下鴨神社では、ちょうど12日から納涼古本まつりが始まりました。台風11号の影響で、少し遅延しての開催です。(残念ながら、市内で開催されていた陶器市も、土日がおじゃんになったらしいですね)
それに合わせて書籍の整理をしているうちに、積ん読になったままのこの本を見つけたので、ぱらぱらと読んでいました。(内田樹って、なぜか積ん読率高い)
序盤はよかったのですが――どうにもこうにも耐え難いほどに、内容へのいらいらが募って寝られないのでちょっと何か書いてみます。
テーマは、「教育からの逃避」と「労働からの逃避」。
これに対する内田樹の戦略は、大まかに言うと以下のものです。
通俗的な功利主義的態度(消費者的主体像、心理的な契約・等価交換関係)が蔓延しているという現状認識のもと、処方箋として、リスクヘッジ的な態度を提案する。実際は『先生はえらい』的な師弟関係も、そこに加わるわけだけど。
ちなみに、貼っている『私家版・ユダヤ文化論』も、『先生はえらい』的な話とほとんど同じです。
基本的には面白かった。面白いアイデアとかも出している。消費は無時間的だとか、労働者的な主体になる以前に、消費者的な主体になっているとか……。
ただ、教育の成果は数値化できない云々言ってるくせに、「学習時間」で子供の学力測ってるのにはたまげた。本を投げた。語るに落ちるというか、自分の無根拠さ・適当さを惜しげもなく露出しています。
ニートに関する認識もひどいもの。特に最近『無業社会』(西田亮介・工藤啓)でとりあげられるような若者も、成金のぐーたら息子も、構造的に生み出されるニート(階層的な問題のある)も、一緒くたにしている。
要するに「根性なし」「考えが甘い」「師匠を持て」的な無内容と印象論を連呼。これは処方箋でもなんでもない。誤った現状認識のもとでは、誤った処方箋しか出てこない。薬のつもりで毒を配っていることに気づかないのでしょうか。
というか、「ニート」に対するラベリングはひどいもので、はっきり言って差別的でした。
加えて、ニートの数について触れた部分で、「統計的にも正確にはわからない」と言っているが、統計についての無知を晒していて、それで『先生はえらい』ですかと思わざるを得ない。
「ムジュン」を「矛盾」と綴れず、なんとなく印象的に「無純」だと理解して、そう書いている学生が紹介されているのですが、内田さんのこの思い込みと思考停止は、彼女のものとどこが違うのでしょうか。私は思わず枕に本を投擲しました。
失語症に関する認識もひどく、印象論的でいながら根性論と個人の精神の問題に回収する始末。無知を晒すどころの話ではなく、はっきり言って害悪です。
その前後で、「無知とは」なんて語っているから手に負えません。
まぁ、最初の1,2章は面白く読めるのではないでしょうか。基本的に眉唾で読むべきです。ちなみにこれ、2007年の本なんですよね。1990年代に書かれた本とかではないんですよ。私は思わずため息をつきました。
……などと述べてきましたが、別に内田樹読んでいないわけでもないし、全く読む価値がないとも思わないんです。本や箇所によるのですが、面白いことも言うし、傾聴すべきところも当然ある(でなければ、曲がりなりにも、これほどの一般的支持を得られるでしょうか)。
疑いつつ、反論しつつ読んでほしいですね。(ちなみに岡田斗司夫との対談本はかなり好きです)
講演が元ということもあって、内田樹のだめで、ヤバいところが凝縮されている本だと思いました。他の内田樹の本を読む上で、通過すべき「ヤバさ」なのかもしれませんが……。
なお、作中で度々引用される苅谷剛彦は、普通に参考になると思います。
こちらに苅谷さんについての簡単な紹介が含まれている文章がありました。参考までに。
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