2016年12月25日日曜日

大槻香奈個展「神なき世界のおまもり」(2016)についての、かなり長めの感想。

はじめに。


先日、大槻香奈さんの個展「神なき世界のおまもり」に行きました。
以前、「わたしを忘れないで。」という大槻さんの展示について書いたことがありますが、今回の展示も思うところあったので、少し書きたいと思います。

「わたしを忘れないで。」について書いたことは、その後の大槻さんの作品づくりの方向性と照らし合わせても、かなりいい線いったのではないでしょうか。
曖昧輪郭線シリーズかけがえのなさ鏡の侵入性などを思えば、いい線を描いた地図のような文章だったのかもしれません。
とはいえ、大槻さんの作品を網羅的に見たわけではないので、実際は良い鑑賞者とは言えないでしょう。ちょっと長めの感想として読んでいただければと思います。

今回「神なき世界のおまもり」を見る前から考えていたこともあるので、それも合わせて書いてみたいと思います。
この記事は、三部構成です。

1、村田沙耶香と大槻香奈
2、大槻香奈作品の特徴
3、「神なき世界のおまもり」(2016)について

特に長い話はいらないよ、という方は2か3から読んでいただければと思います。
なお、作品の引用方針は、前掲のブログエントリと同じです。

1、村田沙耶香と大槻香奈


まず、最近考えていたことから書いてみたいと思います。
それは、村田沙耶香の小説との対比です。
どちらかというと、村田沙耶香さんの話が多いかもしれません。

・垂直性と水平性


芥川賞作家・村田沙耶香さんの小説を最近読んでいました。
母性や女性性を目覚めさせるような変化が作品の基調となっているように思われます。
つまり、村田さんは、〈わたし〉の境界をざわめかせるような事態を描いている。
(村田作品たくさん読んだわけではないので、いい村田沙耶香読者ではありません。例えば、『コンビニ人間』を読んでいないのです。なので、村田さんの評価は、かなり私個人の直観に拠るところが大きいと思います。)

文庫版『授乳』

ここでは、デビュー作「授乳」において、「母への嫌悪」が〈わたし〉をざわめかせていることに目を向けましょう。
ここで重要なのは、年長の他者が、〈わたし〉を脅かしているという点です。
〈わたし〉の境界を波立たせ、自己の安定したあり方を崩しているのは、タテの関係にある他者なのです。

身近な年長の他者、特に、同性の他者が、〈わたし〉の成熟と関わるという視点自体は、めずらしいものではありません。
例えば、『不思議の国のアリス』の冒頭で、アリスは姉と一緒に過ごしていますし、物語の終盤に登場するのも、姉です。描写を細かく見ればわかる通り、アリスは、明らかに姉に憧れています。
年が離れ、成熟した(ように主人公には思える)同性の身近な他者。

『アリス』のように好意的な反応であれ、村田沙耶香『授乳』のように嫌悪感の表明であれ、これらは、性の目覚めや成熟の不安を、いわば、縦方向に描く、垂直性から描くものだと言えるでしょう。

「神なき世界のおまもり」で展示された作品

こうした立場と対比すれば、大槻さんの作品は、同じものを、横方向に描いている、水平性から描いているように思えます。
具体的に言えば、同年代の少女の「群れ」を描くこと、「群体的な攪乱」を施すことによって、〈わたし〉の界面が波立つさまを捉えていると思います。

似た年代の人をしばしば取り扱う二人の作家は、当然、その年代に特有の変化への不安を描いているものの、その描き方のスタイルは、対照的だと言えるのではないでしょうか。


・夢と現実


村田沙耶香さんのデビュー作「授乳」が収められている『授乳』には、「コイビト」という短編があります。
ここでは、ぬいぐるみを恋人とする主人公(大学生)が、同じくぬいぐるみを恋人とする美佐子(小学生)に出会うことから物語が始まります。
ストレートに、ウィニコットの「移行対象」を思わせる状況設定です。

移行対象の説明によく使われるのは、ライナスの毛布です。「ライナスの毛布」とか「安心毛布」として、移行対象の提喩としてよく用いられます。
私を不安にさせる出来事や、変化を経験すると、この毛布を自分の表面に沿わせたり、ぴったりと体をつつみこんだりします。
そうすることで、波立っていた〈わたし〉の表面を落ち着かせる。

英語版wikiでは「移行対象」と同じ項目で説明されている。

自己は、移行対象との間で、社会的には通用しないような、私的世界を構築します。
この私的でファンタジー的な世界を、「夢」と呼ぶこともできるでしょう。
本当なら、移行対象との間で築かれたファンタジーを、とても個人的な世界観を、強固に維持し続けるということはしません。
少なくとも、他人との会話や生活にまでそれを持ち込んだりもしません。
移行対象は、「移行」対象であって、過渡期に私の心を支える対象にすぎない、というわけです。

村田さんの短編「コイビト」の話に戻りましょう。
そこでは、主人公や美佐子が、「現実」(社会生活)ではなく、「夢」を生きてしまうさまが描かれています。
とはいっても、夢見がちな少女たちの生活を描いた小説というわけではありません。

美佐子のぬいぐるみは、(ある仕方でで)食事もするし、排泄もします。美佐子は、それとベタつくようなキスをする。
それほどまでに、移行対象は存在感を持ち、(ある意味で)生命感のある、リアルな存在なのです。

まるで鏡のような美佐子を見るうち、主人公は、夢を生きることの醜悪さに耐えきれなくなります。
色々考えた末、主人公は、「夢」からの覚醒を試みます。移行対象とのファンタジーを捨てようとするのです。
しかし、「夢からは逃れられないのだ」と、小説は夢からの脱出不可能性を示唆して終わります。

「そんなことしても無駄だよ」
美佐子のうれしそうな声がした。デザートを目の前にしているかのような、涎がでそうにはずんだ舌足らずな美佐子の声。
「そんなことしても、ぜったいに、ソレがなくちゃお姉ちゃんは生きられないんだよ」
見ると美佐子は異様なほど生きる力に満ちたあの顔つきでこちらを見ていた。
村田沙耶香『授乳』(講談社 2010年)、121頁

「現実」に立ち返ることはできず、 夢から覚めることもできない。
移行対象と築いた「夢」は、それから逃れることのできず、それを生きることは不可避なのだ、というわけです。

この短編を読み終えるとき、きっと、主人公は美佐子の予言通りになるだろうという気にさせられます。
その意味で、「現実」よりは、「夢」に力点を置いていると言えそうです。
少なくとも、「コイビト」という短編について言えば、ここでは「現実」と「夢」が対比され、後者に軍配を告げる構成になっています。

これと対比するなら、大槻さんの夢と現実は、どちらかに軍配が上がるものではないように思えます。
どちらかというと、フィリップ・K・ディックを思わせる仕方で、「夢」と「現実」は相互浸透していて、むしろ区別がつかないものとして描かれているはずです


2、大槻香奈作品の特徴


こうした対照を経て、少し大槻さんの作品について考えてみたいと思います。ほとんどは論点の繰り返しですが。

・水平的な性格


展示空間での並列の例

展示におけるポートレートの並列にも、群体的に少女を描く作品にも見出せることですが、大槻さんの展示は、水平性が強い。
ポートレートではありませんが、小鏡シリーズも、こうして列挙すれば、水平的な性格は明らかでしょう。

並べられた小鏡シリーズ

描かれた少女は、〈わたし〉は、群れの中の一人でしかない。
個々の少女たちがどれほど個性的な容姿や髪形であろうとしても、彼女たちはやはり「整列」する少女の中の一人に過ぎない。
識別しがたい要素群の一つでしかない。それにどれだけ思い入れを抱いたとしても、多くの人にとって、群れの中の一つは、識別しがたい。

私たちは、日常の中で、規格化された製品の中の一つを購入し、その識別しがたい製品でしかないそれに愛着を抱いたりする。
しかしそれはやはり、群れの中の一つに過ぎないのだ、と考える必要があるでしょう。

つまり、 美佐子のようなファンタジーのグロテスクとも、「夢」を放棄した無味乾燥さとも異なる時間を生きたいのであれば、「群れ」(識別しがたさ)と「愛着」(かけがえのなさ)を二者択一に捉えるのではなく、それらの二重性を生きなければならない、というわけです。

・〈わたし〉の経験の個人性


大槻さんはしばしば「母性」ということに言及しています。
例えば、以下に示すのは、大槻さんの最近のツイートです。


大槻さんとしては、少女は、「母、女性、子供という3つの異なる性質」を一挙に引き受ける存在である。
言い換えると、少女は、〈わたし〉の社会的・身体的な変化を、顕著に経験する時期であり、性別である、ということです。

