2013年1月25日金曜日

P8「いま、消費社会批判は可能か―國分功一郎インタビュー」読書会レジュメ #kansai_ct



PLANETS8の「いま、消費社会批判は可能か」と題された、哲学者の國分功一郎さんのインタビュー。インタビュアーは宇野常寛
この対談内でも話題にされている、『すばる』2012年2月に収録されている、対談「個人と世界をつなぐもの」は、内容的にも比較に値する。
簡便のために、以下は、『すばる』の対談をA、インタビュー(今回のやつ)をBとすると、ざっくり言えば、こんな印象。
 Aは、國分功一郎が、宇野常寛に話を聞いている。
 Bは、宇野常寛が、國分功一郎に話を聞いている。

内容の注目点も、この2つのタイトルに現れていて、「消費社会」(消費形態)についてと、もう一点は、「中間のもの」についてだ。
ちなみに、後者については、能動と受動の中間だったり、個人と世界の中間だったり、動物と人間の中間だったり、依存と決断の中間だったり、世間と学問を繋ぐ語りだったりする。



Aの対談から。

「中間のもの」――"語り口"  國分さんのブログ

語りの宛先/啓蒙の問題

かつて:吉本隆明、内田樹。関西クラスタ的には、鷲田清一や河合隼雄も。
90年代からゼロ年代始め:宮台真司、香山リカ→「社会学・心理学ジャーナリズム」

大塚英志「吉本隆明は、『啓発されました』と対談のラストで言う」(大意) 例えば、確か『全マンガ論』(うろ覚え)

※対して「文壇的スノビズム」80's
そういえば、こんなのも↑


「消費社会」――"味わい尽くす"  仮面ライダーの何かよくわからんやつ

本文の別の文脈の言葉を組み合わせて言い換えると、"楽しみ尽くす"
『暇倫』→楽しむのにも訓練

「消費と浪費」という区分の有効性はあるのか?by宇野

消費者=資本家の奴隷、資本主義的サイクルのコマ――●
(という図式の上での批判)

「楽しむ」ということ云々by國分

"食う"というイメージ――○
(例が柿ピーて。コンビニの柿ピーて。楽しそうだけど)

●=物に付与される、観念・イメージ・記号の消費
○=物自体の消費 → というより、物に私が(過剰に)付与する観念の消費 では

※浪費や、"味わい尽くす":バタイユの「消尽」(consumation)に触れてもいいんじゃないのかな、かな→湯浅博雄『バタイユ』(講談社学術文庫)湯浅博雄『バタイユ―消尽』(現代思想の冒険者たち)ブログの記事1ブログの記事2


Bのインタビューから。 

「消費社会」――思想とライフスタイル
思想(カテゴリ)に対応するライフスタイルという観点

(批判)思想=エコロジー←→清貧・我慢=ライフスタイル 80's

――ボードリヤールのエピゴーネン批判としての読み直し――〈反転〉でござるよ

(批判)思想=エコロジー←→浪費・快楽=ライフスタイル  cf,楽しく真剣(not深刻)
※エコロジー思想については、このエントリとかも参照。伊藤邦武『経済学の哲学』―エコロジーとエコノミー/裏地と織物 多分、國分さんは、以前のエコロジー思想を過小評価し過ぎ? その中のまともなものは、清貧というより、「中庸」を据えていたと思われる。


國分『暇倫』図式への再指摘by宇野

人間を画一化する装置に踊らされる(旧)→「発信」と「推し」=(応援と金銭) いわゆる所の"誠意と実弾"?
cf:前に読書会で取り上げた、ジョン・ガーズマ『スペンド・シフト ― <希望>をもたらす消費』 。そして、同系列の岡田斗司夫『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』 を参照。


「中間のもの」――依存症と決断主義

普通の人間の状態(人間的な状態)としての、退屈の第二形式。退屈と気晴らしの入り混じり、不純物。

依存症でいいのだ。by宇野 ~いいのか?by國分


交点――ソーシャルゲームは依存症?

ソーシャルゲーム、例えば……
モバマス、モゲマス、シンデマスで有名な、アイドルマスターシンデレラガールズ

>物語を見出すのに十分な、(過剰なほどの)物語群と、ファン間のコミュニケーションを持っている。(アイマスの蓄積)
>気付いている人がどれだけいるかはわからないが、システマティックに洗練されているがゆえに、意外にゲーム性高い(コストのシステム、スタドリ経済とか)

参考:アイドルマスターシンデレラガールズ@wikiWikipedia該当ページモバマスのまとめサイト
・個人的に、このページの海外のモバマスファンの反応がかわいいと思う。
・あと変なのは、すいません、モバマス初心者の自分に何故デバフ駄目なのかお教え頂けないでしょうか\(^o^)/ で、求められるがままに、「ゲーム理論」を使って説明しようとする謎の輩が現れるって話。

"消費"させる回路がそもそも衰退しているby宇野
"啓蒙"と言えば大仰だけど、面白い!を感じる、楽しむための訓練がい要る(まだ、"消費"はヤバいし、批判すべき対象)by國分


メモ)

國分さんについて。
結局、〈本来性〉に囚われているか、そうでなければ、「楽しむ」の意味が混乱している。
ソシャゲに訓練が伴わないのだとしたら、柿ピーはなんなのだ()

宇野さんについて。
常に批判対象を過小評価し過ぎているし、評価対象を過大評価し過ぎる。

『VocaloCritique』vol.5でも取り上げたが、マイナビニュースの「初音ミクって何かわかる?」とのアンケート結果が25%だったという2012年の記事があってですね。
そのまま、自分の論考引用しますね。
「読み物と割り切れば参考になる。驚くほど、『初音ミクなにそれ?』状態の人が多い。……初音ミクはスマップでも、明石家さんまでもなければ、黒柳徹子でもありません。だから、まだまだずっとマイナーなのだと言うべきなのでしょう。」p.72
無視できるほど衰退しているのだとしたら、ステマがこれほど話題になり、反応されるべきものとされるでしょうか。(最近ならペニーオークションの件とか)


ちなみに、1月25日17:25分現在↓
「みっくみっくにしてあげる♪」(short ver.)はニコ・つべで、13002155再生。
「みんなみっくみっくにしてあげる♪」は、1034196再生。
Tell Your Worldは、6296510再生。(ニコ動にはlivetuneが投稿していないので最も再生数の高いものを一つ)

もちろん派生動画とか色々あるわけだけど、多くてもたかだか一千万再生ですよ。
こんなこと、ボカロ廃が言っちゃってますけど。
あっ、そういや最近、伊集院静・中居正広・ビートたけしが初音ミクの話をテレビでやったらしいですね。



ニコ動の御三家はどこでドラマを演じるか――TRPGとMMD、〈貨幣〉化するキャラクター

○御三家と〈ドミナントなデータベース〉の有無―主に「声」とTRPGの観点から

あんまりわかりやすい話ではないと思います。主に、力量不足で。


・御三家について、前史。

『ゲンロンエトセトラ#5』「東方再考論」松本直之
面白いが目新しい論点はなかった。整理に主眼のある論考という印象。
原作(一次創作)における図像の揺れなどの指摘もあったけれど、問題はそこか?という感じがした。詳しくは読んでね。

TRPGとは(ニコ百)。 TRPGリプレイ動画=動画でキャラクター(PL)が、ゲーム内キャラクターを演じることになる。
基本的には、東方とアイマスが大活躍(東方卓遊戯タグと、卓ゲM@sterタグ)。ボカロは? あるいは、東方とアイマスの傾向の違いは?

着目理由:キャラクターに、(卓ゲーム内の)キャラを演じさせることの中に、どのようにキャラクターを考えているかが現れているのでは、と。また、声の付け方・有無、キャラの幅が実に多様で題材にしやすい。

※卓ゲーム内のキャラクターをPC、PCを演じる人をPLとか言ったりする。やるゲームによって、呼び方は色々あったりする(よね?)

