2019年1月29日火曜日

雑魚みたいなレポートを見つけたので晒します(梅原猛の話してる)


学部四回生とか、修士一回生くらいの頃の、雑魚みたいなレポートがサルベージされました。さらしときます。
「授業で梅原猛が扱われたから、レポートでもいっちょ扱いますか」と思った記憶だけはあります。
レポートの「書き方」の参考にはしないでくださいね。レトリックとしてうまく使えないうちは、突然「ところで」とか書いちゃだめですよ。



梅原猛――「共生と循環の思想」の批判的検討


0,はじめに


梅原猛の思想は、いくつかの軸から描き直すことができる。西田哲学の乗り越えという観点もあり得る[1]し、歴史家のトインビー来日時の対談で示唆を受けたように、西欧文明の乗り越えという観点もあり得る[2]だろう。いずれにせよ、そういった課題があった上で、様々な過程を経て到達したのが、自然を中心とする「共生の思想であり、生命の永劫回帰である」と言える。著作集『人類哲学の創造』においても、「共生と循環の思想」(第一章のタイトル)と題されているように、梅原の到達点としてある人類哲学は、共生と循環という二つの原理が両輪となっていることがわかる。本稿では、その両輪に迫る。さしあたり後者から始めよう。


1,循環――生命の永劫回帰


自身の卒業論文について、「既存の書物の注釈的な研究でなく、全て自分の頭で考えようとしたもの、その苦闘の形だ」と折に触れて梅原は語っている。興味深いのは、その卒業論文のテーマに、進歩史観(単線的時間把握)への反対が含まれているということだ。これは、西洋哲学もそこに含まれているところの西欧文明がその根本に持っている世界観である。これは、後に繰り返し梅原が語っているモチーフ――ギルガメシュの叙事詩を典型として梅原に理解されている。人類の歴史とともに、そして農耕牧畜文明の発生ないし農耕牧畜によって蓄積された富の上に成り立った都市文明とともに、環境破壊は始まった、と前置きながら、梅原はこう述べている。
それ[都市文明を作ったのは|筆者注]は、メソポタミア地方に最初の都市国家をつくったシュメールの王、ギルガメシュであるといわれます。……ギルガメッシュが最初になしたことは、森の神フンババの殺害でした。これはまことに象徴的な意味を持っています。森の神の殺害は、人間が森の破壊の自由を獲得したことを意味します。おそらくそれ以前は、山には山の神が、また川には川の神がいたように、森には森の神がいて、木をむやみに伐採し森を破壊する人間に恐ろしい罰を与えていたにちがいないのです。しかし、ギルガメシュは人間をそういうタブーから解放した。(梅原(2001)、52頁。)
これは、インタビュー(梅原(2012)、315頁)などでも「西洋文明の始まりを意味する」として触れているように、梅原の世界像を形成するひとつの典型ないし要石となっている。このギルガメシュによる農耕牧畜文明を生み出す革命に加えて、科学技術文明を生んだ近代の革命についても批判を加えている。この革命を指導したのは、「ギルガメシュのような個人ではありませんが、何人かの哲学者が、このような革命に理論的根拠を与えた」のだとし、「たとえばデカルトやベーコンのような哲学者たち」と例を挙げている。人間を「まさに世界の中心の地位」に位置づける思想や、自然を知り、それに従属することによって、自然を征服することができるという思想を彼らは語った[3]。富を得、蓄積し、また富を拡大させていくような文明のイメージは単線的な思考をもたらさざるを得ない。梅原はこれに対して、循環の思想、「生命の永劫回帰」の思想をぶつけるのである。

ニーチェの永劫回帰という思想について、「人間の主観的な意志にとって、同じ世界が繰り返されるとしたら退屈でやりきれない」が、「それを意志の要請として肯定しようというのがニーチェの立場」と整理しつつ、梅原は実のところ「永劫回帰というのは客観的に起こっているのではないか」と述べる[4]。 梅原のこの循環のイメージはいくつかの典型例をもって表現される。

