2013年1月13日日曜日

豊田徹也と暴力―『ゴーグル』の児童虐待と体罰

COMIC ZINで配布されたペーパー。
谷口ジローに絶賛され、アフタヌーンに時々漫画を載せている、漫画家豊田徹也。
四季賞出身者です。それで、この『ゴーグル』に収録されている、表題作「ゴーグル」が受賞作品でもあるわけです。

いずれにせよ、豊田徹也については、「アフタヌーン作家」と言えば、分かる人にはわかりやすいかも。

まぁ、明確に(話や絵からしても)谷口ジローの系列に入る作家だと思います。彼自身も、谷口ジローから影響を受けたと明言しているくらいですし。


そして、豊田徹也のどの作品も、谷口ジローが絶賛しているのがわかる。最初の単行本である、『アンダーカレント』にも、谷口さんは帯文を寄せていましたね。
谷口ジローについては、最近で言うと、漫画版『孤独のグルメ』を描いている人、と言えば通りがいいかもしれませんね。



豊田徹也さんの、『珈琲時間』に寄せて、レビューまがいのコラムを書いた(NETOKARU)こともありました。
※現在サイトが閉鎖されみることができません。
 このレビューのポイントは、大体以下の3点でした。
  • 紅茶でもなく、ハーブティでもなく、珈琲であることに意味がある
  • 話の構成において、カオスと生活感が同居していること/その交点にある物語が収集されているという特異性
  • 珈琲がある時空間であれば、珈琲でもって共有する時空間であれば、なんでもよいというフックのラフさの魅力

必然性はないのだけれども、それでも、珈琲が選択されていることの意味合いを、別の観点から伝えるために、高野真之さんの『BLOOD ALONE』のセリフを引用したりもしました。


ちなみに、豊田徹也はウィキペディアにちゃんと項目があります。熱心なファンが一定数いるおかげですかね。自分の周囲にも、豊田徹也スキーがいたりします。


さて。問題の、『ゴーグル』です。
出版されたのは2012年10月23日。去年の、冬に片足かかったような寒さを感じる頃でした。
アフタヌーンの公式ページの謳い文句は…

「アンダーカレント」「珈琲時間」というロングセラーを生んだ豊田徹也はじめての短編集。単行本未収録だった表題作、ファン待望の『ゴーグル』ほか、月刊アフタヌーンにて発表された、感動あり、笑いあり、そのどちらでもない微妙なものありのバラエティー豊かな中短編が楽しめます!
下手くそかっ。まぁ、その通りなんだけど。

例のごとく、目次から。
  • スライダー
  • ミスター・ボー・ジャングル
  • 古書月の屋買取行
  • 海を見に行く
  • とんかつ
  • あとがき

個人的に好きなのは、「ゴーグル」と「とんかつ」でした。豊田徹也の描くおじいさんと、胡散臭い人間って、どうしてあんなにかっこいいんでしょうね? あと、豊田徹也の描く女性は、「眉目秀麗」といった感じで、かっこよくて美人です。
ちなみに、「あとがき」は、あとがきというより、著者解題風の「あとがたり」でした。



小学生じみた感想はさておき、表題作の「ゴーグル」とその前日譚「海を見に行く」について。
あとがきで、「今にして思えば、認識が古い」と筆者は語っていますが、私はそんなことはないと思う。古くて新しい題材だった。

物語の中に、暗く差し込む題材のひとつに、体罰/虐待があることは否定できないでしょう。
しかも、それは、昨今取りざたされているテーマでもあります。

一応「取りざたされている」例を挙げておくと↓
「〈大阪・高2自殺〉体罰の暴走、止まらず 顧問の『王国』で」(13年1月13日、毎日)
「体罰教師、18年間異動なし。市教育委員会方針から逸脱」(13年1月10日、産経)
「大阪・体罰自殺。保護者『僕らの頃はもっと厳しかった。親の責任だと思う。先生は頑張って。応援します』→保護者ら、拍手」(2chのまとめサイト)
変化球というか、失笑モノではこんなのも。
長嶋一茂ビンタ擁護論「これで一斉に廃止したらどうなっちゃうのか」(13年1月11日、JCAST)
内田樹が、自分の個人的な体験でもって就活とか語っちゃってるのとおんなじですね。
内田樹の「就活についてのインタビュー」(13年1月12日、BLOGOS)