③〈ドミナントなデータベース〉とは。
『VocaloCritique』の、主にvol.3で述べていること。ここでは、「聖典」がない。あったとしても、相対的なもので、受け手も作り手も、これを無視することができる、とかいう感じの話。
ここでいってる、〈データベース〉感を知りたいなら、名著・東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)『反=アニメ批評2012autumn』の関西クラスタ座談会を。宮台真司✕東浩紀の対談~『動物化するポストモダンを読む』~なんてのもあります。


・東方と声

声との結び付きが極めて弱い。言い換えると、どのような声とキャラの結び付きに必然性がないために、自由に声を与えることができる。(図像の揺れよりも、こちらの方がキャラとして興味深いように思う。)
同人アニメ/ゲームで、数多くの人が声を担っている。動画でも、「ゆっくり」(棒読みちゃん、Softalkその他)との結び付きも強い(TRPG動画、ゲーム実況、解説動画、いずれも東方キャラの数が圧倒的に多い)


キャラ付け、人格もも割りとラフ。トリガーハッピーな魔理沙、鬼畜なキーパリングの魔理沙、しおらしい魔理沙、不器用だけど男前の魔理沙、TRPG玄人の魔理沙、おっちょこちょいを霊夢と一緒になってやらかして場をかき回すマッチポンプ魔理沙……などなど。

ゆえに、どちらかと言うと、カップリングの問題口癖や語尾の問題の前景化が特徴ではないか。動画では、かなり自由なパーソナリティ/役割を乗せられている。

ここから出てくる影響として、その東方キャラを知らなくても、ゲーム実況やTRPG内のキャラ同士の会話は楽しめる。
当然ながら、動画ごとにキャラ付けはかなり違う。またPLとPCのキャラ付けも、かなり違う。

音楽とは関連しつつも分離され、キャラだけで動画上で流通する東方キャラにとって、今や語尾(「みょん」「~、それと便座カバー」)や口癖、ロールプレイ、そしてカップリングこそが重要な問題なのでは

東方は、ゆっくりボイスという声を得て、今まで以上に自由に演じている。アイマスは声との結び付きの強さゆえに、動画自体の直感的視聴しやすさと、ゆっくり独特のイントネーションが生み出す雰囲気を得ることができない。
空の存在、ゆっくりに声を与えられた東方は、どこでも―MMDでも、ゲーム実況でも―ドラマを演じている。


・ボカロと声

ボカロのTRPGはほとんどない。
カテゴリ分けとして生まれるほど根付いてないことを伺える例もある。このTRPG動画では、「紙芝居」すら銘打たれている。→【GURPSリプレイ】KaitoでKnight1【MMD紙芝居】

ボカロとMMDについては、「ボーカロイド消費にどれだけメタデータが関わっているかについて。」内の引用ツイートを参照。

背景に強固なキャラがない代わりに、機能/役割/関係性にまで抽象化された形で共有されている。
この点は東方と近い。ただし、東方と違って口癖や定番の語尾は今のところない。持ち物戦争ならあるけど(マグロ持っている時のルカは大抵、なんかおかしいとか、そういう感じの利用)。

これらの抽象化された形で、曖昧に共有されている、機能・役割・関係性は、カップリングのさせ方や、MMD内ドラマとして現実化されている。(例えば、発売順にドラマを見出したMMDの名作「足跡」)。
曖昧に共有された、機能・役割・関係のイメージを明快に言語化しているのが、例えば、『VocaloCritique』vol.1「Vocaloidによるデュエット曲の傾向と可能性」(アンメルツP)。

ほとんどデータベースらしいデータベースがなく、単に声を担うか、図像を抱えるだけの空の存在。原作(公式)における図像の揺れなんて、当然のボーカロイド。
『VocaloCritique』vol.1の「神なき時代の『ミクさんマジ天使!』論」では、「思いつく限りの形容詞を受け入れ」ることのできる存在だと表現されている。
『2012反=アニメ批評 autumn』の関西クラスタ座談会の議論はがっつりこれに関わる。

そもそも、TRPGが少ない。ボーカロイドがドラマを演じる場所の中心は、やはり、PVとMMDらしい。
ゆっくりボイス動画が多くないのも、既に持っている声の存在感が邪魔をするのだろう。だからこそ、単に図像だけの「字幕動画」や「トーキー」であるか、そうでなければ、ボカロでない、東方や他のアニメキャラの中の一つの存在として登場させる……という形を選ぶ傾向にあると思う。

結月ゆかりは、ボーカロイドでありつつボイスロイドでもあるから、興味深い存在ですね。実際、結月ゆかりは、Minecraftやスカイリムの世界で、様々なドラマを演じ、キャラクターを演じています。
ゲーム実況、特にRPG的なゲームの実況とは、PLがPCを演じるTRPGの構造に酷似します。


・アイマスと声

卓M@Sタグ検索。感覚的には、9割9分ゆっくりボイスや、その他の人の声が付くことはない。
アニマス、ラジオ、CD……。

前提となるデータベース=〈ドミナントなデータベース〉が比較的大きく、多い。
声優のキャラや関係性との類似やギャップが前提になっている(声とキャラクターとの結び付きがかなり強固)。
これにある程度習熟し、自分の中に、アイマスデータベースを形成する必要がある。このハードルをある程度超えると、大体みんな熱心なファンになる。
一昨年のアニマスは、あれをひと通り見ることで、知らないうちに、視聴者の中にデータベースを作っちゃうというアニメだったのだと思います。
自分の周りにも、アイマスファンがごそっと増えました。


典型的態度や典型的台詞、どのカップリングによってどういう会話するかという漠然とした想定を得るには、パターン数が比較的多い
(その意味で、放送中の「ぷちます!」は、短い分、強烈に強調されているので、適切なアイマス入門になりそう)。

消費層が社会人として働いている人が多く(アーケードの頃から考えると30~40歳くらいが第一世代?)、根強い。
ニコマスは、それ以外の人間の、重要な入り口だった。最近は、アニマス→モバマスの流れの人が多い。

TRPGでは、どんな動画でもキャラクターが同じ所に落ち着きやすい。つまり、PLとPCがほとんど一致。シリーズ(キャンペーン)が長くなると、次第に離陸していくこともある。
結局、PL持っているPCも、元のアイマスのキャラ付けからほとんど離れていない。(だからこそ、長いシリーズで、それを離れた時の感動はひとしおです。)

ボカロと同じで、TRPG(やゲーム実況で)、ゆっくりボイスや人の声がつくことはまずない。
これも合わせて考えると、アイマスは、内部にアイマスデータベースを持った人が作りさえすれば、常にドラマが生じうる。
ここがアイマスのドラマの中心だ! というものは、ない。(MMDも含め)全部のジャンル/動画の種類が中心だというのは、ファンの力強さと表裏なのかな。


・まとめ?

強固なデータベースが根を張っているアイマス。これは根強いファン、参入障壁と裏腹。
データベースがあるけれど、参入するのに必要な前提や情報が、「印象」や「語尾」「関係」の程度まで抽象化されて、楽しむにあたってもはや〈ドミナントなデータベース〉を持たない、東方・ボカロは、動画サイトで流通する(情報というより)貨幣のような存在になりつつあるのかもしれない。

もちろん、「楽しむ」にあたって、いくらでも掘り下げることができる。ボカロ(東方も?)は、〈ドミナントなデータベース〉、ひとつの大きいデータベースがあるというよりも、複数のゆるく結び付き合い、共有し合っているデータ(ベース)群があると考えたらよいかも。




○まとめると言ったな。あれは嘘だ。

・貨幣化するキャラクター

この流れでPLANETS8の座談会「キャラクター表現の現在」p.142で、村上裕一さんの言ってる、〈貨幣〉化ということを文脈から外して曲解する。(P8と座談会については、こちらを参照)

「『ゴーストの条件』でMMD、の話を展開した際に面白いと思ったのは、ミクから始まったMMDという表現形式がミクを必要としなくなった点なんですよ。
言ってみればそれはミクが貨幣のような存在になって、誰もその重要性を意識しないけれど、現実に世界を回していくようになったということです。」

紫部分の言葉は、MMDがボカロを必要としなくなったという文脈で発されたものだが、このままではちょい意味不明だと正直思う。そうではなくてむしろ、〈貨幣〉化のプロセス〈貨幣〉という概念については、このように考えれば、有意義だと思う。

つまり、この作品は参照しなければいけないという「聖典」のなさ=〈ドミナントなデータベース〉のなさ→それゆえに、実際の参照・影響などの関係とは無関係に、フラットに受け取ることができる……という意味で、〈貨幣〉化=透明化なのだ、と解釈すれば有意義。
(この種の議論は、VocaloCritiqueのvol.3,5で、朝永ミルチが論じております。何度も宣伝乙)

