2013年1月25日金曜日

ニコ動の御三家はどこでドラマを演じるか――TRPGとMMD、〈貨幣〉化するキャラクター

○御三家と〈ドミナントなデータベース〉の有無―主に「声」とTRPGの観点から

あんまりわかりやすい話ではないと思います。主に、力量不足で。


・御三家について、前史。

『ゲンロンエトセトラ#5』「東方再考論」松本直之
面白いが目新しい論点はなかった。整理に主眼のある論考という印象。
原作(一次創作)における図像の揺れなどの指摘もあったけれど、問題はそこか?という感じがした。詳しくは読んでね。

TRPGとは(ニコ百)。 TRPGリプレイ動画=動画でキャラクター(PL)が、ゲーム内キャラクターを演じることになる。
基本的には、東方とアイマスが大活躍(東方卓遊戯タグと、卓ゲM@sterタグ)。ボカロは? あるいは、東方とアイマスの傾向の違いは?

着目理由:キャラクターに、(卓ゲーム内の)キャラを演じさせることの中に、どのようにキャラクターを考えているかが現れているのでは、と。また、声の付け方・有無、キャラの幅が実に多様で題材にしやすい。

※卓ゲーム内のキャラクターをPC、PCを演じる人をPLとか言ったりする。やるゲームによって、呼び方は色々あったりする(よね?)

③〈ドミナントなデータベース〉とは。
『VocaloCritique』の、主にvol.3で述べていること。ここでは、「聖典」がない。あったとしても、相対的なもので、受け手も作り手も、これを無視することができる、とかいう感じの話。
ここでいってる、〈データベース〉感を知りたいなら、名著・東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)『反=アニメ批評2012autumn』の関西クラスタ座談会を。宮台真司✕東浩紀の対談~『動物化するポストモダンを読む』~なんてのもあります。


・東方と声

声との結び付きが極めて弱い。言い換えると、どのような声とキャラの結び付きに必然性がないために、自由に声を与えることができる。(図像の揺れよりも、こちらの方がキャラとして興味深いように思う。)
同人アニメ/ゲームで、数多くの人が声を担っている。動画でも、「ゆっくり」(棒読みちゃん、Softalkその他)との結び付きも強い(TRPG動画、ゲーム実況、解説動画、いずれも東方キャラの数が圧倒的に多い)


キャラ付け、人格もも割りとラフ。トリガーハッピーな魔理沙、鬼畜なキーパリングの魔理沙、しおらしい魔理沙、不器用だけど男前の魔理沙、TRPG玄人の魔理沙、おっちょこちょいを霊夢と一緒になってやらかして場をかき回すマッチポンプ魔理沙……などなど。

ゆえに、どちらかと言うと、カップリングの問題口癖や語尾の問題の前景化が特徴ではないか。動画では、かなり自由なパーソナリティ/役割を乗せられている。

ここから出てくる影響として、その東方キャラを知らなくても、ゲーム実況やTRPG内のキャラ同士の会話は楽しめる。
当然ながら、動画ごとにキャラ付けはかなり違う。またPLとPCのキャラ付けも、かなり違う。

音楽とは関連しつつも分離され、キャラだけで動画上で流通する東方キャラにとって、今や語尾(「みょん」「~、それと便座カバー」)や口癖、ロールプレイ、そしてカップリングこそが重要な問題なのでは

東方は、ゆっくりボイスという声を得て、今まで以上に自由に演じている。アイマスは声との結び付きの強さゆえに、動画自体の直感的視聴しやすさと、ゆっくり独特のイントネーションが生み出す雰囲気を得ることができない。
空の存在、ゆっくりに声を与えられた東方は、どこでも―MMDでも、ゲーム実況でも―ドラマを演じている。


・ボカロと声

ボカロのTRPGはほとんどない。
カテゴリ分けとして生まれるほど根付いてないことを伺える例もある。このTRPG動画では、「紙芝居」すら銘打たれている。→【GURPSリプレイ】KaitoでKnight1【MMD紙芝居】

