たちが享受している(と感じている)「現実」には、様々な線が描き込まれている。
それは、社会とか秩序とかルールとか言ってよいものかもしれない。
その線に重ねるように、何かがこびりついたり、他の何かが描かれたり、また別の何かが侵入してきたりする。
こうした線引きや侵入は、主体の能動的な働きというより、向こうから否応なく「やってくる」ものとして、いわば「流入」として描かれているように見える。
想像力は、しばしば人の能動的な働きだと理解されている。
しかし、私が研究で扱うジョン・デューイという思想家は、やや受動的なニュアンスを込めて使っている。
つまり、何らかのヴィジョンが自分の現実に侵入してくるとき、その媒介的な役割を果たすものとして、想像力を捉えている。
やむにやまれず突き動かされる力、それが「想像力」の本懐だというのだ。
主体による積極的な構成や投影というより、向こう側からやってくるかのように捉えられる想像力の働きは、「流入」の比喩で、しばしば描かれる。
とすれば、線を引き、図形が侵入し、色がこびりつき、クリーチャーが跋扈する雑多でジャンクな作品群は、こうした人間の受動的な想像力を捉えたものと言えるかもしれない。
要するに、大槻は、様々なもの(=幽霊/気配)が流入する世界を描いているのだが、それは、人間の想像力のプロセスをそのまま作品化したものなのだ。
日常を取り囲む気配
何の変哲もない、日常触れるものたち。
大槻の作品で、封筒、卵ケース、チラシなどが使用されることを、私たちはもっとシリアスに受け取っていい。
日常を取り囲んでいて、そこここに、あったかもしれない「何か」。
こうした視点からみると、大槻の作品には2つの突き抜け方があると思われる。
①どこから視線を送ったらよいのかわからないほど、雑多なものがジャンクな秩序感で描き込まれたもの
②何の変哲もないもの
①では、あらゆる「何か」が重ねられ、溶け合っている。
それを、想像力の反映と見てもいいし、幽霊の跋扈する世界だと見てもいいし、境界侵犯の実例と見てもいいし、逆に、ジャンクな秩序形成の戦略と見てもいい。
②として、単に家や人やモノが描かれた作品を念頭に置いている。
大槻の絵を、ある種の「文化装置」(C. W. ミルズ)として、自分のものの見方を変えた者なら、意識しようがしまいが、その作品において「何か」を、つまり、「幽霊」を見るだろう。
もはや、明示的に描かれる必要はない。
高校の頃に現代文の授業で読んだ印象的な言葉が思い出される。
思想家の林達夫によると、(この場合文芸の)作家の戦略として、意味をどんどん肥大化させていて、過剰さに突き抜ける戦略と、逆に、どんどんと意味をそぎ落としていって、もはや意味を担いえないようなギリギリまで研ぎ澄ませていく戦略の二つがある。
もちろん、この二つが、上の①/②と大まかに対応している。
これだけがありうる観賞の切り口でも、ありうる作家の戦略ではないが、そんな仕方で見てもいいんじゃないですか、という話でした。
おしまい。
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