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2016年4月9日土曜日

思想の科学研究会編(1952)『デューイ研究』をざっくり紹介してみた。

最近、ジョン・デューイの小論「戦争の社会的帰結」(1917)を翻訳し、noteにて公開しました。
第一次世界大戦に際して発表されたもので、インタビューを基にした原稿です。
100円で公開してみたので、ご興味あればどうぞ。
解題などの解説は無料公開しています。

*

ところで、今回はある本についてご紹介したいと思います。

思想の科学研究会編(1952)『デューイ研究 アメリカ的考え方の批判』春秋社

古本では超高騰しているようです。
日本のデューイ研究史上では重要と言えるでしょうが、5000円も出してまで買う本かというとちょっとわからないですね。。
位置づけとしては、敗戦後に公刊されたデューイ研究の中で初めてデューイを多面的な角度から、しかも内在的かつ批判的に扱った研究書である、という感じでしょうか。
(当時はプラグマティズム批判といえば、マルクス主義や分析哲学からの批判が主だったと記憶しています)

目次はこんな感じ

まえがき
デューイの生涯と活動(p.3)……鶴見和子
第一部 知性はどういう仕組みを持つか ――知性の体系
 科学の把握(p.31)……武谷三男
 歴史の把握(p.40)……鶴見和子
 人間性の把握(p.63)……南博
第二部 知性はどう働かせたらいいか ――知性の展開
 進歩的教育――アメリカ教育学の自己批判――(p.77)……宮原誠一
 芸術批評(p.100)……桑原武夫
 人間主義の宗教(p.112)……岸本英夫
 コミュニケイション(p.129)……鶴見俊輔
第三部 デューイとアジア
 胡適とデューイ(p.173)……竹内好
 日本におけるデューイ(p.186)……鶴見和子
 デューイ解釈の場(p.200)……鶴見和子

日本戦後史に多少通じる方なら、執筆陣の適材適所感を共有していただけるかと思います。各人ウィキペディアあるくらいの人なので個々解説することはしません。

この本は若干適当なところもないではないのですが、絶版でアクセスできないのももったいないので、簡単に各章で論じられていることをまとめてご紹介してみたいと思います。

順に見ていきます。


各章の内容


1、「デューイの生涯と活動」鶴見和子

デューイの生涯にわたる特徴を、日常的経験ないしコモンネス(ありふれていること)の注目と、「異花受粉(cross-fertilization)」に鶴見は見ています。
後者の「異花受粉」は、今風に言うと「学際性」でしょうか。ディシプリンに囚われず、異種混合的な場で思索・実践したということです。
この学際性の指摘にあたって、デューイが哲学に見出した「批判」の役割に著者が言及していることは特筆すべきでしょう。デューイの「批判」は、近年スポットが当たり続けている概念です。

もう1つ興味深いのは、色々議論したあと、デューイの民主主義論でオチを作るという、デューイ研究の常套的な展開が既にここに見られることです。

実際は他にも色んな指摘がされているのですが、この章の概説という性質上、ここで留めておきます。


2、「科学の把握」武谷三男

本章を一言でいうと、こんな感じです。
「デューイは実在概念を認めていない」、また「デューイの考えには思惟と行動しかなく、対象はこの二つに解消されている」。

これは端的に誤読・誤解です。加賀裕郎(2009)『デューイ自然主義の生成と構造』晃洋書房などを参照のこと。


3、「歴史の把握」鶴見和子

議論が飛ぶので、掻い摘んで紹介します。

・プラグマティズムには歴史理論が欠けている(恐らく、マルクス主義的な歴史理論を念頭に置いている)
・プラグマティズムの社会理論を見ればわかるように、プラグマティズムの歴史観は個体に始まり個体に終わる(つまり、焦点は個人にある)
・とはいえ、史学において機能主義を唱えたフレデリック・J・ターナーのプラグマティックな歴史理論のようなものもある。(鶴見和子は若干ターナーの議論を紹介する)
・習慣概念に注目し、プラグマティズムの歴史理論を素描する。

そもそも、プラグマティズムが個人ないし個体に焦点を当てているかというと、微妙です。
例えば、習慣は、強く社会的な影響を受けているものですよね。また、デューイはしばしば「孤立した人間(man in isolation)」という発想、18,19世紀の個人概念を強く批判しています。