ボカロとMMDについては、「ボーカロイド消費にどれだけメタデータが関わっているかについて。」内の引用ツイートを参照。

背景に強固なキャラがない代わりに、機能/役割/関係性にまで抽象化された形で共有されている。
この点は東方と近い。ただし、東方と違って口癖や定番の語尾は今のところない。持ち物戦争ならあるけど(マグロ持っている時のルカは大抵、なんかおかしいとか、そういう感じの利用)。

これらの抽象化された形で、曖昧に共有されている、機能・役割・関係性は、カップリングのさせ方や、MMD内ドラマとして現実化されている。(例えば、発売順にドラマを見出したMMDの名作「足跡」)。
曖昧に共有された、機能・役割・関係のイメージを明快に言語化しているのが、例えば、『VocaloCritique』vol.1「Vocaloidによるデュエット曲の傾向と可能性」(アンメルツP)。

ほとんどデータベースらしいデータベースがなく、単に声を担うか、図像を抱えるだけの空の存在。原作(公式)における図像の揺れなんて、当然のボーカロイド。
『VocaloCritique』vol.1の「神なき時代の『ミクさんマジ天使!』論」では、「思いつく限りの形容詞を受け入れ」ることのできる存在だと表現されている。
『2012反=アニメ批評 autumn』の関西クラスタ座談会の議論はがっつりこれに関わる。

そもそも、TRPGが少ない。ボーカロイドがドラマを演じる場所の中心は、やはり、PVとMMDらしい。
ゆっくりボイス動画が多くないのも、既に持っている声の存在感が邪魔をするのだろう。だからこそ、単に図像だけの「字幕動画」や「トーキー」であるか、そうでなければ、ボカロでない、東方や他のアニメキャラの中の一つの存在として登場させる……という形を選ぶ傾向にあると思う。

結月ゆかりは、ボーカロイドでありつつボイスロイドでもあるから、興味深い存在ですね。実際、結月ゆかりは、Minecraftやスカイリムの世界で、様々なドラマを演じ、キャラクターを演じています。
ゲーム実況、特にRPG的なゲームの実況とは、PLがPCを演じるTRPGの構造に酷似します。


・アイマスと声

卓M@Sタグ検索。感覚的には、9割9分ゆっくりボイスや、その他の人の声が付くことはない。
アニマス、ラジオ、CD……。

前提となるデータベース=〈ドミナントなデータベース〉が比較的大きく、多い。
声優のキャラや関係性との類似やギャップが前提になっている(声とキャラクターとの結び付きがかなり強固)。
これにある程度習熟し、自分の中に、アイマスデータベースを形成する必要がある。このハードルをある程度超えると、大体みんな熱心なファンになる。
一昨年のアニマスは、あれをひと通り見ることで、知らないうちに、視聴者の中にデータベースを作っちゃうというアニメだったのだと思います。
自分の周りにも、アイマスファンがごそっと増えました。


典型的態度や典型的台詞、どのカップリングによってどういう会話するかという漠然とした想定を得るには、パターン数が比較的多い
(その意味で、放送中の「ぷちます!」は、短い分、強烈に強調されているので、適切なアイマス入門になりそう)。

消費層が社会人として働いている人が多く(アーケードの頃から考えると30~40歳くらいが第一世代?)、根強い。
ニコマスは、それ以外の人間の、重要な入り口だった。最近は、アニマス→モバマスの流れの人が多い。

TRPGでは、どんな動画でもキャラクターが同じ所に落ち着きやすい。つまり、PLとPCがほとんど一致。シリーズ(キャンペーン)が長くなると、次第に離陸していくこともある。
結局、PL持っているPCも、元のアイマスのキャラ付けからほとんど離れていない。(だからこそ、長いシリーズで、それを離れた時の感動はひとしおです。)

ボカロと同じで、TRPG(やゲーム実況で)、ゆっくりボイスや人の声がつくことはまずない。
これも合わせて考えると、アイマスは、内部にアイマスデータベースを持った人が作りさえすれば、常にドラマが生じうる。
ここがアイマスのドラマの中心だ! というものは、ない。(MMDも含め)全部のジャンル/動画の種類が中心だというのは、ファンの力強さと表裏なのかな。


・まとめ?

