2017年12月27日水曜日

大槻香奈個展「がたんごとんひるね」(2017)の感想

大槻香奈さんの個展、「がたんごとんひるね」をみにいってきました。
ギャラリー創治朗(伊丹)での展示で、2017年12月12日から27日まで開催しています(いました)。

「がたんごとんひるね」
いつもながら、使用する画像は、大槻香奈さん本人がツイッターに挙げている写真か、創治朗の公式アカウントが挙げている画像に限りました。
(以下、敬称略)



キャラクター化された人物――幽霊写真について


下の画像を見てほしい。
ゆめしかちゃんの右手には、古い写真を素材にした絵が飾られている。

大槻の展示を見たことのある人なら、必ず目にしているであろうタイプの作品だ。
画像では、小さくて見えにくいが、人が映った写真が使用されている。



ポイントは、その作品では、人の顔を隠すようにキャラクターの顔が書かれていることだ。

人に重ね描きされたキャラクター。
大槻の作品では、顔だけが「キャラ絵」隠されることもあれば、人を全体をかたどり、覆い隠すようにしてキャラクター的身体が描かれることもある。

写真を使った大槻の作品の中には、生身の人間の姿と、キャラクター化された人間が並んでいるものもある。
(会場にあったドローイング集に、その実例が見られたはずだ。)

そうした作品が最もわかりやすいのだが、こうしたその人の「その人らしさ」みたいなものが、キャラクター化によってデフォルメされた印象を受けるだろう。
生身の人間にキャラクターを重ね描きすることは、その人の生がもっていた「個別性」を失って、ある種の匿名化を達成することだと言える。
(ここで、私はアンダーソンの「無名戦士の墓」のようなイメージを思い起こしてしまう。)

少し視点を変えよう。
写真論の古典、『明るい部屋』の中で、ロラン・バルトが、「かつて=そこに=あった」という印象を与えるのが写真の特性だと指摘したことはよく知られている。
(この特性を、うまく利用し、私たちの印象を撹乱するのが、杉本博司の「シロクマ」などの初期作品。)

しかし、私たちは、キャラクターを重ねられた人物(の写真)から、「かつて=そこに=あった」という印象を受け取ることはない。
キャラ化された人物は、その写真において見られるものでありながら、その写真が撮られた時空間に帰属しない。
これは、心霊写真の類に似ている。
いわば、キャラ化された人物は、キャラクター的な重なりによって、「幽霊」になっているのだ。
(キャラクターは、「まんが・アニメ的リアリズム」において捉えられる。こうしたリアリティが私たちの知覚体験に及ぼす影響を考察したことがある。……いつか論文にするつもりです、がんばる。)

幽霊は、死んでいながら、もう死ぬことのない存在として、私たちの生を取り囲むように、さまざまな事物において見出される。
写真に描き込まれ、重ねられたキャラクターは、幽霊と呼ぶ他に適切な名前が見当たらないだろう。
(そこで、写真に重ね書きするシリーズを、「幽霊写真」シリーズとでも呼んでおこう。)


モノにおいて、クリーチャーによって――気配と幽霊写真


ここ1,2年ほど、大槻は「気配」という言葉を多用するようになった。
「気配」という言葉は、そこに実際に人がいるときに、人に対して使うだけでなく、そこに人がいないときにでも、環境や事物に対しても使われる。

実際、植木など、人の生活を取り囲むモノが描かれることは多い。



「気配」という言葉がタイトルに組み込まれた作品にも、こうしたモノは(いささか唐突に)侵入している。


上の写真は、絵の一部分だ。
私の記憶が正しければ、この絵の左下には、犬のようなクリーチャーが描き込まれている。
植物のようなモノだけでなく、人間的現実に属すかどうかも定かでない生き物が。