この発言以降に続くものも少し引用すると、
「僕はそれをひとつの完成形としてイメージしていたんだけど、実際にミクが透明化したときに、『魔法少女まどか☆マギカ』みたいに、消えたまどかが『円環の理』として統御してくれるならいいけど、消えたら単に忘れ去られちゃうんじゃないか、なんていう恐怖がある。」
やはり、あんまり何か意味があって、貨幣って比喩を持ち出したのではないよう。実際この懐疑の仕方は、あんまりよくわからない。
初音ミクみくでも記事になった、Togetter発の「ボカロ文化の現状考察と衰退の妄想」みたいな話なら、わかるけど、この文脈では、そういうことではない。むしろ、貨幣である限り、使う度に、ミク(ボカロ)をさしあたり目にするわけですから、「円環の理」を持ち出すのはやり過ぎでしょう。むしろ、ここに関しては、村上さんのテンションが「円環の理」に導かれていそうな。

紫の文章の部分、その雰囲気だけ借りて、概念化し、実際のボカロ現象の中で当てはまりそうなものに適用すると、「聖典」=〈ドミナントなデータベース〉のなさゆえに、クラスタを飛び越え、ジャンル、動画区分、用途・目的を飛び越えて流通するほど、キャラクターが流通している事態を、そのキャラクターの〈貨幣〉化=透明化の事態だと呼ぼう、とすれば、有用な概念になるのではないかと。

相変わらずまとまりませんなぁww
羊頭狗肉な気もしますが、とりまここまで。

2013年1月23日水曜日

MMDについて。拡散していくMMDと、MMDの特徴メモ

色々あって、色々考えている私ですが、忘れそうなのでまとめておきます。
このエントリを読む方は、基本的には、ボカクリの中の人の一人が書いているのだという目線で読んでもらえばいいのではないかと。
MMDerの方とか、マッチョな見る専の方は、ツッコミ・補足頂けると嬉しいです。

以下の二本立て。
○MMD初期の頃、ボカロから拡散していくMMDについて

○MMDについてのある特徴――現実の再現、無生物、非現実



P8「キャラクター表現の現在」読書会レジュメ代わりというエントリも併せて見てください。(前半は、これの焼き直しです)

この「キャラクター表現の現在」の中で、批評家の村上裕一さんはこんなことを言っています。
「『ゴーストの条件』でMMDの話を展開した際に面白いと思ったのは、ミクから始まった、MMDという表現形式がミクを必要うとしなくなった点なんですよ。言ってみれば、ミクが貨幣のような存在になって、誰もがその根本的な重要性を意識しないけれど、現実に世界を回していくようになったということです。」(『PLANETS 8』p.142)
この後で、この裏面にある危惧も述べられているけどカットカット。
『ゴーストの条件――クラウドを巡礼する想像力』でも、MMDが結局、全てのニコ動のコンテンツ(群)、とりわけ御三家の受け皿になっていて、強靭なプラットフォーム化している的な話とかもされていました。(うろ覚え)

でも、そいつは本当か?
印象ちゃうんか、と。割りと初期から、アイマスとか重なってたんじゃないの?
と思った私、調べました。
アイマスは、プレイ画面(ライブ中)が、MMD的なポリゴンなので、そういう印象が強かったのかもしれません。

・MMDの変化――MMDの受容短史

樋口優さんの投稿動画(08年2月末)
→最初はツールを触ってみたもの、踊らせてみたものが多い。
現実への重ねあわせ、人間と一緒に踊る。元々踊っている映像に重ねる(ハレ晴レユカイの多さダンス系のEDとかとの重ねあわせ)。ラジオ体操や、街の映像に重ねるもの、ニコ動に流通しているネタの再現。アイマス曲を踊らせているもの、アイマス映像との重ねあわせがかなり多い。

→次第にドラマ、PVも増えてくる。他モデルは、出てくるのも遅いし、少数(例えば、謎のズゴック?✕ハレ晴レユカイは8月)。最初はミク、リンレン辺りのモデルばかり。
08年7月、MMD杯第一回開催MMDのランキング動画開始も8月。10月には、MMD体育祭第一回(第三回まで)。

最初期のMMD✕アイマス「テスト やよいヘッド」(08年8月25)/リンがやよいの被り物を被ってる。東方はゆっくりがにとりの唄を踊ってるものが09年の2月に投稿されている(「東方MMD」タグでも最古だから、これが恐らく最初のMMD✕東方)。モデル配布文化が根付き始めたのも、8月末辺りから(「MMDモデル配布あり」タグ参照)。
それ以降、段々浸透していくが、ボカロも含め、モデルの拡張の前線に誤算家がいたのは興味深い(『ゴーストの条件』での、ののワさん、たこルカ、ゆっくりは重要なテーマだ)。

※ツールとしていじって楽しんでる/手探り(「MMD体育祭」開催はその両面の表れでは)。
モデルの拡大の前線には、単純なもの(デフォルメされたテト、たこルカ、ののワさん、ゆっくりなどの御三家)が常にいた。
他の御三家と本格的に交わり、受け皿となるのは、09年2月辺り(丁度解説動画投稿から一年)以降。
※MMDのアップデートや改変との関係は、見る専的には不明。

こんな感じでした。
ざっくり言えば、ののワさん、たこルカ、ゆっくりは、クラスタ貫通的な想像力を持っているという議論が『ゴーストの条件』ではされています。
けど、実際の所、Softalkや棒読みちゃんという声を持つことのできた存在は「ゆっくり」だけであり、「強い貫クラスタ的想像力」があった存在は、ゆっくりだけだったのかもしれません。
(これは、このエントリの「御三家と声」について書いているところ参照)

・MMDの特徴―現実の再現/無生物/非現実

MMDの特徴とはなんでしょうか。MMDにしかできないこととはなんでしょうか。
現実の再現についても、MMDerの技術向上で、MMDの主要な特徴、可能なこととして、無視できないものになったなぁと思います。
第9回MMD杯で、Mitchie Mさんが選んだこちらの作品などは、その極地ではないでしょうか。ここには、非現実だからこそ託せる現実があるように思います。
ミクにだから、歌ってもらえる詞や、メロディがあるように、MMDだから託せる風景、とでも言いましょうか。

こちらは、祈りというほど大仰なものではありませんが、笑顔になる「現実の再現」だと思います。こちらもMMD杯、第9回より。
無生物非現実、という観点もあるのではないかと思います。
この辺は、ポン酢の「キュポン」という音とかを使った柚子音ぽんや、フミキリを使ったフミキリーネ・クワンとかを生み出したUTAUの発想に近いものがあります。というか、こういう想像力すら受け止めるのがMMDです。フミキリ―ネ・クワンのモデルも、ばっちり配布されているのは御存知の通り!
とりあえず、この動画でも見てください。こちらは、UTAUですが。

無生物というものを、もう少し詳しくみてみると、非人間モノ(物自体)があると思います。
非人間は、上に述べられているような、ののワさん、たこルカ、ゆっくりをも含みこむものでしょう。ぷちます!のキャラも、実際どうでしょうか……非人間にカウントされてもいいかもしれません。
非人間――あるいは〈クリーチャー〉でもいいですが、これというと、またまた第9回MMD杯で、尻Pが選んだ動画を思い出すといいかもしれません。
この動画は本当にすごくって、妖精的なものから、奇怪なもの、醜悪にすら近いもの、それからモノ自体(机?)をも並べ立てて、絵本のような構成を作っているんです。恐怖と、感動と、不思議な懐かしさと……その配分も絶妙でした。


こちらも、非人間ないしクリーチャー的な感性を効果的に担いうるMMDを象徴する動画として挙げられると思います。↓



以上が非人間への愛着でした。まだ触れていないモノへの愛着とはなんでしょうか。それって、フェティシズムのことですよね。例えば、これはそれがすごく現れていると思います。現実の再現の裏地として出てくる特徴かもしれません。例えば、トウナステイションの映像にも、モノへの愛を感じますから。

