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2015年12月22日火曜日

2015年の活動まとめ

毎年なんだかやってますが、今年も今年とて総括。
2014年のまとめはこちら。2013年のまとめへもそこから飛べます。

なんだかんだと今年は忙しく過ごしていました。
ブクログによると、書籍は今年一年で、352冊読んだようです(12/29現在)。
ただ、ブクログの本棚登録は、アマゾンがその商品を取り扱っているかどうかに依存しているので、もうちょっと多いかなと(古い絶版本や論文、珍しい洋書も読みました)。それから登録したのは、読了書籍のみなので、実数はもっとあるんじゃないかと思います。
映画・映像を加えると、442コンテンツだそうです(カウントしたのはDVD・Blu-ray化されたもの)。
今年は例年以上に読んだんじゃないかな。なお、漫画は除きます。


・閲覧数の伸びたブログ記事
大槻香奈個展「私を忘れないで。」についての、かなり長めの感想。

さすが、大槻さんの人気ぶりというか、どかんと閲覧数増えました。
こういうのは批評未満ですし、論としてかなりごまかしもあるのですが、ご本人はじめ、それなりに面白く読んでいただけたようでよかったです。

『後宮小説』と『ジェイン・エア』――二つの「適当」な主体
読書会で『後宮小説』扱ったときですね。全く人が来なかったので、代わりにネットに書いたのでした。


・プラグマティズム講座(全三回)
イベントスペースのGACCOH(京都・出町柳)さんにて、ワークショップを開催しました。
それぞれ、こういうタイトルです。
「哲学史のなかのプラグマティズム」(8月)
「鶴見俊輔とプラグマティズム」(9月)
「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」 (11月)



おかげさまで、こちらは盛況でした。
GACCOHのサイトが残っていないので、 関連するブログ記事へのリンクを貼っておきます。
→残ってました。リンクはこちら


・GACCOH小説読書会
直近から下っていくと、こんな感じ。
伊藤計劃『虐殺器官』×『ハーモニー』読書会(11月)
伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』読書会(10月)
酒見賢一『後宮小説』読書会(5月)
ミシェル・ウェルベック『素粒子』読書会(1月)

『素粒子』は映画も結構よかったです。内容はかなり違うんですけど。主人公も、もっとデブのキモい感じを想像してた。しかし、それはそれとして悪くないと思いました。

さておき、12月26日に、ミシェル・ウェルベック『服従』読書会を開催します!
→開催しました。

過去に扱った本はこちらをご覧ください。


・消費社会論勉強会
扱った本を挙げています。毎回テーマらしきものを設けて読むと、内容がリンクしてくるので、かなり面白いです。内容をまとめてくるので、他の参加者の読了は「推奨」。読まなくても参加できる勉強会です。開催場所はいずれもGACCOH。
第四回のテーマは東京でした。(2月)
北田暁大『増補 広告都市・東京:その誕生と死』
吉見俊哉『都市のドラマツルギー』
森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』
第五回のテーマは「食」。(3月)
厚香苗『テキヤはどこからやってくるのか』
今柊二『ファミリーレストラン 「外食」の近現代史』
速水健朗『フード左翼とフード右翼』

番外編は、ショッピングモール散策オフ。(3月)
イオンモール桂川で、色々歩きつつ以下の二冊を読みました。
東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える』
速水健朗『都市と消費とディズニーの夢』

第六回は理論的な著作。(5月)
ブライマン『ディズニー化する社会』
セネット『不安な経済/漂流する個人』
第七回も、理論よりの良書を。(8月)
サンデル『それをお金で買いますか』
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
リッツァ『消費社会の魔術的体系』
第八回も引き続き、消費社会論の名著を。(10月)
見田宗介『現代社会の理論』
ショア『浪費するアメリカ人』

次回は2016年の2月を予定しています。



・クトゥルフ神話TRPG
今年から始めたんじゃないかな、と思います。
これが面白いのなんの。
気が付いたら……








動画投稿してました。
「夜は短し飲んでは歩け」は、初心者のソロプレイでも遊べる感じに構成。森見登美彦の小説をもとにした自作シナリオ。
「沈滞する水都」は、友人作のシナリオ。


・燻製
燻製、はじめました。
こちらも「ゆっくりいぶり暮らし」と題して動画を投稿し、大島さんの燻製漫画『いぶり暮らし』のステマしてます。
かなり編集ミスが多くて、正直消したい。

2015年12月5日土曜日

結月ゆかりコンピ「ゆめばかり」より、くらげP「シーベッドタウン」の長めの感想



・帰ってきたボカロ好き、ゆかりコンピを聴く



きゃらあいさんのイラスト。かわいい(かわいい)
2015年春先に開催された関西ボーパラに参加する友人に、ゆかりさんのコンピCDを買っておいてほしいと頼んだのは遠い昔のこと。

数ヵ月を経た最近、ようやく受け取ることができ、今、こうして聴いているわけです。

引っ越しや「入院」を経て、音楽との接し方自体が変わる中で、しばらくボカロ自体から離れていました。

最近はぽわぽわPの昔買った音源とか、keenoさんの新しいアルバムとかをぽつぽつ聴き始めていたので、ゆかりコンピに入るのには、いいタイミングだったのかもしれません。


前置きはこれくらいにして。問題のゆかりコンピはこちら!!



ボカロから数年離れた立場にもかかわらず、結構気に入ったので、簡単にレビューしてみます。
VocaDBでの、このコンピの情報はこちら

・全体について

結論から言えば、ものすごくいいコンピでした。
特に、くらげP、さたなさん、翁さんの曲が好みです。

今や「ボカロ好き(自称)」がお似合いの形容詞である私ですが、このコンピに収められている曲は、漠然とではあるけれど、「ゆかりさんっぽい」感じがします。
ミクやルカ、グミではなくゆかりさんが歌う曲だろうなという感じがします。

個人的に衝撃だったのは、名前がわかる(覚えている)ボカロPが二人しかいないことですね……。
面識があって昔から聴いていた翁さん、それから冒頭の曲を作っているくらげP、このお二人だけです。
(結月ゆかりは前から大好きなのですが、くらげPは、自分の中の「ゆかりさんイメージ」を作っている中心的な要因かな、と思います。)

それから、きゃらあいさん!! ジャケットも抜群によかったんですけど、予想以上にグッと来たのは歌詞カードですね。
曲ごとのキャラクターのかわいさとかは言うまでもないと思うんですけど、歌詞カードには、見開きごとのメインカラーが曲とすごく合っている。それが地味にいい。
個人的には、くらげPの「シーベッドタウン」のページの絵が好きです。

※CDの曲順に不備があるそうなので、一応、その件に関する詳細のリンクを貼っておきます。 → こちら


(以下では、一曲一曲簡単に感想を言おう……などと思っていたのですが、気づけば「シーベッドタウン」論みたいになってしまいました。深夜書いているのであしからず。。。)


・「シーベッドタウン/くらげP」

 安心して聞けるさわやかな冒頭曲。

歌詞は全体を通してさみしい印象がある。
ちょっと補いつつ、言い換えるとこういう心象を歌った曲です。

〈若さもあって、目の前の世界で手一杯なのに、その「手一杯の世界」が持っているはずの確からしさが感じられない。
世界の確からしさが感じられないなら、もちろん、そこに生きている自分の確からしさも失われているように思える。
自分の立ち居振る舞いもどこか「嘘」くさくて、苦しい。
周囲の人間に嫌われないように、ただそれだけ考えていると、全部「嘘」で出来上がっているような気すらする。〉

・匿名的逃走としての「夜」

この曲には、いくつか上に書いたような心象から逸脱している箇所があります。
そのどれもが、「夜」、あるいは、それと結び付いた「青」へと「逃走」しているシーンです。

 「嘘」で塗り固めた「朝」から遠く離れている「夜」は、同時に、その暗さ、つまり、「青さ」でもって、全てを覆い隠すものだ、と位置付けられています。
夜の青さに、自分自身が塗りつぶされることが、日常という「嘘の世界」を忘れさせる。平たく言えば、真っ暗な夜は、日の当たる世界から遠いので、私の救いになっているということでしょう。

  「夜明け前が一番暗い」とか、「明けない夜はないんだよ」とか、「夜」はつらさのモチーフになることが多いので、その意味ではやや興味深いと言えなくはないのかもしれません。

夜のブルー ねぇ、ブルー
灯りは泡になって
空へ落ちていく
どこでもない場所に変わる

日常を思わせる光を遠ざけ、匿名的にすべてを染めてしまう「夜」。
普段の文脈から切り離されることの心地よさが印象的なのは、バブリーに鳴り続けるオブリガートの電子音のおかげでしょうか。


・他者と出会う時間としての「夜」

匿名性というのは、ちょっといかにもありそうな「夜」の特徴なのですが、この曲では夜にいくつかの興味深い解釈が与えられています。

あなたの手を取って、夜に溺れてく
そうしたら、簡単に
世界が変わった

ユートピアとしての「夜」は、ありふれた空想的逃避でないようです。
というのも、この一節を見る限りでは、「夜」が「あなた」という他者との界面になっているようですね(J-POPによくある唐突な「あなた」が出てきているだけだと言えばそれまでですけどねー)。


・時間の周期性による、「夜」と「朝」の重ね合わせ

もう一つ興味深い特徴が「夜」に帰されています(これも、当たり前と言えば、当たり前の話なのですが)。

先に、「明けない夜はない」という慣用句を挙げておきました。
この言葉への対抗的なレトリックとして、「暮れない昼もないんだよ」というものをしばしば耳にします。
「夜はつらいけど、もう少し時間が経つのを待てば、朝(希望・出口)があるんだよ」 という呼びかけに対して、「逆に言えば、また時間が経てば、夜(苦痛)がやってくるってことだよね」と答えるわけです。
この曲でも似た件があります。

青に染まってそれでも、夜は明けてく
嘘だらけの朝がまた来てしまう

夜に苦しみ朝に救いを求める人にも平等に、夜がまたやってくるのと同じように、夜に救いを求める「私」にも朝は平等にやってくる。
苦しみとしての朝は、反復する。繰り返しやってくる。
当然といや、当然の認識ですね。

こんなにも簡単に世界は元に戻る
(中略)
それでもいいんだ
きっと、また会えるから
明日もまた夜が来る

逆に言えば、救いとしての夜も、反復的にやってくる。
朝の周期性が苦しみを定期的にもたらすとしても、夜の周期性は定期的に「自由」をもたらしてくれる。

朝と夜のどちらかを拒絶するのでもなく、好きではない方ともそれなりに折り合いをつけながら、好きな方は心底楽しむことで、両方ともを引き受けつつ前向きにやる。

自己啓発っぽいといえば、そうに違いないのでしょうが、そうでしかありえない認識のような気がします。


コップに半分の水を「もう半分しかない」と思うか、「まだ半分ある」と思うかで人生は変わる、という話がよくありますよね。前者はペシミスト、後者はオプティミスト、みたいな話。
この曲で表現されている認識は、これとは少し違うような気がします。

もうこの世界はどうしようもないくらい嘘っぱちで、だから、私もどうしようもなくて、なんていうか、朝なんて大嫌いだけど、この朝をやりすごせば、いつもの夜がやってくるんだ――みたいな感覚だと思います。
悲観と楽観のどちらかを採用しているのではなく、絶望と希望のどちらかだけを受け取っているのでもない。 両方が一挙に存在していて、両方を同時に受け取っているように思えます。

同じことが夜についても言えます。

「夜は嘘をつかない」し、青に染め上げることで「私」を自由にしてくれる。「あなた」と出会うための時間でもある。 しかし、同時に、夜は朝を準備している。少し時間が経てば、大嫌いな朝がやってくる。夜が楽しければ楽しいほど、朝の接近で苦しく思うことでしょう。



Never let me goに言及しつつ、カズオ・イシグロがこういう趣旨のことを言っていました。
「自分には無限の可能性がある」という感覚と、「自分はもう何者にもなれない」という感覚とが同時に到来するとどうなるか、それを考えて書いたんだ、と。

そんな感じで、朝と夜とが、苦しみと救いとが、悲観と楽観とが、同時に存在し続けている曲だな、とか思ったわけです。
……アッハイ、わりとどうでもいいですよね。



だからといって、なんだというほどのことではないのですが、論文とか中間発表とかを控えてまじめなことばかりやっていると、時々、こういうとりとめもないことを考えたくなるみたいです。