ここで、中沢新一が、虫取り的な感性の延長に「ポケモン」ブームを捉えたことを思い出そう。
中沢の議論がさしあたりは「子ども」をモデルにした議論であるように、子どもの想像力は、しばしば私たちが生きている日常を取り囲むように、「かわいい」クリーチャーを知覚するだろう。
今、「子ども想像力」と書いたが、実際に子どもである必要はない。子どもに象徴される想像力のことだと思えばいい。

大槻が、不思議なクリーチャー(や図形)を描くのは、私たちの生を、人間的な現実とは異なる秩序に属する「何か」が存在しているという直観を表しているように思われる。
ちょうど、ポケモンや妖怪ウォッチ、妖精が描かれた文学のように。


このことが特徴的に表れているのは、今回の展示で飾られていた作品よりも、ドローイング集の中にあるいくつかの作品だ。
小学校かどこかで、子どもたちの絵を飾った教室の背面を撮った写真を使用した作品のことだ。
背面に掲示された絵のいくつかが、キャラ化されたものや、イヌのようなクリーチャーに書き換えられているのだ。
私たちの日常に、そういう「何か」が、いたのかもしれない。

「幽霊写真」は、バルト的な「かつて=そこに=あった」ではなく、「かつて=そこに=あった=かもしれない」ものを表現するものだと言えるだろう。
「幽霊写真」は、私たちが子どものとき、存在に気づいていたが忘れてしまったことを表現している、あるいは、私たちが気づかなかっただけで存在したかもしれないものを伝えている。


少女たちを通して、(確か花のような)「何か」が透けて見えている。
それと同じように、私たちは、モノや人や環境をそれ単体でまなざすとうよりも、それらにおいて「何か」を見ている。

いずれにせよ、恐らく、「気配」という言葉でかたどられているのは、私たちがモノにおいて「過去」を見るときに抱く「かもしれない」という感覚なのだ。


想像力それ自体の作品化


今、私たちが享受している(と感じている)「現実」には、様々な線が描き込まれている。
それは、社会とか秩序とかルールとか言ってよいものかもしれない。


その線に重ねるように、何かがこびりついたり、他の何かが描かれたり、また別の何かが侵入してきたりする。
こうした線引きや侵入は、主体の能動的な働きというより、向こうから否応なく「やってくる」ものとして、いわば「流入」として描かれているように見える。

想像力は、しばしば人の能動的な働きだと理解されている。
しかし、私が研究で扱うジョン・デューイという思想家は、やや受動的なニュアンスを込めて使っている。
つまり、何らかのヴィジョンが自分の現実に侵入してくるとき、その媒介的な役割を果たすものとして、想像力を捉えている。
やむにやまれず突き動かされる力、それが「想像力」の本懐だというのだ。



主体による積極的な構成や投影というより、向こう側からやってくるかのように捉えられる想像力の働きは、「流入」の比喩で、しばしば描かれる。
とすれば、線を引き、図形が侵入し、色がこびりつき、クリーチャーが跋扈する雑多でジャンクな作品群は、こうした人間の受動的な想像力を捉えたものと言えるかもしれない。

要するに、大槻は、様々なもの(=幽霊/気配)が流入する世界を描いているのだが、それは、人間の想像力のプロセスをそのまま作品化したものなのだ。


日常を取り囲む気配


何の変哲もない、日常触れるものたち。
大槻の作品で、封筒、卵ケース、チラシなどが使用されることを、私たちはもっとシリアスに受け取っていい。


日常を取り囲んでいて、そこここに、あったかもしれない「何か」。


こうした視点からみると、大槻の作品には2つの突き抜け方があると思われる。

①どこから視線を送ったらよいのかわからないほど、雑多なものがジャンクな秩序感で描き込まれたもの



②何の変哲もないもの



①では、あらゆる「何か」が重ねられ、溶け合っている。
それを、想像力の反映と見てもいいし、幽霊の跋扈する世界だと見てもいいし、境界侵犯の実例と見てもいいし、逆に、ジャンクな秩序形成の戦略と見てもいい

