2017年11月26日日曜日

agoera個展「Missing」の感想

以前から気になっていたagoeraさん個展「Missing」が大阪のondoで開かれていたので、みにいってきた。


ここに表示する絵は、ondoのオンラインストアに表示されているもの(=買える)、ondoのツイッターに挙がっている写真など、ネットで見られるものに限っている。
以下、敬称略。




agoeraの絵は、記憶と同じくらいぼやけている。その感覚は、いくつかの絵を見れば共感してもらえることと思う。
実際、「懐かしい」と感じたり、「喪失感」というワードでagoeraさんの絵を特徴づける人は多いらしい。そうした感想は、この「ぼやけ」に由来しているのだろう。

Village


遠い記憶のようなぼやけは、「古すぎて誰が撮ったのかも忘れられた写真を見るかのように 、これらの絵をみなさい」と告げているようにも思われる。

窓辺#03

今、「写真」と言った。アメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズの文章の中に、こんな一節がある。
装置の外側から見ると、ステレオスコープあるいはキネトスコープの画像(pictures)は、立体性、動き(the third dimension, the movement)がない。動いているとされる急行列車の見事な写真(picture)を手にしたとき、ある友人が「この写真のどこに、あのエネルギー、つまり、あの時速五十マイルがあるっていうんだ?」と言うのを聞いたことがある。William James, The Varieties of Religious Experience, (Dover, 2002) p.502
 現前している対象を知覚する私たちが、その対象から感じ取る「感じ(feeling)」を、写真は奪い去ってしまう。それは、写しにすぎない。あるいは、ジェイムズのよく使う言い回しを借りれば、「原文」を「翻訳」したものでしかない。


Church


だとすること、これらの絵は何の「翻訳」だというのか。「原文」は何なのか。
ストレートに答えを探す前に少し寄り道しよう。

I'll wait for you

agoeraの絵には、女性が描き込まれることが多い。それは、『草枕』の主人公のように、どうしても動き出す女性を「絵画的な平面」に押し込むことのようにもみえる。
画中の人間はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立体的に動くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起こったりして面倒になればなるほど美的に見ている訳にいかなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起こらないようにする。
こうした欲望を持った「画工」を主役とする『草枕』は、「図式的に言えば、奇矯な三次元の演劇的女性を美しい二次元の絵画的女性に変換したところで」閉じられることになる(福嶋亮大『厄介な遺産』59頁)。

寄せては返す

これらの文章は、まったく異なる文脈であるにせよ、写真のように見ることや、絵画的な平面に落とそうとすることは、「三次元」や「動き」を抑え込む役割を果たしかねないことを示唆している。

こうした特徴を、写真や絵画というメディアに本質的に帰属するかどうかは問題ではない。 写真的・絵画的な平面に紐づけることができるような、「美的な一瞬をとらえたい」という欲望を見出すことができさえすればいい。

茂る

 一瞬を切り取り、平面に収めるという欲望は、必然的に、「立体感」や「動き」を対象から奪い去り、原文の翻訳にすぎないものへ還元してしまうのだろうか。

つまり、agoeraは、ご多分に漏れず、平面化する欲望にとらわれているのだろうか。「focus」というタイトルの絵を、まさにこうした欲望の反映とみるものがいてもおかしくはない(が、これは鑑賞者に向けたショットであることに注意する必要がある)。

以下のような、植物がモチーフとなっている絵をいくつか思い出すといい。

浮かぶ光

こうした植物の絵は、記憶と同じくらいぼやけていることで視覚的な対象として平面で静止しない。
この植物に典型的にみられるように、agoeraの絵は、「超然と遠き上から」見ることを許さない、つまり、絵の中で「動き」を読み取るよう求めているように思える。

この絵には、「光」という視角的なタイトルがついているものの、「動き」を読み取った者の中には、音まで聞こえさせる。あるいは、絵次第では、風の冷たさまで。

Nancy

ともかく、agoeraのぼやっとした絵(という言い方はすごく貧弱だけど)は、「立体性」や「動き」のある瞬間を、その「感じ」ごと封をする装置ではないだろうか。
あるいは、そうした「感じ」を生じさせるための装置ではないだろうか。

agoeraの描こうとする瞬間が、切り取られた「平面的な一瞬」であるというより、gif.動画のようなシーケンスであり、その場に居合わせることで感じられた「感じ」を思い起こさせるものだということは、フライヤーか何かにも使われた下の絵からストレートに感じられるだろう。

Dance

agoeraの絵は、平面化された動きのない一瞬を保存しているわけではない。
むしろ、agoeraの絵は、かつて=そこに=あった「感じ」を、誰かによって生きられたシーンを、観る人の中に再演する装置のように私には思える。

このような視点に立つと、agoeraのぼやっとした描き方は、そこにあった「立体性」や「動き」を保存するために呼び出された戦略だと言えないだろうか。

要するに、この美的な瞬間を平面に閉じ込めたいという『草枕』的欲望と、「立体性、動き」などの「感じ」を奪い去ることへのジェイムズ的な心配を両立させるための方法として、「ぼやっとした絵」が描かれている、というお話。

そんなこんなで、いい展示でした(11月26日で会期はおしまい)