以上の内容を一言で言えば、こうです。

夜の取り扱いが面白い曲だな、と思いました。

2015年11月15日日曜日

大槻香奈個展「わたしを忘れないで。」についての、かなり長めの感想(リライト版)。

まえがきのようなもの

日帰りの東京旅行へ行っていました。
内容としては、新宿御苑、村上隆の例の展示、そして、大槻香奈さんの展示「わたしを忘れないで。」です。
完全なるアート・ツーリズムです。


今回は、「わたしを忘れないで。」を見てきた感想を書きたいと思います。
なお、本文では、今回の個展のことを「忘れないで」と表記します。


「忘れないで」の感想を、一言でいうとすれば、「行って本当によかった」です。
余談ですが、「忘れないで」を観に行く直前、新海誠監督の「言の葉の庭」の舞台になった新宿御苑を訪れていました。
映画をなぞるように、雨がしっとり降ってくる中、展示会場に向かったことをよく覚えています。新海作品のように雨の風情を楽しむことはできず、11月の外気に凍えながら歩いて行きました。


展示を見る以前、大槻香奈さんについて抱いていた印象を正直に書きます。
クオリティ高くて安心して観られるので、大槻さんは元々好きな作家さんでした。
かといって、「いい絵だな」「印象に残るな」「面白い人だな」といった一言以上の言葉が出てくるかというと、ちょっと違うかなと思ったりもしてました。
それ以上のことを言うことが難しいなと思っていました。

しかし、個展「わたしを忘れないで」は、こうした印象とは異なる感じを与えてくれました。
自分なりに大槻香奈という作家が掴めた気がしたのです。
言い換えると、いくつかの補助線を引けば、(今の)大槻さんの作家性を自分なりに言葉にできそうだと思ったのです。


さいごに、画像使用に関してあらかじめ断っておきます。
今回の記事では、
・ウェブサイトなど、公式に公開されている画像(へのリンク)
・グッズ化された商品の画像
・筆者が現地で実際に撮った写真で、しかも、鮮明には映っていない写真
に限って、画像を使用することにします。

というのも、大槻さんの次のような発言があるからです。
「個展に来ないともうみられないよっていうスタンスですね。……やはり空間を見てもらわないと、私の表現したいことはぜったい伝わらないと思っていて。」

なお、本稿は、2016年8月に大幅に書き直されました。

さて、御託はさておき、本論へ。

重なる/混じる――境界侵犯の戦略


大槻さんの絵と言えば、「混じる」「重なる」という描き方をするのが特徴的です。
あるいは、「同化する」と言っていいのかもしれません。
例えばこの絵などは、まさに典型ですね。

町と少女が「重なる」
家と少女が「重なる」
繭と少女が「重なる」

このように、しばしば「重ね」て描かれる一対のモチーフをいくつか書き出すことだってできるくらいに、反復されている手法です。
絵をよく見ると、「重なる」というより、「混ざる」と呼びたくなるものもあります。
しかし、特にここでは区別しないことにします。というのも、こうした特徴は何であれ、〈境界侵犯〉の戦略を採っている点で共通しているからです。
この「境界侵犯」という言葉は、少し大げさなので、同化、重なり、混ざりといった特徴を一括して、「重なり/混ざり」や「重なる/混ざる」などと書くことにしましょう。

11/25より発売のアーカイブvol.1 「乳白の街」
「重なる/混ざる」という特徴が率直に表れているのは、「忘れないで」ではなくて、2011年の展示「乳白の街」かもしれません。
そもそも、展示のタイトルからして、境界の曖昧化を示唆するように思えます。
この「乳白の街」という展示は、「忘れないで 」を捉える上でとても大切だと私は考えています。

「忘れないで」で興味深かったのは、「乳白の街」でも展示されていた作品が飾られていたことです。記憶違いでなければ、会場に入って左手に数点配置されていました。
「共通するものを描いているから、今回も展示している」という趣旨の注記があったように思います。


「重なる/混ざる」という動きは、結果として対象の「識別しがたさ(indiscerniblity)」を生じさせます。
建築と少女の「重なり/ 混ざり」を例に挙げれば、大槻さんの絵では、どこからが建築でどこからが少女かを截然と分けることができません。
単に緩やかに「重なる」場合もあれば、「乳白の街」のタッチのように(上絵)、癒着的に溶け合い「混ざる」場合もありますが、いずれにせよ、「重なり/混ざり」合っている当のものは、相互に区別しがたいところがある。



群体的な攪乱――差異から微差へ


今までの話は、異なるカテゴリの対象が「重なる/混ざる」話でした。
例えば、建築と少女。
例えば、繭と少女。

「重なる/混ざる」描き方によってもたらされた「識別しがたさ」という特徴に注目して、少し連想を広げてみましょう。

大槻さんの描く絵の中には、デフォルメされた少女が、複数人、ぽこぽこと並んでいるものがあります。修学旅行のように少女の並んでいる絵が、「忘れないで」でも展示されていました。
このタイプの絵では、個々の少女がデフォルメされているし、その上、個体としてでなく「群れ」として提示されています。
はっきり言って、「識別しがたい」ですよね。あるデフォルメされた少女は、その隣の少女とをほとんど区別せずに鑑賞していると思います。

デフォルメ少女列挙型の絵だけでなく、カプセルに入れられた繭や、シールを付けられて無数に並べられた繭が使われた作品も、これと同じ見方をすることができます。
ある繭は、私たちがもし十分注意深ければ、他の繭との違いを見出すこともできそうです。
実際、個々の繭は違うでしょう。カプセルに貼られたシールの位置、作品内での配置、繭の大きさ、襞の様子、色……私たちが注意深ければ、千差万別と言ってよいほどの差異を見出すことは可能です。
しかし、実際の鑑賞実践としては、同列に扱い、ほとんど区別しないか、全く区別していません。そうした差異は、「微差」であって、先に触れたような「識別しがたさ」がここでも生じているわけです。


大槻さんの印象的なシリーズ、少女のポートレイトも、同じ見方で解釈することができます。
ポートレイトごとに少女の表情や髪形、服装や姿勢の違いが結構あるにもかかわらず、実際のところ、鑑賞している私たちは、彼女たちを区別できていないのではないでしょうか。
AKBに興味がない人にとって、メンバーが全員「同じ顔に見える」のと同じように、私たちは展示空間において、大槻さんの描く少女の肖像をどれほど「識別」しているでしょうか。

「これはあの時の展示のやつね」
「これは二年前の……」
「ああ、これはウェブで販売されてたポートレイト」
といった風に、作品を識別しているとは思えません。

もちろん少女から受ける印象は、ポートレイトによって少しずつ違うでしょう。それにもかかわらず、私たちは、展示空間において、少女たちを並列的に――群体として――見ている。
恐らく、そこでは、個々の少女の違いが、十分関心を払い、考察し、味わうような「差異」というよりも、「微差」に還元されてしまっているのではないでしょうか。
言い換えると、違うにもかかわらず、「同じ顔に見えている」のではないでしょうか。
西洋人からすれば、日本人なんて、大体みんな「同じ顔に見える」のと同じように。


死の平等性――「識別しがたさ」と「掛け替えなさ」は両立する


群体、つまり、群れとして、無数に対象を提示することによって、差異に関する私たちの意識を攪乱する。
その「群体的な攪乱」は、「重なる/混じる」と同様、「識別しがたさ」を生じさせるものでした。
こういう話を今までしてきました。

少し話はズレますが、さらに連想を広げることが可能です。
今回「忘れないで」において、いくつかの絵にでは、ドクロのモチーフが採用されていました。
このモチーフを、「識別しがたさ」という文脈で見てみたいと思います。

死というと、当然なら、誰にでもやってくるもの。
つまり、誰であれ、「区別なく」、平等に訪れるものです。
それに、死の結果として存在する、個々の骸(むくろ)は、私たちにとってやはり「区別のつかない」ものでしょう。
誰が祖母の遺骨と、隣町の誰かの遺骨とを識別できるでしょうか。
もちろん、差異を見出すことは可能です。しかし、受け取る私たちからすれば、微差といってよい程度の違いでしかありません。
こうした連想をなぞるように、「忘れないで」では、少女のポートレイトの前に、各々違う仕方でデコられた/しかし区別の難しいドクロが配置されていました。


しかし、遺骨はかけがえのないものだと私たちは考えています。
個々の対象は「識別しがたい」程度の差、微妙な違いしかない。大体同じ。他のものと並べられたら区別すら危うい。
でも、それにもかかわらず、「他でもない、このこれ」が私にとって重要だと思うわけです。
そう思うからこそ、災害などで誰かが亡くなったとき、適当な誰かの骨ではなく、他でもないその人の遺骨が、家族の下に帰ってきてほしいと、人は願うのだと思います。
同じように、個別には識別しがたいポートレイトの一つに、他でもない「このこれ」に、なぜか惹かれて、人は、それを購入するのだと思います。


(余談ですが、ポートレイトとドクロのセットについて。いくつかのポートレイトが購入されていたのですが、購入者の中に、一緒に目の前のドクロも買おうと思った人がいなかったことは、残念です。もちろん、これは自分が観に行った段階での話ですが。)


「識別しがたさ」の経験としての〈夢〉


唐突ですが、これまで挙げてきた大槻作品の特徴を、ある「経験」に結び付けたいと思います。それは、「夢」です。
連想としては、かなり安易ですが、それはまぁ、いいんです。

私たちは、夢を通じて、日常的に「識別しがたさ」に接しています。
大槻さんのあるタイプの絵が、どこか親しみ深く感じるのは、夢と似ていることに理由があるのかもしれません。
実際、「うつくしい夢」という、どストレートなタイトルの絵もあります。



今回の個展で興味深かったのは、フライヤーなどでも描かれている「ゆめしか」ちゃんが以前よりも強調されていることでした。

ベッドが描かれています。
明らかに睡眠への連想が働きます。
「夢」と結び付けるのは自然なことでしょう。


さて、夢の中では、色んなものの「区別がつかない」という話でした。

私が、東京からの帰りに見た夢を例にとりますね。

私はビートルズの夢を見ました。
私の夢の中でのビートルズのメンバーは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、それからハリソン・フォード(スターウォーズ楽しみです)でした。

興味深いのは、夢を見ているとき、私はジョージ・ハリスンとハリソン・フォードの「区別がついていなかっ」たことです。
起きてからすぐに気が付きました。驚きですね。
(なぜかリンゴ・スターがいないことについては、関係ない話題なので置いておきます。)

自分はスパイダーマンではないのに、自分がスパイダーマンであるかのような夢を見ることを、私たちは簡単に想像できます。自分とスパイダーマンが「区別できない」なんて、あり得ないのに、夢を通じてであれば、私たちはそれを素直に受け取ることができます。

「重なる」こともよく起きます。例えば、夢特有のぬるっとした場面転換。場面と場面が曖昧に「重なり合う」ようにして、転換していく。
完全に転換し終えてから、夢の中の私たちは、場面が変わったことに気付いたりします。

今まで、大槻さんの絵を手掛かりに捉えてきた諸々の戦略や特徴は、まさに夢の特徴のように思えます。
夢は、「識別しがたさ」を経験することであり、大槻さんの絵は、夢のような「識別しがたさ」を演出する戦略で満ち満ちているように私には思えます。


覚醒と酩酊のあいだ/現実と夢のあいだ


今回の展示(筆者撮影)
フライヤーに使われた絵の少女も、展示空間の中央に配された巨大「ゆめしか」ちゃんも、ベッドに入っている。
夢というタイトルの作品まである。
けれど、少女たちがいずれも、呆けたように目を開けています。
「もう眠れない」とばかりに起きている。少女は、目を覚ましているように見える。

目が覚めているなら、彼女は「現実」を見ているのでしょうか。
しかし、描かれた内容を見る限り、単に「現実」を見ているわけでもなさそうです。

ここでは、夢と現実が「重なり/混ざり」合っている。両者は截然と区別されません。
実に「識別しがたい」。
覚醒と酩酊の境界が壊れた時間を表現している、と言っていいかもしれません。