②として、単に家や人やモノが描かれた作品を念頭に置いている。
大槻の絵を、ある種の「文化装置」(C. W. ミルズ)として、自分のものの見方を変えた者なら、意識しようがしまいが、その作品において「何か」を、つまり、「幽霊」を見るだろう。
もはや、明示的に描かれる必要はない。



高校の頃に現代文の授業で読んだ印象的な言葉が思い出される。
思想家の林達夫によると、(この場合文芸の)作家の戦略として、意味をどんどん肥大化させていて、過剰さに突き抜ける戦略と、逆に、どんどんと意味をそぎ落としていって、もはや意味を担いえないようなギリギリまで研ぎ澄ませていく戦略の二つがある。
もちろん、この二つが、上の①/②と大まかに対応している。

これだけがありうる観賞の切り口でも、ありうる作家の戦略ではないが、そんな仕方で見てもいいんじゃないですか、という話でした。
おしまい。





2017年12月26日火曜日

2017年の活動記録

一昨年くらいまでは、「今年の活動記録」のようなものを作っていたのですが、色々忙しかったり何だったり、でまぁ、放置していたので、思い出したように書いてみます。

<読書記録>


今年は、460冊読みました。(12月26日19時現在)
読み飛ばしたものも多いのですが、目的によって読書のギアが違うので、こんな感じです。
漫画は含んでいませんが、含めてもまぁ、550冊はいかないでしょうね。
直接に研究に関わる洋書の専門書は、「読み終わった」という感じがいつまでもしないので登録していないものが多いですし、論文はカウントされていません。

また、京都は出町柳にて開催しているGACCOH小説読書会は、6回開催されました!
ゆるゆると2ヵ月に1回くらいで読書会やってます。
年明けは、1月28日が有力で、課題本は『キオスク』です。


<映画や展示>


なぜか、ドラえもん映画みたり、「Blame!!」や「三月のライオン」みたりした今年です。
エウレカセブンがカルト的に好きすぎなので、「エウレカセブン ハイエボリューション」が、自分にとっては、今年一番の映画でした。
多分、明日は「オリエント急行殺人事件」みにいきます。クリスティ好きなので。
(よかったです!)


展示は色々みたけれど、特に印象に残ったものは、感想を書いています。

・agoera個展「Missing」の感想は、こちら
・大槻香奈個展「生の断面 死の断片」の感想は、こちら
・大槻香奈個展「がたんごとんひるね」の感想は、こちら

<総人のミカタ>


同じ研究科の後輩に誘われ、始まった異分野の院生が集まったリレー講義企画、「総人のミカタ」

実際は、講義そのものよりも、各講師の講義をネタに、講義検討会をやるのがすごく刺激的でした。
影響を受けて、ブルデュー読んだり、学際(教育)について考えたり、質的研究について調べたり、日本の政治学について読んだり……それだけでなく、論文を融通し合ったり、資料となる映像を見せてもらったり、互いの研究に対してアイデアを出したり。
刺激的だ、というだけでなく、(研究を介してではあれ)友達というか仲間?ができたのも、心の支えになりました。

自分は、年明けに講義とディスカッションがありますし、2月頃には公開のシンポジウムがあります。
ご関心あれば、ぜひご連絡ください。
参加歓迎です。

また、12月には、「総人の卒業生の話を聞いてみよう!」という企画で、司会を務めたりしました。
同級生の友達にじっくり話を聞けたり、新たに学年の違う卒業生と知り合えたりして、楽しかったですね。



<研究活動>

学会発表が5つ(うち1つはポスター)。
研究会での発表が2つ。今年公開された論文が、3つ(もうすぐ公開されそうなのが、もう1つ)。
研究的資金獲得が1件(やっふーい!!)。
翻訳が1つ。

詳しくは、こちらをご覧ください。


<その他>


・大学院生のためのプレFD講座を修了

・対談イベント「ミルズ×デューイ 想像力をめぐって」を企画して、登壇

・あの伝説的ゲーム「スナッチャー」に関連したKotakuのインタビュー記事の英訳を務める(『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』のピーター・トライアスさんからご依頼いただきました!)