「自己の人生は、遠い過去の先祖からはるか未来の子孫へのほんのひとときの経過点にすぎない」[5]という視点。たとえば、子供時代に自分がセミを採った場所に、孫を連れて行き、セミを採らせたというエピソードを梅原はインタビューで挙げている。である。また、親鸞の二種回向という思想も梅原が好んで言及する典型である。それは、「阿弥陀如来のおかげで極楽浄土に行く往相回向と、それとともに阿弥陀如来のおかげでこの世にまた帰ってきて人を救うという還相回向という思想」であり、「魂の永久の往還運動」だと述べている。魂の往還を企図する祭事として、縄文時代の遺跡・ウッドサークルや、諏訪大社の御柱祭も好例である[6] 。そして、恐らく梅原が最も頻繁に取り上げるのは、アイヌのイオマンテという祭りである。イオマンテというのは、熊の霊をあの世へ送る祭りだが、熊の霊を丁重に祀って送るのは、「その熊の霊がまたこの世にかえってくることを願うから」だとされる[7]

以上のように、現実に世界では、大いなる存在の連鎖は続いており、その生命の循環する営みを、梅原は客観的な永劫回帰として表現しているのである。梅原自身の言葉を借りるならば、「私どもの命は、原始的な生命から脈々と伝えられたもので、これからも未来永劫続いていく」のである(梅原(2012)、307頁)。


2,共生――森と農耕の思想


共生の文明を構想するにあたって、梅原は「森の文化」に注目する。縄文時代は、「自然を征服する文明ではなくて自然と共存する文明」である。狩猟採集生活を営む縄文人たちは、主な食料を森に依存していた。「従って、森は彼らにとって、もっともありがたい、もっとも神聖な場所であった。当然そこから生まれるものは、森の崇拝であり、樹木の崇拝なのである」[8]。ちなみに、アイヌ語と東北地方に残る言葉に、「シンパラカムイ」という共通の語彙があることを指摘したり(梅原(2013)、42-45頁。)、遺跡に見られる貝塚はイオマンテと同じく、「生きとし生けるものは何らかの意味で人間に恩恵を与える」客人(マラプト)だという世界観に基づくという、アイヌ研究者の河野広道の指摘を強調したり(同上、76-78頁) 、アイヌの着物や器物に見られる文様と縄文土器の文様との類似性を指摘したりと、度々アイヌ文化と縄文文化の連続性を梅原は強調している。

度々引用している『縄文の神秘』(2013)の初出が1989年であることを断った上で述べると、当初は、こういう見立てで、森の文化(狩猟採集文明)を称揚し、農耕文化を敵対的に見ていた。「森の文化にかわる農耕文化の侵入」という節題(45頁)からもそれがわかる。この見通しはのちに修正され、梅原は小さな転回を遂げることになる。
私ははじめ、狩猟採集民を中心に考えていたのですが、長江文明の研究を始めてから農耕民を見直し、そして2008年に吉村作治さんと一緒にエジプトを旅して、いっそう農耕民を重視するようになりました。狩猟採集民と農耕民は別のものですが、どこかで調和すると思います。森も太陽が育てているわけですから。(梅原(2012)、315頁)[9]
インタビュアーに、農耕文明は「植物をモノとして扱い、客体化し支配することにより成立する文明のように思える」と質されて、梅原は「日本ではそうでもないようだ」として柳田國男の「田の神」の話を紹介することで答えた。「春になると山の神が田にやってきて田の神になる。そして稲刈りが終わると山に帰る。山の神と田の神が一体になっている。これはすなわち、縄文と弥生の融合を意味」している。「神社には必ず森があって、森の中の石や木に神が降りてくるということが、縄文と弥生が融合した痕跡」であり、こういうあり方こそが「日本の文化」だと思うと述べた。[10]