非現実を担うMMDとしては、以下の2つを挙げれば、言いたいことの全てが伝わる気がします。
(なんで第9回MMD杯なのかというと、この時は時間があって、マイリスしている動画の数が他の回に比べて多く、サンプルを発見しやすいからです)

現実の人間には不可能な動き。クリーチャーの不可解な動きということで言うと、ホメ春香のlove&joyとか楽しいですよね。 ぷちます!のごとき、へちょマギ。尻Pが選んだ動画だったような。見るだけで楽しい動画ですね。自分は何回も見ました。魔法のようなエフェクト、ドライブ感――これらは、あくまでも非現実に属するものでしょう。
……という感じで、いくつかの特徴をまとめてみました。

現実の再現無生物(非人間とモノ)、非現実
現実の再現、再現であるからこそ託せる思い。
非人間―クリーチャーへの興味、愛着。モノへの愛着としてのフェティシズム。
エフェクト、動き、流れ、空間、現実を再現することも可能なMMDが不可避に帯びる非現実の色彩。

そういえば、モノについては、フミキリ→フミキリーネ・クワンみたいな感じで、そこから擬人化まではすぐですね。
クリーチャー惑星の机みたいに、擬人化を伴わないクリーチャーの方が少ない気がします。

2013年1月19日土曜日

P8「キャラクター表現の現在―東方・アイマス・MMD以降」読書会レジュメ #kansai_ct

『P8』――僕たちは〈夜の世界〉を生きている

座談会「キャラクター表現の現在――東方・アイマス・MMD以降」(p.140-149)
参加者:石岡良治、黒瀬陽平、坂上秋成、村上裕一(、宇野常寛)


自分と『Vocalo Critique』については、「2012年活動まとめ」というエントリ参照。
ボカロ、アイマス、東方――いわゆるニコ動の御三家、その全てを受容するMMD。座談会参加者もボカクリ読め!というわけではありませんが、参加者のように頭はよくなくても、コンテンツにかけた時間とコンテンツ愛だけは勝っている発表者です。


○本文中から、いくつかのトピックをピックアップ

座談会の内容はそんなに……。面白くも新しくもない。自分の見通せなさをコンテンツのせいにしている…というのは意地の悪い見方かな。理系の文系批判/文系の理系批判と同じにおいが。
とはいえ、いくつかポイントだけピックアップする。

・MMDの変化
印象で語られてて、割りとイライラしたので、実際に調べました。
ここに書いていたものは、下記のエントリに移植しました。まとめだけ残します。

※ツールとしていじって楽しんでる/手探り(「MMD体育祭」開催はその両面の表れでは)。8月が転換点?
モデルの拡大の前線には、単純なもの(デフォルメされたテト、たこルカ、ののワさん、ゆっくりなどの御三家)が常にいた。
他の御三家と本格的に交わり、受け皿となるのは、09年2月辺り(丁度解説動画投稿から一年)以降。
※MMDのアップデートや改変との関係は、見る専的には不明。

詳しくは、別のエントリに加筆の上書きました!
「MMDについて。拡散していくMMDと、MMDの特徴メモ」


『ゴーストの条件』村上裕一
本書は三部に分けられる。
①一部では、「分析的」に〈ゴースト〉を構成しようとしている。いかに、キャラが立ち上がるか、素朴な想定からの構成。(そのことは、確定記述が取り上げられていることからもわかる。イメージは、マルクス『資本論』第一巻の貨幣分析)
②二部では、直接〈ゴースト〉について触れられ、生成環境との相互関係の中、論じられる。キャラ立ちしたキャラクターのある得意な形態=〈ゴースト〉と考えてよい。その例が、やる夫であり、初音ミクである、と。詳しくは、本書を嫁。
③三部では、〈水子〉について触れられる。基本的には単なる(アツいけど)コンテンツ批評化している部分。〈水子〉や〈人形〉がキーワードであり、〈ゴースト〉へと繋がっていくモチーフであると、村上さんは考えているらしい。多分、この記述の混乱は、〈人形〉〈水子〉についての話(これらはそのままでは〈ゴースト〉ではない)と〈ゴースト〉とが、半ば混同されていることに起因する。〈人形〉や〈水子〉というモチーフは、〈ゴースト〉の寓話として読めば、一部~三部は見通しよく読めるはず。
宣伝乙↑

・宗教とキャラクターのアナロジー
仏閣と仏像との比喩はあんまりうまくないよね。
なぜキャラクターに対して、宗教のアナロジーが頻繁に用いられるかについては、「かんなぎ」を考えると案外わかりよい。神自体がキャラクター化されている作品。人に覚えられ、人に祈りを捧げられ、人口に膾炙することが、神としての存在感/力に繋がっていく。
他の例は、例えばSkyrimのメリディア神。「世界の暗き隅々の不浄を灼き払いなさい。我が名においてその剣を振るえば、我が力を増すことにも繋がります」

・情報環境内部での、消費感情
「情報環境的に、現在は『萌え』よりも『推す』ことが面白くて、ロマンチックだと気付いてしまった。」(p.145)宇野
→アイドル詳しい人、なんか言って。

・ボカロ小説、ボカロとメディアミックス
割りと的はずれな議論の感。



↑言い古されたことを、何を今更……という心の声。

詳しくは、『ボカロクリティーク』vol.3「ボーカロイド現象の行方――共同体としての初音ミクの拡大、あるいはネットワーク環境に祝福された『祭り』の境界」を参照。『ゴーストの条件』が半ば下敷きの議論。
vol.5の「60年後のボーカロイドを夢見て」でも、その延長の議論をしている(vol.5はとらのあなで在庫あるかも? 公式アカウントのツイートなどにリンクあり)。
基本的には、ボカロ小説は、他ジャンルとの〈交渉〉、現実との〈交渉〉という問題として思考するべきだと考えている。

自意識キャンセラーとしてのボーカロイドについても、手を替え品を替え、ボカクリの中で色んな人が論じている。
一番直感的にわかりやすい説明は、紀貫之が『土佐日記』を、女性が描いたものとして、女性に仮託して、率直素朴な感情表現を書き付けたということを想起することでしょうか。


○御三家と〈ドミナントなデータベース〉――主に声とTRPGの観点から

以下のものは、「ニコ動の御三家はどこでドラマを演じるのか――TRPGとMMD、〈貨幣〉化するキャラクター」というエントリで詳細に論じてあります。最初の部分だけ残しておきます。

・御三家について、前史。

『ゲンロンエトセトラ#5』「東方再考論」松本直之
面白いが目新しい論点はなかった。整理に主眼のある論考という印象。
原作(一次創作)における図像の揺れなどの指摘もあったけれど、問題はそこか?という感じがした。詳しくは読んでね。

TRPGとは(ニコ百)。 TRPGリプレイ動画=動画でキャラクター(PL)が、ゲーム内キャラクターを演じることになる。
基本的には、東方とアイマスが大活躍(東方卓遊戯タグと、卓ゲM@sterタグ)。ボカロは? あるいは、東方とアイマスの傾向の違いは?

着目理由:キャラクターに、(卓ゲーム内の)キャラを演じさせることの中に、どのようにキャラクターを考えているかが現れているのでは、と。また、声の付け方・有無、キャラの幅が実に多様で題材にしやすい。

※卓ゲーム内のキャラクターをPC、PCを演じる人をPLとか言ったりする。やるゲームによって、呼び方は色々あったりする(よね?)