・小学生と高校生に対して出前授業(計3回)

・来年出るであろう共著書籍の原稿を書いていた! しかも2つ……!!(出たら買ってね)

・大学生協に属する学生組織の主宰するイベント「研究との出会い」にて、何やらエモいことを語る

・『総合人間学部広報』に一筆書く


などなど、他にも色々ある気がしますが、そんな感じです。
詳しくはこちら。あるいは、Twitterをご覧ください。



2017年12月11日月曜日

大槻香奈個展「生の断面、死の断片」(2017)の感想

東京のアートコンプレックスセンターで開催されていた、大槻香奈さんの展示「生の断面 死の断片」(11/3-12/3, 2017)に行ってきました。

大槻さんの関わって展示を観に行ったときは、何らかの感想を書くことにしています。(例えば、「揺らぎの中のせいとし展」(2017)など)



そうして、感想を書くのは、大槻さんの展示空間の中で、そこに描かれ、構成されているものを自分なりに線で結ぶことを通じて、自分が考えたかったけれど、言葉にしていなかったことを明確化できるような感じがあるからなんです。

さておき、少し長くなると思いますが、お付き合いください。
使用した写真は、大槻さん自身がツイッターに挙げているものに限りました。
(以下、敬称略)




線を引くこと


『精霊の守り人』や『獣の奏者』で知られる作家・人類学者の上橋菜穂子は、『物語ること、生きること』(講談社文庫)の中で、こんなことを言っている。

物語は、見えなかった点と点を結ぶ線を、想像する力をくれます。想像力というのは、ありもしないことを、ただ空想することとは、少し違う気がします。こうあってほしいと願うことがあって、どうやったらそうなるのだろうと、自分なりに線を引いてみること。その線が間違っているかどうかは、きっと、現実が教えてくれるでしょう。 (p.184)

この心訴える表現を、小説のような「物語」に限定する必要はない。
というより、ここでは、「点と点を結ぶ線」という表現の方に注目しておきたい。上橋曰く、「私たちの想像力が、見えなかった点と点を結ぶ線を引く」。

こうした線は、私たち人間が、そのままでは無秩序でつかみどころのない世界を、取り扱うことのできるものに変えてくれる。
線というメタファーは、私たちが状況を整えるためになくてはならない道具立てだと言ってもいい。

一例を見よう。上橋は、国際アンデルセン賞を受賞という自身にとっては青天の霹靂のような体験を、タヌキに化かされているようだ、と述懐している。
でも、まだ、今でも手賀沼(千葉県)のあたりに住んでいるタヌキにだまされている気がします。朝起きたら、私の頭の上に木の葉が乗ってたらどうしようって(笑) ハフポスでの2014年のインタビュー

不可解な出来事を、キツネやタヌキのしわざにするということが、かつて日本の各地で行われていた。冗談としてではなく、説明しかねる出来事に対する納得のいく説明として、そうした論法は、幾度も使われてきた。
(内山節は、そうした説明が、20世紀後半に機能しなくなった、と指摘する。cf. 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

こちら側の秩序で説明がつかないものを、あちら側のせいだとして説明し、動揺した状況を静めようとする。線引きは、あらゆる意味で、私たちの生の基本にあると言っていい。


このとき、人間の住む「こちら」と、キツネやタヌキの生きる不可解な「あちら」とが線引きされている。
こうした見解を要約するような言葉を、社会人類学者のエドマンド・リーチは残している。
目に見えるむきだしの荒々しい自然は、無数の無秩序な曲線のごたまぜである。一直線に伸びる線もそこにはないし、規則性のあるどんな種類の幾何学的かたちもないに等しい。しかし、文化という人間によって作られ、飼いならされた世界は、直線、矩形、三角形、円などのさまざまなかたちをそこかしこに含んでいるのである。(Leach, Culture and Communication, Cambridge Univ. Press, p.51)