4、「人間性の把握」南博

デューイの『人間性と行為』で提示している習慣概念は、「あいにく、はっきりと規定されず、また、内容が観念的で、生きた社会的現実の分析に心を向けていなかった」(p.63)と南は指摘します。
(これは、同書が社会批評的であることの裏面であるとも指摘されていますが)

こういう考えから、南は検討の対象を「社会心理学の必要」(1917)に移します。

ジェイムズの『心理学の諸原理』、タルドの『模倣の法則』は同じ1890年に出版されており、「集団的人間の本性に関する、より科学的な研究が、社会的に要求されて来たこと、および、新しい社会科学を作るのに心理学が重要な役目を持って居ることが認識されはじめた」(p.65-6)というデューイの議論を紹介。

こんな感じで「社会心理学の必要」を紹介していくのですが、南の力点は、この論文に現われたデューイの関心を共有しつつ、かの抽象的で社会批評的な『人間性と行為』は読み解かれるべきだ、というものです。


5、「進歩的教育」宮原誠一

デューイの教育理論には、1919から1928年にかけての長期的な海外旅行――中国、トルコ、メキシコ、ソ連など――の多大なる影響がある。
デューイをアイコンとする進歩主義的教育は、児童中心主義的偏向があり、古い個人主義を助長した。しかし、これは、デューイの立場とは全く異なっている。
カウッツはデューイに先んじて進歩主義的教育を徹底的に批判した。また、この両者には、社会改善への力点を置いており、両者には共通性が見られる。


国内のデューイ研究は、ほとんどが教育学のものなので、この種の研究は今でもいくらでもアクセスできるかと思います。


6、「芸術批評」桑原武夫

桑原は『経験としての芸術』十三章の「批評と知覚」に注目しています。正直、どう評価していいのかわからない文章だったので、紹介も省略。


7、「人間主義の宗教」岸本英夫

岸本はデューイの宗教論を『誰でもの信仰』として訳していたりします。

本稿では、デューイの宗教論を宗教的ヒューマニズムの注目すべき思想として位置づけています。
そして、「理想追求のよろこび」としてそれを詳述し、キリスト教的基盤で育まれた思想だあ、「その基盤であるキリスト教を踏み越えて展開した」ものであり、「宗教的背景の如何を問わず、通用するような構造の、ヒューマニズム的宗教観を打ち立てた」と指摘する。(p.124-5)

こうしたヒューマニズム的宗教観は、「近代人であれば、誰にでも、通用する筈である」(p.125)という発想から、デューイの宗教論(A Common Faith)を『誰でもの信仰』と訳したでしょうね。

終盤での指摘は実に重要なものです。
デューイの描き出す「理想」は、形式的なものであり、一見内容が設定されていないようにも見える。けれども、それが「よきこと」と呼ばれ、「よきこと」は「人間の生活経験や、人間が現実に住む社会と密接につながって」おり、実際的かつ社会的なものとみなされている。(p.127-8)
この点は、仏教や神道と突き合わせたとき、仏教や神道が「現実性をもったよきことを理想とする態度が欠如している」ことと対照的に見えます。(p.128)


8、「コミュニケイション」鶴見俊輔

色々なことが言われていますが、要点は簡単。
デューイはコミュニケーションの哲学者である。
しかし、そのコミュニケーション概念はやや素朴なところがある。
実際のところ、コミュニケーションって、コミュニケーションとディスコミュニケーションの二側面あるんじゃないでしょうか。

以上。


この指摘は、デューイ理解のためよりも、鶴見俊輔の思想発展を考える上で重要です。
コミュニケーションのズレへの注目は、彼の漫画論(例えば「プラグマティズム発展概説」など)に現われていきます。

ちなみにこの章だけ、他の章の三倍くらいの分量があります。
力が入っているんでしょうね。
この論考に注目した鶴見俊輔論としては、吉見俊哉さんのものがあります(『アメリカの越え方』)。

9、「胡適とデューイ」竹内好

胡適はコロンビア大学時代のデューイに直接師事していました。1910-17年のことです。

「胡適という人は、思想的には、深いものをもっていない。幅はひろいが、奥行きはせまい」(p.175)という診断から、竹内は、さしあたり、胡適をプラグマティストではなく、アンシンクロペディストとして位置づけます。

