授業で読んだときに作った要約です。
あまりに急いで作ったので、誤字もあるでしょうし、これだけ読んでもわからない箇所もあるでしょうが、それでももしかしたら役に立つかもしれないということで、公開してみます。
要約ではほとんどうまく抽出できていないのですが、本章最後の「経済成長」に関する箇所はとても興味深い一節でした。ぜひ、実際本にあたって確認してみてください。
バウマン『新しい貧困 労働・消費主義・ニュープア』 第二章 労働倫理から消費の美学へ
労働倫理:「近代の始まりから、貧しい人々を通常の工場労働へと引き寄せ、貧困を撲滅し、社会の安寧を確保するための万能薬であると期待」されたが、実際は人々を規律訓練し、「彼らを新たな工場レジーム労働を行うのに必要な従順さを浸透させる」ための装置だった。[i]
1,消費、消費と対比される生産、及び消費社会について
私たちの社会は消費社会であり、私たちは「消費者」だ。消費とは「モノ」を使い果たすことを意味する(モノを食べる/を着る/で遊ぶ/欲求を満たそうとする)。消費は、専有と破壊を意味する。このような意味での消費は、現代でなくとも見いだせるが全面化している(社会の成員の全てが消費する)。前期近代/産業化段階の社会が「生産社会」という名に値するのと同じように根源的・基本的な意味で、私たちの社会は消費社会である。「生産社会」は、成員をもっぱら生産者としての活動に従事させ、また成員形成のあり方が生産者としての役割を担う必要性にもとづいており、生産者としての役割を果たす能力や意欲を規準として彼らに求めたのに対して、「消費社会」は、生産者を消費者に置き換えたそれである。過去と現在の違いは、力点の違いではあるが、力点の転換は広範かつ重大な影響力を持っている。
そのような変化のなかで最も重要なのは、社会統合のされ方、そして社会の要求を受けてのアイデンティティのあり方である。パノプティコン的教練がもたらす気質や生活態度は、消費社会では逆効果であり、ニーズにマッチしない。習慣は常に暫定的なもので、ニーズは常に完全には満たされないのが理想的なあり方だと言える。ここではあらゆる関係は不安定であり、消費するのに必要な時間は一過的になる。消費の時間は短縮され、また新たな誘惑に絶えずさらされる。市場は顧客を誘惑するが、消費者も積極的に誘惑される下地がある。選択肢の多さは「消費者主権」の幻想を与える。アイデンティティを獲得し、社会に一定の場所を占め、意義ある生活だと承認されながら生きるためには、人は連日消費する必要がある。
2,消費者の形成
労働(労働スキル、職場、キャリア)は、近代人の社会的アイデンティティの構築に際しての、最も重要なツールだった(安定していて、永続的で、持続的で、論理的にも一貫していて、堅固な)。フレキシブル化した現在は、従事する仕事を通じた恒久的なアイデンティティはめったに保証されず、明確に規定されない(不安定で、一時的で、フレキシブルで、パートタイムの)。この「流砂のようなもの」の上では、労働市場と同様に、生涯の一貫したアイデンティティというよりもフレキシブルな性格を持ったそれにならざるを得ない。アイデンティティは複数形で語るほうが適切だろう(あるいは言葉としての有効性を失っているか)。アイデンティティという考えは、憧れと嫌悪感とを喚起する両義的なものと化している――これは、消費財が使い果たされる一時的なものであると同時に、消費の欲望は残りつづけることと並行的である。伝統的な規律訓練や、規準による規制・制限は、市場中心型社会で最も嫌悪感を呼ぶことになり、規制緩和措置への支持としても表明され、減税とセットの社会保障費の削減にも賛意が示される。
3,審美的な基準で評価される労働
生産は集団的な取り組みであり、個人間の意思疎通や協調、統合によってのみ諸労働は目標を達成できるのに対して、消費は完全に個人的かつ単独な営みであり、欲望の私秘性が基本にあるので、消費の過程で集うとしても、快楽を高める目的に限る。より多くの選択の自由は、「よい生活」の理想への漸近を意味する。富と収入(資本)は、消費者の選択の幅を拡大する限りにおいて評価される。
