2017年9月12日火曜日

岡本健『ゾンビ学』(人文書院)を読む:近代、移動、資本

いつもお世話になっております。
ミルチこと、某院生です。

兼ねてからお知り合いだった、観光学者の岡本健さんの『ゾンビ学』(人文書院)を本日ようやく手にすることができ、読んでいます。
多くの書評やレビューの類はあるので、取り留めもない考えや思い付きを書くことにしたいと思います。


1.ゾンビと私


古めの知識人とか、大学教員が、かつてよく書いていた文章として、「〇〇と私」というたぐいのものがありました。
「寺山修司と私」とか、「マルクスと私」とか、そういう感じのタイトルは五万とあります。
そして、この種のタイトルの文章が苦手でした。

このタイトルの文章に反発していたのは、「お前の個人的な話なんてどうでもいいよ!!」「研究の話してよ!!」と思うからですね。
でも、ここはブログなので好きに書くのです。

何を隠そう、私はかなりゾンビが好きです。
小説とかだと、幽霊の方がモチーフとしてはずっと好きなのですが、ゾンビは映像としてかなり好きです。
幽霊+ゾンビ好きだった私は、学部時代に「幽霊」と「ゾンビ」を比喩的なモデルとして、現代のコンテンツ環境を論じられるのではないか?と考えていました。

当時どんなことを考えていたかを正確に再現するのは難しいのですが、多分、こんな感じです。
二次創作(n次創作)ありきのコンテンツ状況を切り分けるとき、二つのタイプがあるのでは?というもの。具体的には……

・幽霊型

二次創作の多さ、濃さが、「源泉」に当たる人間・場所や「原点」に当たるソフトなどの卓越性をますます高めるようなコンテンツ
→ある種の作品が反復されるごとに、色んな幽霊が「憑く」イメージ。

例としては、初音ミクを初めとするボーカロイド、それから声優(演じてきた各キャラクターが声優に「憑く」)。
上には、一次の「創作」を含めませんでしたが、もしかすると該当するかもしれません。
基本的には、人間や場所、ソフトウェアなど、それ自体が「器」のような、「空」のような存在を念頭に置いていたはずです。

・ゾンビ型

それに紐づく作品が、元の作品に「似た」「別の」ものとして、大量に存在していること。
フロイトの「不気味なもの」のイメージです。似たものは、そのものではないので、あくまで類似した存在であって、原作を根本的に脅かすようで、原作の存在感を際立たせているところがあると思います。
人間に似たものであるゾンビの残虐な非人間性が、かえって人間の非人間性を際立たせる、という描き方をしたゾンビ作品が無数にあるように。
あるいは、原作が噛みついて、どんどん感染者(=二次創作)を増やしていくイメージだったかもしれません。

どんなことを考えていて、これをどうするつもりだったのかはわかりませんが(笑)、でも、それくらいゾンビが好きだったということです。

*毎日新聞で、関連インタビューがありました。*
*日経新聞で、関連インタビューがありました。*


2.ゾンビと移動性


第二章「フレームワーク・オブ・ザ・デッド」の移動/立てこもりの話が既に面白く、今準備している研究発表の原稿と似ているところがあるので、思考が走り出してしまいました。

今準備している原稿の、ほんの一部ですが、要約するとこういうことを言っています。

前近代は、全てが「一望できる」範囲に収められていることが重要で、人間の記憶や注意などの能力が及ぶ範囲に、人口や国土などが制約されていた世界だった。
しかし、近代は、新しい技術・メディアの誕生、移動の自由、交通革命、メディア産業(特にジャーナリズム)、国際関係の成立などによって、「閉じられた地域」を越えて、様々な情報が各個人に押し寄せている。
ということは、自分の直接見聞きしない、観察しないことについて何らかのイメージを持つことを日常的に強いられる時代なんだ、今は。

こういう感じの話です。
(この要約は、W.リップマンのメディア論の前提になっている基本認識の一つに相当します。)