こういう森ないし自然への着目のきっかけを、西田幾多郎とも親しかった鈴木大拙の『禅と日本文化』という著作と梅原は関連づけている。西田は、この本を受けて、「西洋の哲学は『有』の原理だが、日本は『無』の原理だと論じ」た。しかし、梅原は「日本の文化をすべて禅や『無』で説明するのは無理がある」と考えた。そもそも、「禅というのは鎌倉仏教のなかのひとつであって、鎌倉時代より前の日本文化は説明できないはず」だと批判する。代わりに、日本の思想の原理は、「天台宗と真言宗が習合してできた天台本覚思想によって生み出されたもの」であるところの、「草木国土悉皆成仏」にあたる、と梅原は主張している。西洋の人間中心主義的な原理に対置される、「草木国土悉皆成仏」は、「草や木、さらには国土、つまり石や土までもが煩悩を持つ、そして仏性を持つ生き物だという思想」であり、「植物中心の世界観」である。ここで表現されている、「この世界では生き物が殺し合いをして生成消滅をする、そこにこそ生の歓喜があるという思想」は、日本において歴史的に通底し、「文化にさまざまな形で表れている」のだとする[11] 。『縄文の神秘』の言葉を使って言い換えるならば、「草木国土悉皆成仏」は「日本の基層文化」を端的に表現した言葉である。自然との共生関係という基層文化が様々な表現をとって表出されるわけである。

この「基層文化」という言葉は、狩猟採集と農耕という二つの文化的社会的構造の対立を前提とした歴史的状況を念頭に置いて用いられている。梅原は日本国家の成立に触れて、次のように述べる。「日本はまさに縄文人を被支配者とし、弥生人を支配者とした国家であるが、この場合、渡来した弥生人は縄文人に比べて、圧倒的に数が少なかったと考えられる。こういう状況でたとえ縄文人が弥生人を支配するにせよ、渡来した弥生人は文化的には被支配者の縄文人の文化の影響を大きくこうむらざるを得ない」[12]。農耕と狩猟採集を対立的に捉えてはいたものの、両者が一定の協調関係にあることを示唆する概念であると言える。梅原は自覚的には、長江文明の研究およびエジプト旅行を通じて、意見を翻すわけだが、その可能性はそれ以前の思想に既に内在していた。実際はその契機を強調したに過ぎない(これが「小」転回と称した理由である)。

なお、共生と循環の関係についても手がかりを示しておく。単線的な時間把握に対して、循環のイメージをぶつける梅原。この循環のイメージは、共生の思想を可能にする条件になっていると思われる。「生命を与えてくれた自然に対する深い畏敬の念」を抱く契機。


3、「共生と循環の思想」への批判的な論点提起


いくつか批判を述べることにする。梅原の思想は非常に興味深いものの、議論の構図そのものは紋切り型的で、独断的な日本文化特殊論(特に西洋と対比した)と区別ができない。社会学者のエマニュエル・トッドは、その家族類型論のなかで日本・ドイツ・スウェーデン・韓国・ユダヤを「直系家族」に分類する。直系家族は、「自分たちとそれ以外」という思考パターンを持っている。これが拡大すれば、「日本人とそれ以外」と考え、「日本人と外国人は違う」となりがちである[13] 。梅原も日本の基層文化として縄文文化的な狩猟採集文明に特徴的な精神性を称揚するとき、同じ轍を踏んでいる。問題をより複雑にしているのは、梅原が最終的に目指しているのが「人類哲学」という時空間的に広範な射程を持った思想であることだ。アメリカインディアンや古代エジプトの神などに言及するときでも変わらず典型例をイオマンテや二種回向など日本国内の事例に置いているので、変わらず批判は免れない。この日本特殊論的な問題点が第一。

また、ギルガメシュにしろ、ベーコン・デカルトにしろ、人間中心主義にしろ、西洋に対する文明的な射程の批判を加える一方で、日本への反省は自身の体験[14]に根ざしたものや、京都学派への批判に尽きてしまっている。梅原の個人的体験として筆者が念頭に置いているのは、負けるとどこかでわかっていた戦争での従軍体験、自分で哲学することをやめた哲学科での疎外及び発奮などである。つまり、自文明に対する自己反省が乏しいというのが二点目。この論点を掘り下げるとすれば、レヴィ=ストロースが来日した際に、西洋にはない原理を持っていると思っていた日本が結局自然を大切になどしていなかったこと(彼は隅田川の散策を例に取っていた)を嘆いたことを思い出すのもよい。梅原は日本思想の可能性の中心を読んだのだとしても、いささか楽観的な色調があるのではないか。もはや梅原の言う日本の「基層文化」は、現に生きられ、営まれている文化ではないのではないか、と指摘できる。