強固なデータベースが根を張っているアイマス。これは根強いファン、参入障壁と裏腹。
データベースがあるけれど、参入するのに必要な前提や情報が、「印象」や「語尾」「関係」の程度まで抽象化されて、楽しむにあたってもはや〈ドミナントなデータベース〉を持たない、東方・ボカロは、動画サイトで流通する(情報というより)貨幣のような存在になりつつあるのかもしれない。

もちろん、「楽しむ」にあたって、いくらでも掘り下げることができる。ボカロ(東方も?)は、〈ドミナントなデータベース〉、ひとつの大きいデータベースがあるというよりも、複数のゆるく結び付き合い、共有し合っているデータ(ベース)群があると考えたらよいかも。




○まとめると言ったな。あれは嘘だ。

・貨幣化するキャラクター

この流れでPLANETS8の座談会「キャラクター表現の現在」p.142で、村上裕一さんの言ってる、〈貨幣〉化ということを文脈から外して曲解する。(P8と座談会については、こちらを参照)

「『ゴーストの条件』でMMD、の話を展開した際に面白いと思ったのは、ミクから始まったMMDという表現形式がミクを必要としなくなった点なんですよ。
言ってみればそれはミクが貨幣のような存在になって、誰もその重要性を意識しないけれど、現実に世界を回していくようになったということです。」

紫部分の言葉は、MMDがボカロを必要としなくなったという文脈で発されたものだが、このままではちょい意味不明だと正直思う。そうではなくてむしろ、〈貨幣〉化のプロセス〈貨幣〉という概念については、このように考えれば、有意義だと思う。

つまり、この作品は参照しなければいけないという「聖典」のなさ=〈ドミナントなデータベース〉のなさ→それゆえに、実際の参照・影響などの関係とは無関係に、フラットに受け取ることができる……という意味で、〈貨幣〉化=透明化なのだ、と解釈すれば有意義。
(この種の議論は、VocaloCritiqueのvol.3,5で、朝永ミルチが論じております。何度も宣伝乙)

この発言以降に続くものも少し引用すると、
「僕はそれをひとつの完成形としてイメージしていたんだけど、実際にミクが透明化したときに、『魔法少女まどか☆マギカ』みたいに、消えたまどかが『円環の理』として統御してくれるならいいけど、消えたら単に忘れ去られちゃうんじゃないか、なんていう恐怖がある。」
やはり、あんまり何か意味があって、貨幣って比喩を持ち出したのではないよう。実際この懐疑の仕方は、あんまりよくわからない。
初音ミクみくでも記事になった、Togetter発の「ボカロ文化の現状考察と衰退の妄想」みたいな話なら、わかるけど、この文脈では、そういうことではない。むしろ、貨幣である限り、使う度に、ミク(ボカロ)をさしあたり目にするわけですから、「円環の理」を持ち出すのはやり過ぎでしょう。むしろ、ここに関しては、村上さんのテンションが「円環の理」に導かれていそうな。

紫の文章の部分、その雰囲気だけ借りて、概念化し、実際のボカロ現象の中で当てはまりそうなものに適用すると、「聖典」=〈ドミナントなデータベース〉のなさゆえに、クラスタを飛び越え、ジャンル、動画区分、用途・目的を飛び越えて流通するほど、キャラクターが流通している事態を、そのキャラクターの〈貨幣〉化=透明化の事態だと呼ぼう、とすれば、有用な概念になるのではないかと。

相変わらずまとまりませんなぁww
羊頭狗肉な気もしますが、とりまここまで。

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