こうした暗澹たる言説・報道の中、一筋の光のように感じられたのは、やまもといちろうさんの文章です。

やまもといちろうさんの記事「体罰と教育」はとても興味深いものでした。
ここでは一部だけ引用しますが、ぜひ本文を読んでみてほしいです。

なぜ体罰が行われていて、その体罰が果たしていた役割というものを見極めたうえで、体罰をやめたあと別の方法でその役割を担わせなければ、教育現場が荒廃するだけかもしれません。広い心で学生自身の更生を見守る、という経験は、私自身が類マレなラッキーを持っていたからであって、本当に前途有為な子たちが自ら死を選ぶことが一件でも減るようにするためには、通り一遍の体罰禁止とは違うところに解決策があるのでは、と感じざるを得ません。

荒れているとされる高校がなぜ荒れてしまうのか、体罰をしなければならない理由など、さまざまなものが語られずに残されている気がします。また、教師を含めて教育の現場がもっときちんと声を上げられ、何か子供がやらかすたびに画一的に教師の責任とされてしまうことのないような報道になるといいな、と思います。それは、叩いて子供を育てた時代からの決別を、叩かれて育った親による家庭と叩かないと規律を守れない教育現場と双方が取り組まなければならないことです。そして、家庭にとって学校へ躾の至らぬところを押し付けてはいけないことでもあります。

体罰と教育、といえば簡単なテーマなんでしょうが、これは「社会の尊厳」の問題だと思うんですよね。あるいは「出来の悪い子と社会の向き合い方」。

簡単じゃねえぞ、これは。

問題を見据えながらも、不安や怒りを抱きながらも、でも決して安易な言説には乗っからず、わかりやすい議論になんか乗っかってやるかという意気が感じられます。
わかりやすい責任論や、問題を無化するような言説を脇目に見ながら、なんとか希望を語ろうとするこの姿勢は、実のところ、『ゴーグル』の具体的なセリフにストレートに見出すことのできるものでもあります。

体罰を受けているひろ子の、母方の祖父(作)が、友人のやっている焼き鳥屋で二人、語らう場面(pp.161-163)です。
長くなりますがすべてを引用してみます。

「その後、孫はどうしたい? 元気でやってんのか?」

「いや、相変わらずだな。学校にもあまり行ってねぇみたいだ」

「アレかい。母親は相変わらず厳しいのかい」

「そうみてぇだな。身体にいつもアザ作ってる」

「作さんが言っても、収まんねぇのかい」

「何度も言ったんだが、その度に『お父さんにそんなこと言える資格があるのか」ってな。俺も昔は言うこときかせるのに娘のことひっぱたいてたからな」

「でもよォ、子ども躾けんのに、親がひっぱたくのはしようがねえんじゃねえか? 俺らだってそうやって育てられたんだからよ」

「……俺もそう思ってたんだけどさ。今思い出しても、俺は親父のことなんざ好きじゃなかったし、殴られて育ってきたことをありがたかったとも全然思えねえんだ」

「まァなァ、昔の親は厳しかったからなァ。でも話してわかんなきゃ手ェ出すしかないだろ」

「この年んなって思ったのはさ…。ありきたりだけども暴力じゃあ結局何も解決しねえんだな。昔は何キレイ事言ってんだって思ってたけどよ。やっぱし何も解決しやしねえよ。
一回ひっぱたいていうこときかせるだろ。その内一回じゃ効かなくなって、2回・3回と増えてくんだ。それがだんだんと5回・6回・10回・15回……。
そうなりゃやってる方も、やられてる方もマヒしちまって、なんの為にひっぱたいてたのかわからなくなっちまう。
最初の1回・2回が効き目があるんで、ついそれに頼っちまうんだなあ。
話し合えばわかるとも思っちゃいねえけどよ……。
そういうことを面倒くさがって、手っ取り早く力ばっかり使ってると長い目で見りゃ、どんどん悪い方へ行っちまうんだな……」

これは、「ゴーグル」の一幕。「描き込みが細かい」タイプの作家と言えば食指が動く人もいるかな?