最後に、太陽というモチーフに対する無批判性と、それを原因としてか、原子力について奇妙な失語症に陥っている点だ。農耕を自身の体系に取り入れるに当たって、太陽神ラー(古代エジプト)の強調など、太陽という原理を梅原は重視するが、実のところ梅原のシンプルな把握とは違って、太陽はシンボルとして非常に複雑なところがあるのではないか。「小さな太陽」などと言ってしばしば原子力は太陽と結び付けられる。地球の「生態圏の『内部』に、ほんらいそこにあるはずのない『外部』」が、「無媒介に」持ち込んだものとして、中沢新一は原子力を思想的に読み解く[15] 。地球の「生態圏に属しているものは、全体性のバランスをとって存在しているから、動物も植物も、そこにあるものは全てが『媒介』した状態にある」にも関わらず。中澤の原子力に対する思想的格闘をどう評価するのであれ、うまく自身の体系に組み込み、彼流の贈与論を語り直すことができている。しかし、梅原は「原発事故は近代文明そのものが起こした災いである」と発言したが、それに続く言葉は一切変更・更新・修正されないで、原子力という言葉抜きに「共生と循環の思想」を繰り返すにすぎない(近代文明についてだけ饒舌で、原子力・原発事故は挨拶程度だ)。その発言の真意を問おうとしたインタビュー(梅原(2012))でも、それは同様である。共生と循環の思想に関連して、冷戦期に「三つの危機」として核に言及してあるので、それで事たれり、と梅原は考えているのだろうか。(6132字)


参考文献

梅原猛(2001)『梅原猛著作集 17 人類哲学の創造』小学館
梅原猛(2013)『縄文の神秘』学研パブリッシング
梅原猛(2012)「草木の生起する国――京都」、東浩紀[編]『思想地図β vol.3』ゲンロン所収
中沢新一(2011)『日本の大転換』集英社新書


[1] 梅原(2012)、307頁。
[2] 同上、312頁。
[3] 梅原(2001)、55-56頁。
[4] 梅原(2012)、306頁。
[5] 梅原(2001)、57頁。
[6] 梅原(2012)、306-307 頁。
[7] 梅原(2001)、45頁。
[8] 梅原(2013)、40-41頁。
[9] 『縄文の神秘』によると、中国の最初の支配者が「黄帝」であり、黄色が神聖な色とされていた。そしてその黄色は土の色だと推定でき、木を伐採して黄色い大地にし、小麦を植えたところから来ているのではないかと述べて、中国の農耕文化を「黄の文明」と呼び、日本の縄文文化を「緑の文明」と呼ぶことで明確に対立的に論じている。特に「木の消滅」という契機を重視していることに注目されたい。(梅原(2013)、38-40 頁)
[10] 梅原(2012)、316頁。
[11] 同上、307-306頁。様々な形での表れとして、能の「鵺」や「西行桜」、縄文時代の勾玉などをその直後では挙げている。厳密に言えば、その例示の中には次のように、日本に文脈を限定しない発言もある。「縄文時代は狩猟採集文明であって、狩猟採集文明はアメリカインディアンを見ても、アボリジニを見ても、かなり高い精神性を宿している。人類最初の狩猟採集文明にはそのような精神性があったのではないかと思っています」(306頁)。
[12] 梅原(2013)、49頁。
[13] この記述は鹿島茂のインタビューを参考にした。「仏紙襲撃事件は、強烈な普遍主義同士の衝突 鹿島茂氏が読み解く仏紙襲撃事件(前編)」 (東洋経済オンライン)http://toyokeizai.net/articles/-/58478?page=2 (2014/1/22閲覧)
[14] 梅原(2012)、304-305頁、および梅原(2001)の「哲学と私」等を参照せよ。
[15] 中沢(2011)、13-24頁。

2019年1月13日日曜日

岡本健『巡礼ビジネス』を読みまして。:都市と地方、終末世界、アーカイブ

(写真を見て)「違う時間の同じ場所…?でしょうか」
「たぶんね。ここに住み続けながら、記録を続けてたんだろう」

1.はじめに


 岡本健さんの『巡礼ビジネス』(角川新書 2018年)を読みました。
『フィルカル』という雑誌に、聖地巡礼論を書き、そのうちの一章を「岡本健論」とでもいうような文章に割いた者として、とても面白く読みました。

