お金ないくせに買った。でも、2冊にしておいた。レシートはすぐにどこかへやった。
最近、色んな人に「読んでるよ」「楽しみにしてる」という声を、(お世辞でしょうが)頂くので、ずっと気になっていたこの記事を書き直すことにしました。
元エントリは11年の11月頃だったかな。
五十嵐藍さんというと、『鬼灯さん家のアネキ』は有名かな、と思います
『鬼灯さん家のアネキ』は、一見軽薄なストーリーだけれど、展開が本当にうまい。
にくい、と言うべきか。
五十嵐さんの目を見張る実力もあって、ただ単なる「チャラい」漫画じゃなくなった。(他にいい言葉浮かばない)
設定だけ聴けば、最初はワンアイデアの、「なんでもない」「普通の」「面白い」漫画でしかないのに。
人気が出たから続刊して、あのような展開になったのでしょうが、五十嵐藍に脱帽です。
……あ、ちょっと褒め過ぎたかもしれません。
ハードルあげちゃうと、楽しめるものも楽しめなくなっちゃいますから。
画像を見てすぐに誰しも感じることだと思いますが、何を差し置いても、表紙がズルい。
こんな目で、こんな表情をされたら、もう買うしかないですよねー
並べての本のように、キャラがこちらを向いているのでなく、身体は半ばこちらを向いているのに、目と顔は斜を向いていることが、かなり示唆的。
本編読了後には、「やっぱこの表紙じゃないとなぁ」という納得感すら得られることは請け合いです。
ラノベや漫画の表紙を改めて眺めてみてほしいのですが、ほとんどのものがキャラクターは「こちら」を向いていることかと思います。
アニメの「版権絵」も大抵そうですよね。あと、実は雑誌のグラビアも大抵「こっち」を向いています。
表紙のキャラクターや人物が、なぜ読者や手に取る人の方を向いているかというと、「手にとってほしい」からですよね、多分。
《似たような》本はたくさんあるし、《魅力的》で、《お金を出してまで読む価値のある》本なんて五万とある。
その中で、それでもあくまでも、この本を「手にとってほしい」からキャラクターや人物は、読者の方に視線を送っている。
しかし待て。
――――この本のキャラクターは、「こちら」を向いていないじゃないか。
なぜかということは語りません。
ワンコインかそこらなので、騙されてみてください。いいから読んでください。
そりゃ、合わない人もいるでしょうとも。
ただ合う人には、決して一生手放さない本になるでしょうけど。
追記。
この発想はお友達の、なぞべーむさんに負っています。NETOKARUでの寄稿が見つかったので貼っておきますね。
彼女たちの視線と、僕たちの視線――コンテクチュアズ「genron etc. #1」に寄せて
『鬼灯さん家のアネキ』を描いた人だけあって、何でもないストーリーが軽くて重い。(けれど、やはり軽い)
一言で表現すれば、風車みたいな話だと思った。
見ていて決して軽くないはずなのに、するりと読者を通り抜けていく。心で重いものがカラカラと空転する。重く見えるだけで、とても薄くて軽い。危うさすら感じるくらい、軽い。
そういう空転、そういう感じ。
登場人物、みんな水彩画みたいに薄くて、言葉はしんと静かなくせに、とても軽い。体重なんて無いみたいにまわっていく。
主人公が「委員長」だというのがまたいい。
委員長に当てられるラベルといえば――真面目、勉強ができる、(真面目すぎて)空気を読まない、(あるいは真面目すぎて)地味、(地味で)存在感が薄い
色々あるとは思いますが。
『3月のライオン』3巻には、最愛のキャラであるスミスが主役のシーンがあります。
(将棋の盤面についてはこちらを)
彼の使う戦法も「風車」と呼ばれるものです。
その3巻の中にはこんな一節があります。
戦術面でも、生活面でも、迷っていたスミスは、敗北した対局の後で(そもそも、彼は「挑戦者」としてどれだけ落ち着いて相対するかということに腐心していた)、対戦者である後藤にこう言われます。
