2013年1月19日土曜日

P8「キャラクター表現の現在―東方・アイマス・MMD以降」読書会レジュメ #kansai_ct

『P8』――僕たちは〈夜の世界〉を生きている

座談会「キャラクター表現の現在――東方・アイマス・MMD以降」(p.140-149)
参加者:石岡良治、黒瀬陽平、坂上秋成、村上裕一(、宇野常寛)


自分と『Vocalo Critique』については、「2012年活動まとめ」というエントリ参照。
ボカロ、アイマス、東方――いわゆるニコ動の御三家、その全てを受容するMMD。座談会参加者もボカクリ読め!というわけではありませんが、参加者のように頭はよくなくても、コンテンツにかけた時間とコンテンツ愛だけは勝っている発表者です。


○本文中から、いくつかのトピックをピックアップ

座談会の内容はそんなに……。面白くも新しくもない。自分の見通せなさをコンテンツのせいにしている…というのは意地の悪い見方かな。理系の文系批判/文系の理系批判と同じにおいが。
とはいえ、いくつかポイントだけピックアップする。

・MMDの変化
印象で語られてて、割りとイライラしたので、実際に調べました。
ここに書いていたものは、下記のエントリに移植しました。まとめだけ残します。

※ツールとしていじって楽しんでる/手探り(「MMD体育祭」開催はその両面の表れでは)。8月が転換点?
モデルの拡大の前線には、単純なもの(デフォルメされたテト、たこルカ、ののワさん、ゆっくりなどの御三家)が常にいた。
他の御三家と本格的に交わり、受け皿となるのは、09年2月辺り(丁度解説動画投稿から一年)以降。
※MMDのアップデートや改変との関係は、見る専的には不明。

詳しくは、別のエントリに加筆の上書きました!
「MMDについて。拡散していくMMDと、MMDの特徴メモ」


『ゴーストの条件』村上裕一
本書は三部に分けられる。
①一部では、「分析的」に〈ゴースト〉を構成しようとしている。いかに、キャラが立ち上がるか、素朴な想定からの構成。(そのことは、確定記述が取り上げられていることからもわかる。イメージは、マルクス『資本論』第一巻の貨幣分析)
②二部では、直接〈ゴースト〉について触れられ、生成環境との相互関係の中、論じられる。キャラ立ちしたキャラクターのある得意な形態=〈ゴースト〉と考えてよい。その例が、やる夫であり、初音ミクである、と。詳しくは、本書を嫁。
③三部では、〈水子〉について触れられる。基本的には単なる(アツいけど)コンテンツ批評化している部分。〈水子〉や〈人形〉がキーワードであり、〈ゴースト〉へと繋がっていくモチーフであると、村上さんは考えているらしい。多分、この記述の混乱は、〈人形〉〈水子〉についての話(これらはそのままでは〈ゴースト〉ではない)と〈ゴースト〉とが、半ば混同されていることに起因する。〈人形〉や〈水子〉というモチーフは、〈ゴースト〉の寓話として読めば、一部~三部は見通しよく読めるはず。
宣伝乙↑

・宗教とキャラクターのアナロジー
仏閣と仏像との比喩はあんまりうまくないよね。
なぜキャラクターに対して、宗教のアナロジーが頻繁に用いられるかについては、「かんなぎ」を考えると案外わかりよい。神自体がキャラクター化されている作品。人に覚えられ、人に祈りを捧げられ、人口に膾炙することが、神としての存在感/力に繋がっていく。
他の例は、例えばSkyrimのメリディア神。「世界の暗き隅々の不浄を灼き払いなさい。我が名においてその剣を振るえば、我が力を増すことにも繋がります」

・情報環境内部での、消費感情
「情報環境的に、現在は『萌え』よりも『推す』ことが面白くて、ロマンチックだと気付いてしまった。」(p.145)宇野
→アイドル詳しい人、なんか言って。

・ボカロ小説、ボカロとメディアミックス
割りと的はずれな議論の感。



↑言い古されたことを、何を今更……という心の声。

詳しくは、『ボカロクリティーク』vol.3「ボーカロイド現象の行方――共同体としての初音ミクの拡大、あるいはネットワーク環境に祝福された『祭り』の境界」を参照。『ゴーストの条件』が半ば下敷きの議論。
vol.5の「60年後のボーカロイドを夢見て」でも、その延長の議論をしている(vol.5はとらのあなで在庫あるかも? 公式アカウントのツイートなどにリンクあり)。
基本的には、ボカロ小説は、他ジャンルとの〈交渉〉、現実との〈交渉〉という問題として思考するべきだと考えている。

自意識キャンセラーとしてのボーカロイドについても、手を替え品を替え、ボカクリの中で色んな人が論じている。
一番直感的にわかりやすい説明は、紀貫之が『土佐日記』を、女性が描いたものとして、女性に仮託して、率直素朴な感情表現を書き付けたということを想起することでしょうか。


○御三家と〈ドミナントなデータベース〉――主に声とTRPGの観点から

以下のものは、「ニコ動の御三家はどこでドラマを演じるのか――TRPGとMMD、〈貨幣〉化するキャラクター」というエントリで詳細に論じてあります。最初の部分だけ残しておきます。

・御三家について、前史。

『ゲンロンエトセトラ#5』「東方再考論」松本直之
面白いが目新しい論点はなかった。整理に主眼のある論考という印象。
原作(一次創作)における図像の揺れなどの指摘もあったけれど、問題はそこか?という感じがした。詳しくは読んでね。

TRPGとは(ニコ百)。 TRPGリプレイ動画=動画でキャラクター(PL)が、ゲーム内キャラクターを演じることになる。
基本的には、東方とアイマスが大活躍(東方卓遊戯タグと、卓ゲM@sterタグ)。ボカロは? あるいは、東方とアイマスの傾向の違いは?

着目理由:キャラクターに、(卓ゲーム内の)キャラを演じさせることの中に、どのようにキャラクターを考えているかが現れているのでは、と。また、声の付け方・有無、キャラの幅が実に多様で題材にしやすい。

※卓ゲーム内のキャラクターをPC、PCを演じる人をPLとか言ったりする。やるゲームによって、呼び方は色々あったりする(よね?)

③〈ドミナントなデータベース〉とは。
『VocaloCritique』の、主にvol.3で述べていること。ここでは、「聖典」がない。あったとしても、相対的なもので、受け手も作り手も、これを無視することができる、とかいう感じの話。
ここでいってる、〈データベース〉感を知りたいなら、名著・東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)『反=アニメ批評2012autumn』の関西クラスタ座談会を。宮台真司✕東浩紀の対談~『動物化するポストモダンを読む』~なんてのもあります。

(以下略)


=======その他のメモ======



関連するその他。



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