こうして書いておきながら、これに付け足して、何か言いたいという気分には、どうしてもなれません。


代わりに、読書中になるほどと膝を打った話題を、ここで紹介することにします。
それは、自明視されている「児童虐待」なるものが、いかに社会的に構成されてきたか、どのような歴史的偶然によって成り立っているか、という議論でした。

ネタ本は、イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』
記憶とメモを頼りに書くので、細かい点は間違ってる可能性もありますので、ぜひ気になった方は直接本を当たってください。


歴史上、最初に、「児童虐待」や「児童への暴力」が問題化されたのは、ヴィクトリア朝の時期です。ヴィクトリア朝では、諸々の社会改革が行われることで知られています。
しかし、一連の改革において、児童虐待は「最後に」提案されました。
児童雇用に関する工場法、禁酒、選挙権拡大、反生体解剖、動物への残虐行為反対……の後に登場したのです。
現在は、最も生理的に嫌悪感の抱かれるタイプの話題なので、すごく意外な感じがします。

しかし、問題化されたこのときでさえ、「児童虐待」の内実は、現在のそれとはかけ離れたものなのです。
試みに相違点を列挙することにします。
  • ヴィクトリア朝期には、「貧しい人が子供を傷付ける」とされた。つまり、児童虐待は階級特有のもの。
  • 「子供への残虐行為」を、「嫌悪」したり、何を差し置いても「恐怖」し、「非難」すべきものとして考えていない。
  • 現代は、医者の制御する領分になっているが、かつてはそうではない。
  • 子供への性犯罪は、法廷で扱われるけれど、「子供への残虐行為」には分類されず。しかも、別法廷。
最初に公的な場で児童虐待が問題化されたのは、1874年「ニューヨーク子供への残虐行為を防止する会」だとされます。
この結社は、動物への残虐行為に反対していた人道協会に「付属する会」として結成されたことは注目していいと思います。

そのあとは、色々あって、すっ飛ばすと……

1960年頃、コロラド州のデンヴァーにおける、小児科医の提案によって、「児童虐待」が、ある行為や行動を記述し、分類する方法として使われ始めます。
この時はまだ、「児童虐待」に、性的虐待は含まれていませんし、外傷がある虐待を問題化したものでした。限界はあったのです。


こんな感じで、「児童虐待」という概念の歴史は、現代から見ると、かなり意外な経緯をたどっているわけです。
かなり端折った紹介なので、気になった人は、イアン・ハッキングの『何が社会的に構成されるのか』の第五章「種類の制作」を見てください。

2012年の活動まとめ。

仕事まとめ…というほどではないにしても、やったことのまとめを作ってないなぁと思いまして、レポートの息抜きに作ります。


○NETOKARUスタッフ
気が付けばなっていました。コラム書く頻度とクオリティの低さで、TLにMISUMIさんを見かける度に心の中で切腹しています。コラムは全部挙げると多いので一部だけ。

主なコラム
・漫画コラム
こがわみさき――『空声』の聴覚とディスタンス
高校生の頃、こういう文章書いていたなぁと。その再現みたいな漫画紹介。ふと気付いたのだけど、スカイリムで「声の力」が伝説の英雄の主要な能力として示されていた。ファンタジー世界における「声」は、『空声』のように、人びとの距離感や関係性の形象であるか、スカイリムのように、魔術的でマッチョなパワーの形象であるかの、二つの道がありそうですね。