こうして自己が変化する体験というのは、私秘的(プライベート)なものであり、他人とは共有しがたいものです。
他人が似たことを体験することはあるでしょう。その体験について言葉を交わすこともできるかもしれない。
けれど、私の代わりに、誰か他の人間が「〈わたし〉の変化」を経験してくれるわけではありません。
「〈わたし〉の変化」を切り取って、他人に移植することができたとします。そのとき、その人が経験するのは、その人の「変化」であって、〈わたし〉の変化ではなくなります。
「〈わたし〉の変化」の体験は、ごく個人性が強いのです。
(この辺りは、野矢茂樹『哲学・航海日誌』 にも詳しいです)

DMに使われた作品

〈わたし〉の界面を波立たせる私秘的な体験を描くことや、同質的で識別しがたい微差を争う水平性を(例えばスクールカーストを通じて)描くことは、さほど珍しいことではないと思います。
それに対して、大槻さんの作品では、私秘的な経験と群体的なモチーフが、それぞれバラバラに描かれるのではなく、それらが一挙に描かれている。
個人性と、群体性という二重性がある、と言うこともできるでしょう。

ところで、以前「わたしを忘れないで。」という個展を論じたときに、「重なる/混じる」という手法、識別しがたさの追求、夢による闖入、鏡の侵入など、境界侵犯的な戦略が多用されていることを確認しました。
こうした輪郭の曖昧化、境界侵犯は、隔たれた二つの領域(閉域?)をつなぐ一つの戦略だとみなすことができます。
この戦略が架橋するのは、個人/群れ、体験/共同性、私/公、夢(ファンタジー)/現実(リアリティ)といった隔たり、二項対立です。

この「つなぐ戦略」のことを、前回の記事では、「識別しがたさ」と「かけがえのなさ」は両立すると表現したのでした。


3、「神なき世界のおまもり」(2016)について


叙述にまとまりがなく、内容面で行ったり来たりする文章で申し訳ないです。
どちらかというと、思考のメモをとるつもりで書いてきたので、やむを得ません。

今回の展示について、タイトル面で期待していた内容とは少し違うことを考えました。
というのも、(ポスト)世俗化時代における共生とは何か、価値が多元化した時代を生きることとはどういうことか、という動機を漠然と持って研究しているので、特に「世俗化」的な問題意識に直接つながるものを期待していたからです。

実はまだ考えが熟し切っているわけではないので、スケッチ的に展示で気になったことを箇条書きしたいと思います。


・〈わたし〉が影になる――自己の複数化(ダブル)


今回の展示で興味深かったのは、自己が安定した自己の境界を維持するというよりは、どんどん自己の境界をずらしていくような仕方で作品が提示されていたり、自己の影が自己のズレとして構成されているような作品があったりしたことです。

前掲作品を寄りで撮ったもの
例えば、この作品にも、そうした「ダブり」が見出せます。
特にこの写真のように、斜めからこの作品を見ると、少女の輪郭が背景に投影されていることがわかるかと思います。それも複数の輪郭が投影されています(複数の照明があるからですね)。

こうした「ダブり」のモチーフは、今年の夏に亡くなったソニア・リキエルのファッション観を思い出させます。
二重(ダブル)、私は二重でありたいと願っていた。二回ずつで、両側で、前からも後ろからもものを見ることができて、焦茶と黒の二色をもっていて、単純で複雑で、意地悪で優しくて――そんな私でありたいと。
そんなふうに、あまりにも強く複数形を望んでいたせいだろうか。知らぬ間に、ごく自然に、私は何人かの人間になってしまったようだ。
ソニア・リキエル『裸で生きたい』
この括弧部分は、実際にはルビです。
リキエルのこの文章を知ったのは、鷲田清一のモード論を通じてでした。そこで、この文章を以下のように読み解いています。少し長いけど、引用しましょう。
ソニア・リキエルが「裸になる」、あるいは「二重(ダブル)になる」といった表現で自らを賭けようとしていたのは、ひとつの可視性の次元が、ある物質的なものの介入によって別の可能性の次元へと変換する、そのような瞬間ではなかっただろうか。
もっとも、衣服や顔料の介入に先立つ身体の表面は、白いページ、白いキャンパスのように空虚な平面、意味が記入されていない零度の下地なのではない。それはへこんだりつき出たり、まっすぐに走ったり曲がったり、といったふうに、うんり、波打っており、その綾のひとつひとつがわたしたちの視覚を刺激してくる。(中略)
〈わたし〉の存在そのものが、その根源にある〈脆弱さ〉を隠しもっていて、それが衣服の可視性に訴えかける、と考えることはできないだろうか。想像力で埋めるしかない存在の穴を、衣服が想像力に「夢の足場」を形づくってやる。(以下略)

〈わたし〉が影になる、自己を複数形にするというリキエルの戦略と、大槻さんの作品のイメージは実際多くを共有していると思います。

今回の展示では、影以外の手法でも、自己の多重化が目指されていました。
例えば、曖昧輪郭線のポートレートと小鏡が対になるような演出はその一つでしょう。

対になるポートレートと小鏡

「神なき世界のおまもり」の会場では、こうして、対になるように配置された小鏡とポートレートが、入って左手の壁に、5~6セット、飾られていました。
この少女ポートレートと、何かを並べる見せ方は、「わたしを忘れないで。」 という展示におけるドクロとポートレートという対の反復でしょう。(ドクロとポートレートの対については、以前の記事を参照してください)

キャラ的に描かれた少女ポートレートが、小鏡において、さらにデフォルメされた少女として描き直されている。まさに自己の複数化です。
これが同じ少女のダブルだと言えるのは、この対が同じ色調で統一されていることです。

上下で対になる作品たち。


・水平性の新しい描き方――戦闘的な整列


大槻さんは、以前から、群体的な描き方をしばしばしていました(整列シリーズが典型)。
今回は、その整列・群体の描き方が、戦隊モノを思わせる仕方になっていました。
最も如実なのは、展示会場奥にある曼荼羅的な大作品の整列少女です。

会場奥の作品

「まどマギっぽい」という感想もありましたが、上写真の整列少女たちには、どこか戦闘的な雰囲気があることは、確かではないでしょうか。

この少女群が、戦闘性を思わせるのは、その整列ぶりだけでが理由ではありません。
先ほど言及した、小鏡とポートレートの対は、それぞれの対が、それぞれが赤なり、黄色なり、大まかなテーマカラーを持っており、 戦隊モノ的な雰囲気を持たせるのに一役かっています。


・選択のジャンクさ、独自の秩序


会場(ギャラリー創治朗)に入って、まず目を引くのは、上に写真を乗せた作品(会場奥の作品)であることは間違いありません。
この作品についてみてみましょう。

当該作品の異なる写真


作品には色々なテクストや写真が貼り付けられています。
社会科や歴史の教科書から切り取られたのではないかと思われる肖像写真や、謎の歴史画、出展すらわからない英語のテクストや、日本語の文章など、無数のものが貼られているのです。
趣味で手に入れたであろう雑誌の切り抜きのようなものもありました。

貼られているものが、特に深い意味があって選ばれたとは思えません。
ただ、偶然、身の回りにあっただけにすぎないでしょう。ただ、偶然、手元にあったそれに、なんとなく愛着を示したに過ぎないと思います。
何かそれらしい理由があったり、それが作家の口から語られたとしても、その理由がひどく重要なことだとは誰も思わないでしょう。

そうして偶然的に選ばれたものは、チープで、子供じみているようにすら見えるかもしれません。
作品を取り囲む無数のフィギュアや雑貨の類も、無作為に抽出したかのようです。小学生が宝物を隠している引き出しを開けて見たときのような、そういう無作為な感じを鑑賞者に与えるでしょう。
要素の選択は、体系性から程遠く、ジャンクであり、子どもっぽさで特徴づけられている(選択のジャンクさ)。


この作品の特徴は、「ジャンクさ」に尽きるものなのでしょうか。
それ以外に、もう一つ特徴があると私には思われます。

実際に見たり拡大してみればわかるように、書き込まれた要素は、全体としてはなぜか整然としている印象を与えます。
独特の仕方で、整然としているのです。少女たちは、自分の周辺環境を、自分なりの仕方で整備している、と言ってよいでしょう。
この作品が示唆するのは、人の生きる世界には、当人なりの「文法」が存在するということです。
その文法に通じていない他者にとって、何が何だかよくわからないような、独自の秩序があるわけです。