実際、小さな作品の中には、写真にキャラクター的な少女が描き込まれているものがありました。
普通の人が映っている写真の上に、キャラクターを「重ね」描きしているのです。

現実の人がキャラクターと並列されている、あるいは上書きされているという点で、現実の人とキャラクター(虚構の人)も、識別されていません。

現実と夢(虚構)の間に存在する截然たる区別が壊れたという感覚が、大槻さんにはあるのではないでしょうか。



〈夢〉では不気味なものが侵入する


今回の展示(筆者撮影)

夢には他にも目立った特徴があります。
それは、「よくわからないものがぽこぽこ侵入してくる」ことです。

さっきの夢でいえば、ハリソン・フォードも「よくわからないもの」の実例かもしれません。


夢のこうした特徴を明確に表している作品は、2014年の「ゆめしか」などでしょう。
やや気味の悪いリボン、十字、円を伴った十字、謎の液体に満たされたカップ、粘度をもってしたたる液体。
「ゆめしか」では、不可解なものがぽこぽこ侵入しています。
(この「よくわからないものがぽこぽこ侵入してくる」感じがよくわからない人は、まどマギの魔女空間を思い出すとよいかもしれません。)


「忘れないで」で言えば、上写真の右側の作品が同系統のものでしょう。
目を閉じた犬のような謎の生物、大きなリボン、謎の液体で満たされた器……不気味なものたちが絵の中に侵入しています。
それどころか、赤や緑、青といった「色彩」それ自体も侵入し、少女を不気味に取り囲んでいます。

ことほどさように、「不気味なもの」「かわいいもの」が、少女のいる空間に侵入している。

余談ですが、写真の左側の作品は、興味深いものがあります。
というのも、レイヤーを物理的に分離して、隔てつつ(=区別しつつ)「重ねる」(=区別しない)という仕方で構成された作品だからです。


鏡の侵入――鑑賞者と作品の境界を侵犯する


「夢」というアイデアを手放さずに、もう少し考えてみましょう。
写真で挙げた右手の作品には、少女の空間に、「鏡」までも侵入しています(見えにくいですが)。
(さらに言えば、今回の展示では、タイトルにも使われているだけでなく、作品にも以前より多用されていることから、重要な素材なのだろうと推定できます。)

鏡には何が映るのでしょうか。
夢に侵入してきた鏡は何を映しているのでしょうか。

それは、鑑賞者でしょう。

様々な不気味でかわいいものが、ぽこぽこと、過剰に侵入している。
「なんだこれは」と思って絵を覗き込むとき、映されるのは、当然、その絵を見ている人です。

女性が見ることもあれば、男性が見ることもあるでしょう。
子供や、大人。東京在住、地方出身、旅行者、アーティスト、投資家、コレクター、学生、プログラマー、20歳、53歳、マイノリティ、マジョリティ、右翼、左翼、政治に無関心な表情、笑顔、悲しみ、退屈、疲れ、無表情。

鏡をのぞき込む人によって、当然映り込むものは違うし、近くにいる人も映り込むかもしれない。
その違いにもかかわらず一つ言えるとすれば、鏡に映る鑑賞者が誰であっても、夢を見ている少女にとっては「他者」だということです。

「他者」、つまり、「私」とは違う存在は、夢に「よくわからないもの」として侵入してくる。
鏡は断片的なので、映るものも不完全です。不気味で、よくわからないものが映り込むことでしょう。
同時に、不完全で断片的な映り込みによって、鑑賞者である私たちは、少なくとも部分的に、絵と「重なり/混ざり」合っていきます。
作品と鑑賞者が十分隔てられた美術館・博物館的な空間構成とは全く異なり、作品と鑑賞者の境界は、鏡によってストレートに攪乱されています。


空虚?――鑑賞者の喩、またはシミュレーションの場としての「わたしを忘れないで。」


さて、ここで気になるのは、大槻香奈さん自身の言葉です。
大槻さんは、比較的分量のあるステートメントを書く人でもあるので、しっかり読んでみたいと思います。(ステートメントはこちらで見られます。)
特に注目したいのは、この一節です。

人は自分の 存在を忘れられたくない為により強いアイデンティティを求めるようになる。それは特にSNS を見ていて感じる事でもある。 誰かに忘れられたくないという気持ち自体は、生物的にとても自然な事だと思う。しかし本来小さな個人的感情でしかないも のが大きな問題として頻繁に顔を覗かせるようになった今、中心を失った世界が内側から徐々に崩壊していく危機感をおぼえるのだ。震災から4年経ち、多くの人が普通の日常をおくるようになった今、じわじわと膨らむ現代の「空虚」さを簡単に見過ごしてはならない気がした。

人に忘れられないために、私たちが採用する最も単純な戦略は、「差異」を強調することです。

「あの人とは違うし、この人とも違う!」 と言うために、人は色んなことをします。
突飛な振る舞いをする/変わった趣味を始める/肉体を猛烈に鍛える/人一倍儲ける/奇矯な服装を選ぶ/邪気眼設定を採用する/勝ち馬に乗る/「俺最初から知ってた」/自分の属する集団の優位性を主張する……

そうした欲望は自然なものです(承認欲求と呼んでいいのかはわかりませんが)。
しかし、忘れないでもらうための振る舞いが、今日、「大きな問題として」「顔を覗かせるようになった」。

大槻さんは、こうした問題意識の下、現代において、「空虚」が増幅していると指摘しています。


その「空虚」というのは、これまで「識別しがたさ」という不器用な単語で呼んできたもののことではないでしょうか。
大槻さんはこうも言っています。


画面の中の少女の瞳から何かを読みとろうとするが言葉に出来ない、そんな感想を多く頂いた。(中略)それは観た人がそこに「何も無い」という事を感じたからなので はないか、それで何も言えなくなってしまうのではないのか…と。

展示空間において、ポートレイトの少女たちは複数――つまり群れとして――提示されている以上、少女たちの差異は「微差」であって、「識別しがたい」。

安っぽい落ちであることを許してもらえるなら、この少女たちは、まさに微差を競って、「わたしを忘れないで」と個別に叫びあっている鑑賞者自身のことに他ならないと思う。
少なくとも、ステートメントを素直に受け取る限り、そう言うほかない。
自分の作品を空虚だと言って人に見せる行為は、たとえば自分が制作した木 彫りの仏像を「これは仏様ではなく、ただの木だよ」と言っているに等しいものだ。自分でかけた魔法を自分で解いてしまうことになる。

こんな風に、大槻さんは自嘲して見せている。
今までの解釈路線が妥当だとすれば、この路線を固辞することは、表面的には、「大体同じものを並べている」と言っていることになるのではないか。
しかし、死体・遺骨について語ったところで述べたように、そうした見方は一面的であるように思う。

それでも「空虚」なものを愛しいと思えたり、また痛みであったり、何かを心に残すようであれば、そしてそれを誰かと共有する事が 出来たら、それこそが人生の中で本当に心強く、かけがえのないものになりはしないだろうか。
 「識別しがたい」ものたちの中の、他でもない「このこれ」が、自分の心に痛切に感じられてどうしようもない、ということはある。
いや、むしろ、日常の中で私たちが大切に思うもの、大切していること、大切にしてきたものは、全て、(群れとしてみれば)「空虚」なものに過ぎない。
小さい頃から大切にしているぬいぐるみは、まさに「識別しがたい」大量生産によって作られたものだけれど、古くなったからといって交換したいとは誰も思わない。
(柄谷行人の『探究』みたいな話です)

大槻香奈の描いた、ある少女の、他でもない「この」少女のポートレイトに惹かれて見つめる人は、「空虚」から「何か」――「愛しいと思えたり、また痛みであったり」――を受け取るシミュレーションをしているのかもしれない。

「空虚」を見せるとうそぶく個展「忘れないで」は、鑑賞者自身の比喩であり、さらに、固有性を受け取るためのシミュレーションゲームでもある。


……ということを考えていました。
最近はまた違う大槻作品への関心もあるのですが、それはまた今度。
おしまい。

2015年10月26日月曜日

プラグマティズムに関する講座を11/7に京都でやるよ、という話

ブログで宣伝することを思いつかなかったので、今更ながらの告知です。
京都大学人間環境学研究科に所属している院生です。


イベントスペースのGACCOHさんにて、教養講座「やっぱり知りたい!プラグマティズム」シリーズを催しています。
今回はその第三回、最終回(11/7)の宣伝です。

「やっぱり知りたい!プラグマティズム」全3回 / 第3回「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」11月7日(土) 19:00-21:00→詳細



今回の話は、人間の「生」に焦点を当てたものになると思います。この場で、次回の背景になっているテーマを少し書いてみたいと思います。

時代や社会を語るとき、「複雑さ」や「変化」という言葉と積極的に結び付けられるとき、その裏で前景化しているのは、生きることにつきまとう漠とした「不安」であり、「この世界の自明性が失われた」という感覚です。
それを「確実性の源泉」が失われたとか、生きることの「原理」の喪失と呼んでもよいでしょう。

今回のプラグマティズム講座では、原理主義の本家本元、20世紀前半に登場するキリスト教原理主義に焦点を当てます。
プラグマティズムの思想家ジョン・デューイは、キリスト教原理主義の台頭を目撃した同時代人でした。
私たちが今回、原理主義を扱うにあたって、問題にしたいのは冒頭に述べた「自明性の喪失」です。

この話に対する補助線として、2011年紀伊国屋じんぶん大賞に選ばれた國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』の序章を借りながら言い換えてみましょう。



よく言われるように、近代に入り様々な価値が相対化されました。これまで信じられてきた価値に変わって据え置かれたのは、「生命ほど尊いものはない」という原理でした。佐伯啓思さんなら、それを「生命尊重主義」と呼ぶでしょう。

これは正しい。正しいがゆえに人を奮い立たせることはありません。生命尊重主義は、世界の自明性を回復しません。

生きることに拭いがたい不安があり、自分には揺らがない基盤がない感じがするとき、人は自分を突き動かしてくれる力を欲します。

その「力」を与えてくれる最も目立った例として、過激派や狂信者を想定することができます。

「世界の底が抜けた」ように感じられるとき、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者を、人は「恐ろしくもうらやましい」と思うようになるのかもしれません。

自分はいてもいなくてもよいのではなく、何かに打ち込むことで意味ある使命を背負っているのだと実感したい。

強いて単純化して言えば、そういう感覚が、いわゆる「ホームグロウン・テロリズム」や、イスラーム国に参加しようとする人々に共有されているのだと思います。

今回話題にするキリスト教原理主義が、暴力に訴える人々だと言っているのではありません。というか、ここでは暴力的かどうかは問題ですらありません。

キリスト教原理主義は、人間の生の不安に応えて、自分を突き動かす「力」や「原理」を提供している。

国家や民族に回帰する現象(右傾化?)がもはやありふれた風景になっている今、世俗化の最先端にいて、「宗教」というと顔をしかめる日本の私たちだって、決して彼らを後ろ指差して批判できる場所にはいません。

ジョン・デューイの原理主義論の紹介を通じて、私たちが欲している生きることの「確かさの源泉」について、安定・安心して生きたいという感情について、考えてみたいと思います。

およそ百年前の、縁遠いかに思える「原理主義」という現象の考察は、思いのほか、現代日本に生きる人間にとって具体的かつ原理的な洞察を提供してくれるかもしれません。



第一回、第二回とは内容的に独立しているので、気軽にふらっときてください。第一回、第二回の話を聞いてみたいという方は、参加したうえで質疑のときに言っていただければお答えします。

詳細は、下のリンクまで。


わかりやすい、聞きやすい、面白いを心がけてがんばります。前知識は特に必要ありません

興味があれば、ツイッター(@mircea_moning )にでも連絡をいただければお返事します。

「やっぱり知りたい!プラグマティズム」全3回 / 第3回「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」11月7日(土) 19:00-21:00
お申し込みや参考文献などの詳細はこちら

2015年7月22日水曜日

学部一年時のレポートを発見したので。

学部一年の頃のレポートです。
連続してアップロードしたレジュメの授業のやつかな。


まだレポートがどんなものかわからないまま書いてるんだろうなと思います。笑
ひどいもんですね。。。サルベージしたところでは、もっとひどいレポートもあったのですがw
まぁ、学部なんてそんなもんですよね。
恥ずかしいことをわかっていながら、なんとなく貼ってみることにします。