・さよポニ論たち
さよならポニーテール『きみのことば』に寄せて[改稿版]
さよならポニーテールの想像力・前半――サンホラ・悪ノ娘/AKB・部活
さよならポニーテールの想像力・後半――世界観「シミュレーション」とストリートライブ的共犯関係
『きみのことば』レビューでNETOKARUデビューです。勢いで書いたものを、修正し、追加し……ってやったものなので、(しばらくしたら全面的に工事したけど)読みにくいですね。
後二者をアップロードした翌日とかに、クロネコが「さよならポニーテールの構造について」を語り始めて驚きました。けれど、この連載は、さよポニ論の裏付けにすらなったように思います。

・小説コラム
青柳碧人の『浜村渚の計算ノート』を計算しない
伊藤計劃『メタルギアソリッド』――空想対話的レビュー
江波光則『パニッシュメント』✕西尾維新『鬼物語』トランスレビュー
なんかこれは好評だった気が。ただ、これは色々「抑制」しながら書いたもので、続編の紹介/レビューを書いた時に、その「抑制」を解除したら、「なんだかなー(゜∀。)」って感じの出来上がりに。一番言いたいことは言ってない。青柳さんも、そろそろ中堅作家が射程に入るくらい冊数出てきましたね。
2つ目は、ブログにあるものを、読みやすく修正して掲載したもので、3つ目は宗教という項で接着して2作品を重ねあわせたもの。

・インタビュー他
ゲーム実況者えふやんスペシャルインタビュー
実はこんなのも。気軽なことを聞こうとしたけれど、いつの間にかお固い話に。マイクラで同人誌作る時、もう一度インタビューしたいなー。今度はカジュアルで、どうでもいい感じの。

【インタビュー告知等】白紙の本に言葉を記すように――歌人、馬場めぐみ
思い詰めの詩学――気鋭の女流歌人・馬場めぐみインタビュー
今年一番の仕事ではないかと。告知と共に書いたコラムは黒歴史かなーと思って読み返したけれど、過去の自分の考えていたことが、「そんな風にも考えられるのか」とハッとさせられた。なんか変な気分。
ちなみに、「白紙の本~」は、サムネイル画像がなくて困っていた時に、ニコニ・コモンズからそれっぽい画像を探して見つけたのが、何も書かれていない本であったことから、逆算して付けられたタイトル。
このインタビュー、短歌クラスタにやけに好評だった。

・その他
初音ミクの黒魔術的召喚について。第一回――ミクさんとデートしよう!
VocaloImagineという批評誌から、ねぎぽよしくんを引っ張ってきて書かせた(意味深)
タイトルは、5秒で私がつけた。反省してる
ボカロ批評誌『VocaloCritique』――VOCALOIDは批評できるか
タイトルは釣りですね(ぶっちゃけ)。ボカクリとねとかるを繋ぐコラム。ボカクリスタッフになった当時に書きました。


○VOCALO CRITIQUEスタッフ

気付いたらなってました。公式サイトはこちら。(とらのあなで委託販売しております)

多分、去年だけで7冊出ました。(vol.2~7とUTAU CRITIQUE)
ボカロクリティークの原稿穴埋め係こと、朝永ミルチが寄稿したのは、vol.3とvol.5です。

vol.3
「ボーカロイド現象の行方」(論考)
「小説 マーメイド」(創作)
前者は、村上裕一さんの『ゴーストの条件』のボカロ論を下敷きに、色々書いたやつ。12000字くらい?
本文でも引用した、柴那典さんにも読んで頂いて本当に嬉しかったのを、今でも覚えている。
後者は、10日Pの「マーメイド」の二次創作。これをきっかけに、10日Pとmeisaさんとお話までできた。あんまり知らないかもしれないけど、原曲は実は、GUMIなんですよ。
オチに脱字がある……その悲しみを背負って生きています。

vol.5
「60年後のボーカロイドを夢見て」
本当は二部構成で、後半は『情報処理』の学会誌がボカロ特集していたので、その紹介/レビュー。この学会誌について、詳しくは、初音ミクみくさんの該当記事とか見れば、どういうことかわかるかなーと思います。
前半について。こういう文体、嫌いじゃないんですよね、実は。本気か冗談かわからない書き方。やおきさんが「淡々とした口調」みたいに紹介してくれていた気がするのですが、実は嬉しかったり。

