2013年11月1日金曜日

攻殻S.A.C.「悟りのダウンロード」について、考えてみた


「座禅って、宗教的意味よりもむしろ人間の業を雑念から解放する意味合いが強いんでしょ?」
「僕たちで言うと溜まったキャッシュ上のデータを消去するってことかもしれないね。それと並列化を足したような意味かな?」
「じゃあ、座禅を組んでる人と繋がったら悟りがダウンロードできちゃうかも」

出典: 士郎正宗原作/協力・神山健治監督「攻殻機動隊 S.A.C 2nd GIG 動機ある者たち」



※ちゃんと書き直したり、まとめようと思っていましたが、飽きちゃったので思考メモみたいな状態のまま公開しますね※


悟りのダウンロードの話になったので、ちょっと考えてみます。
書きつつ考えるので、まとまってないかも。

《悟り》とはなんでしょうか。
あるいは、悟りを《ダウンロードする》というのはどういうことでしょうか。

ダウンロードされる「悟り」が知識なのだとすれば、「悟りとは◯◯の状態である」ということでしょうか。




「ダウンロード」する、という時に、悟りをアプリケーションのように考えているのでしょう。
そして、「悟り」は同時に一種の状態だと考えている。

この時、ダウンロードしただけではダメなのでしょう。「実行」がなければなんにもなりません。
アプリケーションをインストールしなければならない。
loading(弾丸を詰める)だけではだめで、shooting(打ち込む)が必要。

ソクラテスのパラドックスというものがあります。
プラトンの『プロタゴラス』に出てくるのですが、「最善のことを知っているのに、他のことをすることはできない」というものです。
このパラドックスは、大抵「意志の問題」あるいは、ソクラテスの倫理的な宣言として、受け取ることで解消される(と私は理解しています)。
例えば、この論文

「知っているのに、その知に反して他のことをする」という時に、それを「知っている」と呼ばない!という感じで。
(実際のところ、論文にあるようにかなり論争の的なのでしょうが、ほんとのところどうでもいいです)

思うに、悟りは「状態」というよりも「経験」なのではないでしょうか。
上のソクラテスのパラドックスも、ある種の経験のことをそう言っているのではないかと考えることができます。



タチコマは御存知の通り、案外執着を持っています。
うろ覚えで話せば、「もっと戦争がしたい」とのたまっているシーンもあったような。
(これを思い出すとき、そもそも、悟りがキャッシュを消す行為と一致するとは思えないのですが)

タチコマはアタラクシア(意志の弱さ)を克服できるのでしょうか。
悟りは知識というより「経験」なので、そもそも「状態」とは言いがたいのではないかと思います。



アプリケーション・サトリをダウンロードすればPCの状態が悟りになる、というのは、ある種の薬を飲めば幸福になる、というのと同じことなのではないかと思います。
それを悟り・幸福と呼びたいなら、それはそれでいいのですが。


「あの人みたいにドイツ語ペラペラになりたい」
というとき、私は「あの人」の「(語学が)ペラペラ」という状態だけを欲していますが、言語の違いはかなりの程度、思考パターンにも違いを生むので、ある言語が自家薬籠中の物になった人は、単にその状態を得たというよりも、ある種の経験を獲得したと言った方がよいのではないでしょうか。

ここで仮に私が、「ペラペラ」を得たとしても、「あの人」が「ペラペラ」である時に必要だと思っているその他の経験は
(その他の経験→例えば、ドイツの友人との交流、その友人と与太話をしたこと、ドイツの歴史に関する興味、専門分野に関する知識などなど)
なにより、経験は、ネットワーク状に組織されているので、それ単体で抽出されて得ないのではないかと思います。

まぁ、実際は電脳化の経験が私にはないので、わかんないんですけど。



ある種の(根本的な?)経験は、それ以降の自分の経験のあり方を変える。それだけでなく、それ以前の自分の経験を再組織化する。
ある経験は、その後の経験を左右するだけでなく、以前の経験に対する自己理解を書き換えてしまう。


つまり、私が思うところでは、タチコマたちが言っている「悟り」は実際は状態ではなく、経験なので、悟りのダウンロードは擬似問題かなと思います。


……みたいな。
思いつくまま、推敲しないままのメモの状態ですが、飽きたのでこのへんで。




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