ヨーロッパ法文化論

 封建社会においては、荘園所有によって支配力を強めていたところの地主貴族や下級貴族、あるいは都市貴族が、世襲的な「参審員」として、法名望家層を形成していた。しかし、彼らは読み書きも満足にできない者が多く、学識層とは決していえない。あくまで名望家に過ぎなかった。彼ら「参審員」の権威は、社会的地位にあった。血縁社会のもとでの、その権威が、彼らや彼らの決定に対する、心理的服従の強制が規範の妥当性をなしていた。彼らは個々に独自の地域的慣習法に精通する者だった。
 生産の増大などによって社会・経済基盤が変化したこと、そして火器が登場したことで戦術が変化したこと、新興ブルジョア層が台頭したことなどで、封建貴族は没落へ向かっていった。また、権力の中央集権化の流れの中で、地域独自のものでしかなかったドイツの法にも変化の要請が生まれた。領域を貫く法が求められる中で、法というものが複雑化・専門化し、加えて文書行政の要請も生まれたため、併せて法律家のあり方も変化していった。
 更には、思想的な転換も、法律家への影響として無視できないものがある。人文主義・ルネサンスの思潮の中で、キリスト教的権威、教会的権威が後退し、思想の世俗化が強力に進んでいった。その流れで、ローマ法が教会法を圧迫し、教会・聖職者による知識の独占が解かれた。知識は商品化されてゆき、法律家がサービス業で発達するところとなった。そして、宗教改革の運動の中で、宗教や道徳の問題が個人に帰せられるようになり、個人主義が浸透した。個々人の訴えが多様化し法知識の専門化・複雑化への要請は高まった。
 その一方での話ではあるけれども、宗教改革の辺りで、教会の世俗化が批判されたが、その中で「権威批判」「反世俗」の要素が呼応して、「権威」や「金」に奉仕する法律家も非難されるところとなった。後に述べるところの法律家批判の傾向も、この流れの中の話である。


 合理性というものを軸にした「学識」は、従来の出自や身分という要素に代わっていった。つまりは、その「学識」を中核として、エリート層が形成され始めたのである。中世における「学識」は、すなわちキリスト教・教会権威と結びつくものであり、大学は中世の知識の独占した教会の強い影響下にあるものだった。世俗から遊離したところにおいて、研究され生み出された専門知識は、民衆を基盤にしたものではなく非民衆的なものだった。知そのものも、教会・聖職者に独占されていたのである。
 この「学識層」に、新興市民層が流入して、その大部分を占めたのだが、この現象は、学識層が民衆化したということを意味するわけではない。大学博士は、下級貴族に列せられたように、学識は一方で世俗化されながらも、そのまた一方で中世的な身分に結びついていたのである。こうして、身分と学識が強く結びつくことで、文書貴族が新貴族層を形成した。中世世界においては、聖職者がそうであったのに類似して、法学者というのは、身分的世界での新たな「風穴」になった。このことは、法学識層へと市民から多数流入したことが象徴している。ゆえにまた、これは急激に変動した社会経済構造の動揺に対する安全弁として働く側面もあった。法学識を身につけることで、現在の身分を脱して上昇する事が不可能ではなかったからである。そのこともあって、学識エリートは、革命に対するブレーキとしての役割を果たしていた、とある種いえる。
 イギリスにおける法曹団体(legal profession)やフランスの法官貴族(noblesse de robe)は、市民社会に基盤を持つような政治的な団体にまで発展した。彼らを支えるのは、大学ではなくもっぱらサロンにおいて培われた知識である。一方でドイツにおいては、市民社会が未成熟であり、イギリスやフランスにも遅れをとっていたために、官僚として各領邦国家で、忠実な「家臣」となり、支配を強力に支えた。



 近世において、法律家批判の傾向は大きく3つある。1手段を選ばず、なりふりかまわぬような、名声・富への激しい志向、2権力志向、へつらい、3三百代言である。これが意味するところは、法律家が支配層に参入しているということである。旧勢力たる貴族・封臣の専横や介入を嫌って、顧問官としてじきじきに君主が雇っていた。貴族の大きな仕事は、軍役と助言にあったため、君主と共同して政策を決定する仕事を持つ顧問官とは、必然的に対立するところとなっていた。構造としては、君主を間において、旧支配体制の残滓ともいえる、慣習的な貴族と、法学識をもつ顧問官とは対立していた。
 当時は他の領邦は外国という意識があった。これもあってしばしば他両方からくる法律家は「雇われ外国人」と呼ばれていたため、貴族の土着的な要素と反発した。知識も、留学などして大学で身につける法律家に対して、貴族はその地域に固有の慣習的なものに頼っていたため、対立の生成は避けられなかった。
 下級官吏と顧問官の違いについては、前者が「手と行為」によって仕えると形容されるのに対し、「舌と知性」によって仕えるとされた。その専門的知識、法学識が重要なファクターであった。人文主義・ルネサンスの潮流の中では、顧問官などの中に、つまりは権力の中枢に、半学識者や半法律家がいることへの反発や批判があった。十全に法学識を身につけないまま、学識者や法律家を語る様に、強く非難があつまっていた。それが上の三百代言の意味するところである。


 学識法律家の、学識というのは、ローマ法の学識であり、つまり彼らは大学でローマ法を学んできた人のことである。ローマ法を需要する前のドイツでは、ローマ法の知識など全く持たぬ者、例えば聖職者や地方の有徳者が裁判を行っていた。
 学識法律家の需要が高まっていく中で、当然大学の設立に対する要請も高まったのである。大学の設立は、世俗権力によるものが多い。とはいえ法学者の需要が高まったから彼らによって設立されたというよりは、当初大方の大学は、神学を中心に据えていたことからもわかるように、聖職者育成が一番の目的であり、カノン法が中心であった。大学成立当初の教師や知識人というのも、もちろん中世的な権威であり、知識を独占していた聖職者が大半であった。このことからも教会と大学の強い結合がうかがえる。学生の集まりからであれ、教師の組合からであれ、いずれにせよ最初は自然発生的に生まれてきた大学であるが、のちに教皇や強力な教会から許可をもらうことで、権威を戴くことがあった。それは、自治権や学位授与権という形であらわれた。
 ローマ法の継受を目的に大学が設立されたのではない。大学教授が盛んにローマ法を教える中で、人口増加による効率的で画一的な行政が望まれ、文書官僚が必要とされる中で、ローマ法が結果として栄えていったのではないかと考えられる。
 大学は教師や実務家を育成する場ではない。目的や歴史性からいっても違うのだが、多くの大学教授が、実務家を兼務していたことからいっても、事実上、官僚育成機構として役割を果たしていることは否めない。

参考文献

上山安敏、1966年『法社会史』みすず書房。

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので③

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので①

以上です。
今はもう読んだ記憶もほとんどないですけど、こんな勉強もしてたんだなぁと思いました。


上山安敏『法社会史』

第十二章 ゲルマ二ステンと政治的運動

三月革命前の時代は、学問が政治的社会的機能を動かした時代だった。ドイツでは、政治が大衆世論という形で、初めて権力構造を変質させた。しかし、この世論は、大学の政治的教授のもので、それは特に法学者と歴史家だった。

ドイツでは、三月革命前の歴史を駆動するのは、法・歴史・言語であった。国民の所属は、自由意思でなく、自然と歴史により規定された運命であるという認識が支配的であった。経済発展につれ、教養層が英仏型の「富と教養の階層」に近接し始め、学識者は次第に政治性を帯び始めた。大学も、純粋な研究の場だと自認しながら、国家の精神的支柱たる存在を固辞することで、政治運動の精神的指導者を生みだす契機を有していた。この中で政治的教授が生まれていった。ドイツにおいてリベラリズムは多義的で幅広い概念だった。彼らは、当時社会的な力となりつつあった与論を合言葉に用い始めていた。

ドイツの統一と自由を求めた運動は、反動体制の道具と化したドイツ連邦でなく、職業を通じた横の連帯を基盤に進められた。ゲルマ二ステン集会は、このような運動の典型だった。この集会では学会母体を、特に法学・歴史・言語に制限した。集会は法律家が主導し、議題も彼らが提示したものが総会の強い関心を引いた。ゲルマ二ステン運動は、その母体の歴史法学と同様、私法から出発したが、同時に新しい公法領域を開拓した。学問の枠を守る動きと政治的運動の微妙な衝突はあったものの、政治的な方向に傾いていった。


1、政治的教授の登場

ドイツにおいて、三月革命前期の歴史を駆動するのは、法・歴史・言語であった。国民の所属は、自由意思でなく、自然と歴史により規定された運命であるという認識が支配的であった。歴史や言語の文化運動は、言語と民族の統合による国民国家の形成という、ドイツ特殊的な政治運動の推進力となった。

フランスのバロのような弁護士団体は革命運動に対して大きな政治的役割を果たした。彼ら弁護士はブルジョア層の富と、学識者の教養とを所有する者であった。一方ドイツでは、経済発展の遅れのため法曹の自由営業化が阻害され、フランス型の政治的弁護士を生まなかった。ドイツでは、市民運動が国民国家・立憲国家・法治国家を作ろうとするとき、大学の法・政治的知識を持つ学識者が必要とされた。多くの人にとって学問は、それら国家との一致が必要であった。

経済が急速に発展するにつれ、教養層が英仏型の「富と教養の階層」に近接し始めた。学識者は次第に政治性を帯び始めた。大学も、純粋な研究の場だと自認しながら、国家の精神的支柱たる存在を固辞することで、政治運動の精神的指導者を生みだす契機を有していた。この中で政治的教授が生まれていった。


2、政治的教授とリベラリズム
ドイツで、リベラリズムとは多義的で幅広い概念だった。当時社会的な力となりつつあった与論を、彼らは合言葉に用い始めていた。また政治的には、立憲主義(中央右派)と議会主義(中央左派)に、大きく分類される。リベラリズムの思想的基調は、反封建、反啓蒙、反フランス革命、反自然法、反絶対制、反官僚制に帰結する。このような態度をとった彼らの理論的支柱は歴史法学の派の依拠した有機的発展理論だった。彼らによると、国家は契約的に建てられた社会でも、目的合理的な構成物でもなく、人間自然において作り出された有機的道義的共同体である。


3、ゲルマ二ステン集会

ドイツの統一と自由を求めた運動は、反動体制の道具と化したドイツ連邦でなく、職業を通じた横の連帯を基盤に進められた。ゲルマ二ステン集会は、このような運動の典型だった。学問と政治的理念が強力に結合した政治的なショーという意味で画期だった。この集会では学会母体を、特に法学・歴史・言語に制限した。集会は法律家が主導し、議題も彼らが提示したものが総会の強い関心を引いた。

集会内部は、三つのグループに分かれていた。旧世代の穏健派、急進派、中間グループである。穏健派はロマ二ステンに対して妥協的であり、集会の中核をなす急進派はドイツ固有のものとして取り入れられたローマ法は排除しようとするものではないとした。中間グループは中庸の態度だった。

ゲルマ二ステン運動は、その母体の歴史法学と同様、私法から出発したが、同時に新しい公法領域を開拓した。学問の枠を守る動きと政治的運動の微妙な衝突はあったものの、政治的な方向に傾いていった。

疑問点・論点

・学者の政治性

・純粋な研究の場は可能か→純粋な研究を自認するあまり、社会的な影響や悪用の可能性を度外視することもあるのでは?逆に政治的であることの弊害(学問の自由が無くなるなど)



同書
第十三章 裁判官層の自由主義化

1、ウィーン会議後のデマゴーグ迫害と警察


ウィーン会議では、勢力均衡や正統主義の下で反動体制がつくられ、一定の秩序が形成された。ドイツでは、ゆるく統合されたドイツ連邦が組織されたが、国民的統一への欲求を満たすものではなかった。体制は革命的潮流を嫌い、ブルシェンシャフトの弾圧に象徴されるように、弾圧の手段は過激化した。革命的な動きを取り締まるために、警察司法省の構成員からなる委員会が設置され、家宅捜索や逮捕が乱発した。