ボカロクリティークが聴き専ラジオを乗っ取った(12月22日)
アルコールで声が枯れている上に、アルコールが抜けると眠たくて急に無口に。
ボカロクリティークの歴史を振り返る……と称して、みんなダベってるだけなラジオでした。Podcastだよん。


○寄稿やその他

橙乃ままれアンソロジー
先日、委託分も含めて完売したそうです!(再版はリプライ等での要望によるとか)
魔王勇者―まおゆうもアニメ化され、アツいことになっている橙乃ままれさんですが、実は、このアンソロジー本、各種コミカライズ担当の漫画家さんが寄稿していたり、橙乃ままれさんのロングインタビューがあったりと、豪華、豪華の同人誌なのです。
「from the lasting song」という、まおゆうの小説を寄稿しました。
奏楽師弟という、あの物語の中で浮いているキャラクターがいるのですが、それについて考えたものです。私には、奏楽師弟という存在が、あの物語で、(少なくとも明確な形では)成功しているようには思えない。それでも、幾度も登場し、かなりの言葉が割かれ、彼女に苦悩させ、歌わせ、何事かを決意させている。
まおゆうという作品が、基本的に政治・経済・教育諸々の少しハードなもの(「政治」と「文学」の対比で言えば、「政治」)であるとすれば、奏楽師弟はほとんど唯一、ソフトなのもの(「文学」)を担う存在に思えたのです。(「政治」=ノンポリって言う時の「ポリ」ですね)
奏楽師弟が、「失敗」しているのなら、まおゆうは「失敗」している。あるいは、成否で語れない水準のものなのか? そういう諸々を考え、込めました。まおゆうが、「最終回」から始まる物語であるように、私のこの小説は、「最終回」から始まるまおゆうという物語の、その「最終回」(から更に少し離れた地点)から始まる物語です。
感想として、「名前の代わりに役割で呼ぶSSの作法を知らずに、まおゆうを読んでいた頃の疑問―〈役割を終えた後、彼らは名を変えるのか〉に、ひとつの回答例をくれた気がします」と言われて、悶えたのはいい思い出。
編集にmayさん他、獅子奮迅の活躍をされている中、「実家の事情」があって、死にそうな目をしていて何もできなかったのが心残り。宣伝も込めて長々書いてみた。
ちなみに、まおゆうは3日くらいぶっ通しで語れる。「正義は伝播せず~」というブロマガの論考があったけれど、殊まおゆうの記述に関しては、全く話にならない!何を読んでいるんだ!とか、色々フンスフンスして語ると思います。


森田季節✕馬場めぐみ(✕ゆりいか✕朝永ミルチ)トークライブ

途中から飲み会のノリになってた。反省してない

森田季節の新年の新作、『ウタカイ』が出ることですし、機会があればそれをネタにまたできたらいいなぁ……なんて。いずれにしても、『ウタカイ』は、馬場めぐみと森田季節を明確に繋ぐラインだと思います。
ちなみに、百合姫連載の元になった原型がブログ、森田電鉄に。連載時から、大幅に改稿されたとのことで期待。「制度」「システム」の間で揺れる、若者、特に少女の切迫した感じ、ヒリヒリさせる感覚を、また味わえるだろうと思う。期待。
イラストは「えいひ」さん。一迅社もいいチョイスをするもんだなぁ。