ここで、先ほどの「戦闘性」を思い返してみると、少女たちは、自分たちの手元にある(愛着ある)モノや情報を、自分たちなりの文法で取り囲み、配置してみせることで、自分たちを守っているように見えてきます。
偶然であったぬいぐるみや、アイドルのポスター、アニメのフィギュア、大学時代のテキストなどで取り囲み、自分の部屋を組み立てることで、私たちは自分の安住できる空間を構築しようとしているのかもしれません。


大槻さんは、この展示について、12/15のツイートでこう述べています。
偶然性をいかにして作るのかというのは、かけがえのなさ、について考える事と近い気がしています。今回は御守りがテーマな事もあり、特に大事に出来たらと。
自分の身の回りにあるに過ぎないモノや情報、すなわち、自己と偶然的な関係しか持たないモノや情報ではある。
けれど、それには自分たちなりのストーリーや思い入れ、複雑な感情があって、「識別しがたい」それらの要素は、「かけがえがない」。
「識別しがたく」「かけがえのない」無数の要素を、(他人にはピンとこない) 独自の文法で配置し、自分たちを取り囲ませることで、なんとか秩序を構築・維持しようとする。

戦隊モノ的に整列された少女たちに戦闘性があるとすれば、それは自分たちの秩序(世界)を維持し、守ろうとする戦闘性に他なりません。
それは蟷螂の斧のような覚束なさと必死さがある戦闘性でもあるでしょう。そして、蟷螂の斧である限り、どこか滑稽で、子供じみた必死さに感じられるかもしれません。
けれど、その子供じみた必死さは、私たちが小さな日常を守ろうとする必死さとどこも変わるところがないでしょう。


・悪魔祓いとしての「片付けの魔法」


諸要素を整然と配置しようとする努力は、自己の平穏さを脅かす出来事や、〈わたし〉を波立たせる変化に対する「祈り」のようなものです。
スランプの作家が身の回りを片付けたり、トイレなどの水回りの掃除をするとよいなどと言われます。
この信念を支えるのは、自分の環境を整理することは、自分の精神を整理することにつながっているという発想です。自分を不安定にする何かを「祓う」ことが、汚れを「掃う」ことと通じ合っているわけです。
ことほどさように、秩序を維持・構築しようとする試みは、「悪魔祓い」の様相を帯びてきます。

今見ている作品についても、ジャンクな諸要素が、独自の文法で整理されているらしいという雰囲気は、どこか儀式めいています。
それに、悪魔祓いという言葉にしたって、邪悪なもの(変化)を退けるのは、宗教的なテクノロジーに他なりません。宗教を遠ざけるテクノロジーではないのです。


日本人の多くは、無宗教を自認しています。
しかし、神社やお寺には参るし、お盆は大切にするし、祭りには参加するし、キリスト教式に結婚するし、葬式だってそれなりにお金をかけている。魂や運命という語彙だって、この社会では現役です。自己啓発本は、飛ぶように売れ、そこではいかにもスピリチュアルで、非科学的な信念が提示されています。占いだって人気だし、毎朝どの番組も占い(的なもの)を放送している。

こうした現状を受けて、「神なき世界」つまり世俗化した社会における信仰のありようを、スピリチュアリティと名付び、研究がなされたりもしています
スピリチュアリティ研究においては、ある宗教や自己啓発本が提示する一連の体系を受け入れるのではなくて、様々な体系から、愛着の湧いた要素を自分なりに「パッチワーク」するのだという信仰モデルすら提示されています(「パッチワーク宗教」)。
適当に選択されたジャンクを、自分なりの独自の文法でパッチワークする。先の作品は、こうした信仰の構造を形象化したものだと言えるでしょう。


悪魔祓いが、邪悪なもの(変化)を鎮める宗教的なテクノロジーだという表現は、実のところ、展示のタイトルを別の仕方で言い換えたものだと見ることができます。
「神なき世界」にもかかわらず、「おまもり」という宗教的要素が提示されているように、邪悪なものを祓うものは、やはりスピリチュアルな何かを呼び戻さざるを得ないのです。

この点、自己啓発と「片付け」を結びつけた、ベストセラー本――近藤麻理恵さんの『人生がときめく片付けの魔法』――のタイトルは示唆的です。
片付けとは、独自の仕方で、環境の秩序を再構成することであり、諸要素を整然と保とうとする試みです。
ジャンクなものを整然と配置し、自分なりの秩序を作ろうとする努力を「片付け」と呼んでよいとすれば、「片付けの魔法」とは、その魔術性を示す格好の言葉だと言えるでしょう。
「神なき世界のおまもり」は、「片付けの魔法」と呼び替えられてよいと思います。


・住まう限り「片付け」は続く


悪魔祓いとしての「片付けの魔法」において重要となるのは、「文法の作り込み」であり、「文法的な適切さ」 です。
その人が、どれだけオタク的に秩序を作り込むことができるかどうか、その秩序に反する要素をどれだけ排除できるかということが問われることになるでしょう。

村田沙耶香さんの短編「コイビト」において、精巧に構築された「夢」を生きる少女・美佐子が求めたのは、恋人のぬいぐるみとのより安定した世界です。
そして、それに反する行為をしたのであれば、見知らぬ他人であれ知り合いであれ、ともかく糾弾されなければならない。
秩序は、そうして必死に守らなければ、すぐに崩れてしまうのです。(秩序維持の困難は、日々の「片付け」を通じて、実感されているかと思います)

秩序維持の振る舞いは、覚束ないものです。
なぜなら、世界や社会は、常に自己よりも大きいからです。つまり、実際には、〈わたし〉の境界=秩序が安定していることなど稀だからです。
むしろ、〈わたし〉の境界=秩序は、絶えず動揺し、変化を強いられている。
いや、実世界が変化に満ち満ちており、邪悪なものを鎮めきることなど不可能だからこそ、人は、執拗に「片付け」をし、「おまもり」を求めるのでしょう。

実際、大槻さんの作品は、〈わたし〉の安定した境界を作り、維持しようとする試みが不安定であることを、随所で描いています。

お札に見立てられた小品

写真真ん中の一番左手にある作品が典型的でしょうか。少女の半身を隠すように(貫くように?)「三角形」が侵入しています。
真ん中の絵も、オレンジ色の「切り込み」が侵入し、少女を飲み込もうとしているかのようですらあります。
今回の展示では、図形がぽこぽこ侵入してくる作品が多かったです。(図形系好きです)

下に示す作品でも、図形がにゅーっと侵入しています。
右上の三角形、真上の黒い帯、少女をまたぐような赤い長方形。

過去の写真を背景とする絵


少女の中を無数の器が侵入し、通り抜けています。少女とは関係がないであろう、背景にある過去の写真も、少女の頭頂部を透かすように曖昧化してしまっています。
この少女にとって、自己が安定的なものだとはとても思えません。常に〈わたし〉の境界は蠢いている。

DMに使われた作品

この作品では、単に図形に侵入されるだけではなく、戦隊モノのごとく整列した少女たちは、ことごとく図形に隠されてしまっています。
図形と少女たちの境界が「破れ」であることは、少女たちの秩序が常に「別の秩序」に接していることを示唆するようです。

実際、私たちのスピリチュアリティ(精神性)が、種々の体系からのコラージュで構成されているように、私たちを構成する要素そのものが、元々は自分の秩序の外から来ているのだとすれば、当然のことだと言えます。

この少女たちは一度作った自分たちの秩序を、幾度も崩されることになるでしょう。
人は住み続ける限り、その部屋を繰り返し「片付け」続けねばならないように、生きている限り、自己の境界線を常に引き直し続けねばならない、というわけです。


――――

おわりに。


とりあえず一通りメモし終えることだけを目的に書いてきたので、説明不十分な点や用語選択が適当な点など、問題も多いかと思います。
まとまらず、わかりにくい文章で申し訳ないです。

大槻さんの作品は、それ自体で好きなのですが、大槻さんの作品以上に、その展示空間が気に入っているのかもしれません。
この文章にはほとんど反映されていませんが、今回の展示から、研究上で考えていることに通じるヒントをもらえたような気がします。

大槻さんの「神なき世界のおまもり」は、展示期間が短いのですが、ぜひ観に行ってみてください。
※展示タイトル誤字してて、申し訳ないです。。



「神的存在」からの自立:追記(2016年12月27日)