2、裁判所の抵抗
当は、司法は圧倒的にリベラルなもので、一方警察は体制保護的で反動的なものと捉えられた。


3、裁判官の自由主義化

三月革命前の官僚体制は、下からの運動たるリベラリズムの高揚と権力の反動化に伴う政治的対立を内部において反映しており、行政府と司法府との対立という形で現れた。プロイセンで、等族的なイデオロギーの擁護者から、進歩的自由主義の担い手となった司法府は、官僚機構の中でアウトサイダー的な立場を強いられた。


疑問点・論点

・当時の社会での受け取られよう、民衆の反応は?
・司法権の独立、体制との距離感→日本では?
・警察の思想的取り締まり→明治以降、戦前。特高など。

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので②

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので①

同じ上山安敏さんの『法社会史』のレジュメです。


第五章 法律家と権力

1帝国裁判官層


英の法曹団(legal profession)や仏の法官貴族(noblesse de robe)のような統一的法曹階級が成立をみたのは、絶対王政の法政策の所産、つまり政治権力を背景とした形成であるの対し、ドイツの法曹階級(特に裁判者階級)の非力は、神聖ローマ帝国の権力的脆弱性、そしてその権力の領邦国家への最終的帰結による。

1‐1不毛の背景

帝国の観念的統一性b首府の欠如c帝国財政d皇帝からの独立e帝室裁判所の裁判管轄の縮小化f帝国法の不毛

中世的権威を持つ神聖ローマが掲げる、「ローマの再建」という理念を支えに持つが、現実では裁判官階級を支えるような政治的な力が帝国にはなかった(イタリア政策の失敗では諸侯に、ランデスホーハイトの突破口を与えた)。その結果、帝国の下での首府(や官庁)と帝国裁判所の非固定化を生み、法曹階級形成の結晶点にはならなかった。財政状況が悪い上に、租税政策の失敗で、判事の人員を確保しきれない。

英仏は経済的に国王から自立することで、特権的地位に立ち、国王の絶対性に挑戦したのに対し、ドイツでは、等族の企てによって、裁判所の皇帝からの独立がはかられたのだった。この中で帝室裁判所の裁判管轄も縮小された。1235年のマインツ帝国議会で裁判所の再編成をおこなったとき、裁判所は地方の慣習法に従って判決を出すようにと規定され、定まりつつあったローマ法=皇帝法=「書かれた法」という帝国法の路線は挫かれた。

(用語)
・マハト(macht)→力
・ランデスホーハイト→領主高権と訳される。貨幣鋳造権などと思われる。
・カンメル裁判所→本来は肯定や帝国の裁判所。しかし、等族と皇帝の妥協の産物であり、任命権も皇帝のみ持つのでなく、皇帝と等族から提案で、帝国議会の中から選ばれた。


1‐2学識性

帝室裁判所における学識裁判官b法曹育成機関cカンメル裁判所学派

裁判所の常置性を促し、多くの法廷を通じた組織層の形成を可能にするところの、学識的裁判官が独にできるのは、英仏に比べて非常に遅い。

イギリスの法曹学院(Inns of Courts)は実務弁護士を教授に迎え、普通法の法曹大学として、次代の育成に努めた。寄宿制による共同生活を通じて、一般教養・スポーツ・ダンス・社交術までをも含めた人格教育は、強い階級的連帯意識を育んだ。それに対し独では、帝あいつ裁判所の陪審員の私塾的教授などに限られ、いずれにせよ体系的な指導や制度を持たず、大学での教育への依存度を高めた。

帝室裁判所は帝国の中央制度としてはたらく資質をことごとく欠いたこともあって、判例拘束力は生まれなかった。しかし、帝室裁判所は和解法学者の見習所となり、実務の仕事を行う事が多くなった。「パンデクテンの現代的寛容」に関する学問も、帝室裁判所の実務家を中心として形成された。ドイツの帝室裁判所の法形成の原動力は、力や裁判管轄権ではなく、大学との人的交流を通じた連帯の中での傑出した個人の活動や、裁判官の著述活動である。16世紀以来のこの文筆活動は「カンメル法学(jurisprudentia cameralis)」の名の下に権威を獲得した。



2領邦裁判官層

2‐1官僚裁判官


16世紀の諸政策(近代的予算租税制の下での財政制度、傭兵制の下での軍事制度、特に宗教改革以後の宗教政策、重商主義による領邦産業政策)

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので①

参考にではあるけど、Wikipediaとか引用しちゃってますね。正直者だなと思います。笑
誰かの役に立つかもしれないと思ってアップしておきます。


上山安敏『法社会史』 

範囲:第1部第2章、1家産型官僚「雇われ博士」2法律家層の諸特権3学識的後進性と法学植民地(p55‐70)

1節

単語
P55 公証人→ある事実の存在、もしくは契約等の法律行為の適法性等について、公権力を根拠に証明・認証する者のこと(wikipedia)

P56 家産国家→国家を封建君主の私的な世襲財産と見る国家観。19世紀のドイツの貴族・政治学者であるカール・ルートヴィヒ・ハラーの提唱したPatrimonialstaatの訳。

ハラーは著書『国家学の復興』の中において、家産国家の中では国内の一切の関係は君主の私的な関係とみなされ、領土と人民は君主の所有物であり、財産は君主の私的収入で、戦争もまた君主の私的紛争とされる。そのために国家が君主の世襲財産のように扱われ、国家の統治権(支配権)と君主個人の所有権(財産権)との区別が存在しないような状況に置かれていると説いた(国政と家政の未分離)。彼の理論は後にマックス・ウェーバーによって再構成されて「家産制」概念へと発展することになる。(wikipedia)

*家産制→支配階級の長が土地や社会的地位を自らの家産のように扱い、家父長制支配をもって統治する支配形態のこと。支配者は国家の統治権を自らの家計管理の一環として所有権的な行使を行い、その機構は国家の統治機能と家産の管理機能が融合されている。ウェーバーによると、伝統的支配の典型。(wikipedia)

プロクラ-トル→法定代理人

雇傭=雇用


1節の小要約
家産国家である等族国家において、外国で法学を学んだ法律家に対する需要は非常に高かった。公権力からの需要だけでなく、大学の「博士」に対する必要も大きかった。官吏としては契約的雇用形態で、通常は非常勤で奉仕し、複数の諸侯に仕えた。また教授と国家官吏間の移動は容易だった。法律家層の形成初期は、ソサエティを形成せず純粋に私的営業目的であった。



2節

単語
P60 懲憑→1しるし。証拠。2訴訟上、ある事実の存在を間接的に推理させる別の事実。間接事実とも。このような証拠は間接証拠という。(大辞泉)

註釈学派→註釈学派とは、11世紀から13世紀にかけて、古代ローマ法の主要文言に註釈つけて解釈を行った法学者の一派。中心地はボローニャ。そのためまたの名をボローニャ学派とも呼ばれる。同様にその学説はイタリア学風とも呼ばれる。

開祖はイルネリウスで、彼らの研究成果の集大成である『標準註釈』はアックルシウスの手によるものである。スコラ学を背景に『ローマ法大全』を「書かれた理性」として聖書のように絶対・完全無欠なものとみなし、現在の法哲学のベースとなる哲学体系を確立した。(wikipedia)

バルドゥス→バルドゥス・デー・ウバルディス(1327-1400) は、イタリアの法学者。ペールジア大学でバルトールスに師事する。1351年頃からボローニャ大学を始め権威ある著名な大学でローマ法とカノン法を講義する。著作は中世の法学者の中で最も多いと言われる。

P61 お手盛り→〔自分の好きなように食物を器に盛ることから〕地位などを利用して、決定者自身に利益があるように物事を決めること。

ブルクハルト→19世紀のスイスの歴史家、文化史家。『イタリア・ルネサンスの文化』が有名。

ランデスヘル→大諸侯や修道会総長などの大領主。*グーツヘル→騎士層などの小領主

P63 レジスト→教会法学者を「カノ二ステン」(Kanonisten)と呼び、ローマ法学者を「レギステン」(Legisten、フランス語読みではレジスト)と呼ぶようになった。(wapedia「教会法」)

2節の小要約
独において、法律学は中世的知識権威を伝承し、支配の道具としての学問であった。貴族社会への昇格手段となったように、営利以上に身分と連結していた。権力との政治的結合から爵位のみならず様々な特権を獲得するようになった。政治構造には等族制が深く残っていた独では、17世紀には法律家層は政治的特権階層として、法律家が貴族支配をとった。


3節

単語
逗留→1旅先などに一定期間とどまること。滞在。2その場にとどまって進まないこと。また、一か所でぐずぐずすること。3その場にとどまる時間。ひま。

3節小要約
独は文化的には後進的という劣等感を抱いていた。外国法崇拝の思想が強く、伊仏の大学卒業が高級官吏への必要条件だった。留学への要請は流行するあまり、名目的となった。英仏は自国法への矜持があるのに対し、独はコンプレックスを抱いていた。欧州全体として、大学で自国法はなかなか顧みられなかった。しかし英仏では自国法を学問化する機関が他にあったのに対し、独は教授も法律家もローマ法に専心していた。


要約
外国で法学を学んだ法律家に対すて様々に需要は非常に高かった。官吏の雇用形態は契約で、また教授と国家官吏間の移動は容易だった。法学は私的営業目的であった。一方で独では、法律学は中世的知識権威を伝承したものとみなされ、支配の道具であったため、営利以上に身分と連結していた。政治構造には等族制が深く残っていたため、17世紀には法律家層は政治的特権階層として、法律家が貴族支配をとった。独は文化の後進性という劣等感からか、外国法崇拝の思想が強く、伊仏の大学卒業が高級官吏への必要条件だった。留学への要請は流行するあまり、名目的となった。欧州全体として、大学で自国法はなかなか顧みられなかったものの、英仏では自国法を学問化する機関が他にあったのに対し、独は教授も法律家もローマ法に専心していた。



論点・疑問点


・外国への崇拝・劣等感は、日本にも言えるのではないか。共通点と相違点。現在はどうか。

・独で、宮廷外官吏が複数の諸侯に仕えたというのは、中世騎士の契約的な主従関係の影響があるのか。

・身分の風穴という役割が、聖職者が法律家に置き換わるという理解でよいのか。江戸時代の側用人もそんな側面があったのか、も。

2015年6月20日土曜日

宅急便の人も、家では不在票とか入れられてるのか問題

自動運転トラック公道へ。沿道の商売はどうなるんやろ : ギズモード・ジャパン http://www.gizmodo.jp/2015/05/post_17184.html @gizmodojapanさんから

今回の話題はこの記事です。またまたFBからの転載。
最近読んだ、円城塔の「リスを実装する」の印象的なシーンとして、清掃機械の自動化と物流の自動化がありました。それに関連した話題です。

この記事が冷静なのは、ある種の産業の崩壊――というより風景の崩壊まで、その見通しの中に位置づけていることかと思います。
いずれにせよ、物流は私たちのインフラ(不可視の制度)と呼ぶべきものですし、それなしには成り立たないような生活をしている。

この間、クロネコの人もAmazon注文したら、不在票とか入れられてるんやろうかとか話してた。どうなんでしょうか。物流業界の人も当然、私生活があるわけですから、日中は忙しい関係から、アマゾンなどを利用していたりするのかもしれません。
このニュース、色々考えてしまいます。

コンビニにせよ、自販機にせよ、ネットショッピングにせよ、自分たちの「便利」の感覚のいくらかは、物流に支えられていると思う。
いまある高度な物流は一個の革命ではあるけれど、大変な労働環境抜きには考えられないものでもある(そんな宅急便は下に挙げる本が面白いですよ)。


自動化の動きは、消費社会のインフラにも迫っているというニュースでした。それは同時にインフラを支える仕事の減少をも意味するわけですが。
いいニュースなのか悪いニュースなのか。

【参考】
・鷲巣力『宅配便130年戦争』
http://www.amazon.co.jp/…/B00ASUXZW2/ref=cm_sw_r_tw_awdl_Vx…
・高齢者採用を強化=人手不足に対応-コンビニ大手 http://t.co/50XkbUSjGx
これも消費社会の闇って感じですよね。。
・円城塔「リスを実装する」http://www.amazon.co.jp/dp/B00WGS4L18/ref=cm_sw_r_tw_dp_ZCqHvb0J6Y9CE