 この本、いかついタイトルをしていますが、岡本さんがこれまで書いてきた論文・書籍などの論点を総ざらいしたものだと言えます。
 具体的には、100-101頁は、「スマートフォンゲームの観光メディアコミュニケーション」(ポケモンGO論文)の冒頭の変奏だったりする……というように、これまでの研究が集約されるような本であり、語り口がやさしく、データは新しいという……買うしかないな。



2.どこが面白かったか


 「はじめに」と「序章」では、なぜ観光に注目するのか、そしてその中でもなぜ「(アニメ)聖地巡礼」なのかということが説明されると同時に、そもそも聖地巡礼とはどんなことなのかが具体例とともに語られています。

 これはとても重要で、単にAを紹介した上で、Aについて論じるだけでなく、「なぜAを扱うのか」ということを何らかの水準で示す必要があります。卒論・修論シーズンなので、それっぽいことを言ってみました。

 個人的に興味深かった箇所は二つあります。それが、第三章「観光資源を生む『創造性』」の景観論であり、第五章「観光『資産』化への道」のアーカイブ論です。
 いずれも、論点としては、岡本さんの研究や、聖地巡礼の先行研究を追っていれば、どこかで出会ったことのあるもののはずですが、書籍という一つの流れの中に置かれ、一定の分量で掘り下げられたとき、改めて興味深いものとして映りました。



3.観光における「外部のまなざし」:都市と地方と終末世界


 122頁に、「内部/外部のまなざし」と「日常/非日常的風景」という二項目×二項目の図が挙がっています。言葉遣いが少し抽象的なものの、ここで言われていることはとてもシンプルで、観光資源を「発見」できるのは往々にしてアウトサイダーである、ということです。(先回りして言えば、そうした発見が、地域住民へとフィードバックされていくし、観光者の側でも、地域の日常的な風景への関心が次第に惹起されていきます。)

 『巡礼ビジネス』内でも語られていた通り、その他の多くの観光と同様、聖地巡礼でも、開拓的にアニメやドラマなどの舞台を「発見」し、そこを訪れる観光者がいます。
 注意したいのは、「聖地巡礼のような仕方で、その土地をまなざす」ことは、土地の住民にとってはピンときにくいもののはずです。どうしてなんてことのない神社や駐車場や自動販売機が「魅力」を持つものと言えるのか、コンテンツを共有しない人にとっては意味がわからないからです。

 このことは、かつて「ニッポンのジレンマ」(Eテレ)の「都市と地方、みえない分断線」という回に出演したときにも、出演者の間で議論になりました。
 その土地に住む人にとって、通り過ぎる花や樹が、都会の人間にとっては、そのためだけにそこに行ってもいいというくらい魅力を持つものかもしれないわけです。
 他の地域ではなかなか見られない絶滅危惧種の観察会などは、「保護」を持続するために必要な公衆の関心を調達できるだけでなく、その地域への愛着に結びつくかもしれないのです(例えばこういうの)。
 地元の農家が親戚や知り合いにあげてしまう収穫物は、都会に暮らす人にとって、大枚はたいて買いたいものかもしれません。収穫の体験そのものも、魅力的にうつるかもしれません。

 ここで何が言いたいかというと、「観光のまなざし」は、大抵の場合、外から惹起されるものであり、観光地に成功しているのは、敏感な住民サイド(ホスト)が、そうした視線のよいところを汲み取って、その資源へのアクセスを高めたり、環境を整備したり、ほかの観光資源との接続を考えたりしている、ということです。
 そのようにして、人が集まることが、そうして関心を持ってもらえているという実感が、翻って、住民に、通り過ぎていた日常の風景の魅力を再発見させるものでしょう。

 もちろん、こうした魅力発見のプロセスがオリエンタリズムにならないよう、都市の論理と地方の論理をうまく橋渡しする人物がいなければならないでしょう。観光学者としては、そうしたコンサルティングもできたらいいなと思っています。