余談ですが、胡適は「1915年の夏にデューイの全著作を読破」したそうです。(当時の流通と出版の問題を考えると、たぶん、「全著作」ではないと思うのですが)
胡適は思想史家的にデューイに影響を受けて、デューイ研究者となったのではなく、デューイから「方法」を学んだのだ、と述懐しているそうです。
「方法」というより、構えや態度と言った方がいいかもしれません。
そして、胡適は実際に、デューイの思想の実践的側面を受け継いで、近代国家たらんと胎動する中国の現場にコミットしていく。(この意味で、胡適はプラグマティストだと言えると竹内は指摘)

竹内の議論で興味深いのは、アジアにおけるプラグマティズム受容について語った以下の箇所です。
私は、プラグマティズムは、中国のような後進国に持ち込まれると無内容になる……と思う。無内容のために、革命の条件が成熟している場合は、導火線として働くが、その役目がおわれば捨てられる。したがって、革命の条件を欠いている日本の場合は、その形式性のために、イデオロギイとして働かないために、持ち込まれたのではないか。(p.181)

この議論の下にある発想は、「プラグマティズムは、一面においては、アメリカ的エネルギイの自己表現としての、革命の理論である。ヨオロッパの植民地から自力で自己を解放する過程において形成され、その延長として、未来に無限の可能性を開いている。いわゆるフロンティアの精神だ。過去を断絶していること、歴史の重荷を感じていないこと、一切が現在の必要にもとずいて〔ママ〕可塑的であること、絶対自力であること、これらの特徴は、……革命的である」(p.181)

実際のプラグマティズムの起源、発展史と照らし合わせたり、実際のプラグマティズムの思想家の思想と照らし合わせれば、色々微妙なところはあるのですが、論としては興味深いところがあります。(メナンド(2010)『メタフィジカル・クラブ』みすず書房、魚津郁夫(2006)『プラグマティズムの思想』ちくま文庫などを参照)

また、竹内はこう書いてもいます。
「デューイが中国に与えたものにくらべて、かれが中国から受け取ったものの萌芽、より大きかったようである」(p.183)。
「デューイが中国に触れて書いた時評的な文章をよむと、日本の自由主義者(たとえば吉野作造)の観察などはバカらしくなるほど正確な判断をくだしており、しかも、多くの場合は日本と比較しているので、今日でも、私たちにとって頗る有益である」(同)

竹内がこのとき念頭に置いている時評的な文章は、1929年のCharacters and Events--Popular Essays in Social and Political Philosophyだそうです。


10、「日本におけるデューイ」鶴見和子

さすがに飽きてきたので詳しい内容は割愛です。

「デューイを驚かせたことは、この国の世論には一貫性がないということだった」(p.186)

数多くのデューイによる日本評価を引用している鶴見和子は、その的確さに驚きを示しています。
鶴見和子は、1952年にも変わらず妥当する指摘が多く含まれていることに驚いているのですが、現代の私たちは、鶴見和子と同様の驚きを繰り返さなければならないこと驚くべきかもしれません。


11、「デューイ解釈の場」鶴見和子

本書で一番エモい文章はこれでしょう。
そう長くはありません。

思想の科学研究会で研究会を催してきたとき、近所の警察官が念のために訪問しに来たというエピソードを引きながら、思想というと、何か厄介で、面倒なものであるという通念の存在を指摘します。
そこでは、思想=危険思想と言ってよいようなものになっている。

鶴見和子は「概念くだき」という手法を提唱していますが、そこで示唆されてるのは、高踏的で難解なジャーゴンが重要なのではなく、むしろ日々の当たり前の生活に根ざしたものとして思想を受け取ろうという発想です。
じつはわたしたちは、『シソウ』というのは、わたしたちのひとりひとりが、わたしたち自身の歩いてゆく方向を、それぞれにえらび出すために、いろいろな方向について、かんがえる〔傍点〕ということだと思っているんです。(p.204)
デューイ解釈の場と題されてはいますが、実際のところ、思想の科学の、あるいは鶴見和子のマニフェストだというべき文章かもしれません。

2015年12月22日火曜日

2015年の活動まとめ

毎年なんだかやってますが、今年も今年とて総括。
2014年のまとめはこちら。2013年のまとめへもそこから飛べます。

なんだかんだと今年は忙しく過ごしていました。
ブクログによると、書籍は今年一年で、352冊読んだようです(12/29現在)。
ただ、ブクログの本棚登録は、アマゾンがその商品を取り扱っているかどうかに依存しているので、もうちょっと多いかなと(古い絶版本や論文、珍しい洋書も読みました)。それから登録したのは、読了書籍のみなので、実数はもっとあるんじゃないかと思います。
映画・映像を加えると、442コンテンツだそうです(カウントしたのはDVD・Blu-ray化されたもの)。
今年は例年以上に読んだんじゃないかな。なお、漫画は除きます。