感想戦で、「分厚い」壁である後藤に、スミスは後押しすらされてしまいます。
対戦者にそう言われた直後、スミスは対局からの帰り道で、「為す術なく完敗したあげく 憑き物まで落とされて フルコースかよ…」と、事も無げに認めてしまう。
相手の「強さ」だけでなく、自分の信念の「薄さ」も、後藤という男の「分厚さ」も認めてしまう。
スミスは、軽い。
風車のように軽い。
棋士にとって、将棋は、それによって口を糊するものでもあるのでしょう。
漫画家にとって、漫画が、生活を支える手段でもあるのと同じように。
それなのに、スミスは軽い。
帰り道、半ばテンションのままにやけっぱちで、「お姉ちゃんたちのいる店で飲んだくれる」か、「家に帰って布団をかぶってワンワン泣く」か、どっちにしてやろうか!と悩みながらも、ふと捨て猫を見つけてしまったスミスは、事も無げに、その子猫を連れて帰ってしまう。
スミスは軽い。
スミスを取り巻く生活そのものが、空転するようにまわり、たくさんのものを広く巻き込んでいく。
淡々と、「非行」に走る、『ワールドゲイズ クリップス』の委員長と同じで。
軽く、広く。
いや、委員長は学生だし、スミスのような「大人」よりは手の届く範囲は狭いけど。
からからと、淡々とまわっていく風車。
二人とも、「軽い」けれど、重くないけれど
――――無視できるわけがないのだ。彼らのように、「軽く」生きていない人間は。
……などと申しております。
ミルチでしたー
追記。そういえば、ドン・キホーテが挑むのは「風車(ふうしゃ)」でしたね。
羽海野チカさんが意識しているか否かとは全く無関係に、なかなか味わい深い気もします。
五十嵐藍さんというと、『鬼灯さん家のアネキ』は有名かな、と思います
『鬼灯さん家のアネキ』は、一見軽薄なストーリーだけれど、展開が本当にうまい。
にくい、と言うべきか。
五十嵐さんの目を見張る実力もあって、ただ単なる「チャラい」漫画じゃなくなった。(他にいい言葉浮かばない)
設定だけ聴けば、最初はワンアイデアの、「なんでもない」「普通の」「面白い」漫画でしかないのに。
人気が出たから続刊して、あのような展開になったのでしょうが、五十嵐藍に脱帽です。
……あ、ちょっと褒め過ぎたかもしれません。
ハードルあげちゃうと、楽しめるものも楽しめなくなっちゃいますから。
『ワールドゲイズ クリップス』の視線、の回避
画像を見てすぐに誰しも感じることだと思いますが、何を差し置いても、表紙がズルい。
こんな目で、こんな表情をされたら、もう買うしかないですよねー
並べての本のように、キャラがこちらを向いているのでなく、身体は半ばこちらを向いているのに、目と顔は斜を向いていることが、かなり示唆的。
本編読了後には、「やっぱこの表紙じゃないとなぁ」という納得感すら得られることは請け合いです。
ラノベや漫画の表紙を改めて眺めてみてほしいのですが、ほとんどのものがキャラクターは「こちら」を向いていることかと思います。
アニメの「版権絵」も大抵そうですよね。あと、実は雑誌のグラビアも大抵「こっち」を向いています。
表紙のキャラクターや人物が、なぜ読者や手に取る人の方を向いているかというと、「手にとってほしい」からですよね、多分。
《似たような》本はたくさんあるし、《魅力的》で、《お金を出してまで読む価値のある》本なんて五万とある。
その中で、それでもあくまでも、この本を「手にとってほしい」からキャラクターや人物は、読者の方に視線を送っている。
しかし待て。
――――この本のキャラクターは、「こちら」を向いていないじゃないか。
なぜかということは語りません。
ワンコインかそこらなので、騙されてみてください。いいから読んでください。