関西クラスタ(ラジオ)
宣伝込みで、紹介だけ。文化系トークラジオLifeでも認知され、ゲンロンエトセトラでもインタビューが掲載されて、拡大を続ける秘密結社「関西クラスタ」は、鷹の爪団みたいなものです。
ラジオは通常回に1回、他もちょろっと出たり出なかったり。

アニメルカ『反=アニメ批評 2012autumn』
一応、関西クラスタ関連ですが、座談会に出てボカロの話してます。
菊地成孔さんとかもいる中で、あれだね! まぁいいやw
長さの都合でカットされたこととしては、このエントリの、まさに『ゴーストの条件』が触れられた後で言及されたナボコフの再読論なんかは、とても面白いので、最近河出文庫で文庫化再版された『ナボコフの文学講義』(上下)とか読んでみてくれたら嬉しいです。

・小説読書会の主催
平野啓一郎『ドーン』直木賞をとった『利休にたずねよ』伊藤計劃『メタルギアソリッド』なんぞを読んできました。次は、貴志祐介『新世界より』を読みます。2月16日予定です。
読書会そのものについては、例えば、このエントリを参照してみるとよいかも。

京大短歌18号
どこかに書いていたり、書いていなかったり。


思えば、案外色々やってましたね。覚えている限りでは、これくらいしてました。なんか、想像以上に時間食ってなんか疲れた…

2013年1月1日火曜日

山川偉也『哲学者ディオゲネス』―貨幣の価値を変えよ



あけおめ。
年越しですしね。あと、関西人だし、うどんかなーと
ひもじいなう! 今年もまた、おじさまやおばさまにお年玉をねだる時期が来ましたね……
ということで、お年玉ください><


……さて!

最初に、なんか面白かった所を。
語の多様性は知らなかったし、拘束についてこうしてまとめてるのを見たことなかったので。

「奴隷」を意味するギリシア語は、イヌイットにおける「雪」のごとく実に多様で、一般的なものだけでも「ドウロス」「ドゥモス」「アントロポス」「オイケテス」「パイス」等々たくさんある……。……このように多様な言葉で表現される「奴隷」身分の人間たちは、自由人とは対照的に均しなみに次のような人格的束縛の下にあった。

1,奴隷は、あらゆる法的訴訟において、その主人あるいは主人によって委任された人物によって代理されなければならなかった。
2,奴隷は何者かによってその身体を拘束されても、それに抗うことが許されなかった。すなわち、奴隷は拘束と逮捕に際して抵抗することなく服従しなければならなかった。
3,奴隷は、みずからが欲することを選択しえず、その主人の命じることをなさなければならなかった。奴隷には、自分の意志によって行動する自由がなかった。
4,奴隷には移動の自由がなかった。また、自らが生活したいと思う住居で生活することができなかった。(本書pp223-224)

山川偉也『哲学者ディオゲネス 世界市民の原像』(講談社学術文庫)を読んでいます。

フーコーの最晩年の講義『真理の勇気』(上に貼ってあるやつ)の購読をしていて、それの副読本的に読んでいるわけです。これはまさに、ディオゲネスを中心とする「キュニコス主義」について主題的に扱っているコレージュ・ド・フランスでの講義です。

ちなみに、タイミングよく柄谷行人『哲学の起源』も出たので、それも読みました。これは、キュニコス主義については、ちょっと触れられている程度ですね。
同じくディオゲネス・キュニコス主義を扱ったものとしては、スローターダイク『シニカル理性批判』があります。これもまた、面白い。まだ途中までしか読んでませんが。山川は「浩瀚な書物」と賞賛していましたが、まさにそうだと思います。まぁ、フーコーの方が好きですが。

最初に柄谷行人のに触れると、これは小説DA! とても面白い小説だった!!!
まぁ、でも、例えばヘロドトスがリベラルに見えてきたりする。視点は面白いと思います。死ぬほど間違ってるわけでもないと思います。けど、やっぱり小説ですよ、これは。