・閲覧数の伸びたブログ記事
大槻香奈個展「私を忘れないで。」についての、かなり長めの感想。

さすが、大槻さんの人気ぶりというか、どかんと閲覧数増えました。
こういうのは批評未満ですし、論としてかなりごまかしもあるのですが、ご本人はじめ、それなりに面白く読んでいただけたようでよかったです。

『後宮小説』と『ジェイン・エア』――二つの「適当」な主体
読書会で『後宮小説』扱ったときですね。全く人が来なかったので、代わりにネットに書いたのでした。


・プラグマティズム講座(全三回)
イベントスペースのGACCOH(京都・出町柳)さんにて、ワークショップを開催しました。
それぞれ、こういうタイトルです。
「哲学史のなかのプラグマティズム」(8月)
「鶴見俊輔とプラグマティズム」(9月)
「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」 (11月)



おかげさまで、こちらは盛況でした。
GACCOHのサイトが残っていないので、 関連するブログ記事へのリンクを貼っておきます。
→残ってました。リンクはこちら。


・GACCOH小説読書会
直近から下っていくと、こんな感じ。
伊藤計劃『虐殺器官』×『ハーモニー』読書会(11月)
伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』読書会(10月)
酒見賢一『後宮小説』読書会(5月)
ミシェル・ウェルベック『素粒子』読書会(1月)

『素粒子』は映画も結構よかったです。内容はかなり違うんですけど。主人公も、もっとデブのキモい感じを想像してた。しかし、それはそれとして悪くないと思いました。

さておき、12月26日に、ミシェル・ウェルベック『服従』読書会を開催します!
→開催しました。

過去に扱った本はこちらをご覧ください。


・消費社会論勉強会
扱った本を挙げています。毎回テーマらしきものを設けて読むと、内容がリンクしてくるので、かなり面白いです。内容をまとめてくるので、他の参加者の読了は「推奨」。読まなくても参加できる勉強会です。開催場所はいずれもGACCOH。
第四回のテーマは東京でした。(2月)
北田暁大『増補 広告都市・東京:その誕生と死』
吉見俊哉『都市のドラマツルギー』
森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』
第五回のテーマは「食」。(3月)
厚香苗『テキヤはどこからやってくるのか』
今柊二『ファミリーレストラン 「外食」の近現代史』
速水健朗『フード左翼とフード右翼』

番外編は、ショッピングモール散策オフ。(3月)
イオンモール桂川で、色々歩きつつ以下の二冊を読みました。
東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える』
速水健朗『都市と消費とディズニーの夢』

第六回は理論的な著作。(5月)
ブライマン『ディズニー化する社会』
セネット『不安な経済/漂流する個人』
第七回も、理論よりの良書を。(8月)
サンデル『それをお金で買いますか』
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
リッツァ『消費社会の魔術的体系』
第八回も引き続き、消費社会論の名著を。(10月)
見田宗介『現代社会の理論』
ショア『浪費するアメリカ人』

次回は2016年の2月を予定しています。



・クトゥルフ神話TRPG
今年から始めたんじゃないかな、と思います。
これが面白いのなんの。
気が付いたら……








動画投稿してました。
「夜は短し飲んでは歩け」は、初心者のソロプレイでも遊べる感じに構成。森見登美彦の小説をもとにした自作シナリオ。
「沈滞する水都」は、友人作のシナリオ。


・燻製
燻製、はじめました。
こちらも「ゆっくりいぶり暮らし」と題して動画を投稿し、大島さんの燻製漫画『いぶり暮らし』のステマしてます。
かなり編集ミスが多くて、正直消したい。

2015年10月26日月曜日

プラグマティズムに関する講座を11/7に京都でやるよ、という話

ブログで宣伝することを思いつかなかったので、今更ながらの告知です。
京都大学人間環境学研究科に所属している院生です。


イベントスペースのGACCOHさんにて、教養講座「やっぱり知りたい!プラグマティズム」シリーズを催しています。
今回はその第三回、最終回(11/7)の宣伝です。

「やっぱり知りたい!プラグマティズム」全3回 / 第3回「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」11月7日(土) 19:00-21:00→詳細