そりゃ、合わない人もいるでしょうとも。
ただ合う人には、決して一生手放さない本になるでしょうけど。
追記。
この発想はお友達の、なぞべーむさんに負っています。NETOKARUでの寄稿が見つかったので貼っておきますね。
彼女たちの視線と、僕たちの視線――コンテクチュアズ「genron etc. #1」に寄せて
風車という軽さ
『鬼灯さん家のアネキ』を描いた人だけあって、何でもないストーリーが軽くて重い。(けれど、やはり軽い)
一言で表現すれば、風車みたいな話だと思った。
見ていて決して軽くないはずなのに、するりと読者を通り抜けていく。心で重いものがカラカラと空転する。重く見えるだけで、とても薄くて軽い。危うさすら感じるくらい、軽い。
そういう空転、そういう感じ。
登場人物、みんな水彩画みたいに薄くて、言葉はしんと静かなくせに、とても軽い。体重なんて無いみたいにまわっていく。
主人公が「委員長」だというのがまたいい。
委員長に当てられるラベルといえば――真面目、勉強ができる、(真面目すぎて)空気を読まない、(あるいは真面目すぎて)地味、(地味で)存在感が薄い
色々あるとは思いますが。
スミスという軽さ
『3月のライオン』3巻には、最愛のキャラであるスミスが主役のシーンがあります。
(将棋の盤面についてはこちらを)
彼の使う戦法も「風車」と呼ばれるものです。
その3巻の中にはこんな一節があります。
これがスミス(棋士)。軽い男? |
後藤の型は 居飛車 穴熊
対する俺は 風車
後藤が「重く」「堅い」とすれば
オレは「軽く」「広く」が持ち味だ
(Chapter26 「黒い河」その② ※俺とオレの部分は原文ママ)
戦術面でも、生活面でも、迷っていたスミスは、敗北した対局の後で(そもそも、彼は「挑戦者」としてどれだけ落ち着いて相対するかということに腐心していた)、対戦者である後藤にこう言われます。
軽いな
――だが まだちょっと重い――
☗2六角とのぞいた後 ☖5二金と守ったな
☖6三金と上がった方が良かったな
あれで「重さ」が出てしまった
………
身軽さが信条なのだろう
――ならば
迷うな
(同上)
感想戦で、「分厚い」壁である後藤に、スミスは後押しすらされてしまいます。
対戦者にそう言われた直後、スミスは対局からの帰り道で、「為す術なく完敗したあげく 憑き物まで落とされて フルコースかよ…」と、事も無げに認めてしまう。
相手の「強さ」だけでなく、自分の信念の「薄さ」も、後藤という男の「分厚さ」も認めてしまう。
スミスは、軽い。
風車のように軽い。
棋士にとって、将棋は、それによって口を糊するものでもあるのでしょう。
漫画家にとって、漫画が、生活を支える手段でもあるのと同じように。
それなのに、スミスは軽い。
帰り道、半ばテンションのままにやけっぱちで、「お姉ちゃんたちのいる店で飲んだくれる」か、「家に帰って布団をかぶってワンワン泣く」か、どっちにしてやろうか!と悩みながらも、ふと捨て猫を見つけてしまったスミスは、事も無げに、その子猫を連れて帰ってしまう。
スミスは軽い。
スミスを取り巻く生活そのものが、空転するようにまわり、たくさんのものを広く巻き込んでいく。
淡々と、「非行」に走る、『ワールドゲイズ クリップス』の委員長と同じで。
軽く、広く。
いや、委員長は学生だし、スミスのような「大人」よりは手の届く範囲は狭いけど。
からからと、淡々とまわっていく風車。
二人とも、「軽い」けれど、重くないけれど
――――無視できるわけがないのだ。彼らのように、「軽く」生きていない人間は。
……などと申しております。
ミルチでしたー
追記。そういえば、ドン・キホーテが挑むのは「風車(ふうしゃ)」でしたね。
羽海野チカさんが意識しているか否かとは全く無関係に、なかなか味わい深い気もします。