とはいえ、人類学者のティム・インゴルドは、「この意見は一見してかなり常軌を逸している」として、『ラインズ:線の文化史』でコメントを加えている。
「自然世界にはあらゆる種類の規則的な線と形態が満ちあふれている」し、「人間という居住者が生を営みながら制作するあらゆる線(lines)のなかに、まったく規則的なものはほんのわずかしかない」(工藤晋訳、238頁)。
インゴルド曰く、自然の生み出すライン、人間の文化が生み出すライン、そのいずれもが、それなりに即興的で荒々しく、それなりに規則的で整っている、というわけだ。
「自然は直線を憎悪する」と記したロマン派の建築家・造園家のウィリアム・ケントの言葉には、確かに一片の真理がある。しかし、それは事態の半分にすぎなかった。



線で囲うこと


以上のような話は、前置きにすぎないが、大槻の作品に沿うような道具を提供してくれている。

「揺らぎの中のせいとし展」でも展示されたこの作品には、格子が重ねられている。

「選び育つ」

ミシェル・ド・セルトーは、近代作家を世界から隔たって、孤立した主体とみなした。インゴルドは、セルトーの見解を印象的な言葉で要約している。

目の届くかぎりあらゆるものの主人である作家は、植民地生活者が地球に、都市計画者が荒れ地に対峙するがごとく、白紙に対峙して、その上に自らの制作を重ねていく。植民地支配された空間に社会がつくられるように、また、地図で囲い込まれた空間に都市がつくられるように、書かれたテクストはページという空間のなかで制作される。テクストとは、制作物――組み立てられ、つくられたもの――であり、以前何もなかったところに(あるいは、あらかじめそこにあったものは何であれ、その過程で撤去されて)築かれるものである。 (インゴルド『ラインズ』35頁)

インゴルド曰く、「表面とそこに築かれる構築物の所有権を主張する」点は、中世の西洋の制作物とは根本的に性格が異なるとしている。
大槻の絵の中の「囲い」は、そうした「近代的」性格を持っているのだろうか。


「水の窓」

この絵では、格子が途切れていたり、眼の下に隠されて目立たなくなっていることがわかる。
いや、それ以上に、線は揺らいでいるし、厳密な意味ではまっすぐとは言えない。
少なくとも、CADなどで引く線や、エクセルが各セルを囲う線とは大きく違っている。


小さい頃に遊ぶとき、「ちょっと待って」(関西弁的に言えば、「ちょいたんま」)と、おにごっこなり、かくれんぼなり、色鬼なりの中断を申し出るとき、足先で地面に円を描くことがあった。
そこが「無敵ゾーン」になるという印。
あるいは、両手を自分の肩に添えるように、クロスさせて、同じ言葉を言うという作法もあった。
自分の身体に、腕が作るバツ印を重ねることで、「わたし」を守り、中断することができるという証だった。
いずれも、「わたし」や「わたしのいる場所」を囲ったり、秩序ある線を重ねることで、「こちら側」を守ろうとする原初的な発想の現われのように思える。

そうした発想は、「家画」にも垣間見える。

「家画」

しかし、赤の枠を見ればわかるように、ここでは、囲うことそのものが頓挫している。囲おうとする、線を引こうとする欲求だけは残しながら。
世界を整え、秩序を維持したいのだが、それを完全に果たすことはできない、というように。



線を忘れる、線を裏切る


小さい頃、遊びに興じる子どもは、必死に線を引くのだが、そうして引いた線の多くを、人は忘れているだろう。
大槻は、会期中に、こうつぶやいている。

会期中に作品がじわじわ変化している事や、24時間でアーカイブが切れるインスタライブで作品解説していたりするのは「あれ、前どんなこと言ってたんだっけ?」みたいなものが特に今回の展示では必要だと思ってるから。どこまで実感出来るのか、覚えているか、大事に思うのか 2017/11/23