今回の話は、人間の「生」に焦点を当てたものになると思います。この場で、次回の背景になっているテーマを少し書いてみたいと思います。

時代や社会を語るとき、「複雑さ」や「変化」という言葉と積極的に結び付けられるとき、その裏で前景化しているのは、生きることにつきまとう漠とした「不安」であり、「この世界の自明性が失われた」という感覚です。
それを「確実性の源泉」が失われたとか、生きることの「原理」の喪失と呼んでもよいでしょう。

今回のプラグマティズム講座では、原理主義の本家本元、20世紀前半に登場するキリスト教原理主義に焦点を当てます。
プラグマティズムの思想家ジョン・デューイは、キリスト教原理主義の台頭を目撃した同時代人でした。
私たちが今回、原理主義を扱うにあたって、問題にしたいのは冒頭に述べた「自明性の喪失」です。

この話に対する補助線として、2011年紀伊国屋じんぶん大賞に選ばれた國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』の序章を借りながら言い換えてみましょう。



よく言われるように、近代に入り様々な価値が相対化されました。これまで信じられてきた価値に変わって据え置かれたのは、「生命ほど尊いものはない」という原理でした。佐伯啓思さんなら、それを「生命尊重主義」と呼ぶでしょう。

これは正しい。正しいがゆえに人を奮い立たせることはありません。生命尊重主義は、世界の自明性を回復しません。

生きることに拭いがたい不安があり、自分には揺らがない基盤がない感じがするとき、人は自分を突き動かしてくれる力を欲します。

その「力」を与えてくれる最も目立った例として、過激派や狂信者を想定することができます。

「世界の底が抜けた」ように感じられるとき、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者を、人は「恐ろしくもうらやましい」と思うようになるのかもしれません。

自分はいてもいなくてもよいのではなく、何かに打ち込むことで意味ある使命を背負っているのだと実感したい。

強いて単純化して言えば、そういう感覚が、いわゆる「ホームグロウン・テロリズム」や、イスラーム国に参加しようとする人々に共有されているのだと思います。

今回話題にするキリスト教原理主義が、暴力に訴える人々だと言っているのではありません。というか、ここでは暴力的かどうかは問題ですらありません。

キリスト教原理主義は、人間の生の不安に応えて、自分を突き動かす「力」や「原理」を提供している。

国家や民族に回帰する現象(右傾化?)がもはやありふれた風景になっている今、世俗化の最先端にいて、「宗教」というと顔をしかめる日本の私たちだって、決して彼らを後ろ指差して批判できる場所にはいません。

ジョン・デューイの原理主義論の紹介を通じて、私たちが欲している生きることの「確かさの源泉」について、安定・安心して生きたいという感情について、考えてみたいと思います。

およそ百年前の、縁遠いかに思える「原理主義」という現象の考察は、思いのほか、現代日本に生きる人間にとって具体的かつ原理的な洞察を提供してくれるかもしれません。



第一回、第二回とは内容的に独立しているので、気軽にふらっときてください。第一回、第二回の話を聞いてみたいという方は、参加したうえで質疑のときに言っていただければお答えします。

詳細は、下のリンクまで。


わかりやすい、聞きやすい、面白いを心がけてがんばります。前知識は特に必要ありません。

興味があれば、ツイッター(@mircea_moning )にでも連絡をいただければお返事します。

「やっぱり知りたい!プラグマティズム」全3回 / 第3回「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」11月7日(土) 19:00-21:00
お申し込みや参考文献などの詳細はこちら

2014年5月23日金曜日

マイケル・フィンドレー『アートの価値――マネー・パワー・ビューティ』


全体を通して面白い。
アートディーラーとしての経験・体験が随所に活かされた文章でした。
フィンドレーの略歴自体はネットにpdfで落ちていましたが、本の感想は全くありませんでした。。。
ので! 書きます。


読んでる最中に考えたことは、(もう人に話したりしたので)脇に置くとして眠い頭で考えた「読書感想文()」だけを書くとすれば……芸術作品が〈貨幣〉みたいだと感じた。つまり――お金を払って芸術作品を買っているというより、芸術作品を払ってお金を交換しているようだ、と。
そういう感想の元ネタとしては、マルセル・モースの『贈与論』に出てくる「印章」の話でしょうか。
それに、芸術作品って貨幣と同じで目減りしますよね(経年劣化とか)。