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・ディオゲネスって誰やねん

ディオゲネスは、ソクラテスより少し後の時代の人。アレクサンドロス大王と会った時のエピソードは有名ですね。「何かしてやろうか」「そこに立つと日を遮ってるから、どいて」(大意)的なやつ。
シノペという所出身なので、「シノペのディオゲネス」と呼ばれたりします。プラトンでもそうですが、ディオゲネスさんは何人もいるので、出身地とかを前に付けて区別するんです。
前に付けるやつのことを「エピセット」って言います。これは覚えていて損ないかと。

本来なら、日本語wikiでも貼ればいいのでしょうが、「キュニコス主義」も「ディオゲネス」も、割りと誤謬だらけ、誤解だらけ、無批判的な記述に溢れていたので、ふわっとした記述で我慢してください。英語wikiはまともでした。


・推理ゲームとしての『哲学者ディオゲネス』

筆者は最初、シャーロック・ホームズと、考古学で未踏の業績を残したシュリーマン『古代への情熱』の人)を引いて、「彼等のように、透徹した仕方で、ギリギリまで精密な推定が必要だ」というようなことを述べます。
実際、特に序盤は推理ミステリを読んでいるかのように、様々な典拠からディオゲネスの人間像と、彼の人生とを「追い詰めて」いくわけです。
「これは、あれに反するから違う」「これも違う」「こうではない」「ああではない」……
選択肢を潰す様は、まさに推理ゲームですし、ある程度は否定神学みたいですよね。
「これは神ではない」「あれは神ではない」「これではない」……という論法ですから。

ただ、推理小説って、連続殺人がほぼ達成されてから解決するじゃないですか。あれは「推理がうまくいった」と言っていいんでしょうかね。いくら透徹した推理でも、推理ゲームとしてはグズグズなんじゃないかなーとか思ったり。
アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』を元にした、クトゥルフ神話TRPGの「そして誰もいなくなるか?」(ニコ動)を思い出して見ると、これはグズグズに人が死に、傷付いて、もやもやする終わり方になっているわけですが、本書はどうでしょうか?
まぁ、読んでそんなことを考えるのもいいかもしれません。


・キュニコス主義はいかに訳すか

山川が一章の注釈(5)で面白いことを言っています。これは本書の小さなハイライトです。
どういうことかというと、キュニコス、あるいはキニク派を、「犬儒派」「犬儒主義」と訳すことに関して、徹底的に批判的な立場に立っている。彼は「根本的な誤訳」とすら言う。

「犬」というのは、彼らが自ら掲げるモチーフですし、「犬」という言葉については、致命的な文化的差異はありません。
他の思想(家)からも、「犬」のレッテルは与えられます。例えば、ディオゲネスを「犬のソクラテス」と呼んだのは、プラトンでした。
しかし、山川によると、「儒家」「儒教」的な要素はない。さらに、「儒」が意味するのは、「巫祝・祭礼に関わる人」だけれど、これはディオゲネスが拒否したノモスを担う人間。
『シニカル理性批判』のスローターダイクが気を遣った点でもある。キュニコス主義を英訳すれば、シニシズム・冷笑主義に回収されてしまう。スローターダイクは、「キュニコス」「キュニシズム」と訳し、シニシズムとは明確に区別しています。
哲学者も、哲学研究者も、こういう点はすごく拘るんですよね、実は。


===

それほど、書くべきことがないんですね、実は。細かい内容が多いし、大まかな内容は読むのが一番なので。
ということで、自分の気になった側面から、この本を通過しつつ、ディオゲネスについて好きに書きたいと思います◎


「貨幣の価値を変えよ」――ノミスマをパラハラテインせよ

これは、ソクラテスでいう「汝自らを知れ」でした。
同じく、アポロン神殿の神託でありながら、生涯を通じた謎であり、さらには、彼自身を象徴する言葉。

ノミスマとは、基本的には貨幣のことですが、「ノモス」に通じていくことからもわかる通り、法・慣習・制度を意味する言葉でもあります。
アリストテレスのノミスマ論と言えばティンとくる人も一部にはいるでしょうが、その場合は前者、貨幣のことですね。後者は、ポリティコン・ノミスマと表現したりもするそうです。