③〈ドミナントなデータベース〉とは。
『VocaloCritique』の、主にvol.3で述べていること。ここでは、「聖典」がない。あったとしても、相対的なもので、受け手も作り手も、これを無視することができる、とかいう感じの話。
ここでいってる、〈データベース〉感を知りたいなら、名著・東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)『反=アニメ批評2012autumn』の関西クラスタ座談会を。宮台真司✕東浩紀の対談~『動物化するポストモダンを読む』~なんてのもあります。

(以下略)


=======その他のメモ======



関連するその他。



2013年1月18日金曜日

伊藤邦武『経済学の哲学』―エコロジーとエコノミー/裏地と織物


例えば、戸田山和久の『知識の哲学』が、懐疑論を裏地として織られた、知識論の伝統と現代の知識論に関する素描だとすれば、その形式に似ている。

実際のところ、1限ということもあってかなりサボっていたのだけれど、伊藤先生のこの内容に触れる授業は取っているから、かなりわかり易かった。
この新書は、通常の経済学史の裏地ですらないもの――例えば、根井雅弘の『異端の経済学』で語られるような、"異端"にすら分類されないもの――エコロジーの経済思想を扱うものだ。

エコロジーとエコノミーの相克、緊張、共犯関係、沈黙、共闘……この弁証法的な関係を、エコロジーに軸足を置きつつ、エコノミーという裏地にもかなり目配せをしながら描かれた経済学の哲学史だ。
ラスキンという思想家を中心に語られることになる。実際、「19世紀の経済思想とラスキン」という副題すら与えられているのだから。
(例えば、『暇と退屈の倫理学』でもかなり重要な役割を果たしていたウィリアム・モリスや、ご存知のガンディー、あのプルーストもこの思想家の影響下にある)
面白いことに、彼の思想は見捨てられることなく、まわりまわって、そのかなりの部分が、近代経済学の体系の中に回収されて行っている。これが面白い。

伊藤先生自身が、「あとがき」で自身の『ケインズの哲学』とかなりリンクするとの旨を書いていることですし、同じ京大の経済社会思想の佐伯先生の、上下組の新書『アダム・スミスの誤算』、『ケインズの予言』を併せて読むと美味しいかもしれません。

 

ロハスとか、エコとは違う、エコロジーの一面。
忘れられた思想家、ジョン・ラスキン
かなり、面白かったです。
ラスキンの『近代絵画論』に関しては、松岡正剛の千夜千冊にありました。参考までに。

伊藤先生が挙げていた、エコロジー思想の参考文献の中から、ほんの一部だけ紹介。
リュック・フェリ『エコロジーの新秩序――樹木、動物、人間』
レビュアーが叫んでますが、実際そこまで読みにくくはありませんでした。彼ないし彼女が、個人的にアレなだけでしょう、多分。
アンナ・ブラムウェル『エコロジー――その起源と展開』
ジョージ・マイアソン『エコロジーとポストモダンの終焉』
レイチェル・カーソン『沈黙の春』
これもやっぱり入ってるんだなぁと。

2013年1月13日日曜日

豊田徹也と暴力―『ゴーグル』の児童虐待と体罰

COMIC ZINで配布されたペーパー。
谷口ジローに絶賛され、アフタヌーンに時々漫画を載せている、漫画家豊田徹也。
四季賞出身者です。それで、この『ゴーグル』に収録されている、表題作「ゴーグル」が受賞作品でもあるわけです。

いずれにせよ、豊田徹也については、「アフタヌーン作家」と言えば、分かる人にはわかりやすいかも。

まぁ、明確に(話や絵からしても)谷口ジローの系列に入る作家だと思います。彼自身も、谷口ジローから影響を受けたと明言しているくらいですし。


そして、豊田徹也のどの作品も、谷口ジローが絶賛しているのがわかる。最初の単行本である、『アンダーカレント』にも、谷口さんは帯文を寄せていましたね。
谷口ジローについては、最近で言うと、漫画版『孤独のグルメ』を描いている人、と言えば通りがいいかもしれませんね。



豊田徹也さんの、『珈琲時間』に寄せて、レビューまがいのコラムを書いた(NETOKARU)こともありました。
※現在サイトが閉鎖されみることができません。
 このレビューのポイントは、大体以下の3点でした。
  • 紅茶でもなく、ハーブティでもなく、珈琲であることに意味がある
  • 話の構成において、カオスと生活感が同居していること/その交点にある物語が収集されているという特異性
  • 珈琲がある時空間であれば、珈琲でもって共有する時空間であれば、なんでもよいというフックのラフさの魅力

必然性はないのだけれども、それでも、珈琲が選択されていることの意味合いを、別の観点から伝えるために、高野真之さんの『BLOOD ALONE』のセリフを引用したりもしました。


ちなみに、豊田徹也はウィキペディアにちゃんと項目があります。熱心なファンが一定数いるおかげですかね。自分の周囲にも、豊田徹也スキーがいたりします。


さて。問題の、『ゴーグル』です。
出版されたのは2012年10月23日。去年の、冬に片足かかったような寒さを感じる頃でした。
アフタヌーンの公式ページの謳い文句は…

「アンダーカレント」「珈琲時間」というロングセラーを生んだ豊田徹也はじめての短編集。単行本未収録だった表題作、ファン待望の『ゴーグル』ほか、月刊アフタヌーンにて発表された、感動あり、笑いあり、そのどちらでもない微妙なものありのバラエティー豊かな中短編が楽しめます!
下手くそかっ。まぁ、その通りなんだけど。

例のごとく、目次から。
  • スライダー
  • ミスター・ボー・ジャングル
  • 古書月の屋買取行
  • 海を見に行く
  • とんかつ
  • あとがき

個人的に好きなのは、「ゴーグル」と「とんかつ」でした。豊田徹也の描くおじいさんと、胡散臭い人間って、どうしてあんなにかっこいいんでしょうね? あと、豊田徹也の描く女性は、「眉目秀麗」といった感じで、かっこよくて美人です。
ちなみに、「あとがき」は、あとがきというより、著者解題風の「あとがたり」でした。



小学生じみた感想はさておき、表題作の「ゴーグル」とその前日譚「海を見に行く」について。
あとがきで、「今にして思えば、認識が古い」と筆者は語っていますが、私はそんなことはないと思う。古くて新しい題材だった。

物語の中に、暗く差し込む題材のひとつに、体罰/虐待があることは否定できないでしょう。
しかも、それは、昨今取りざたされているテーマでもあります。

一応「取りざたされている」例を挙げておくと↓
「〈大阪・高2自殺〉体罰の暴走、止まらず 顧問の『王国』で」(13年1月13日、毎日)
「体罰教師、18年間異動なし。市教育委員会方針から逸脱」(13年1月10日、産経)
「大阪・体罰自殺。保護者『僕らの頃はもっと厳しかった。親の責任だと思う。先生は頑張って。応援します』→保護者ら、拍手」(2chのまとめサイト)
変化球というか、失笑モノではこんなのも。
長嶋一茂ビンタ擁護論「これで一斉に廃止したらどうなっちゃうのか」(13年1月11日、JCAST)
内田樹が、自分の個人的な体験でもって就活とか語っちゃってるのとおんなじですね。
内田樹の「就活についてのインタビュー」(13年1月12日、BLOGOS)


こうした暗澹たる言説・報道の中、一筋の光のように感じられたのは、やまもといちろうさんの文章です。

やまもといちろうさんの記事「体罰と教育」はとても興味深いものでした。
ここでは一部だけ引用しますが、ぜひ本文を読んでみてほしいです。

なぜ体罰が行われていて、その体罰が果たしていた役割というものを見極めたうえで、体罰をやめたあと別の方法でその役割を担わせなければ、教育現場が荒廃するだけかもしれません。広い心で学生自身の更生を見守る、という経験は、私自身が類マレなラッキーを持っていたからであって、本当に前途有為な子たちが自ら死を選ぶことが一件でも減るようにするためには、通り一遍の体罰禁止とは違うところに解決策があるのでは、と感じざるを得ません。

荒れているとされる高校がなぜ荒れてしまうのか、体罰をしなければならない理由など、さまざまなものが語られずに残されている気がします。また、教師を含めて教育の現場がもっときちんと声を上げられ、何か子供がやらかすたびに画一的に教師の責任とされてしまうことのないような報道になるといいな、と思います。それは、叩いて子供を育てた時代からの決別を、叩かれて育った親による家庭と叩かないと規律を守れない教育現場と双方が取り組まなければならないことです。そして、家庭にとって学校へ躾の至らぬところを押し付けてはいけないことでもあります。

体罰と教育、といえば簡単なテーマなんでしょうが、これは「社会の尊厳」の問題だと思うんですよね。あるいは「出来の悪い子と社会の向き合い方」。

簡単じゃねえぞ、これは。

問題を見据えながらも、不安や怒りを抱きながらも、でも決して安易な言説には乗っからず、わかりやすい議論になんか乗っかってやるかという意気が感じられます。
わかりやすい責任論や、問題を無化するような言説を脇目に見ながら、なんとか希望を語ろうとするこの姿勢は、実のところ、『ゴーグル』の具体的なセリフにストレートに見出すことのできるものでもあります。