2015年5月27日水曜日

C.ブロンテ『ジェイン・エア』――「困難の克服」という問題

 イギリスが誇るシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を読みました。ヴィクトリア朝の小説にも関わらず、階級的な要素を割り引けば、それほどヴィクトリア朝的にも見えないのが不思議でした。当たり前に感じているからこそ描写しないものは多いのだろう、あるいは描写の作法が現代とはかなりかけ離れているのだろう――と思いながら読みました。

 さきほど酒見賢一の『後宮小説』と比較するブログを書いたので、そのままの勢いでこちらもブログ記事にしておきます。

 全体的な感想として、『ジェイン・エア』は今でも違和感なく読めるものでした。ただ、多少長いので読書慣れしない人は退屈するかもしれません。
ジェインの誠実たろうとする態度は、そのまっすぐさは『獣の奏者』を思い出させた。が、実際のところ、誠実さはキリスト教の育む卓越性の筆頭に他ならない。特定の宗教的文脈抜きには読めず、そして特定の階級的現実抜きにも読めない。

 <上巻でジェインは様々な危機に直面するが、この克服に着目すると面白い。彼女はそのほとんどを偶然によって、しかも外からやってくる偶然によって克服している。いずれもが、瑕疵なき幸福な克服とはいえない。上巻は、ゲイツヘッドにせよ学校にせよ、大切な友人との別れを伴っていた。
このことの意味は考えるに足る。>

 上巻の感想をこうメモしたが、下巻もこの仕方の危機の克服に溢れていた。
 遺産の受領は言うまでもなく(遺産の持ち主である)叔父の喪失を伴い、意中の人との結婚はソーンフィールド火災を通じて、邸宅、視力、夫人を喪失したことと不即不離である。
 偶然による危機の克服。人は努力や意志というよりも、天の配剤によって助けられる。『ジェイン・エア』において、困難を克服するためのきっかけは、徹底して「外から」やってくる。ジェインも全く努力しないというわけではない。絵を描くことや勉学の努力は惜しまなかったようだし、人間として立派であるために常に取り計らっている。しかし、そうした日常的な努力と、困難の克服は因果関係において結びついていない。単に、ジェインは助かる。誰かに助けられるのでもなく、ジェインの努力によって報われるのでもなく、単に助かるのだ。もちろん、日常的な努力すらないならば、そうした「偶然」すら彼女のもとに訪れなかっただろうが。
 それは悪く言えばご都合主義ということかもしれない。しかし、文学史上に残る作品をそう切って捨てるほどもったいないことはない。

 ジェインは単に助かる。しかし、「素直に助かる」というわけではない。ジェインが、外からやってくる偶然に助けられて困難を克服するとき、彼女は必ず何かを喪失している。精神的にもぼろぼろになる。しかし、彼女を取り巻く条件だけは、彼女が前進するための準備を整えてしまう。作中には偶然があふれているが、ひとつとしてそれを「幸運」と呼ぶことはできないと私は思う。

 『ジェイン・エア』という物語を通じて私の頭から離れなかったのはこのことだ。
 人は困難を克服する。ただし、自分の努力とは無関係の偶然によって。
 人はいつしか前に進む。ただし、喪失抜きには前進できない。

 これは、かえって「この現実」みたいじゃないでしょうか。私はそう思いました。

『後宮小説』と『ジェイン・エア』――二つの「適当な」主体

久しぶりに真面目に何か書いてみる。
読書会で『後宮小説』をとりあげたものの、参加人数が少ないこともあり、結局雑談をして帰ったので、少なくともちゃんと言語化くらいはしておこうと思った。

 酒見賢一の『後宮小説』は、日本ファンタジーノベル大賞の第一回受賞作にあたる。ファンタジーノベル大賞は、佐藤亜紀、森見登美彦など押しも押されぬ作家を何人か排出した登竜門で、今はもうなくなった文学賞。(個人的な印象としては、森見登美彦のように明らかに名前の残った作家と、受賞作しか出さない作家とに二極化している気がする。)

 『後宮小説』は、後宮――まぁ、日本で言う大奥みたいなもの――を舞台にしておきながら、「雲のように風のように」というタイトルで(子供向けに?)アニメ化されていたりもするらしい。同世代にはアニメを見ている人もいたけれど、自分はタイトルすら初耳だった。
 ちなみに、アマゾンの商品紹介はこんな感じ。
時は槐暦元年、腹上死した先帝の後を継いで素乾国の帝王となった槐宗の後宮に田舎娘の銀河が入宮することにあいなった。物おじしないこの銀河、女大学での奇抜な講義を修めるや、みごと正妃の座を射止めた。ところが折り悪しく、反乱軍の蜂起が勃発し、銀河は後宮軍隊を組織して反乱軍に立ち向かうはめに……。さて、銀河の運命やいかに。
『後宮小説』を一言で言えば、貧しい女の子の成り上がりの物語だ。大抵、成り上がること(経済的成長)と「成長」(人間的成長)はリンクしている。支倉凍砂の『ワールド・エンド・エコノミカ』は、そのわかりやすい例だと思う。しかしながら、『後宮小説』はビルドゥングスロマンではない。主人公は、一見成長しているようで全く成長していない。

 主人公の銀河は、好奇心の虫というべき存在だ。「後宮ってなに?」と父親に聞いたりするし、後宮に入れば、それは何かと世話役や同輩、先生に聞いたりする。そのようなシーンは散見される。階級は銀河にとって問題にならない。知りたいことを知る、気になることを知ることが彼女の行動原理だった。実のところ、それ以上でもそれ以下でもない。
 貧民出身の子が後宮に入って立身出世……というと、純朴な少女が衝突しながらも、高慢ちきな貴族出身の他の同輩や宮廷の人々の心を溶かしていく――という物語を想像しそうになるが、決してそのような物語ではない。最初から最後まで銀河は変わらない。彼女は単に行動する。好奇心に従って行動する。そのような彼女に、単に周囲の人間が心動かされたり、動かされなかったりするだけだ(登場人物には、心動かされない種類の人間もかなり多い)。


 酒見賢一の『後宮小説』を読んだとき、私は英国ロマン主義小説の『ジェイン・エア』を思い出した。ジェインという名前はありふれている。ありふれた少女が立身出世を遂げる物語として、提出されているのだと思う。しかし、このジェイン・エアも何かパーソナリティに変化があるかというと、終生にわたって変わらない。冒頭の子供時代から、彼女は一切変わらない。それは銀河も同じなのだが、「まっすぐ」であること、筋の通った人間であることを連想とさせる。ポジティブに言い換えてみせれば、そうなのだろう。ジェイン・エアは様々な困難に直面するし、様々に環境を変える。しかし、彼女は変わらない。そんな「素直な」彼女に、周囲の人々は、心動かされたり、動かされなかったりする。

 ハードボイルド……というわけではないのが面白い。彼女は悲嘆もするし、やけっぱちになったりもする(銀河はしなかったかもしれない。文体の都合上、感情の劇的な表出は描きにくいだろうし)。ハードボイルド小説は、困難や感情の揺れに際しての「強がり」と、職業における「プロ意識」によって特徴付けられているように思う。もちろん、二つの小説にはそんな要素はない。彼女たちは主体としてはどちらかというと、「適当」に思える。
 ジェイン・エアはかなりその場の雰囲気で思い切った行動をとっている。直ぐに決断して育ちの家を出たり、なんとなく決断して適当な家で住み込みの家庭教師を始めたり、思い切って突然の家出を遂げたり、不意にもとの鞘に収まろうとしたり。結構行き当たりばったりで、何かの行動原理に支えられているようにも見えない。彼女は単に、遠くにある心がドキドキする「何か」を求めてそぞろ歩きしている。
 実のところ、この点、銀河はジェイン・エアと異なっている。ジェインは典型的にロマン主義的な主体と言えるのに対して、好奇心が形象化した存在である銀河は目の前にある対象に常に興味を持つ。自分の周囲にあるものに、銀河は好奇心を払う。「ここではないどこか遠くにある何か」にドキドキするというよりも、具体的な現実に銀河は疑問を持ち、興味を持ち、そして行動する。


 時間フレームがどんどん短くなっていく現代社会では、ロマン主義的に「ここではないどこか遠く」にあこがれて、子どものように心をドキドキさせて続けることは非常に困難に思える。そのような時間的・精神的・金銭的余裕は、誰にも許されるわけではない。
 時間フレームがどんどん短くなっていく現代社会では、一貫した自己像を築くことが非常に困難になっているとつとに指摘される。もはや自己という物語を紡ぐことは極めて難しい。

 前者ならば、ジェインはそのヒントを与えるかもしれない(いや、無理な気はするが、励ましくらいはもらえるだろう)。

 後者ならば、銀河の「人生の物語」として仕立てあげられた『後宮小説』は、非常に重要な足がかりになるかもしれない。
 目の前の具体的な現実に注意を払い続ける銀河。単にあちこち見まわるだけでは、注意散漫だろうが、物語の終盤で、自らの哲学を披露している後年の銀河の姿が語られる。経験はばらばらで別々に存在しない。好奇心に従って、自分の近くにある具体的な現実に注意を払う。そのような経験の反復のなかで、のちの経験がそれ以前の経験に左右されていく。そしてその経験が、その後の経験に影響を与える……。こういう営みの連鎖として、銀河の人生を捉えることができる。(伝わってますかね。とりあえず、書き上げることを目的にしているので、文章表現は不適切なものが多いかもしれません。)
 アニメのタイトルは多少示唆的かもしれません。今の雲の形は、ついさっきの雲の形抜きには想定できないでしょう。今の雲の形は、次の雲の形がどうなるかということに大きな影響を持つでしょう。……うまく言えないですけど、まぁそんな感じで。

 とまぁ、そんな感じで、ジェインと銀河――二人の違う、主体の「適当さ」は、興味深いなぁなどと最近思ったりしたのでした。

2015年4月15日水曜日

Mini Metroというゲームが、かわいくておもしろい

Mini Metroというゲームにハマっていました。
http://dinopoloclub.com/minimetro/
全体的にきれいなデザインで、かわいいです。



太字の記号が「駅」で、黒塗りの記号が人(行きたい駅を示す)、カラフルなラインが路線です。
不満が募って破綻しないよう、駅と駅とを「あーでもないこーでもない」と繋ぎ、路線を作っては繋ぎ直すだけのゲームです。
駅が予期せぬ所にぽこぽこ出てくるので、なかなかやり甲斐があります(雨後の竹の子といった感じです)。
きれいな路線図を作るもよし、とにかく「輸送」に徹するもよし、プレイスタイルも地味に十人十色だろうなと思います。


unityをインストールしてさえいれば遊べます。有料版も出ているようで、Steamで買えるそうです。
いつも不思議なゲームを不思議に実況している「ポリエチレンベンゼン」さんのMini Metroシリーズを見て、気づけば2時間くらいやっていました。
なかなかどうして面白い


【参考】
ポリエチレンベンゼンさんのゆっくり実況プレイ「Mini Metro 車両点検所」

地下鉄のラインをつなげて乗客をスムーズに乗降させるゲーム「Mini Metro」 - GIGAZINE

地下鉄線路をデザインするゲーム「Mini Metro」

ミニ地下鉄シミュレーション Mini Metro - フラシュ - 無料フラッシュゲーム 

「戦争の不安について - 村上さんのところ」がちょっとおもしろかった。

 最近、イラク戦争、アフガニスタンでの戦争のことを思い返すことが多い。当時、「マッチョな怒号でかき消される」声のことを思いながら、森達也ばかり読んでいた覚えがあります。引用するような「怒号」とは種類が違うにしろ、去年末からのIS人質事件のように、荒唐無稽で直情的なアイデアが主流になることはこの社会によくあることだな、とは思います。
 ちょうど昨日、森達也の話をしたこともあるのですが、感情や直感の瞬発力とは別のところでじっくりと考える人でありたいと思います。大衆のひとりでしかないからこそ、できるだけ簡単に頭を他人に預けない努力をしたいとは思う。まぁ、そんな感じで、この村上春樹の回答を面白く読んだよーという話でした。
 なんていうか、戦争って、1945年以前の話じゃなくて、ほんの10年前にすら、嫌というほどみた景色だという事実を、改めて確認してもいいのかな、と。