大槻さんが面白いことを言っていたので追記します。


このツイートの内容を、次のように言い換えることができると思います。

以前は、「神と〈わたし〉」という垂直的な関係にあった。けれど、何らかの契機を経て持つことになった自立(切断)の決意によって、水平性を生きることになった。
それは、「神の下にある〈わたし〉」という半ば特別で神秘的な自己でなくなるということです。
そして、〈わたし〉は、どこの誰とも変わらない、「識別しがたい」存在になる。空虚な自己になる。
社会を構成する数多くの人間たち、群れとしての人間たちの一人でしかない、ということです。
個展「わたしを忘れないで。」で描いたのは、(垂直的な世界を抜け出し)水平的な世界を生き始めた〈わたし〉だったのかもしれない。



この観点から、以下のツイートも読み直すことができるでしょう。

〔映画「君の名は。」には〕何かしらの神になりうるキャラクターも居なくて、それでも自分(主人公)によって確実に世界がまわっていく事を実感出来た……。(中略)自分の思う神なき世界だった

同じことが「まどマギ」でも言われています。


ここで評価されているのは、垂直的な世界から自らの決意と行為によって抜け出し、水平的な世界を生きようとすることだと思います。
ルイ・メナンドという作家の表現を借りれば、「不確実な世界で、それでも自分の運命の主人公であろうとすること」とでも言い換えられるかもしれません。
ここで賭けられているのは、自らの意識的な決断の繰り返しによって、 水平的な世界を生きようとする中で、「識別しがたさ」と「かけがえのなさ」を両立しようとすることなのかもしれません。


長い追記になってしまいました。
大体、似た内容を繰り返し書いているだけなので、ここでやめておきます。
次の展示が楽しみです。

2016年10月10日月曜日

個人で訳したジョン・デューイの文章を、noteで公開しています。

20世紀アメリカ最大の哲学者といってよい、ジョン・デューイの書いた論文のいくつかを訳しました。

一般に書籍化されていない小編を訳したので、原典にアクセスできなかったり、そこまでのモチベーションはないという方は、研究や読書に役立ててもらえればと思います。

訳の本文は有料です(解題は無料で閲覧可能)が、私個人の研究に対する小さな支援として、購入いただければと思います。



訳したものの一覧


「戦争の社会的帰結」("War’s Social Results")1917
 第一次世界大戦中のインタビューが基になった文章。


「リップマン『世論』の書評』」("Walter Lippmann, Public Opinion, New York: Harcourt, Brace and Co., ")1922
 ウォルター・リップマンのPublic Opinionを書評した論文。リップマンの批判的受容を通じて、デューイは自身の公共哲学を練り上げた。

2016年6月21日火曜日

ルース・リスター『貧困とは何か――概念・言説・ポリティクス』

今回取り上げるのは、2011年に明石書店から翻訳の出た、『貧困とは何か』です。
著者は、イギリス労働党議員にして、気鋭の社会学者、ルース・リスター(Ruth Lister)です。

今回の訳出は、ありそうであまりない手順で行われています。まず、翻訳家の立木勝さんが下訳を作り、専門家である松本伊智朗さんが、リスターへのインタビューや関連文献の読解を経て、「監訳」という形で下訳に手を入れたそうです。
時間もお互いに節約になるし、翻訳の精度も上がるだろうから、これはいいワークシェアだなーと思いました。


原著のPovertyは、キーコンセプトシリーズの一環として出版されたもので、「貧困」以外には、GenderなどCitizenshipなどがあるそうです。
また、原著は改訂版の準備中とのこと。
原著にはkindle版もあるので、英語が得意な方はそちらで読んでみてもいいかもしれません。

個人的に気になった点をもう一つ挙げておくと、原著と翻訳の表紙がすごく似ているように見えて、実際は全然別の写真だというのは面白いですね。

この小石たちの写真は、恐らく本書の理念的なところを正確に捉えたものです。
一筋縄にはいかず、捉えがたい上に、経験も内容も千差万別の「貧困」を、それでも、政治的・社会的な課題として引き受けていこうという姿勢を読み取ることができるのではないでしょうか。

さて、目次はこんな感じです。


序章  概念、定義、測定基準  各章とそのテーマ
第一章 貧困の定義  貧困の定義に向けたアプローチ  絶対的/相対的の二分法を超えて  結論
第二章 貧困の測定  〈なぜ〉と〈どのように〉の問題  〈なにが〉の問題  〈だれが〉の問題  結論
第三章 不平等、社会的区分、さまざまな貧困の経験  不平等、社会階級、二極化  貧困の経験  ジェンダー  「人種」  生涯  年齢  地理  結論
第四章 貧困と社会的排除  社会的排除の概念  社会的排除と貧困の関係  結論
第五章 貧困についての言説――〈他者化〉から尊重・敬意へ  〈他者化〉と言説の力  歴史に根ざして  「アンダークラス」と「福祉依存」  「P」ワード  貧困の表現  スティグマ、恥辱、屈辱、  尊厳と尊重・敬意  結論
第六章 貧困と行為における主体性――〈やりくり〉から〈組織化〉へ  行為における主体性  〈やりくり〉  〈反抗〉  〈脱出〉  〈組織化〉  結論
第七章 貧困、人権、シチズンシップ  人権  シチズンシップ  声  「哀れみではなく力を」  結論
終章――概念からポリティクスへ  重要なテーマ  研究と政策  再分配のポリティクス、承認と尊重・敬意のポリティクス
註、参考文献、監訳者解説、索引


 この本の要約をすることは難しいところがあります。第一に、各章で本人が巧みに要約をすませているから。本人よりは幾分精細に欠ける要約を披露してしまうことになりかねません。
第二に、すでに示唆した通り、貧困という複層的で捉えがたい事態を取り扱っているから。この点についていえば、本書は、こうした「捉えがたさ」を安易に割り切ってしまうことなく、複雑なままに取り扱おうとするところがあります。
 「貧困の女性化」を論じた箇所を例として見てみましょう。
北でも南でも、貧困者は女性であることがあまりに多い。EUおよびアメリカからの証拠は(スウェーデンだけは明らかに例外だが)、程度の差こそあれ、すべて女性の方が男性よりも大きな貧困リスクに直面していることを示している。(中略)「貧困の女性化」は、こうしたパターンを捉えるための用語で、いまでは幅広く使われるようになっている。しかし、レトリックとしては力強いのだが、この用語には誤解をまねく部分がある。(中略)「貧困の女性化」という命題のもとで用いられている統計は、世帯主を基礎にしたものが大半で、世帯の中の個人に基づくものになっていない。後者のデータがない場合は、粗い「推測による見積もり」で済ませている。いい例が、広く引用されている世界の貧困者の70%は女性であるという国連の見積もりである。女性が世帯主の世帯での貧困リスクにばかり気を取られていると、そうした集団内での不均質性や、男性が世帯主の世帯での女性の貧困が覆い隠されてしまう。(p.89-90)
「言われてみれば、確かにそうだ」と思わされる指摘ではないでしょうか。貧困に関連する多くの学説や理論、データ、言説を検討しながら、リスターは逐一こうした批判的な視線を向けていくことになります。

*

 本書は貧困をテーマにしています。とはいっても、よくあるルポルタージュの類ではなく、貧困という「概念」に焦点を当てた研究だというのが、本書の特異な点でしょう。監訳者の松本さんも、日本の研究と比べて、その点が珍しいと解説で記しています。
 とすれば、気になるのは、この「概念」とは何ものか、ということです。リスターは、「概念」を「意味」と言い換えています。
貧困の概念は非常に一般的な次元で働く。それは定義と測定基準を考える枠組みを提供する。それはつまるところ、貧困の概念とは貧困の意味ということである。(p.17)
しかし、この「意味」とは何なのでしょうか。十分説明されているとは言い難いのですが、人びとが「貧困」ということで意味しているものの総体、つまり、貧困ということで理解していることの総体を指しているのではないかと思います。
貧困の概念の研究には人々が貧困をどのように語り、思い描くかということもふくまれる。すなわち言語とイメージを通じて表現される「貧困の言説」ということである。そうした言説はさまざまな場で構築されるが、もっとも顕著であるのは政治・学問・メディアである。このいずれもが、一般社会での貧困の理解のされ方に影響を与えている。(p.17)
この一節からしても、上のような解釈で間違いなさそうです。