私たちは、知らず知らずのうちに、ありうる無数の可能性の中から、自分の引こうとする線を選び、線を引いている。

「消えないように線を引く」

この写真と併せて、「勢いのある線にみえるかもしれませんが、面としてじっくり色を乗せながら描いています」と書いている。
「私はやはり、クッションや絨毯の柄、あと線香、植木鉢のような形や、墓石のような塊を描いた時に、家を感じるようです」と続けられていることからわかるとおり、それは、慎重に選ばれ、引かれた線だ。2017/11/16
(私たちは、この言葉を、「選び育つ」の絵に添えられた、「選ばないと育たない」という言葉に、直接重ねて読んでいい。育つことには、選ぶことが、線を選ぶことが、付きまとう。たとえ、近代的な成熟とは異なる姿であっても、そのとき何かが「育って」いるのかもしれない。)


「かがみ」

少女の顔や胸のあたりを、はっきりと引かれた、不規則な楕円が取り囲んでいる。
画像が小さいために確認しづらい人もいるだろうが、そうした取り囲みの線を越えて、少女の絵は、展開されている。

この少女に重ねるように誰かが引いた線は、当の少女によってはみ出されている。
実は、こうした展開は展示内で執拗に繰り返されている。

「宿」

家を守るように、鰻のように描かれた紐のセクションと、家のセクションは、色で作られた境界により分割されている。
とはいえ、その家の切っ先は、海底のような濃紺のエリアに突き出して展開される。

他にも類似の目立った例は、枚挙にいとまがない。
展示空間、右方の両側に飾られていた長く大きい二つの作品は、継ぎ合わされた紙であり、それにより作られた格子状の模様に沿っているかに見えながら、各所で、そうした線引きを越えていくようなモチーフが描き込まれている。
(以下の写真に写った、長い作品にも、「格子」がある。)



アメリカの哲学者・心理学者のウィリアム・ジェイムズは、私たちは、規則的な事物を探しながら生きていると考えた。
点と点を結ぶ、見えない線を引きながら、私たちは世界に秩序を作り、名づけ、数えたり取り扱ったりできるものにしていく。
しかし、話はそれで済まない。

私たちが探すのは、もっぱら規則的な類の事物であり、それを器用に発見し、自分の記憶に保存していきます。それが他の規則的な類のものと共に蓄積され、その集積が私たちの百科全書を埋めるのです。しかし、規則的な事物の間にも周囲にも、誰も一緒に考えたこともない諸対象の、私たちの注意を未だ惹きつけていない諸関係の、未確定で名の知れない混沌(an infinite anonymous chaos)が横たわっています。 William James, The Varieties of Religious Experiences, Dover, p.439

私たちが引く線を、線を重ねられた対象は常に裏切っていく。
私たちは、何か中身のあるものを取り扱っていると信じ、日常を送っているのだが、それは勘違いかもしれない。
本当は、不可解で規定されない混沌、私たちの知らない秩序が、そばに蠢いている。



構成する/侵入する断片


ティム・インゴルドは、フリーハンドで線を引くときと、定規を使って線を引くときを区別している。少し長いが、見ておこう。

徒歩旅行(wayfaring)の場合、旅行者はある場所に到達してはじめてそこに至るまでに自分が辿った経路を把握したと言える。歩いているあいだずっと彼は、進むにつれて変化しつづける眺望や地平線と連動する小道に注意を払わなくてはならない。あなたがペンや鉛筆を持つときも同じである。書くあいだずっと、書き進める方向に注意しながらそれを調節する必要がある。だからいくらか捻じれたり曲がったりすることは避けられない。輸送手段(transport)を用いる場合、徒歩旅行とは対照的に、旅行者は出発前からすでに経路を設定している。旅行とは、ただその筋書き(plot)を実行するだけのことだ。二点を結ぶために定規でラインを引くときもまったく同様である。定規をそのまっすぐな縁が二つの点に接するように置くだけで、ペン先や鉛筆の先端は、描かれる前から既に完全に決定されている。(中略)定規が使われるや否や、徒歩旅行をおこなうペンの本質であるリスクの高い技は、まっすぐ目的地に向かう確実な技へと変化する。  インゴルド『ラインズ』248頁