≪僕がアメリカに住んでいるとき、ちょうどアメリカはいくつかの戦争に巻き込まれていました。湾岸戦争、アフガニスタンでの戦争、イラク戦争。そういうのを間近に見ていて思ったのは、いったん戦争に巻き込まれると、人はみんな多かれ少なかれ頭がおかしくなるんだ、ということでした。普段ならわかるはずのことが、わからなくなってしまう。
 とくにイラク戦争のときはひどかった。フランス政府はアメリカ軍の根拠不十分で一方的なイラク侵攻に疑義を呈したんだけど(ごく当然な疑義でした。実際に根拠はなかったのだから)、そのときのアメリカに蔓延した反仏感情はほとんど理不尽なものでした。一流新聞までもが「我々は第二次大戦でフランスをドイツ軍から解放しなければよかったんだ」みたいな下品きわまりない記事を載せました。普段のアメリカからすれば、ちょっとあり得ない暴言です。
 でもそんなことが実際に起こってしまう。「ちょっと待てよ。そこまでやるのはまずいよ」というまっとうな声が、マッチョな怒号の中にかき消されてしまいます。≫

ドラマ「Utopia―ユートピア―」

イギリスドラマのユートピアのワンクール目みていた。huluで配信していたこともあって、なんとなく。

東欧アニメ的なゾッとするタッチの絵でかかれた、謎の漫画を巡って展開するストーリー。カルト的な人気を持っている、その『ユートピア』の、存在しないはずの続編を読みたがった人たちが非日常的な陰謀に巻き込まれていく。
……みたいな話ですね。


(もっといいあらすじ紹介があったので引用します→引用元
イギリスのドラマ、UTOPIA-ユートピア-がHuluで配信開始してたので見てみたんだけど面白かった。すげー先が気になってしまうつくりになっています。カルト的人気漫画の「The Utopia Experiment」の続編を手にいれた若者が「The Network」っていう闇の組織に追われ追い込まれていくんですが、その漫画の存在を知る人物たちが次々その事件に巻き込まれていって、なぜ自分たちが追跡され苦しめられるのか分からずにいるところ、「The Utopia Experiment」の作者の娘である女性が目の前に現れた所で第1話が終わります。
(Wikipediaもまだ日本語はないようです。欧米系の言語と韓国語はありました。参考までに挙げておきます。


色彩が料理みたいに露骨に際立っていて不思議な画面。ずっとそういう画面で物語が進んでいくので、なんとなしに「ノッていく」感じはある。(実際は、もっとわかりやすくコントラストがあるのだけど、例として拾った画像を貼っておきますね↓)




普通の人が巻き込まれる、のかと思ったけど普通の人、むしろ少なかった。「普通の人が巻き込まれる」ということは、リアリティの調達手法として、今回はそれほど効果を持っていないと思う。

設定や筋自体は目立ったものはないけど、子供二人を主役格に取り込んだのは面白かった。捏造によって世界が敵に回る、味方が敵になり、誰を信じていいのかわからない……というポジションに、男でも女でもなく、母子家庭のグレた子供を置いて、救いの手を差し出す役を好奇心の強い別の子供にしたのがよかった。この一点だけでも見る甲斐はあるのかもしれない。

それ以外は「こいつ実はスパイ」「いや、スパイのスパイ」「こいつ実は味方」「味方と思ったけど心揺れて敵にまわりそうになる」……式のサプライズだけで物語がすすむので、視聴経験と切り離して物語を見れば、単調といや単調。見せ方とか見せる順番がうまいのかな。

アンダーザドームみたいにそれっぽい謎や要素、エピソードを適当にポンポン放り込んで、全然互いに絡み合わない……というのは最悪だけど、ユートピアはうまく話が全体で明かされるせいで、話に特別な印象はない。見通した印象より第一話の感じの方が強い気がする。

デイヴィッド・フィンチャーがアメリカ版として、リメイクすることになっているとかいうドラマについてのざっくりした感想でした。

2015年3月16日月曜日

金城孝祐『教授と少女と錬金術師』

 

【第37回すばる文学賞受賞作!】薬学部の学生・久野は、育毛と油脂の関連を研究する江藤教授に助手を任命され、かつての教え子である永田は乾性油によって人を魅了する光り輝く艶を頭部に作り出すことができた。久野は、永田の勤め先の塾で不思議な力を持つ女子中学生の荻と出会う……。常軌を逸したエネルギーで全選考委員を圧倒し困惑させた、すばる文学賞史上、最大の問題作。「毛」をめぐり、不思議な力を持つ少女と錬金術師が暗躍する、髪と神の支離滅裂で命がけの戦いがはじまる。

ということで、金城孝祐さんの『教授と少女と錬金術師』を読んだ。(Kindleもある)

話の筋に目立ったものはないのだけれど、不思議と読ませる細部を持っている。ぶっちゃけラノベ的などたばた・コミカルさな状況設定に、おっさん臭さを追加して、化学的な語彙を加味した感じ。
しかし、この全体的なグロテスクさと、時々顔を見せる笑ってしまうような極端な状況、主人公の謎の順応性を前にすると、アニメ・マンガ・ラノベの類に非ラノベ読者が感じているであろう「胡散臭さ」みたいなものが逆照射されて、なんかこう身につまされる?ところがある。

……と好意的に受け取ったのだけど、筆者のブログをさくさく見てみるとニコ動の紹介サイトと化していたので、《逆》照射とは言えず、単に自己照射していただけなのかもしれない。

とりあえず、冒頭すぐに「LOVE&JOY」を歌いながら風呂にはいるバー店員(女性)が出てくるので、読めばいい。
いいから、騙されろ。


まともに感想を言うことのできない本にもかかわらず、朝日の書評がかなり頑張っている感じがしたのでリンクを貼ります。
書評:教授と少女と錬金術師 [著]金城孝祐 - 内澤旬子(文筆家・イラストレーター)
こんなにまじめに感想を書いたら負けな気がする。


この人は受賞後、小説を書くことができないでいるそうだが、この小説で書いたラノベ的破天荒さを再度用いるだけでは井戸を枯らしてしまうだけなので、その井戸を前にして腕組みしているところなのだと思う。
悩みの余り毛が抜けないか心配だったが、著者近影を見たところふさふさなので余計なお世話だったようだ。

あと若干Amazonの表紙画像は若干詐欺的な要素が入っている。届いて思わず毛げんな顔をしてしまった。

2015年3月11日水曜日

3.11

大学院生なので、いっちょ「教養ある読書」をしようかと最近は、ちくま日本文学全集(文庫・現代仮名遣い!)とか読んだりしている一方で、まぁ大江健三郎くらい読んどくか――と岩波文庫の『大江健三郎自選短編』を開いています。
(ちなみに、最近買った小説は、我らが先輩・森田季節の『ストレンジガールは手のひらで踊る』で、最近読んだ本は吉田秋生の『BANANA FISH』と辻村深月の『冷たい校舎の時は止まる』です)

というところで、大江健三郎が震災の節目に行った会見要旨があったので貼っておきます。
http://blogos.com/article/107525/
原発をどうにするにしろ(推進するにせよ、順次廃絶していくにせよ)、原子力に対する興味は失わずにおきたいところです。どっちに転んでも、原子力に関する知識は必要で、ますます技術を磨かねばならないことは確かですから。
辻村深月の小説がそうであるように、一つの胸を抉る出来事は、恐らく一生収束することがない。
http://www.asahi.com/articles/ASH2Q7QW4H2QUGTB00M.html


***

震災直後、最も心打たれた文章は作家・冲方丁さんの「3・11後のSF的想像力 10万年後のSF」でした。被災当時の状況、避難の経緯、避難先での思いなど綴る中で、ひたすらにほとばしっているのは、「怒り」でした。具体的な誰かに対するものではない「怒り」。
「怒り」を持続させることほど難しいことはありません。
辻村深月の小説がそうであるように、人は忘れたがるようです。出来事は簡単に収束しないにもかかわらず。(まぁ、自分もそうなわけですが)

……と、辻村深月の話になってしまいました。

件のエッセイの雰囲気が伝わるインタビュー↓
「こんなんで原稿を書けなくなるのかと思うと許せなかった」作家/被災者 冲方丁<インタビュー「3.11」第10回>http://getnews.jp/archives/174349

2015年3月3日火曜日

【消費社会論勉強会】ゾンビみたいにショッピングモールを散策するオフ【番外編】

最近、消費社会論勉強会というのを、出町柳はイベントスペースのGACCOHで催しています。
いつも議論だけでなく、雑談も捗るといいますか、結構盛り上がっているのです。
その消費社会論勉強会、次回は第五回で、日付は3月28日。→[TwiPla] 【3/28】消費社会論勉強会第5回@GACCOH 
毎回テーマを設けて本を読んでいます(未読の方でも参加いただけます)。今回は「食」です(詳細はリンクへどうぞ)。


その約一週間前に、ショッピングモールをまわりながらショッピングモールについての本を読む企画を考えています。(こちらの日付は3月22日。お昼は13時からの予定です。)
東浩紀『思想地図β1』、東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える』、速水健朗『都市と消費とディズニーの夢』、谷口功一『ショッピングモールの法哲学』辺りを参考文献として、実際に歩いてみよう!というものです。
基本的には、ゾンビのようにだらだらと歩いて、だらだらと益体のない話をするという回になるかと。

場所は京阪沿線のイオンモール桂川(ちかいですからね)。
(ぶっちゃけ中身は今のところ未定です。もしかしたら、レジュメ作るかもしれません)


興味がある方はコメントにその旨を書くか、ツイッターにリプライしてください。
このフラヌールとは別に、ショッピングモールをテーマにして勉強会もしたいなとは思うんですけどね。


以上、告知でした。

追記(3/13)です。
東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える』のレジュメを作ったので当日持っていきます。


2015年2月7日土曜日

矢野和男『データの見えざる手』を読んだ。



話題の『データの見えざる手』を読みました。ビジネスパーソンとしては、目新しい話なのかもしれませんが、ハヤカワ・ノンフィクションを読んでたり、ネットワーク理論とか情報社会論の辺りを追いかけている人にとっては目新しい話はありません。

(内容紹介)
人間行動の法則性が、ここまで明らかになった!
日立製作所中央研究所で2006年に開発されたウエアラブルセンサ「ビジネス顕微鏡」による人間行動の研究が、いま、人間・組織・社会の理解を根本から変えようとしている。
著者自身を含め、これまでのべ100万人日以上の行動を計測、その身体活動、位置情報、センサを付けている人どうしの面会などを記録した「ヒューマンビッグデータ」が、人間や社会に普遍的に見られる「法則」や「方程式」を次々と明らかにしているのである。
そのデータから明らかになる「法則」とはいかなるものか。
法則の理解は、私たちの生活や社会をどのように変えるのか。
世界を変えつつある新たなサイエンスの登場を、世界の第一人者が自ら綴る! 
ウェアラブルセンサーを身につけて様々なものをデータ化し、その見えざる秩序を明らかにしようという話です。
コールセンターの例では、頻繁に動きが見られる人、昼休みによく話す人とかが、業績もいい(相関がある)という話があったり、上司と部下の繋がりが緊密なだけでなくて、部下同士もつながり合っている方がいい(関係の三角形が多い方がいい)みたいな話があったり……。
社会学者の鈴木謙介さんが、「社会学でいえば、組織論で言われてたことと変わらない」と言っていましたが、「新事実!」と謳われているものの、目新しさはそれほど感じられないと思います。

人間を個人として見るのでなく群れとして見たり、個人の個別の決断や行為に焦点を当てるのでなく、決断や行為の束として見たりすることで、一定の秩序――本文の表現で言えば、U分布――を見ることができるというものでした。

本文では、心理学、渋沢栄一、ドラッガー、白川静、孔子……などと、ビジネスパーソンの教養あふれる記述なわけですが、社会科学への興味は薄そうです。
「べき乗分布」とか「スケールフリーネットワーク」として知られてきたことを、ビジネスという分野に絞って、独自のデータに基づき提示した――と要約できる内容でした。