こういう感じで、「概念」「定義」「測定基準」など種々の道具立てを準備しつつ、それらの関係を、序章では図のように整理しています。

しかし、この図はわかりやすいにせよ、誤りがあるでしょう。
ごく細かい点ではありますが。

まず一点目。
「概念」が、「意味と理解」、私たちが対象に抱く「言説やイメージ」の総体なのだとすれば、厳密にいえば、調査・研究の際の「定義」や、研究それ自体、考案された「測定基準」も、当の「概念」に含まれねばならないのではないでしょうか。

また、図に関連することで、もう一点気になることがあります。
監訳者解説によると、邦訳の際に著者から「貧困の再概念化」というタイトルを提案されたそうです。つまり、「再概念化」は著者にとって、決定的なキータームなのです。

「再概念化」とは何でしょうか。
上図のような関係にある諸観念のもとで探求・研究した成果は、私たちの貧困イメージ、つまり、「貧困の概念」に差し戻されねばならない、ということだろうと推測されます。
とすれば、気になるのは上図の矢印の方向です。上図がわかりやすいのは確かです。
しかし、「再概念化」という鍵概念を踏まえるならば、すべての矢印は、本書の探求を通じて、当の貧困概念それ自体に帰っていくはずです。跳ね返っていく、反映されていくはずです。
矢印は、それぞれが円環を書くように、「概念」へと回帰せねばならないと思われます。

「再概念化」というと、「また新しい社会学の道具立てですか?」という気がしないでもないのですが、哲学でなじみ深い言葉を使うなら、「解釈学的循環」のことでしょう。



やや抽象的な話になってしまいました。
細かな指摘も、うなずくところが多い本だったので、いくつか引用してみます。
……貧困と闘うための政策は、隠れた不平等に取り組むとともに、ジェンダーや「人種」や障害とも関連する、幅広い平等・反差別戦略のなかに組み込まれるのでなければならない……。(p.112)
地理、不平等、社会的区分、ライフコースなどと絡めつつ、貧困を検討した際に、結論部分で述べられる言葉です。

また、リスターが暗示する連帯のありようにも共感しました。
ジャーナリストのニック・デイヴィーズが『暗い気持ち――隠されたイギリスのショッキングな真実』を書いて話題となった。この本は、「同情的な〈他者化〉」とでも呼ぶべきものである。デイヴィーズは自らを「遠くの密林に分け入るヴィクトリア朝の探検家」として示し、「もうひとつの」「まだ発見されていない国」に「貧困者」が暮らしているとする。彼はdifferentという形容詞を盛んに用いることで、このメッセージを強化している。デイヴィーズは貧困によって人々が受ける損害を強調しているが、こうしたイメージの使用は、おそらく読者にっ距離をおかせ、恐怖を抱かせる面の方が大きくて、彼が求めたような「貧困と闘う十字軍」を呼び起こすことにはならないであろう。(p.170-1)
リスターのメッセージを理解するためには、これを裏返しに理解しなければなりません。差異を強調したり、〈他者化〉したりしない。これです。
 〈他者化〉というのはOtheringの訳語です。森達也風に言えば、「われわれ」と「かれら」に分けることだと言えるでしょうか。違う存在として、頭の中で、単に区分してしまうのです。違う存在、異質な存在として、「私たち」と「彼ら」を分割することです。
 そうして分断を誘い、エイリアン化するのではなく、むしろ「私たち」を拡張する仕方で連帯を確保しようとする。こうした連帯のあり方に、私は共感します。


 貧困を取り扱った本としてはかなり抽象的なコメントになりましたが、それは本書が「概念」に焦点を当てている以上、致し方ありません。
 遅くなりましたが、頂いた本をざっくりと書評してみました。






2016年4月14日木曜日

大澤聡『批評メディア論』(岩波書店)序章及び一章のレジュメ


大澤聡さんを招いての読書会イベントの際のレジュメです。
結構詳細にまとめたので、そのまま公開することははばかられました。
ということで、結構無理な削除・圧縮を加えています。元の3~4分の1ほどの分量でしょうか。
話題がかなりデジタルに飛んでいるように見えるかもしれません。

いい本なので、ぜひ買って(借りて)読んでみてください。 
そうして読む際のサブテキストとして使っていただければと思います。



序章 編集批評論
1,商品としての言論 ギルドから市場へ

批評の経路依存性。「情報伝達は何らかの媒介=メディアを必要とする。例外はない。その形式こそが印象の大半を決定している」(p.10
言論全般が市場に流通する。「商品としての位相は言論や作品に拭いがたくつきまとう。こうした端的な非拘束性を忘れてはならない。……検討されるべきは言論の存在形式だ」(p.16


2,批評のマテリアリズム 課題設定
 
発表媒体は必ず誰かの手によって設計されている。「結果的に、書き手は読者を意識したかたちとなる」(p.18) 文字組みや文体、表記法、分量など諸々の条件を様式(スタイル)と呼ぶ。人が言論・批評と見做す際の判断基準は、こうした外的な要素=フォーマットの様態に深く根ざしている。
「読者の期待の地平において、形式は内容に先行する。事前に形式から内容が推測される。経験的な学習を積んだ成果としてそれは可能となっている。……じつのところ、内容など読まれてはいない。」(p.18-19)この自然化された制度は、フォーマット設計時の人為性や偶有性(初出環境)を意識から消去させる。
 

3,出版大衆化 円本・革命・スペクタクル
 全集ブーム、円本ブームなどを通じて、読書の大衆化が進む。マスとしての読者の誕生。雑誌では冊子の大容量化、媒体種の多様化が進む。
 →専門的読者までもが、時評類を手軽なマニュアルとして活用するようになる。専門家たちは、時評で得た知識や認識との距離感覚を素地に自らの意見を再組織するだろう。


4,ジャーナリズム論の時代 総合雑誌史
 1930年前後、ジャーナリズムを批評する言説が急増する。メディアによるモデルチェンジの試みと並行して、雑誌のスプリングボードとしてジャーナリズム論は要請された。
 
編輯批評読者の選好を導く要因に分析の焦点を絞った批評であり、編集者からも重宝された。当時の言論空間が自己修正的なオペレーションを備えていた証左と見ることができる。
今見れば、萌芽的なメディア論の着想が未完のままいくつも織り込まれている。


5,時限性と非属領性 本書の構成

・偶発的な条件のもとに、各種の記事ジャンルや出版形態が誕生する。それらは、「偶発ながら、連鎖的な転位と模倣の果てに公共性を書くとするにいたった。……そしてインフラとして機能した。以降、ほとんど意識されない。それらを本書では『批評メディア』と総称することにしよう。私たちはそのデザインワークの軌跡を追跡していく」(p.39)
・私たちが従事する作業は、「環境=条件」をひとつずつ炙り出し、数え上げていく試みに他ならない。


第一章 論壇時評論

1,論壇とはなにか 第一の問題設定
 「《論壇とはなにか》を熟思するところからはじめなければならない。私たちは、戦前期の論壇時評の初機能とその史的履歴とを整理・検証していく。……当面の課題は場=空間の『存立』要件の解析に設定される」(p.45-46)。


2,レジュメ的知性 総合雑誌の論壇時評
 出版の大衆化で、個別ジャンルに特化していた雑誌も総合雑誌に転じ、言論の多様化と複雑化が進行する。
 →膨大な議論の交通整理としての「論壇時評」。無形の論壇を可視化する。

論壇時評に関わる二つの転換
・「第一に、「社会時評」から「論壇時評」への転換。社会現象を臨床的に解説する形式から、社会現象を取り扱った論説群をメタレヴェルで整理する形式へと、時評のトレンドが転換した」(p.48)。
・「第二に、評価主体の固定方式から変動方式への転換。特定少数の思想家による恒常的な定点観測から、多数の批評家たちによる局所診断の集計へとモードが変成した」(p.49)。大知識人が全体性を代表しうる時代から、層状に存在する批評家たちが割拠する「小物群像の時代」へと変わった。


3,空間画定と再帰性 学芸欄の論壇時評
論壇時評が発明されることで、「論壇を(遡行的に)感知せんとするまなざしが作動したのである。その認識がゆるやかに共有される。結果として、論壇は言説的に構築されていく」(p.59

《「論壇」とはなにか》への三つの回答例
回答①|論壇構成要素の拡張力学。「論壇時評は自明視された境界上に侵襲作用を発生-促進させる。そうすることで、たえず複数領域の批評の配置=地図を組み替え続ける」(p.60
回答②|固有名の提示。巻頭論文を戸坂潤や本多謙三に書かせるべき(谷川徹三)。宇野弘蔵を論壇に!(大森)。
→結果としてリクルーティング/スクリーニングの機能を果たす。
回答③|アカデミズムの素養に裏付けられた器用な専門家たる、新世代の論客を批判し、全体性において捉える思想家・総合的知識人像を教導的に指示する議論(室伏高信)。
 →論壇時評での提言を論壇動向にフィードバックせんとする言説戦略。