『ゾンビ学』52頁の「ゾンビコンテンツの時間軸」を前近代世界に当てはめると、面白いことが言えそうです。
前近代世界では、多くの人が閉じられた範囲で生活を営んでいて、腰を下ろしていた。いわば、集団的な引きこもりです。
そういう場所で、「ゾンビ・アウトブレイク」が起こったらどうなるか。ゾンビが根絶できないとしたら、ほとんどの人がゾンビになってしまうはずです。
しかし、せいぜい人口は知れているでしょうから、たちまち事態(=ゾンビ・パンデミック)は収まるでしょう。
ゾンビの側も、食すべき人肉が限られているので、(ゾンビが改めて死にうるとすれば)食べるものがなくなると、すぐに死に絶えるかもしれません。

こういう世界で、新たにドラマが起きうるとすれば、既に大半がゾンビ・パンデミックでゾンビ化したその村・町を、「旅人」や「行商人」のような人が訪問したときではないでしょうか。
どういうことかというと、大抵のゾンビものでは、どこかのタイミングでは、「人間が新たにゾンビになりうる」という拡大可能性をストーリーに織り込まねばならないからです。
これは、「ロンドンゾンビ紀行」みたいなコミカルな作品でも同じだし、『さんかれあ』みたいな作品でも同じです。
大抵は、誰かがゾンビにならないようにうまく収めていたとしても、時々は「ゾンビになる(かもしれない)」という緊張が求められるからでしょう。

翻って、集団的に引きこもる前近代世界で「ゾンビもの」が成立しづらいのは、その系の規模が小さく、また閉じられているからだと言えそうです。
「G→W→G'」的な意味で、ゾンビものは、常にゾンビになりうる新しい人間が次々と投下されていくことで駆動されていくのかもしれません。(ここでは、スリルが生み出されさえすればいいので、実際に誰かがゾンビになってしまう必要はない)

だとすると、前近代では、新たな人間が資本投下されづらい、新陳代謝(の可能性)が生じづらいので、描きにくいと言えそうです。
新たな感染可能性が、物語にサスペンス(緊張)を与える、と言った方がわかりやすいでしょうか。前近代は、系が小さく閉じられているので、新しい感染可能性が小さくなっている。

実をいうと、これを実際の「近代」「前近代」に対応させる必要はなくて、系の「開/閉」と、その規模の「大/小」で語ることのできる問題だと思います。
多くのゾンビもので、登場人物たちが次々と移動するのは、物語の流れからそうするわけですが、この観点から見ると、新しい感染可能性を求めて移動させられていることになります。

以上のざっくりした話を踏まえると、交通革命が起きた19世紀以降、農村から産業労働人口が流入して都市化した時代というのは、系の「開/閉」の面から言って、非常な画期だったと言えそうです。
(107-9頁辺りは、電話やラジオというメディアがゾンビ作品内で果たす役割が描かれていて、系の「開/閉」を考える上で、重要な取っ掛かりになりそうです。
また、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」などを論じた246-53頁も、「移動」ないし「立てこもり」を論じていて、直接つながりそうな話があります。)


3.フードツーリスト


この観点から最も興味深いのは、ゾンビをフード・ツーリズムの実践者に喩えた11章「死霊のたびじ」です。
この見通しは、二つの観点から面白く読みました。

①資本主義の原理をいくつものレイヤーで反復している点を描き出していること。
新たな感染可能性を要求するゾンビ作品/新しい食事を要求する飢えたゾンビ/新しい商品を要求する飢えた消費者/新しい情報を求め続けるツーリスト
マルクス言うところの「G→W→G'」のイメージです。

②それが「ツーリズム」つまり大衆観光以降の話を念頭においている以上、まさに、ゾンビが近代的な問題だということに触れていること。
先に触れた、系の「開/閉」や、その規模の「大/小」という問題が、前近代と近代を分かつ分割線になっているのだとすれば、ツーリズムを通して、近代について考えている章になっています。
この画期をもたらしたいくつかの重要なメディアや技術については、ゾンビ映画との関係で考察する余地があると思います。船、電車、飛行機、新聞、電話・電信、ラジオ、それらに関する産業、移動・居住・職業に関する権利……。

あまり本文の内容に触れていない上に、すごく雑駁でまとまらない感想ですが、この辺で。
面白かったですー。