注意すべきは、自然法則との類比関係が適当なことと、安易な一般化、そして、原因と結果の混同です。
どれだけ「自由」に行動したと思っても、あたかも社会的法則に準ずるかのように、べき乗分布に従って行動してしまう。この話は、(特殊な装備もなく)人間が手を羽ばたかせて空をとぶことができないというような、自然法則がイメージさせるような可能/不可能とは異なっているということです。
『データの見えざる手』の筆者は、筆が滑ったのか、「意志によって、べき乗分布を出ることが「できない」と述べています。翌日の事も考えず、個人の腕についたウェアラブルセンサーを、一日中激しく振動させ続けるとかすれば、その日一日は秩序からはみ出ることは可能でしょう(その行為になんの意味もないでしょうが)。要するに、その実験において、べき乗分布から出ること自体を目的として常に個人が行動すれば、短期的には出ることは可能だろうということです。自然法則からの類推があまりに無批判的かつ粗雑なので気になった、というだけのことなのですが。

安易な一般化についてはそのままなので置いておくとして、最後の点について補足すると、先に出したコールセンターの例で言えば、名札を振動させた「ならば」、売上がよくなる――という話にはならない、ということです。

かなり読み飛ばしたので、誤解もあるかもしれませんが、以上三点は注意すべきだろうと思いました。

いずれにせよ、べき乗分布的な議論、統計学の新しい議論で言われていることを、ビジネスや企業において応用した結果、かなり組織論的な教訓に溢れた本になっているかと思います。




個人的には、この種の議論を聞くとき、無印『思想地図 vol.2』を思い出します。
この本には、「ソシオフィジックスは可能か」と題された座談会があります。(東浩紀、北田暁大、西田亮介、濱野智史)
今読み返しても、かなり面白かったです。特に305頁の西田亮介さんの発言、「主体と環境の両方に注目する必要がある」という一連の発言。この観点からデューイを振り返りたくなりました。


社会的な事実、人工物を、一種の自然物として扱うような知を「社会物理学」、「ソシオフィジックス」と名づけています。
19世紀の社会学・統計学には、「正規分布」的なモデルを基に、「自然物として社会を見る」試みがあった。今、21世紀において、私たちは「べき乗分布」という多様性を抱え込むようなモデルを基に、「自然物として社会を見る」試みを回帰させることができる。そのためのツールを持っている、と。
特に興味深いのは、「生権力」との関連です。(詳細は読んでください)

『データの見えざる手』よりも、ここで議論されている事のほうが射程が広く、そして示唆に富むように思います。

あまりうまく説明できないので、本書において「ソシオフィジックスを知るためのブックガイド」で挙げられている本を列挙することにします(説明は省略します。買って読んで)。

1,『CODE VERSION 2.0』  ローレンス・レッシグ(本文で挙げられているのは、2.0ではありませんが)
2,『伽藍とバザール』   E.S.Raymond
3,『市場を創る―バザールからネット取引まで』 (叢書“制度を考える”)   ジョン・マクミラン
4,『紛争の戦略―ゲーム理論のエッセンス』(ポリティカル・サイエンス・クラシックス 4)   トーマス・シェリング
5,『クリエイティブ・クラスの世紀』リチャード・フロリダ(Kindleあり)
6,『哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造』(叢書「世界認識の最前線」)   ロバート・D. パットナム 
7,『フューチャー・オブ・ワーク』(Harvard business school press)  トマス・マローン
10,『新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く』 アルバート・ラズロ・バラバシ

どれも少し前の本ですが――というのも、座談会自体2008年なので――どれも古びてはいません。というか、この「ソシオフィジックス」に関して、何か方法論上、革新的な変化があったかというと、そういうわけでもないからでしょうね。

2015年1月22日木曜日

中沢新一『日本の大転換』読書メモ

今更ながら、『日本の大転換』(集英社新書)を読んだ。Kindleが500円台と安いので買いだと思う。
期待のハードルをかなり下げていたせいか、結構面白く読んだ。
ハードルを下げた理由は、「これはすごくいい本だし、すごくよくわかるが、過去から中沢新一を読んだりしている人からすれば、いかにも言いそうなことで、予測できてしまう」と誰かが言っていたこと。
読後としても、中沢新一の体系に、新しい何かが付け加えられたという感じはしなかった。それ自体はいいことでも悪いことでもないのだろうけど、中沢新一ほどの人なら、もっと何かやってくれるんじゃないのかと期待してしまうのかもしれない。

中沢新一は東北をテーマに、昔本を書いていたので、そのアップデートをするのもいいんじゃないかと思ったりはするのだけど。(『日本の大転換』か『哲学の東北』かどちらかを選ばねばならないとしたら、迷わず私は後者を選ぶ)


 
デューイを研究する身としては、人の行動を左右する思想を作り上げ、また自らも行動するような人間――思想家、と呼ぶ他ない――を、評価したいと思う。
その意味でいえば、愛知万博もそうだし、グリーン・アクティブを作ると明言し、実際作ったのもえらいと思う(それがどの程度の効力を持ったかは置くとしても)。単なるあやしいおじさん哲学者の枠に収まるような人ではないのは確かなんだろうなぁ

……と感想にもならない感想を。
(普通の新書の半分から3分の2程度のページ数なので、さくっと読むべし)

2015年1月13日火曜日

アルドノアゼロ感想(13話一気見の際の実況まとめ)

あからさまなキノコ雲でした。


エンディング曲がその回の雰囲気に合わせて変わるのは、とてもいい演出でした。

「ハハッ」は、御意的な意味の「ハハッ」です。ミッキーではない。このときの自分のコメントは、今思うとザルツブルム卿の問題意識そのまんまなんですよねぇ。封建主義化したのかよ!というツッコミだったので。

ある方の実況で聞き惚れて購入したんですよね→これです。

スレインのことです。行動力はあるけど、思想もなければ従順さもない。のちに述べるように、アルドノアゼロのキャラクターに共通する「状況に対する理解のよさ」もない。唯一、状況に駄々をこねている人なんですよね。彼の行動原理は、姫への思慕だけであり、実際の行動を誘発するのは状況への理解というより、単なる感情的爆発。
彼の立ち位置からして、1期のラストは不思議でもないのかもしれません。

「帝国」への挑戦、という意味で。

だいたいこいつのせい。


行動早い、というのはスレイン拷問の最中で、なんとか卿が姫暗殺に気づく可能性を直観して、ザルツブルム卿が襲撃したことですね。悪役はやっぱり準備と行動の早さが基本ですよね。






二重の抵抗の物語、というのはこのことです。


複層的な戦争=二重の抵抗の物語。


そういえば、スレインというと『ロードス島戦記』ですよね。あちらは、設定的には思慮深さが人間になったような存在なのですが。真逆ですね。どっちかというと、初期のパーンをダメにした感じです。

2015年1月1日木曜日

2014年の活動まとめ

例年なんとなく書くようにしています。
2012年はこちら。2013年はこちら

今年は目立った活動をしていません。なので、地味です。

同人誌

「ことばの冠」(表紙)
・短歌誌「言葉の冠」

詳細はこちら
こさきのまつりさん(短歌)、植松あおばさん(絵・デザイン)と一緒に作りました。
10首ずつの連作と、対になる歌を詠んで一枚絵を配した作品です。
恋人が別々のタイミングでブースに来て、それぞれ購入していたのを、合流してから気付いて微笑み合う……なんていうエピソードが頒布時にありました。

初めて作った短歌本です。
表紙絵の「冠」には、短歌が埋め込まれています。
在庫も少しだけあります。(ちなみに、『カラフルパッチワーク』も数部だけなら在庫があります)


・短歌と絵の栞(23種類)

定期的にやっていきたいシリーズ。かなり好評でした。
お菓子をテーマにした短歌シリーズや、十二星座をテーマにしたシリーズなどです。

サンプルには載っていませんが、ルマンドを題材にした通称「ルマンドちゃん」の栞は人気でした。

こちらも植松あおばさんと一緒に作りました。
詳しくは、こちらなどを参照してください。



勉強会・読書会関連

・GACCOH小説読書会

過去に読んだ本はこちらでご覧頂けます。詳細もそのリンクからどうぞ。
扱ったもののうちで、今年印象に残った本は、ストルガツキーの『ストーカー』(ストーカー対策のストーカーではありません)、神林長平の『ぼくらは都市を愛していた』(文庫化されるそうですよ)、それから六冬和生の『みずは無間』です。

実験的にシリーズものをとりあげて、西尾維新「物語シリーズ」をやったりもしました。
これからは、面白い試みの世界文学全集が河出書房新社、それから集英社からも出るらしいので、そういうのも扱えたらいいなと思っています。

次回は、1月10日、ミシェル・ウェルベック『素粒子』(ちくま文庫)です。詳細はこちらなどで。


・消費社会論勉強会

古い友人との思いつきで始まりました。三回に渡って催し、それぞれ三冊ずつ本を読みました。各回でちょっとしたテーマを用意しておくことで、考察を深めることにしています。
第一回目では、理論的な本をとりあげました。この日は嵐でした。(京阪水没)
第二回目は、日本の消費社会論。この日の数日前まで嵐でした。そして、動ポモ論争があったのもこの日です。
三回目は、デパート・商店街・ショッピングモール。まったりとしながらも、深い会話が繰り広げられました。結局八時くらいまで話し込んだような。
詳細についてはこちらをご覧ください。

次回は2月21日です。課題本は次の三冊。テーマは「東京」です。
森川嘉一郎『趣都の誕生――萌える都市アキハバラ』北田暁大『増補 広告都市・東京』吉見俊哉『都市のドラマツルギー』
読んでこなくても構いませんが、少なくとも一冊でも読んでくるとより深く理解でき、会話にも参加しやすいかなと思います。

それから番外編として、京都は桂川のイオンモール散策なんぞもするかもしれません。


関西クラスタ関連


・文化系トークラジオ Life&まちライブラリー共催トークイベント

「別のしかたで弱いつながりを読み、ウェブ社会のゆくえを考える」
このイベントの一部はLIFEでポッドキャスト配信されています。


・福嶋亮大『復興文化論』読書会
詳細はこちら
サントリー学芸賞を受賞したこの本。著者の福嶋亮大さんを招いて読書会を開催しました。
章ごとにちまちま要約しながら、質問したり、裏話や解説を聞いたりしました。今でもはっきり覚えています。とても影響を受けました。

・福嶋亮大×張彧暋「香港デモ ーその可能性の中心ー」
詳細はこちら
こちらも福嶋亮大さん。福嶋さんの的確なまとめとツッコミが刺激的だったのと、張さんのオタクっぷりとチャーミングさに惹かれました。

・『日本恋愛思想史』(中公新書)読書会+クリスマスパーティー
詳細はこちら
こちらは、恋愛の話題で盛り上がったものの、あまり本の話をしなかった気が……w
アナログゲームが楽しかったのと、料理がやっぱり美味しかったですね。みんなで食事するのはいいものです。まったりとだべっていました。

この他にも色々やりましたが、印象に残っているものをとりあげました。

その他

・ブクログ
ブクログ始めました。アカウントはこちら。その感想はこちら
2014年4月から開始しました。
ところで、年末になると、「いや、自分は年末/年明けで切り替えるのではなくて、年度で進行してるから」と言い訳したくなります。


・note
note始めました。アカウントはこちら
読書日記はこちらで書こうかなと思っています。


・『ボカロ批評』創刊!
ボカロクリティーク改め、『ボカロ批評』。毎回設けたテーマに基いて発刊します。
新編集長のもと、ボカロシーンに一石を投じる?批評誌です(ばばーん)
詳細はここをクリック。ツイッターアカウントはこちらです。

ボカロ批評vol.2
2014年末のコミケではvol.2が頒布されます。
テーマは「ミクにもわかる! ボカロと学問」。

そういえば、ボカロクリティークに参加頂いた佐久間正英さんが今年亡くなられました。
この機会にと、登場されたボカクリでの対談(佐久間正英×キャプテンミライ)を公開しています。よろしければご覧ください。


2014年は雌伏の年といいますか(言い訳)、かなりちまちました活動や、地味な勉強会、地味な読書ばかりしていた年でした。
一方で、そういう活動よりも地味な語学は一切捗らず、冷や汗ばかりかく毎日であります。
3月で引っ越しも決まっていますので、早々に切り替え、いい加減飛躍していきたいところです。

みなさん今後とも、よろしくお付き合いください。