4,メディア論の予感 相互批評の交叉点
 「批評は「書く」ことで成立するのではなく、他者に「批評される」ことによって円環を結び、はじめて成立する。……この批評行為の無限連鎖は連鎖の過程においてそのつど空間=場を出来させる。その空間はときに「論壇」と名指されもするだろう」(p.65)。
 →空間の外延を規定する審級は、例えば論壇時評にの動作に見出すことができる。メタレヴェルから批評テクスト感の相互参照の体系を抽出・明示する動作である。
 →そうして、個別領域へと分極化した立論を立体的に再縫合=編集する場として論壇時評は機能する。
 

5,消滅と転生 自己準拠的なシステム
 
 新聞メディアは雑誌以上に、大衆的な普及性を持つ。それゆえ、雑誌以上に(とりわけ政局に関わる発言に対して)制限がかけられた。「現実領域の政策決定に言及する論説を扱う論壇時評も無関係ではいられない」(p.72)。
 二・二六事件後の情勢急変に応じて、新聞での論壇時評の常設が停止され、のちに不定期化。しばらくすると総合雑誌に論壇時評が復活する。『日本評論』では、匿名形式の論壇時評が長期連載される。……などなど、政治的動向と言論への制限なかで、論壇時評はメディア間を回遊することになる。

オスカー・ワイルド『幸福な王子』読書メモ

2015年度に出席した文学の演習に参加したときの読書メモです。
オスカー・ワイルドの『幸福な王子』を扱いました。

ちなみに言語は英語で読みました。



・なぜIや神が出てくる必要があったのか?
 245-246に唐突にI(筆者?)が出てくる。物語上、必要のなかったものを唐突に出す必要はあったのか(唐突な印象を与えるのは、末尾の神もであるが)。少し考えたが、理由はいまいちわからなかった。


・大人の有用性・実際性信仰

 町会議員の「風見鶏ほど有用usefulではないが」(7)、数学教師の「幸福な王子の像が天使みたいだ」という子どもに対する言葉(「一度も見たことがないだろう」(16))
 市長の「実際にactually」「本当にreally」(237-238)、美術教授の「もはや美しくないがゆえに有用usefulではない」(240-241)
 →実際家を気取っていながら、自分の住んでいる街での他人の声は聞こえないまま、鳥の死を禁止しようとしたり、誰の銅像を作るかで争ったりと、非実際的なことに最もかかずらわっている(と作者はは考えているようである)。 


・好意の利用?

 お願いしている体裁だが、良心に漬け込んでツバメを誘導しているように思える。少なくとも、王子がどういう意図であれ、結果だけ見れば、ツバメの好意と良心を利用して王子が目的を達成したととられても仕方ないのではないか。感想めくが、自分の分を超えた善意は他者を過度に巻き込むことになるのではないかと思った。


・王子の道徳的実践について

 ここではツバメを利用している点についてはペンディングして指摘を行うことにする。
 王子は単に「残酷」な状況が目につく度に、その状況をその都度解消しようとしているに過ぎない。一見場当たり的ではあるが、誇大な理念や理論的整合性を優先する態度よりは、ひとまず評価できるのではないか。
 また、王子が貧しい人は素晴らしいと言い立てている箇所はないし、富裕者を直接的に批判している箇所もない。貧民のパーソナリティを云々して、それを理由に助けようとするのではなく(貧しいけれどいい人だから助けようという話ではなく、単に困っているから助けている)、義賊的に富裕層の財産を奪って代わりに与えるというのでもない。この意味で、「虐げられる者こそが本物だ、そうでないものは認められない」とでもまとめたくなるような思想に陥った新左翼の轍を踏んでいないところがあるのではないか。その点は非常に興味深いものがある。


・キスする二人

 親愛の感情でもキスをするのはやや不自然? 同性愛的なモチーフが見出せる。

2016年4月9日土曜日

思想の科学研究会編(1952)『デューイ研究』をざっくり紹介してみた。

最近、ジョン・デューイの小論「戦争の社会的帰結」(1917)を翻訳し、noteにて公開しました。
第一次世界大戦に際して発表されたもので、インタビューを基にした原稿です。
100円で公開してみたので、ご興味あればどうぞ。
解題などの解説は無料公開しています。


ところで、今回はある本についてご紹介したいと思います。

思想の科学研究会編(1952)『デューイ研究 アメリカ的考え方の批判』春秋社

古本では超高騰しているようです。
日本のデューイ研究史上では重要と言えるでしょうが、5000円も出してまで買う本かというとちょっとわからないですね。。
位置づけとしては、敗戦後に公刊されたデューイ研究の中で初めてデューイを多面的な角度から、しかも内在的かつ批判的に扱った研究書である、という感じでしょうか。
(当時はプラグマティズム批判といえば、マルクス主義や分析哲学からの批判が主だったと記憶しています)

目次はこんな感じ

まえがき
デューイの生涯と活動(p.3)……鶴見和子
第一部 知性はどういう仕組みを持つか ――知性の体系
 科学の把握(p.31)……武谷三男
 歴史の把握(p.40)……鶴見和子
 人間性の把握(p.63)……南博
第二部 知性はどう働かせたらいいか ――知性の展開
 進歩的教育――アメリカ教育学の自己批判――(p.77)……宮原誠一
 芸術批評(p.100)……桑原武夫
 人間主義の宗教(p.112)……岸本英夫
 コミュニケイション(p.129)……鶴見俊輔
第三部 デューイとアジア
 胡適とデューイ(p.173)……竹内好
 日本におけるデューイ(p.186)……鶴見和子
 デューイ解釈の場(p.200)……鶴見和子

日本戦後史に多少通じる方なら、執筆陣の適材適所感を共有していただけるかと思います。各人ウィキペディアあるくらいの人なので個々解説することはしません。

この本は若干適当なところもないではないのですが、絶版でアクセスできないのももったいないので、簡単に各章で論じられていることをまとめてご紹介してみたいと思います。

順に見ていきます。


各章の内容


1、「デューイの生涯と活動」鶴見和子

デューイの生涯にわたる特徴を、日常的経験ないしコモンネス(ありふれていること)の注目と、「異花受粉(cross-fertilization)」に鶴見は見ています。
後者の「異花受粉」は、今風に言うと「学際性」でしょうか。ディシプリンに囚われず、異種混合的な場で思索・実践したということです。
この学際性の指摘にあたって、デューイが哲学に見出した「批判」の役割に著者が言及していることは特筆すべきでしょう。デューイの「批判」は、近年スポットが当たり続けている概念です。

もう1つ興味深いのは、色々議論したあと、デューイの民主主義論でオチを作るという、デューイ研究の常套的な展開が既にここに見られることです。

実際は他にも色んな指摘がされているのですが、この章の概説という性質上、ここで留めておきます。


2、「科学の把握」武谷三男

本章を一言でいうと、こんな感じです。
「デューイは実在概念を認めていない」、また「デューイの考えには思惟と行動しかなく、対象はこの二つに解消されている」。

これは端的に誤読・誤解です。加賀裕郎(2009)『デューイ自然主義の生成と構造』晃洋書房などを参照のこと。


3、「歴史の把握」鶴見和子

議論が飛ぶので、掻い摘んで紹介します。

・プラグマティズムには歴史理論が欠けている(恐らく、マルクス主義的な歴史理論を念頭に置いている)
・プラグマティズムの社会理論を見ればわかるように、プラグマティズムの歴史観は個体に始まり個体に終わる(つまり、焦点は個人にある)
・とはいえ、史学において機能主義を唱えたフレデリック・J・ターナーのプラグマティックな歴史理論のようなものもある。(鶴見和子は若干ターナーの議論を紹介する)
・習慣概念に注目し、プラグマティズムの歴史理論を素描する。

そもそも、プラグマティズムが個人ないし個体に焦点を当てているかというと、微妙です。
例えば、習慣は、強く社会的な影響を受けているものですよね。また、デューイはしばしば「孤立した人間(man in isolation)」という発想、18,19世紀の個人概念を強く批判しています。