 余談ですが、終末世界ものがすべて「観光もの」でもあるのは、すべての人が、住民としての視線を失うからです。『巡礼ビジネス』の言葉でいいかえるなら、終末世界の人びとは、必然的に「内部のまなざし」を失ってしまう、ということです。誰もそこに住んでいる住民ではありえません。少なくとも、かつてのような日常を営むことはできない、という意味では。
 冒頭には『旅とごはんと終末世界』という最近出たマンガの台詞を掲げました。これは、今はもう死んでしまっている人が、かつて生きていたとき撮り貯めていた写真に気づいた直後のシーンです。
 終末世界にとって、日常は失われたもの、手の届かないものです。であれば、写真を撮り続けた人は、そして、その撮り続けられた写真に目を留めたマンガの人物たちは、失われた日常を、「非日常」として受け取らざるをえない、というわけです。



4.私たちは何を残すのか、どう残すのか:アーカイブの問題


 私たちは、アニメ聖地巡礼における「アーカイブ」についてそれほど関心を払っていません。
 そこそこ昔のアニメもオンデマンドとかネットフリックスとかで観られるし、マンガは割と書店やAmazonで買えるし、何をアーカイブするのかピンときていないのだと思います。
 とはいえ、保管は重要な問題です。『巡礼ビジネス』のなかでは、資料保存するスペースや管理者などの問題から、アニメ会社が原画を保管し続けられないという事例が紹介されていますが、マンガなどでも、出版社側が原画を十分管理してこなかったため、名作の原画が失われたり、勝手にオークションなどで転売されたり……といった悲しむべき事態も起こっています。
 そこで、京都精華大学がやっている「マンガミュージアム」、立命館大学ゲーム研究センターのゲームアーカイブスのような試みが重要となってきます。特に後者の場合、ゲームハードがなければ、そのゲームをプレイできないという事態がしばしば生じるので、なおさら保存が問題になります。

 とはいえ、こうした大学によるアーカイブ化は、金銭的な事情でつらいものを抱えていると言わざるをえません。保存・維持・研究は時間も人の手もかかるので、直接的な形で換金性を高めることは難しいからです(時々図書館や博物館関係のニュースで見かけますすが、保存・維持・収集にも当然ながら専門知がいるので、人件費を削るのは悪手です)。
 『ゴールデンカムイ』のアイヌ語の監修をされているアイヌ語研究者の中川裕さんのインタビュー「エンターテインメントと研究の相互作用」でも語られている通り、収集・保存・維持・研究といったプロセスから成るアーカイビングは、結果として、ものすごく魅力的なコンテンツを生み出すのに役立つものです。

 ちょうど、冒頭に引用した『旅とごはんと終末世界』の台詞が示唆するように、写真という仕方で、その土地の情報を蓄積しておいたからこそ、主人公たちが、その土地について思いを馳せることができたように。その蓄積なくして、冒頭のシーンは、いや、「終末世界もの」=「観光もの」はありえないのです。
 アーカイブは、今すぐに役立つ類のものではありませんが、観光や創作のように中長期的な視点が必要となる文脈では、これ以上ない基盤として機能するのだと思います。

 KADOKAWAが主導している埼玉県所沢市の「サクラタウン」計画について『巡礼ビジネス』が言及しているのが、第五章の終盤であり、資料館・博物館やアーカイブ化について述べた後だということの意味に、私たちは注目する必要があると思います。


……というまとまらない感想でした。

2018年2月21日水曜日

某集中講義の感想

大学院生向けの教育に関する集中講義を受けて書いた感想を貼っておきます。
成績もついたことですし、もう問題ないと思うので。

個人的な事情にも触れているのですが、このままだとメールフォルダで埋もれそうだったので、ここに貼ることでアーカイブ化しておきます。
ざっと書いたエッセイなので、間に合わせ感も半端ないですが。



1.授業を通じて学んだことや身についたこと


 誰かと協働するというとき,相手からのアクションがなければ,協働の関係をうまく築くことはできない。主役を張る人がたった一人で暖簾を押したところで,何か事態は変わったりしない。これは当たり前のことではあるが,積極的なパートナーたちとチームを組んだことで,その意を実感した。(全然関係はないが,円城塔『道化師の蝶』には,集団で織りものを織るというシーンがあり,それを思い出した。)