インゴルドは注意深く、現実の複雑さに注意を払っている。近代的な輸送(transport)も、完璧・理想的な直線ではなく、実際は常に「徒歩旅行の要素」を含んでいる。
同様に、「完璧にまっすぐな直線を――定規を使ってさえ、引くことなどできるものではない」。
定規がずれるかもしれず、手の動きでペンの角度が変わるかもしれず、ペン先にかける圧力を一定にすることは困難だ。そもそも、現実の定規が欠けたり歪んだりしていない保証はない。
(興味深いことに、「さらに言えば、ラインを引くには時間がかかる」と当たり前にも見える指摘をインゴルドは強調しているのだが、話が長くなるので割愛しておく。)

ここから導き出せる教訓は、私たちが、何らかの対象を、つまり、世界を把握しようとすべく、世界に描き込む線、境界線は、徒歩旅行のように曖昧で揺らいだ要素を備えている、ということだ。
恐らく、大槻の作品は、これを地で行くものだ。

「柱」


先に見た、「宿」という上下で色分けされた作品では、上に鯰か鰻のように、黒く曲がった線が描かれていた。
そこから示唆されるのは、そうして描き込まれる線自体が、時折人間の理解を越えて、動き出す「あちら側」のものかもしれない、ということではないだろうか。



異なる時間に見た同じ風景を張り合わせたような、ばらばらの時間に、ばらばらの人が見た思いを張り合わせたように背景は区切られている。
その区画化された秩序同士が、曖昧に溶け、混じり合い、重なっている。境界侵犯が起こっている。
(私は、2015年の大槻の個展「わたしを忘れないで。」を捉えるために、境界侵犯という言葉を使用した。そちらも参照のこと。)

ここでは、それ以上に、少女を線が貫いていることに視線を振っておきたい。
何かを別のものと区切ることで、私たちは世界を理解している。線を引くことは、こちらとあちらを分けたり、わたしを守ったりするためのものではなかったのか。

アメリカの哲学者、スタンリー・カヴェルは、エマソンの次の一節に注目している。

「私たちが最も固く握りしめる(clutch)とき、どんな対象も私たちの指から滑り落ちてしまう。私は、この虚ろさと儚さを、私たちの条件の最も不格好な(unhandsome)部分とみなす」とエマソンは書いた。  (S. Cavell, Conditions Handsome and Unhandsome, Chicago, p.38)

ハンサムといっても、イケメンとは(さしあたり)関係がない。ハンサムには、「整った」という意味があり、そこから、「格好」とか「結構」のよさという意味合いが導かれている。
手の中に――手の格子に――収めたそばから、それをはみ出していくという世界の捉えどころのなさ、究極的な掴み切れなさがある。
カヴェルは、この「手(hand)」のニュアンスに注目し、人間である限り避けることができない「条件」として、掴み切れなさを位置付けている。
私たちは、不格好(unhandsome)な条件から逃れられない。

手を逃れる。私たちの把握を超える。
私たちが考えていたのとは違う秩序が存在する。
そうした感性を内面化したジャンルを私たちは知っている。
「ホラー」だ。
「ホラー」ないし「怪奇的なもの(the weird)」は、「私たちの考えているのとは違った仕方で、世界は動いているのかもしれない」という感覚に訴えるものに他ならない。

ある種の「ホラー」が、鑑賞者のために、謎解き的に構成され、それゆえ精緻で確固たる秩序として描かれてしまうのに対して、大槻の描く、異なる秩序(たち)は身近さと突飛さがあり、それらの侵入は、そっけなさで特徴づけられているように見える。
私たちは、日常的に不可解なものに侵入され、それらと相互浸透している。そうした感覚を彼女の絵は表現しているように思われる。