体罰を受けているひろ子の、母方の祖父(作)が、友人のやっている焼き鳥屋で二人、語らう場面(pp.161-163)です。
長くなりますがすべてを引用してみます。

「その後、孫はどうしたい? 元気でやってんのか?」

「いや、相変わらずだな。学校にもあまり行ってねぇみたいだ」

「アレかい。母親は相変わらず厳しいのかい」

「そうみてぇだな。身体にいつもアザ作ってる」

「作さんが言っても、収まんねぇのかい」

「何度も言ったんだが、その度に『お父さんにそんなこと言える資格があるのか」ってな。俺も昔は言うこときかせるのに娘のことひっぱたいてたからな」

「でもよォ、子ども躾けんのに、親がひっぱたくのはしようがねえんじゃねえか? 俺らだってそうやって育てられたんだからよ」

「……俺もそう思ってたんだけどさ。今思い出しても、俺は親父のことなんざ好きじゃなかったし、殴られて育ってきたことをありがたかったとも全然思えねえんだ」

「まァなァ、昔の親は厳しかったからなァ。でも話してわかんなきゃ手ェ出すしかないだろ」

「この年んなって思ったのはさ…。ありきたりだけども暴力じゃあ結局何も解決しねえんだな。昔は何キレイ事言ってんだって思ってたけどよ。やっぱし何も解決しやしねえよ。
一回ひっぱたいていうこときかせるだろ。その内一回じゃ効かなくなって、2回・3回と増えてくんだ。それがだんだんと5回・6回・10回・15回……。
そうなりゃやってる方も、やられてる方もマヒしちまって、なんの為にひっぱたいてたのかわからなくなっちまう。
最初の1回・2回が効き目があるんで、ついそれに頼っちまうんだなあ。
話し合えばわかるとも思っちゃいねえけどよ……。
そういうことを面倒くさがって、手っ取り早く力ばっかり使ってると長い目で見りゃ、どんどん悪い方へ行っちまうんだな……」

これは、「ゴーグル」の一幕。「描き込みが細かい」タイプの作家と言えば食指が動く人もいるかな?

こうして書いておきながら、これに付け足して、何か言いたいという気分には、どうしてもなれません。


代わりに、読書中になるほどと膝を打った話題を、ここで紹介することにします。
それは、自明視されている「児童虐待」なるものが、いかに社会的に構成されてきたか、どのような歴史的偶然によって成り立っているか、という議論でした。

ネタ本は、イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』
記憶とメモを頼りに書くので、細かい点は間違ってる可能性もありますので、ぜひ気になった方は直接本を当たってください。


歴史上、最初に、「児童虐待」や「児童への暴力」が問題化されたのは、ヴィクトリア朝の時期です。ヴィクトリア朝では、諸々の社会改革が行われることで知られています。
しかし、一連の改革において、児童虐待は「最後に」提案されました。
児童雇用に関する工場法、禁酒、選挙権拡大、反生体解剖、動物への残虐行為反対……の後に登場したのです。
現在は、最も生理的に嫌悪感の抱かれるタイプの話題なので、すごく意外な感じがします。

しかし、問題化されたこのときでさえ、「児童虐待」の内実は、現在のそれとはかけ離れたものなのです。
試みに相違点を列挙することにします。
  • ヴィクトリア朝期には、「貧しい人が子供を傷付ける」とされた。つまり、児童虐待は階級特有のもの。
  • 「子供への残虐行為」を、「嫌悪」したり、何を差し置いても「恐怖」し、「非難」すべきものとして考えていない。
  • 現代は、医者の制御する領分になっているが、かつてはそうではない。
  • 子供への性犯罪は、法廷で扱われるけれど、「子供への残虐行為」には分類されず。しかも、別法廷。
最初に公的な場で児童虐待が問題化されたのは、1874年「ニューヨーク子供への残虐行為を防止する会」だとされます。
この結社は、動物への残虐行為に反対していた人道協会に「付属する会」として結成されたことは注目していいと思います。

そのあとは、色々あって、すっ飛ばすと……

1960年頃、コロラド州のデンヴァーにおける、小児科医の提案によって、「児童虐待」が、ある行為や行動を記述し、分類する方法として使われ始めます。
この時はまだ、「児童虐待」に、性的虐待は含まれていませんし、外傷がある虐待を問題化したものでした。限界はあったのです。


こんな感じで、「児童虐待」という概念の歴史は、現代から見ると、かなり意外な経緯をたどっているわけです。
かなり端折った紹介なので、気になった人は、イアン・ハッキングの『何が社会的に構成されるのか』の第五章「種類の制作」を見てください。

2012年の活動まとめ。

仕事まとめ…というほどではないにしても、やったことのまとめを作ってないなぁと思いまして、レポートの息抜きに作ります。


○NETOKARUスタッフ
気が付けばなっていました。コラム書く頻度とクオリティの低さで、TLにMISUMIさんを見かける度に心の中で切腹しています。コラムは全部挙げると多いので一部だけ。

主なコラム
・漫画コラム
こがわみさき――『空声』の聴覚とディスタンス
高校生の頃、こういう文章書いていたなぁと。その再現みたいな漫画紹介。ふと気付いたのだけど、スカイリムで「声の力」が伝説の英雄の主要な能力として示されていた。ファンタジー世界における「声」は、『空声』のように、人びとの距離感や関係性の形象であるか、スカイリムのように、魔術的でマッチョなパワーの形象であるかの、二つの道がありそうですね。

・さよポニ論たち
さよならポニーテール『きみのことば』に寄せて[改稿版]
さよならポニーテールの想像力・前半――サンホラ・悪ノ娘/AKB・部活
さよならポニーテールの想像力・後半――世界観「シミュレーション」とストリートライブ的共犯関係
『きみのことば』レビューでNETOKARUデビューです。勢いで書いたものを、修正し、追加し……ってやったものなので、(しばらくしたら全面的に工事したけど)読みにくいですね。
後二者をアップロードした翌日とかに、クロネコが「さよならポニーテールの構造について」を語り始めて驚きました。けれど、この連載は、さよポニ論の裏付けにすらなったように思います。

・小説コラム
青柳碧人の『浜村渚の計算ノート』を計算しない
伊藤計劃『メタルギアソリッド』――空想対話的レビュー
江波光則『パニッシュメント』✕西尾維新『鬼物語』トランスレビュー
なんかこれは好評だった気が。ただ、これは色々「抑制」しながら書いたもので、続編の紹介/レビューを書いた時に、その「抑制」を解除したら、「なんだかなー(゜∀。)」って感じの出来上がりに。一番言いたいことは言ってない。青柳さんも、そろそろ中堅作家が射程に入るくらい冊数出てきましたね。
2つ目は、ブログにあるものを、読みやすく修正して掲載したもので、3つ目は宗教という項で接着して2作品を重ねあわせたもの。

・インタビュー他
ゲーム実況者えふやんスペシャルインタビュー
実はこんなのも。気軽なことを聞こうとしたけれど、いつの間にかお固い話に。マイクラで同人誌作る時、もう一度インタビューしたいなー。今度はカジュアルで、どうでもいい感じの。

【インタビュー告知等】白紙の本に言葉を記すように――歌人、馬場めぐみ
思い詰めの詩学――気鋭の女流歌人・馬場めぐみインタビュー
今年一番の仕事ではないかと。告知と共に書いたコラムは黒歴史かなーと思って読み返したけれど、過去の自分の考えていたことが、「そんな風にも考えられるのか」とハッとさせられた。なんか変な気分。
ちなみに、「白紙の本~」は、サムネイル画像がなくて困っていた時に、ニコニ・コモンズからそれっぽい画像を探して見つけたのが、何も書かれていない本であったことから、逆算して付けられたタイトル。
このインタビュー、短歌クラスタにやけに好評だった。

・その他
初音ミクの黒魔術的召喚について。第一回――ミクさんとデートしよう!
VocaloImagineという批評誌から、ねぎぽよしくんを引っ張ってきて書かせた(意味深)
タイトルは、5秒で私がつけた。反省してる
ボカロ批評誌『VocaloCritique』――VOCALOIDは批評できるか
タイトルは釣りですね(ぶっちゃけ)。ボカクリとねとかるを繋ぐコラム。ボカクリスタッフになった当時に書きました。