あと、考えれば考えるほど、アートというものって、位置づけが不思議ですね。
ピラミッドとも、プラトン(の思想)とも、『不思議の国のアリス』とも違う。どちらも人類の遺産だけれど、芸術作品と違って、誰も「所有」しようとしないし、できない。
もちろんエジプトに位置しているから、便宜的にエジプト政府が管理したりはしているでしょうけど。少なくとも建前的にはそうなっている。
『不思議の国のアリス』自体は、誰しもが(英語であれ日本語であれ)手に入れることができるし、そのストーリーにアクセスできる。この点では、本物もアウラもくそもない。(プラトンの思想も、この点では同じ)
稀覯本という観点では、確かに『不思議の国のアリス』の初版本は150万ドル(うろ覚え)くらいで落札されたことがあるようだけど、これですら、『不思議の国のアリス』という人類の遺産に対する所有欲ではないし、その芸術性・文学性(あるいは思想でもいい)に対する評価・心酔から来ている所有欲でもない。
(この辺を単なる物質的なフェティシズムに還元できるのかどうか、考える余地はあるだろうけど)

一方で、私たちはウォーホルやモネの作品を所有できるし、同時に人類の遺産だと考えている。これはかなり奇妙で面白い営みだと思う。改めて感じた。



とてもいい本で、エピソードや「実はこうだよ」的な裏話も門外漢には刺激的。「これはいいっ!」って言いたい。
ただし第三章、てめーはダメだ。

三章は「アートの本質的価値」と題されている。
三章以外は好印象だった。アートの市場の話や具体的なオークションのエピソード、作家の態度や制作、コレクターや画商、美術館の所有や設立などなどかなり外在的な説明だったから自分も受け入れられたのかもしれない。

「言葉にされたら終わり」「言葉できないものを表現してる」「言葉にできないものを感じるんだ」「ありのまま感じるんだ」
……みたいな話が突然やってくるんですよ。
けれど、こういうときの「言葉にできない」「言葉は信用ならない」という態度を留保なくとる輩は、(そう言いたい気持ちはわかるにせよ)気に入らないんです。気に入らないは言いすぎだとしても、その感性の繊細さを疑いたくなる。
(ちょうど今の私のように!)あまりに感情的すぎるし、なにより、そう言うときの「言葉にできない」って言葉が安すぎる。


考えてみてください。コミュニケーションをとるときに、相手の感情がいかに言葉にならないものだとしても、私たちは誤解をしたくないなら、延々とその感情と付き合い続けて、言葉を費やし続けますよね。それによって、ずっと私たちは他者の感情の解釈を――それゆえに、他者そのものの解釈を、不断に更新し続けますよね。
考えてみてください。「英語にしきれない日本語がー」って話がよくありますけど、その不可能性はどの程度でしょうか。私たちは思っている以上に伝えているんですよね。注釈による補足や文献への案内、言い換えや具体例、図版の挿入、ルビその他――そういう風に翻訳の工夫だってできます。(なぜ翻訳の話をしているのか、と思う方はinterpretationという言葉を思い出してください)
考えてみてください。草原に立っている私たちの視界にうさぎが入ってきたとき、私たちが「うさぎだ」と言語化する以前に――うさぎだと判断するまでもなく、頭ではうさぎとして処理されています。言語は私たちの現実認識の根っこにあるので、言語抜きの私たちなどもはや想像できないほどの根本から、私たちを作り上げているのです。(言語抜きの私たちを想像できるとしても、それはやはり言語を用いているまでもなく、言語の影響下にある。)

「言葉にできない」「言葉以前の」「言葉にしたら終わり」
こういう言葉の「できなさ」を深く語っている人はほとんど見ません(どういう「できなさ」で、どの程度「できなく」て、結果どのようなことが起こるのか、なぜ「できない」のか)
「言葉以前」というならば、どのような時間的プロセスにのっとった何を想定しているから「以前」と言っていて、どういう段階を経て「言葉」に至るのか、言葉に至ったら至ったで、その段階はどういう部分に分けられるのか――
「終わり」だってそうです。「◯◯はオワコン」程度の適当さで、「言葉なんてオワコン」って言いたいだけに思えるんですよね。

「言葉なんて」って言うやつの、感性の鈍感さが、私には信じられません。
少なくとも、無前提に、留保なく言う人は、言葉について語る繊細さを持ち合わせていないのではないかと思うのです。

……と怒りはこれくらいにしておきます。
(いや、もうちょっとだけ続くんじゃ)