今後,教員として,私が他の教員と組んで授業することもあろうし,複数教員がかかわるような講義やコースを設計することがあるかもしれない。その場合,今回の講義のようなパートナーシップが望めるかというと,あまり期待できないのではないかと思うと,少し悲しく思う。シンポジウムの企画や,自分の講義でゲストスピーカーを設定するときなど,まずは自分の手の届く範囲で,そして,自分が確かに信頼し,既に協働関係を築くことのできた人たちとのあいだで,ひとまずは,個別の実践を積み重ねていけたらと思う。



2.自身の教育観


 私は,少なくとも,10代の私は,グループワークが苦手だし,学校の講義もあまり好きではなかった。正直,しゃらくさいとさえ思っていた。「低い」レベルに合わせなければいけないからというわけではない。どちらかというと,学問的でないことについて,ぼっち的である人間として,単に「つらい」ということかもしれない。かつての私は,集団で何かをすることに,精神的に向いていなかった。今後は,そんなことなどなかったかのように,グループワークをしたりもするのだろう。しかし,心のどこかでは,嫌がっていた過去の自分のことを思い出して,「これにはついていけない,ついていくのが嫌な人もいるだろう」と思う余地を,頭の片隅に残していたい。

 このような,ある種の「不信感」は,学校や授業への疑いというより,(チームトマトの授業内容のよろしく)「教え」や「学び」の遍在に対する信念につながっている。私が単著を準備している思想家の鶴見俊輔(2019年には刊行できるようにがんばります!)は,これを「偶発性教育」などと呼んでいる。これは、「ハッとするような瞬間に,自己の中でうまれる変化に注目しよう」という掛け声だと理解すればいい。実際に教える立場,教師と呼ばれる立場に立つだろうからこそ,「実際はそうでなくてもいい」という反対の視点を忘れないようにしたいと思う。少なくとも,私は,そういう大人に助けられてきたからだ。



3.実際の授業で実践してみたいこと


 京都大学人間・環境学研究科のプレFD企画「総人のミカタ」にて私が担当した講義では,プラトンやハイデガーが使った論法を体感してみようということで,「哲学に関するイメージ」をグループごとに挙げてもらい,それを全体で共有しつつ,哲学者の既存の哲学に関する言説と突き合わせるという作業をやってみた。これは,優秀な院生の友人たちがグループについてもらうなどのサポートがあったからこそできたことではあるが,参加者や参加院生にも好評であり,類似の試みは一層実践されていいと実感した。(具体的には,「メノンのパラドックス」をすでにクリアしているということを,哲学の定義をめぐって、実体験してもらうというもの)

 哲学教育において,座学的な教授はどうしても必要になるし,それが主となることはやむを得ないところがあると思う。学生の関心や,学習意欲などにもよるだろうが,典型例としては,やはりそうなのだろうと思う。(さらに言えば,チーム地球惑星開発連合?の貫井さんが言っていたように,他の講義から必要とされ,そこに参与するような形でかかわるときは,その限りではないと思う。)とはいえ,グループワークは,哲学の敵ではないし,そもそも,私が哲学を学ぶ上で最も有益だったのは,ゼミや読書会での対話であり,そこに参加している先輩や友人,後輩たちとのインフォーマルな会話である。そうした対話的な知性を育むために,様々な教授法と,よりよい付き合いを模索しなければならないと思った。

しかしながら,それ以上に,講義を受けて実感したのが,とりあえずグループワーク,とりあえずアクティブラーニングの危うさということだ。自分自身,実際にグループワークをやったりする中で,それなりに考えている風の振る舞いや発言をするときであっても,それが腑に落ちているわけでもなかったり,それが授業の前後の流れと有機的に結びついているわけでもなかったりすることがあると思うことがあった(連続講義で疲れているのもあるだろうが)。設計の上で導入されたグループワーク・アクティブラーニングですら,こうなのだから,「上から言われたから/そういう時代だから/流行りだから,ただ単にやってみる」というのは,教師の主観的な満足をもたらし,学生も何かをやった気にはさせるが,身にならないという不幸な事態をもたらすのではないか。

 随分,天邪鬼なことを書いたが,こうしてバランスをとり,ブレーキをかけるのも哲学研究者らしい気もする。高等教育について,哲学教育については,これからも調査・研究・実践を続けていきたいので,頭のどこかではブレーキをかけるような冷静さを保ちながら,学生たちに学習しやすい場を提供できるように,できることはなんでもやっていきたいと思っている。