4、「人間性の把握」南博

デューイの『人間性と行為』で提示している習慣概念は、「あいにく、はっきりと規定されず、また、内容が観念的で、生きた社会的現実の分析に心を向けていなかった」(p.63)と南は指摘します。
(これは、同書が社会批評的であることの裏面であるとも指摘されていますが)

こういう考えから、南は検討の対象を「社会心理学の必要」(1917)に移します。

ジェイムズの『心理学の諸原理』、タルドの『模倣の法則』は同じ1890年に出版されており、「集団的人間の本性に関する、より科学的な研究が、社会的に要求されて来たこと、および、新しい社会科学を作るのに心理学が重要な役目を持って居ることが認識されはじめた」(p.65-6)というデューイの議論を紹介。

こんな感じで「社会心理学の必要」を紹介していくのですが、南の力点は、この論文に現われたデューイの関心を共有しつつ、かの抽象的で社会批評的な『人間性と行為』は読み解かれるべきだ、というものです。


5、「進歩的教育」宮原誠一

デューイの教育理論には、1919から1928年にかけての長期的な海外旅行――中国、トルコ、メキシコ、ソ連など――の多大なる影響がある。
デューイをアイコンとする進歩主義的教育は、児童中心主義的偏向があり、古い個人主義を助長した。しかし、これは、デューイの立場とは全く異なっている。
カウッツはデューイに先んじて進歩主義的教育を徹底的に批判した。また、この両者には、社会改善への力点を置いており、両者には共通性が見られる。


国内のデューイ研究は、ほとんどが教育学のものなので、この種の研究は今でもいくらでもアクセスできるかと思います。


6、「芸術批評」桑原武夫

桑原は『経験としての芸術』十三章の「批評と知覚」に注目しています。正直、どう評価していいのかわからない文章だったので、紹介も省略。


7、「人間主義の宗教」岸本英夫

岸本はデューイの宗教論を『誰でもの信仰』として訳していたりします。

本稿では、デューイの宗教論を宗教的ヒューマニズムの注目すべき思想として位置づけています。
そして、「理想追求のよろこび」としてそれを詳述し、キリスト教的基盤で育まれた思想だあ、「その基盤であるキリスト教を踏み越えて展開した」ものであり、「宗教的背景の如何を問わず、通用するような構造の、ヒューマニズム的宗教観を打ち立てた」と指摘する。(p.124-5)

こうしたヒューマニズム的宗教観は、「近代人であれば、誰にでも、通用する筈である」(p.125)という発想から、デューイの宗教論(A Common Faith)を『誰でもの信仰』と訳したでしょうね。

終盤での指摘は実に重要なものです。
デューイの描き出す「理想」は、形式的なものであり、一見内容が設定されていないようにも見える。けれども、それが「よきこと」と呼ばれ、「よきこと」は「人間の生活経験や、人間が現実に住む社会と密接につながって」おり、実際的かつ社会的なものとみなされている。(p.127-8)
この点は、仏教や神道と突き合わせたとき、仏教や神道が「現実性をもったよきことを理想とする態度が欠如している」ことと対照的に見えます。(p.128)


8、「コミュニケイション」鶴見俊輔

色々なことが言われていますが、要点は簡単。
デューイはコミュニケーションの哲学者である。
しかし、そのコミュニケーション概念はやや素朴なところがある。
実際のところ、コミュニケーションって、コミュニケーションとディスコミュニケーションの二側面あるんじゃないでしょうか。

以上。


この指摘は、デューイ理解のためよりも、鶴見俊輔の思想発展を考える上で重要です。
コミュニケーションのズレへの注目は、彼の漫画論(例えば「プラグマティズム発展概説」など)に現われていきます。

ちなみにこの章だけ、他の章の三倍くらいの分量があります。
力が入っているんでしょうね。
この論考に注目した鶴見俊輔論としては、吉見俊哉さんのものがあります(『アメリカの越え方』)。

9、「胡適とデューイ」竹内好

胡適はコロンビア大学時代のデューイに直接師事していました。1910-17年のことです。

「胡適という人は、思想的には、深いものをもっていない。幅はひろいが、奥行きはせまい」(p.175)という診断から、竹内は、さしあたり、胡適をプラグマティストではなく、アンシンクロペディストとして位置づけます。

余談ですが、胡適は「1915年の夏にデューイの全著作を読破」したそうです。(当時の流通と出版の問題を考えると、たぶん、「全著作」ではないと思うのですが)
胡適は思想史家的にデューイに影響を受けて、デューイ研究者となったのではなく、デューイから「方法」を学んだのだ、と述懐しているそうです。
「方法」というより、構えや態度と言った方がいいかもしれません。
そして、胡適は実際に、デューイの思想の実践的側面を受け継いで、近代国家たらんと胎動する中国の現場にコミットしていく。(この意味で、胡適はプラグマティストだと言えると竹内は指摘)

竹内の議論で興味深いのは、アジアにおけるプラグマティズム受容について語った以下の箇所です。
私は、プラグマティズムは、中国のような後進国に持ち込まれると無内容になる……と思う。無内容のために、革命の条件が成熟している場合は、導火線として働くが、その役目がおわれば捨てられる。したがって、革命の条件を欠いている日本の場合は、その形式性のために、イデオロギイとして働かないために、持ち込まれたのではないか。(p.181)

この議論の下にある発想は、「プラグマティズムは、一面においては、アメリカ的エネルギイの自己表現としての、革命の理論である。ヨオロッパの植民地から自力で自己を解放する過程において形成され、その延長として、未来に無限の可能性を開いている。いわゆるフロンティアの精神だ。過去を断絶していること、歴史の重荷を感じていないこと、一切が現在の必要にもとずいて〔ママ〕可塑的であること、絶対自力であること、これらの特徴は、……革命的である」(p.181)

実際のプラグマティズムの起源、発展史と照らし合わせたり、実際のプラグマティズムの思想家の思想と照らし合わせれば、色々微妙なところはあるのですが、論としては興味深いところがあります。(メナンド(2010)『メタフィジカル・クラブ』みすず書房、魚津郁夫(2006)『プラグマティズムの思想』ちくま文庫などを参照)

また、竹内はこう書いてもいます。
「デューイが中国に与えたものにくらべて、かれが中国から受け取ったものの萌芽、より大きかったようである」(p.183)。
「デューイが中国に触れて書いた時評的な文章をよむと、日本の自由主義者(たとえば吉野作造)の観察などはバカらしくなるほど正確な判断をくだしており、しかも、多くの場合は日本と比較しているので、今日でも、私たちにとって頗る有益である」(同)

竹内がこのとき念頭に置いている時評的な文章は、1929年のCharacters and Events--Popular Essays in Social and Political Philosophyだそうです。


10、「日本におけるデューイ」鶴見和子

さすがに飽きてきたので詳しい内容は割愛です。

「デューイを驚かせたことは、この国の世論には一貫性がないということだった」(p.186)

数多くのデューイによる日本評価を引用している鶴見和子は、その的確さに驚きを示しています。
鶴見和子は、1952年にも変わらず妥当する指摘が多く含まれていることに驚いているのですが、現代の私たちは、鶴見和子と同様の驚きを繰り返さなければならないこと驚くべきかもしれません。


11、「デューイ解釈の場」鶴見和子

本書で一番エモい文章はこれでしょう。
そう長くはありません。

思想の科学研究会で研究会を催してきたとき、近所の警察官が念のために訪問しに来たというエピソードを引きながら、思想というと、何か厄介で、面倒なものであるという通念の存在を指摘します。
そこでは、思想=危険思想と言ってよいようなものになっている。

鶴見和子は「概念くだき」という手法を提唱していますが、そこで示唆されてるのは、高踏的で難解なジャーゴンが重要なのではなく、むしろ日々の当たり前の生活に根ざしたものとして思想を受け取ろうという発想です。
じつはわたしたちは、『シソウ』というのは、わたしたちのひとりひとりが、わたしたち自身の歩いてゆく方向を、それぞれにえらび出すために、いろいろな方向について、かんがえる〔傍点〕ということだと思っているんです。(p.204)
デューイ解釈の場と題されてはいますが、実際のところ、思想の科学の、あるいは鶴見和子のマニフェストだというべき文章かもしれません。

2016年1月6日水曜日

栗原康『現代暴力論』と千坂恭二『思想としてのファシズム』

今回は、読書会によく来てくれる方から、本を二冊いただきました。
ので、感想をあげてみたいと思います。

ちなみに、Amazonのほしいものリストを公開しています。送っていただければ、こんな感じで感想・レビューをあげます。



ではまず、栗原康さんの方から。ネット上にいくつか対談やインタビューがありました。著作もいくつかあるみたいです。
最近注目されている論客だそうですが、初めて名前知りました。白井聡さんの後輩だそうですね。