事程左様に第三章のこういう仕方で「美」を語っているような多くの部分が無根拠だし、あまりに叙情的過ぎるのです(「お話」としては「綺麗」ではあるけど)。
はっきり言ってしまえば害悪ですらあると思います。

人間のコミュニケーションの歴史と、コミュニケーションにかける努力・試行錯誤をなめているし、哲学や文学、言語学や翻訳論といった分野が「言葉」や「(他者の)解釈」というものに費やしてきた、祈りのような思いと時間とを、個人的な鈍感さと無関心で粗野に放り捨てている。
フィンドレーは、芸術には敏感かもしれないけれど、それを覆い隠すほどに、言語・言葉には鈍感なのだと思う(自分は逆にどうか――というのは、のちの宿題にするとして)。


少し前、SF作家・神林長平の『言壺』の発言を引用しつつ、こんなことを言いました。
「核になるのは私の場合、言葉ではなく、非言語的な想いであって、表現したいことははっきりしているものの、言語レールにはもともとのせることができなくて、書いているうちになんとなくそれに近づいてくるのをよしとするものなのだ。真実があるとすれば、書くという行為、そのものにある、という説もあるが、なるほど、と思う。書き上げたとき、やはりこれと核になったものは違う、と思うのはそのせいだ。だから、また書く気になれる。これでよし、ということがない。想う能力があるかぎり」神林長平『言壺』
「原理論を持ち出せば、そういう非言語的に思える部分、つまり無意識に刻まれた世界や自己に関する一次的な知覚・把握・直観が、「言語」抜きに成立しないものだったりする。それは、もはや表現するときの「言葉」とはかけ離れたものだろうけど」

……などという「言語観」「他者観」については、デイヴィッドソンでも読んでください。入門書は、冨田さんのがいいのではないでしょうか。

あ、いや。ほんとに面白い、いい本なのです(今更?)
装丁もきれいだし、文字組も結構いい感じ。訳者注も邪魔じゃない範囲だし、痒いところに手が届く。



以上、本書を読んだからと言って、クリスティーズやサザビーズは一生縁がないだろうな――と思うミルチでした。

ではまた。



※ちなみに冒頭に貼っているのは、(一応は)ネオプラグマティストに数えられることもある、シュスターマンの芸術論・美学です。音楽とかそっち方向で本人は入ったようですが。

※アリスの初版本については、こちらに情報がありました。本書に出てくる金額に比べると、アリスの150万ドルなんてかわいい部類だなぁと思ってしまいます。

2013年4月23日火曜日

超文フリとか、「都市のイメージ、イメージの都市」電書版販売について

追記→以下の同人誌の電子書籍版「都市のイメージ イメージの都市」を、ameroadにて販売中です。こちらをクリック。

都市という言葉はとても厄介なものですが、私たちが避けて通ることのできない「住む」こと、「暮らす」こと、「生活」することについて広く考えました。

誰かとそこに「住む」ということ。他のどこでもなく「そこ」に住むということ。「誰か」とその都市を歩くということ(他者、景観)。その場所を誰かと「訪れる」ということ(観光)。ある場所について、何らかのイメージを持って思い出すこと(スティグマ、架空/現実の都市、風評、イメージの都市)。その場所でお金を稼ぎ、使うこと(働く、お金、労働、消費、浪費)。
……そういうものについて沢山考えました。
概要については、↓の大阪文フリのエントリも合わせて御覧ください。

都市について、小説の世界、スポーツ、歴史学、観光、労働……色んな観点から光を当ててできあがった本です。都市計画や土木に親和性のあるターロと、哲学や社会学を延々とやっている朝永ミルチで製作しました。 それが「都市のイメージ、イメージの都市」です。

電子書籍版の目次
元々は、4月14日文学フリマin大阪限定で頒布したコピー誌でした。要望があったので電子書籍化し、今回委託販売させていただく運びとなりました。表紙絵や裏表紙、目次に至るまでかなりコンセプチュアルに作っていると思います。……多分(´・ω・`)
購入頂いた奇特な方に楽しんでいただけると幸いです。

また、既に紙のものをご購入頂いている方に関しましては、サイトのプロフィールに記載されているメールアドレスからご連絡頂くか、こそっとDMなどをしてくだされば、確認の上で電子書籍版(pdf形式)も差し上げます。