大槻の絵では、フィリップ・K・ディックほど異常でない仕方で、筒井康隆ほど突き抜けない仕方で、ぽこぽこと「何か」が「何か」溶け合っている。
(もし、そう確言してよいなら、以上のことが、大槻が本の表紙を描くとき、しばしばホラー小説のそれを描くことになるのかの説明になっている。)



何かが侵入すること、可能性がこびりつくこと


思えば、大槻の絵には、異なる秩序の侵入、異質なもの(かもよくわからないもの)がぽこぽこと侵入する絵が多数あった。



「家05」




規則性があるのかないのかも判然としない図形、線、面、色、不可解な生物(?)が、どんどんと侵入し、境界を揺らがせている。
いや、そもそも、それが人間の生なのではないか。

様々な、異なるリズムを持った断片に取り囲まれている。私たちは線を選び、線を描く。しかし、そのときですら、線を「完璧に」引くことはできない。
そうした線を裏切るように、世界は展開していくし、その線自体が、私たちを離れ、私たちの生に侵入し、折り合い、重なっている。





小さな四角を反復し、格子を構成するように、多くの断片としての絵――絵自体が、何らかの秩序に従って作られたもので、それが寄り集まって何かを構成しているのであれば、そう呼んでいいだろう――が、並べられることで、何らかの秩序を構成しているかのようだ。
(恐らく、大槻の展示自体が、そうして線を描き、秩序=星座を描くことでもあるのだが、話が長くなるので指摘に留めておく。)
(大槻の「整列」や、グッズの陳列は、秩序維持のジャンクな戦略として提示されているという見解は、「神なき世界のおまもり」(2016)に関連して書いたことがある。)

最も特徴的なのは、「ゆめしかちゃん改」だろう。


「ゆめしかちゃん」を取り囲むのは、無数の器であり、読み取ることも困難な文字の断片だ。
私たちがグッズを買い、絵を買い、服を買い、電子機器を買いそろえて、ツイートで自分を構成するとき、私たちは、「(現に)そうであるわたし」と、「(現に)そうではないわたし」を線引きしている。
数々の可能性を捨てて、今の自分を維持・構成しようとしている。
そして、そのとき、秩序維持に使うものたちは、他人にとって取るに足らないものであることが多い。砕け散った文字のように。

しかし、フジツボのように、ゆめしかちゃんのベッドや、ゆめしかちゃん自身に、色や図形が侵入しているように、それとは異なる無数の秩序が、彼女に侵入し、張り付いて、溶けている。
それを取り除くことは難しそうだ。

このこびりついた無数の何かは、「そうではない」として忘れてしまった秩序の断片、自分が描きえた秩序の欠片だとみなせないだろうか。
それは、引けたかもしれない線かもしれず、誰かが同じものを見て引いた線かも知れず、かつて自分が引いた線かも知れない。
私たちが「現実」として小ざっぱり収めている枠のすぐそばに、こびりついた可能性の断面を垣間見ている。おどろおどろしく、蠢く可能性の欠片を。

私たちは何かを選び、線を引き、当てはめるが、現実がそれに収まることはない。
常にそれを裏切っている。線は越えられる。時に忘れられ、放棄される。
しかし、漏れ出し、侵入し、こびりついた秩序は、今手にしている秩序を破壊することなく侵犯し、私たちの生を取り囲んでいる。
(多分、そうして「わたし」の境界を揺らがせて、それは、いつでも変化しうるし、変化するものだということを思い出させ、変わるよう誘っている。)



この絵と共につぶやかれた言葉はこうだ。

見た目だけじゃなく自分で描いていて退屈でない線ってどうやれば出てくるんだろうと模索している感じもあり。。空虚さを描くには線と向き合う必要がある 2017/12/2)




追記:
2017年12月、12-27日、伊丹の「創治郎」にて、大槻さんの個展「がたんごとんひるね」が開かれます。