北海道新聞:「はたらかないで、たらふく食べたい」を書いた 栗原康(くりはら・やすし)さん
タバブックス:『はたらかないで、たらふく食べたい』刊行記念・栗原康インタビュー 前編  後編 
cakes:「気分はもう、焼き討ち――栗原康×白井聡対談」 前編  後編


まず、第一印象というか、そもそも文章・文体が生理的に合いませんでした。なので、私はこの人のよい読者にはなれないでしょう。人を選ぶ文章を書く人だと思います。
ちょっと、冒頭にあるデモ参加記を引用してみましょう。金曜日官邸前デモに参加すべく、地下鉄の国会議事堂前駅についた、という箇所です。
三〇分くらいしてようやく地上にでると、あまりの混雑にあるく場所さえありはしない。歩道をまっすぐいけば官邸前なのだが、警官がテープで阻止線をはっていてすすめない。とうぜん車道側には警官隊がびっしりで横にそれることはできないし、うしろにもどろうにも後方の人だかりをきるためか、やはり警官が阻止線をはっていていもどれない。友人から電話がかかってきて合流しようというが、ちがう駅からでたようで、ぜんぜんあえない。まいった。ひとが増えるにしたがって、ぎゅうぎゅう詰めになっていき、暑くて、暑くてたまらない。くるしい。わたしは水が飲みたくなって、カバンをゴソゴソやっていると、となりにいたおじさんが、「ううっ、ううっ」とうめき声をあげている。だ、だいじょうぶか。そうおもった瞬間、おじさんはなにかブツブツいいながら、ひとり警官隊につっこんでいった。車道にでる気だ。すごい。まっていましたといわんばかりに、みんながおじさんについていく。いっきに警官をおしのけて、道路にひとがなだれこんだ。みんな解放感に酔いしれる。おおきな歓声があがった。ふとあたりをみあwたすと、まえでもうしろでもおなじことがおおっている。道路占拠だ。/わあい、涼しい。わたしもうれしくて小躍りしてしまった。(pp.9-10)
ちょっと長めに引用してみました。
私と同じように、生理的に合わないという人もいるんじゃないでしょうか。

「生の負債化」がこの人のキーワードのようです。
この概念は何を意味するのか。人びとが奴隷根性的に「主人」の秩序に甘んじ、その体制に従うことを自己正当化している、というような秩序維持の戦略のことを指しているようです。
ただ、「戦略家なき戦略」というよりも、体制によるコントロールという古い管理社会的なイメージに引きずられているようにも思います。
この生の負債化、蓄群的な生をSurviveという言葉で著者は表現しています。帯文の言葉で言えば、「隷従の空気」ですね。
 
ところで、本著の副題には「あばれる力を取り戻す」とあります。
この「回復された生」のイメージ、蓄群的な生に対置された生のイメージを、Liveと著者は呼んでいます。
さらに言えば、道路占拠(オキュパイ)的な解放感、祝祭的なイメージが、この生のイメージには託されているようです。(それを「あばれる力」と呼んでいる?)

めっちゃ読みにくかったのですが、自分なりに主題を読み解いてみました。
しかし、回復された生のイメージに独自性があるようにも感じませんし(それは悪いことではないのですが)、批判している体制のイメージはやや古臭さが抜けきっていないような気もします。
個人的に、こういう議論の構成はあまり可能性がないのではないかと思いますし、こういう構成をとるにしても、もう少し洗練する必要があるのではないかと思います。

余談。
栗原さんのことは、特に知らなかったのですが、やせ過ぎだと思います。帯に著者近影があるのですが、ガリガリなんですよね。
こういう変わった生き方をしている人が、それなりに生きていける社会のことを、ゆとりある社会とか豊かな社会とか呼べるのだろうな、とか思いました。


さて、千坂恭二さん。
この方は、ウィキペディアの項目があったので貼っておきます。映画批評なんかもやっているようです。
『思想としてのファシズム』を書かしめた千坂さんの背景には、ユンガーの次の言葉があったようです。
ドイツの左翼知識人たちは、カール・シュミットやマルティン・ハイデッガーやエルンスト・ユンガーと、本来ならば是非とも対決しなければならないはずなのに、彼らを『ファシストの先駆け』だと断定してしまい、対決を避けるという悪い習慣にとらわれている。ナチス時代についてタブーを作ってしまうことで、左翼自身が自らの前史から切断されてしまっている。(ノルベルト・ボルツ『批判理論の系譜学』)
戦前日本において、戦争を支持し、それに大義を与えかねない思想を展開した思想家・哲学者らを、「悪」と名指すことで、彼らを特殊な存在として隔離してしまう。
悪をラベリングすることではなく、がっぷり四つに取り組んで、それと対決することこそ必要なのではないか。
この点は共感します。

雑誌に寄稿していた記事をまとめた論集だそうです。目次はこんな感じ。

中野正剛と東方会――日本ファシズムの源流とファシスト民主主義
内田良平と黒龍会――アジア主義の戦争と革命
世界革命としての八紘一宇――保守と右翼の相克
1968年の戦争と可能性――新左翼、アナキズム、ファシズム
連合赤軍の倫理とその時代――「軍」と「戦争」の主張
蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜――戦後日本と保守革命
ロングインタビュー 21世紀の革命戦争――ファシズム・ホロコースト

第三章をちょっと取り上げてみましょう。
前半部分では、保守の革命思想が取り上げられています。
革命といえば、左みたいな感じになっていますが、実のところ、右派にもそうした革命志向は存在したと指摘されています。典型的な例としては、世界革命としての八紘一宇があるだろう、と。

とはいえ、反安保闘争や全学連の闘争の頃までに、右翼は「反共」を意味するに過ぎないものとなっている。もっと言えば、反共親米です。
しかし、左翼が反米愛国的な民族的立場すなわちブルジョア革命の立場から、さらに日本帝国主義の自律(それはつまるところは日本が民族的独立を達成したということでもある)による社会主義革命を展望する地点にいたのに対して、右翼はまさにその出発点において反民族的といってもいいような反共親米派にすぎなかったことは看過されてはならないだろう。むろん右翼もすべてがそうだったわけではなく、個々的には神社本庁の葦津珍彦やクーデター論を展開した護国団の小島玄之などが存在したが、前者は戦後保守の内部に位置し、後者は右翼における周辺的な「トロツキスト」の域を越えることはなかった。(中略)……〔こうした動きは〕保守の急進化以上のものではなかったともいえるだろう。(pp.70-1)

「愛国」は、この後しばらくして、保守や右翼の文脈に回収されていくことになりますが、戦後以来、「愛国」は進歩派のキータームだったということを思い出してもいいかもしれません(小熊英二『民主と愛国』を参照のこと)。

右派にも革命思想があった。左派にも愛国思想が根付いていた。
この二つの指摘は、非常に重要なものだと思います。
(しかし、既に他の人が、より明確かつ体系的に扱っている論点でもあるでしょう。それこそ『民主と愛国』などが。 )


面白かったかというと、この本については、知識不足で評価しきれないところがあります。ただ、統一的な視点のもとに書かれた文章ではないので、読んでいて乗り切れないところもありました。
また、ロングインタビューを読むと、結構本気で「革命」を問題化しているんですよね。「こういう人ってまだいるんだな」と思ったというのが正直な感想です。

自分としては、革命のように「がらっと何かが変わる」ことに期待する気持ちは理解できますし、そういう思想を批判の論拠とすることに異論はありません。
例えばユートピア思想は、現実・現状に対する批判的な視線として、強烈な魅力がありますし、一定の効果があるでしょう(実際、ユートピア文学は、変革への期待に寄り添いつつ、現代まで読み継がれており、書かれ続けているわけです)。
しかし、歴史を見れば、そうした期待が十全に適ったことなどありません。期待は常に期待外れでした。変革は常に必要だと思います。しかし、その変革の戦略は、革命のような「ガラガラポン」よりも、ポパーのいうようなピースミール・エンジニアリングが現実的で妥当ではないでしょうか。
私はそう思っています。


二冊の本を通じて感じたのは、「こういう世界もあるんだな」というものです。
そして、ほとんど自分の視界にそれらが入っていないことにも衝撃でした(外山恒一くらいなら知っているのですが)。
あまり、いい読者とは言えなかったのですが、以上で感想・レビューとさせていただきたいと思います。