倫理的な規準でなく、審美的な関心に消費者は導かれる。倫理的な義務は満足感の漸次的な蓄積や遅延をもたらすが、それによって崇高な経験の機会は消えてしまう。賢い消費者は率先してチャンスに居合わせようとする。労働倫理の位置は消費の美学が占める。労働は特権的な地位を喪失し、倫理的関心の焦点でもなくなり、他の生活活動と同じく、消費者としての私たちの審美的なまなざしにさらされるようになっている。
4,特権としての天職
過去には全ての労働は人間の尊厳を高め、道徳的な妥当性を持ち、精神的な救いとなる役割を果たしたので、労働倫理の観点から労働はそれ自体で「人間的」だとされた(平等性、同等性の強調、伝播)。一方現在、審美的なまなざしが前景化するなか、やり甲斐ある一部職業と対比される形で、多くの職業は苦行的に耐え忍ぶ対象と化している(差異、格差の強調、拡大)。「高尚な」前者の仕事は変化に富んで「面白く」、後者は反復的で「退屈」だとされる。現在支配的である審美的な基準からも評価されない後者は、かつてのように倫理的基準からの価値保証もない。消費社会において、選択や移動の自由と同様に、労働の審美的価値が、階層化の潜在要因に変わりつつある。創造的な前者の仕事は娯楽化し、労働時間の定まらないワーカホリックを生み出してもいる。満足すべき娯楽的労働、自己実現としての労働はエリートだけに許される印となり、他の人々は彼らの生活スタイルを遠くから畏敬の念で見つめることになる(スターは賞賛され、模範とされても、模倣の対象にはならない)。
5,消費社会における貧困
規準の定義は、アブノーマルなものの定義につながる。労働倫理は失業という現象の異常性を指摘した。貧しい人は仕事不足や勤労意欲の問題に還元されたので、完全雇用の状態の貧困現象(ワーキングプア)の存在は衝撃をもって受け止められた。貧困は物質的・身体的状態だけでなく、社会的心理的な状態でもある――貧困はその社会の「世間並みの生活」を送ることを阻まれ、剥奪感を生んでいる。世間並みの/幸福な/正常な生活を送れない人々は、不適格な消費者と社会的に規定され、自己規定もされる。無業が消費文化からの排除でもあるという点で、消費文化が根絶しようとしている「退屈」が、消費社会下の失業経験では前景化している。新しい貧困者は、法と秩序の力に挑むことを魅力的に思うかもしれない。
かつては失業者を怠惰認定する声に家事労働など儀礼的なパフォーマンスで反撃できたが、今日失業のスティグマや不適格消費者という屈辱に抵抗できる者はいない。消費者の適性(資産の基準)は、地域社会からはるか遠く、メディアやコマーシャルによって左右される(引き上げられる)からだ。
貧困者は、富裕者の利益のために作られた同じ世界に住まねばならず、景気後退やゼロ成長だけでなく、経済成長によっても彼らの貧困は二重に悪化することになる。経済成長によって、リストラや非正規雇用など労働のフレキシブル化(生活水準の低下)とともに、消費の美徳の範たる富裕者はさらに豊かになり、彼らを前にした「主観的な欠乏感」(相対的剥奪感)をもたらす。
[i] ジグムント・バウマン[伊藤茂:訳]『新しい貧困 労働、消費主義、ニュープア』青土社、p8-9。「初版の序」にあたる箇所。そこで二章は次のように紹介される。「二章で語られる物語は、近代社会の初期段階から後期段階、つまり『生産社会』から『消費社会』へ、したがって、労働倫理によって導かれる社会から消費の美学に支配される社会へのゆるやかな、しかし苛烈な移行についてである。消費社会における大量生産はもはや大量労働を必要とせず、したがって、かつての『労働予備軍』であった貧しい人々は『欠陥のある消費者』の役を新たに割り振られる。そのため、貧しい人々は、現実にも可能性としても有益な社会的機能を果たさないままに放置され、彼らの社会的立場やその向上の機会に広範な影響が及んでいる」