表紙については、文フリin大阪に関するブログ記事を見てくだされば、と思います。

つきましては、来たるニコニコ超会議の同人誌即売会において、「都市のイメージ、イメージの都市」の電子書籍版を、フミカレコーズのブースにて委託頒布させていただきます。
現地でお金を払っていただき、私たちの連絡先等や概要、電書受領までのプロセスを記載したプリントを引き換えに受け取っていただきます。
頒布価格は500円の予定です。ア-04(筑波批評ア-03との合同ブース)です。
電書のプラットフォームなどで、一般に販売するかとかは決めていません。

右にも晒していますが、目次を略式で下にも書いておきます。


①架空(イメージ)の都市、現実(イメージ)の都市
・貴志祐介『新世界より』 p1~
 朝永ミルチ論考 「出口のない世界と、他者になれない他者」 p2~
 ターロ論考 「人間の都市観とバケネズミの都市観」p9~
 ターロ、朝永ミルチ:座談会「新世界よりを語り尽くす」 p12~
  まえがき、★0新世界からの贈与、遺産の前借り p12~
  ★1ヴェネツィアと神栖町 p13~
  ★2観光と都市、イメージと都市 p17~
  ★3都市のイメージ p21~
  ★4条法統制と、教育と料理 p23~
  ★5他者と未来とコンテンツ p26~
  ★6想像力が更新し、イメージする未来 p30~ 
新世界よりを/で様々なことを語っています。新世界よりというコンテンツの持つ、道具立ての有用性を感じました。 新世界よりを楽しめなかった人も、楽しめた人も、これで一層楽しめるはず。
・『マルドゥック・スクランブル/ヴェロシティ』  p33~
 ターロ論考 p35~ 
骨太のコンテンツにケヴィン・リンチとかで挑んだ感じ。 当初は、神林長平の『ぼくらは都市を愛していた』も関連させようとしていた。代わりにブックガイドで触れている。
・小川一水『煙突の上にハイヒール』 p40~
 ミルチ論考 p41~ 
ガジェット的な観点。町をどのように眺め、歩くのかという観点。場所の記憶について(土地を捨てられない人間と「ねこ会議」について)。あり得ないコミュニケーションが成立したオープンカフェのお話。ばらばらな存在がばらばらのまま歩く――そういう風景が普通に「町」に存在するってどういうことだろうか。……みたいなことを考えていました。
②寄稿パート
 小林勝平 「サッカーと都市」論試論 p48~
 すたれびと 歴史学と都市―What is city?  p50~ 
「観るサッカー」と「するサッカー」。歴史学からみた都市。歴史的な都市の変遷。諸々は、読んでみてのお楽しみ! 
③旅行記
 ミルチ 「前文 観光と旅行記と、〈実況〉の魔法」 p53~
 N 東アジア紀行 上海→ヴェトナム→カンボジアp55~
 ルーキー シルクロード旅行記 p59~ 
前文では、観光地の郊外化、観光のまなざし、『孤独のグルメ』を観光的に読むなどのお話を。ひきこもりですら旅行に行きたくなるパートです。「本を持って、町に出よう」
④カピバク、ターロ、朝永ミルチ:座談「労働と、労働と都市」
 一、労働の思想。新しい経済観・仕事観を巡って p66~
 二、夢と文化とコミュニケーションp72~
 三、新しい「消費」×新しい「働く」=新しい「?」  p73~ 
マルクスとアーレントの思想の弁証法的な関係の中で、「労働の思想」について研究していらっしゃる、京都アカデメイアのカピバクさんをお招きして。社会に一度出て、院に戻って研究している方です。
⑤小論
 ターロ ケヴィン・リンチ都市のイメージについて p84~
 ミルチ 都市生活の「消費」と「浪費」をめぐる問い―國分功一郎と宇野常寛 p86~ 
⑥〈架空/現実〉=〈イメージ〉の都市論ブックガイド p91~ 
執筆者一覧 p94
巻末言他 p95


必要そうな情報があれば順次追加していきますー。個々のコンテンツについてもうちょっと深く紹介できる余裕がありそうなら、近い内に追記します!
現地には紙の見本誌を預けておくので、それを見ながら「こんなのかー」と確かめてくださいませー。座談のキーワードを適当に書きだしたものは、大阪の文フリ告知に書いてあります。

フミカも筑波批評も、坂上秋成さんとこのエヴァ本もほしい><
いきたかったなー、超会議。
みなさん、フミカ、筑波批評のみならず、ボカロクリティークもよろしくお願いします!(同ブースにて販売)