この神託はディオゲネスだけに与えられたものでありながら、ソクラテスのそれのように、キュニコス主義を標榜する人は、その言葉を自らも掲げつつ生き、またキュニコス主義でない人も、その言葉を彼等に帰するのです。


ディオゲネス(の父)は貨幣鋳造局の偉いさんだったことがあり、「貨幣の悪鋳」を責められて、追放の憂き目に遭います。
ご存知でしょうか。貨幣の価値を変えること、贋金を作ることは、経済学的にも哲学的にも重要なテーマだったりします。
現在の「ゲーム」に乗っかりながら、それを乗っ取り、価値を変えてしまう。
ゼロ年代批評的に言えば、「ハッキング」ってやつですね。ズラしてしまう。書き換えてしまう。
(正直、真新しさの欠片もない想像力ですよね。それが悪いとも思わないけど)

例えば、アンドレ・ジッドの『贋金づくり』を見ればわかるように、ストレートに文学的モチーフでもあります。
映画でも、「ヒトラーの贋札」なんてのもある。

最近出た本で、トマス・レヴェンソンの『ニュートンと贋金づくり――天才科学者が追った世紀の大犯罪』なんてのもあります。
なぜか、古市憲寿さんが面白がって読んでた不思議。


日本なら、『坂本龍馬の「贋金」製造計画』(新書)なんてのもあるようですね。
恐らくこれと同時代を扱ったガチ版、主に薩摩視点の話で、『偽金づくりと明治維新』(徳永和喜)なんてのも。



グレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」を持ち出せば、「貨幣の価値」を変えよ、のイメージがしやすくなるでしょうか?

既存のゲームに乗っかりつつ、その価値を堕落させ、流通させ、書き換えてしまう。
体制の裏返しをする時に割りと利用される手段でもあります。「この秩序」を骨抜きにして、「別の秩序」を構想する。
フーコーは『真理の勇気』の中で、キュニコス主義が、系譜として、革命の思想に流れている、というようなことを言っています。まさに、「別の秩序」なわけです。
(この辺りが、個人的には、マフィアのむき出しの自由・暴力・秩序への興味に繋がるのです→「新書『イタリア・マフィア』――終わっていること。元も子もない自由、暴力、秩序」を参照ください。)

ちなみに、ハイエクなんかが、グレシャムと逆のこと言ってますね、そういえば。あんまり詳しくないですけれど。


最後に何点か

・分厚いだけあって、面白い!
けど、これから入ると、途中で飽きちゃう人が多そうです。キュニコス主義とか、ストア主義、ディオゲネスに既に興味をある程度抱いた上で読むととても有用だと思います。

・あと、数学(算術)的な説明を持ち込む必要あるのかな? ないと思うよ(迫真)
プラトンでやるならわかるけど、ディオゲネスはそういうのすら拒否しているはずで……。

・この本で一番役立つのは、「ディオゲネス伝」逸話一覧表です。これは、ディオゲネスのペーパー書く人には不可欠ですねー

・ラストに一応目次。

目次
序章 「世界市民」の原像としてのディオゲネス
第一章 「ディオゲネス伝」読解のために
第二章 シノペ――通貨変造事件前夜
第三章 シノペ――通貨変造事件当日
第四章 通貨変造事件直前・直後の顛末
第五章 象徴戦略としての「犬」、そのシンボリズム
第六章 狂ったソクラテス
第七章 ディオゲネスとアレクサンドロス
第八章 ポリス的動物と「獣」のアナロギア
第九章 ディオゲネスの奴隷制批判
第十章 自足して生きる
第十一章 アリストテレスの正義論
第十二章 世界市民への道
終章 世界市民主義の地平
あとがき/参考文献/「ディオゲネス伝」逸話・トピック対照表/人名索引