○VOCALO CRITIQUEスタッフ

気付いたらなってました。公式サイトはこちら。(とらのあなで委託販売しております)

多分、去年だけで7冊出ました。(vol.2~7とUTAU CRITIQUE)
ボカロクリティークの原稿穴埋め係こと、朝永ミルチが寄稿したのは、vol.3とvol.5です。

vol.3
「ボーカロイド現象の行方」(論考)
「小説 マーメイド」(創作)
前者は、村上裕一さんの『ゴーストの条件』のボカロ論を下敷きに、色々書いたやつ。12000字くらい?
本文でも引用した、柴那典さんにも読んで頂いて本当に嬉しかったのを、今でも覚えている。
後者は、10日Pの「マーメイド」の二次創作。これをきっかけに、10日Pとmeisaさんとお話までできた。あんまり知らないかもしれないけど、原曲は実は、GUMIなんですよ。
オチに脱字がある……その悲しみを背負って生きています。

vol.5
「60年後のボーカロイドを夢見て」
本当は二部構成で、後半は『情報処理』の学会誌がボカロ特集していたので、その紹介/レビュー。この学会誌について、詳しくは、初音ミクみくさんの該当記事とか見れば、どういうことかわかるかなーと思います。
前半について。こういう文体、嫌いじゃないんですよね、実は。本気か冗談かわからない書き方。やおきさんが「淡々とした口調」みたいに紹介してくれていた気がするのですが、実は嬉しかったり。

ボカロクリティークが聴き専ラジオを乗っ取った(12月22日)
アルコールで声が枯れている上に、アルコールが抜けると眠たくて急に無口に。
ボカロクリティークの歴史を振り返る……と称して、みんなダベってるだけなラジオでした。Podcastだよん。


○寄稿やその他

橙乃ままれアンソロジー
先日、委託分も含めて完売したそうです!(再版はリプライ等での要望によるとか)
魔王勇者―まおゆうもアニメ化され、アツいことになっている橙乃ままれさんですが、実は、このアンソロジー本、各種コミカライズ担当の漫画家さんが寄稿していたり、橙乃ままれさんのロングインタビューがあったりと、豪華、豪華の同人誌なのです。
「from the lasting song」という、まおゆうの小説を寄稿しました。
奏楽師弟という、あの物語の中で浮いているキャラクターがいるのですが、それについて考えたものです。私には、奏楽師弟という存在が、あの物語で、(少なくとも明確な形では)成功しているようには思えない。それでも、幾度も登場し、かなりの言葉が割かれ、彼女に苦悩させ、歌わせ、何事かを決意させている。
まおゆうという作品が、基本的に政治・経済・教育諸々の少しハードなもの(「政治」と「文学」の対比で言えば、「政治」)であるとすれば、奏楽師弟はほとんど唯一、ソフトなのもの(「文学」)を担う存在に思えたのです。(「政治」=ノンポリって言う時の「ポリ」ですね)
奏楽師弟が、「失敗」しているのなら、まおゆうは「失敗」している。あるいは、成否で語れない水準のものなのか? そういう諸々を考え、込めました。まおゆうが、「最終回」から始まる物語であるように、私のこの小説は、「最終回」から始まるまおゆうという物語の、その「最終回」(から更に少し離れた地点)から始まる物語です。
感想として、「名前の代わりに役割で呼ぶSSの作法を知らずに、まおゆうを読んでいた頃の疑問―〈役割を終えた後、彼らは名を変えるのか〉に、ひとつの回答例をくれた気がします」と言われて、悶えたのはいい思い出。
編集にmayさん他、獅子奮迅の活躍をされている中、「実家の事情」があって、死にそうな目をしていて何もできなかったのが心残り。宣伝も込めて長々書いてみた。
ちなみに、まおゆうは3日くらいぶっ通しで語れる。「正義は伝播せず~」というブロマガの論考があったけれど、殊まおゆうの記述に関しては、全く話にならない!何を読んでいるんだ!とか、色々フンスフンスして語ると思います。


森田季節✕馬場めぐみ(✕ゆりいか✕朝永ミルチ)トークライブ

途中から飲み会のノリになってた。反省してない

森田季節の新年の新作、『ウタカイ』が出ることですし、機会があればそれをネタにまたできたらいいなぁ……なんて。いずれにしても、『ウタカイ』は、馬場めぐみと森田季節を明確に繋ぐラインだと思います。
ちなみに、百合姫連載の元になった原型がブログ、森田電鉄に。連載時から、大幅に改稿されたとのことで期待。「制度」「システム」の間で揺れる、若者、特に少女の切迫した感じ、ヒリヒリさせる感覚を、また味わえるだろうと思う。期待。
イラストは「えいひ」さん。一迅社もいいチョイスをするもんだなぁ。

関西クラスタ(ラジオ)
宣伝込みで、紹介だけ。文化系トークラジオLifeでも認知され、ゲンロンエトセトラでもインタビューが掲載されて、拡大を続ける秘密結社「関西クラスタ」は、鷹の爪団みたいなものです。
ラジオは通常回に1回、他もちょろっと出たり出なかったり。

アニメルカ『反=アニメ批評 2012autumn』
一応、関西クラスタ関連ですが、座談会に出てボカロの話してます。
菊地成孔さんとかもいる中で、あれだね! まぁいいやw
長さの都合でカットされたこととしては、このエントリの、まさに『ゴーストの条件』が触れられた後で言及されたナボコフの再読論なんかは、とても面白いので、最近河出文庫で文庫化再版された『ナボコフの文学講義』(上下)とか読んでみてくれたら嬉しいです。

・小説読書会の主催
平野啓一郎『ドーン』直木賞をとった『利休にたずねよ』伊藤計劃『メタルギアソリッド』なんぞを読んできました。次は、貴志祐介『新世界より』を読みます。2月16日予定です。
読書会そのものについては、例えば、このエントリを参照してみるとよいかも。

京大短歌18号
どこかに書いていたり、書いていなかったり。


思えば、案外色々やってましたね。覚えている限りでは、これくらいしてました。なんか、想像以上に時間食ってなんか疲れた…

2013年1月1日火曜日

山川偉也『哲学者ディオゲネス』―貨幣の価値を変えよ



あけおめ。
年越しですしね。あと、関西人だし、うどんかなーと
ひもじいなう! 今年もまた、おじさまやおばさまにお年玉をねだる時期が来ましたね……
ということで、お年玉ください><


……さて!

最初に、なんか面白かった所を。
語の多様性は知らなかったし、拘束についてこうしてまとめてるのを見たことなかったので。

「奴隷」を意味するギリシア語は、イヌイットにおける「雪」のごとく実に多様で、一般的なものだけでも「ドウロス」「ドゥモス」「アントロポス」「オイケテス」「パイス」等々たくさんある……。……このように多様な言葉で表現される「奴隷」身分の人間たちは、自由人とは対照的に均しなみに次のような人格的束縛の下にあった。

1,奴隷は、あらゆる法的訴訟において、その主人あるいは主人によって委任された人物によって代理されなければならなかった。
2,奴隷は何者かによってその身体を拘束されても、それに抗うことが許されなかった。すなわち、奴隷は拘束と逮捕に際して抵抗することなく服従しなければならなかった。
3,奴隷は、みずからが欲することを選択しえず、その主人の命じることをなさなければならなかった。奴隷には、自分の意志によって行動する自由がなかった。
4,奴隷には移動の自由がなかった。また、自らが生活したいと思う住居で生活することができなかった。(本書pp223-224)

山川偉也『哲学者ディオゲネス 世界市民の原像』(講談社学術文庫)を読んでいます。

フーコーの最晩年の講義『真理の勇気』(上に貼ってあるやつ)の購読をしていて、それの副読本的に読んでいるわけです。これはまさに、ディオゲネスを中心とする「キュニコス主義」について主題的に扱っているコレージュ・ド・フランスでの講義です。

ちなみに、タイミングよく柄谷行人『哲学の起源』も出たので、それも読みました。これは、キュニコス主義については、ちょっと触れられている程度ですね。
同じくディオゲネス・キュニコス主義を扱ったものとしては、スローターダイク『シニカル理性批判』があります。これもまた、面白い。まだ途中までしか読んでませんが。山川は「浩瀚な書物」と賞賛していましたが、まさにそうだと思います。まぁ、フーコーの方が好きですが。

最初に柄谷行人のに触れると、これは小説DA! とても面白い小説だった!!!
まぁ、でも、例えばヘロドトスがリベラルに見えてきたりする。視点は面白いと思います。死ぬほど間違ってるわけでもないと思います。けど、やっぱり小説ですよ、これは。

===

・ディオゲネスって誰やねん

ディオゲネスは、ソクラテスより少し後の時代の人。アレクサンドロス大王と会った時のエピソードは有名ですね。「何かしてやろうか」「そこに立つと日を遮ってるから、どいて」(大意)的なやつ。
シノペという所出身なので、「シノペのディオゲネス」と呼ばれたりします。プラトンでもそうですが、ディオゲネスさんは何人もいるので、出身地とかを前に付けて区別するんです。
前に付けるやつのことを「エピセット」って言います。これは覚えていて損ないかと。

本来なら、日本語wikiでも貼ればいいのでしょうが、「キュニコス主義」も「ディオゲネス」も、割りと誤謬だらけ、誤解だらけ、無批判的な記述に溢れていたので、ふわっとした記述で我慢してください。英語wikiはまともでした。


・推理ゲームとしての『哲学者ディオゲネス』

筆者は最初、シャーロック・ホームズと、考古学で未踏の業績を残したシュリーマン『古代への情熱』の人)を引いて、「彼等のように、透徹した仕方で、ギリギリまで精密な推定が必要だ」というようなことを述べます。
実際、特に序盤は推理ミステリを読んでいるかのように、様々な典拠からディオゲネスの人間像と、彼の人生とを「追い詰めて」いくわけです。
「これは、あれに反するから違う」「これも違う」「こうではない」「ああではない」……
選択肢を潰す様は、まさに推理ゲームですし、ある程度は否定神学みたいですよね。
「これは神ではない」「あれは神ではない」「これではない」……という論法ですから。

ただ、推理小説って、連続殺人がほぼ達成されてから解決するじゃないですか。あれは「推理がうまくいった」と言っていいんでしょうかね。いくら透徹した推理でも、推理ゲームとしてはグズグズなんじゃないかなーとか思ったり。
アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』を元にした、クトゥルフ神話TRPGの「そして誰もいなくなるか?」(ニコ動)を思い出して見ると、これはグズグズに人が死に、傷付いて、もやもやする終わり方になっているわけですが、本書はどうでしょうか?
まぁ、読んでそんなことを考えるのもいいかもしれません。


・キュニコス主義はいかに訳すか

山川が一章の注釈(5)で面白いことを言っています。これは本書の小さなハイライトです。
どういうことかというと、キュニコス、あるいはキニク派を、「犬儒派」「犬儒主義」と訳すことに関して、徹底的に批判的な立場に立っている。彼は「根本的な誤訳」とすら言う。

「犬」というのは、彼らが自ら掲げるモチーフですし、「犬」という言葉については、致命的な文化的差異はありません。
他の思想(家)からも、「犬」のレッテルは与えられます。例えば、ディオゲネスを「犬のソクラテス」と呼んだのは、プラトンでした。
しかし、山川によると、「儒家」「儒教」的な要素はない。さらに、「儒」が意味するのは、「巫祝・祭礼に関わる人」だけれど、これはディオゲネスが拒否したノモスを担う人間。
『シニカル理性批判』のスローターダイクが気を遣った点でもある。キュニコス主義を英訳すれば、シニシズム・冷笑主義に回収されてしまう。スローターダイクは、「キュニコス」「キュニシズム」と訳し、シニシズムとは明確に区別しています。
哲学者も、哲学研究者も、こういう点はすごく拘るんですよね、実は。


===

それほど、書くべきことがないんですね、実は。細かい内容が多いし、大まかな内容は読むのが一番なので。
ということで、自分の気になった側面から、この本を通過しつつ、ディオゲネスについて好きに書きたいと思います◎


「貨幣の価値を変えよ」――ノミスマをパラハラテインせよ

これは、ソクラテスでいう「汝自らを知れ」でした。
同じく、アポロン神殿の神託でありながら、生涯を通じた謎であり、さらには、彼自身を象徴する言葉。

ノミスマとは、基本的には貨幣のことですが、「ノモス」に通じていくことからもわかる通り、法・慣習・制度を意味する言葉でもあります。
アリストテレスのノミスマ論と言えばティンとくる人も一部にはいるでしょうが、その場合は前者、貨幣のことですね。後者は、ポリティコン・ノミスマと表現したりもするそうです。

この神託はディオゲネスだけに与えられたものでありながら、ソクラテスのそれのように、キュニコス主義を標榜する人は、その言葉を自らも掲げつつ生き、またキュニコス主義でない人も、その言葉を彼等に帰するのです。


ディオゲネス(の父)は貨幣鋳造局の偉いさんだったことがあり、「貨幣の悪鋳」を責められて、追放の憂き目に遭います。
ご存知でしょうか。貨幣の価値を変えること、贋金を作ることは、経済学的にも哲学的にも重要なテーマだったりします。
現在の「ゲーム」に乗っかりながら、それを乗っ取り、価値を変えてしまう。
ゼロ年代批評的に言えば、「ハッキング」ってやつですね。ズラしてしまう。書き換えてしまう。
(正直、真新しさの欠片もない想像力ですよね。それが悪いとも思わないけど)

例えば、アンドレ・ジッドの『贋金づくり』を見ればわかるように、ストレートに文学的モチーフでもあります。
映画でも、「ヒトラーの贋札」なんてのもある。

最近出た本で、トマス・レヴェンソンの『ニュートンと贋金づくり――天才科学者が追った世紀の大犯罪』なんてのもあります。
なぜか、古市憲寿さんが面白がって読んでた不思議。


日本なら、『坂本龍馬の「贋金」製造計画』(新書)なんてのもあるようですね。
恐らくこれと同時代を扱ったガチ版、主に薩摩視点の話で、『偽金づくりと明治維新』(徳永和喜)なんてのも。



グレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」を持ち出せば、「貨幣の価値」を変えよ、のイメージがしやすくなるでしょうか?

既存のゲームに乗っかりつつ、その価値を堕落させ、流通させ、書き換えてしまう。
体制の裏返しをする時に割りと利用される手段でもあります。「この秩序」を骨抜きにして、「別の秩序」を構想する。
フーコーは『真理の勇気』の中で、キュニコス主義が、系譜として、革命の思想に流れている、というようなことを言っています。まさに、「別の秩序」なわけです。
(この辺りが、個人的には、マフィアのむき出しの自由・暴力・秩序への興味に繋がるのです→「新書『イタリア・マフィア』――終わっていること。元も子もない自由、暴力、秩序」を参照ください。)

ちなみに、ハイエクなんかが、グレシャムと逆のこと言ってますね、そういえば。あんまり詳しくないですけれど。


最後に何点か

・分厚いだけあって、面白い!
けど、これから入ると、途中で飽きちゃう人が多そうです。キュニコス主義とか、ストア主義、ディオゲネスに既に興味をある程度抱いた上で読むととても有用だと思います。

・あと、数学(算術)的な説明を持ち込む必要あるのかな? ないと思うよ(迫真)
プラトンでやるならわかるけど、ディオゲネスはそういうのすら拒否しているはずで……。

・この本で一番役立つのは、「ディオゲネス伝」逸話一覧表です。これは、ディオゲネスのペーパー書く人には不可欠ですねー

・ラストに一応目次。

目次
序章 「世界市民」の原像としてのディオゲネス
第一章 「ディオゲネス伝」読解のために
第二章 シノペ――通貨変造事件前夜
第三章 シノペ――通貨変造事件当日
第四章 通貨変造事件直前・直後の顛末
第五章 象徴戦略としての「犬」、そのシンボリズム
第六章 狂ったソクラテス
第七章 ディオゲネスとアレクサンドロス
第八章 ポリス的動物と「獣」のアナロギア
第九章 ディオゲネスの奴隷制批判
第十章 自足して生きる
第十一章 アリストテレスの正義論
第十二章 世界市民への道
終章 世界市民主義の地平
あとがき/参考文献/「ディオゲネス伝」逸話・トピック対照表/人名索引