2018年2月21日水曜日

某集中講義の感想

大学院生向けの教育に関する集中講義を受けて書いた感想を貼っておきます。
成績もついたことですし、もう問題ないと思うので。

個人的な事情にも触れているのですが、このままだとメールフォルダで埋もれそうだったので、ここに貼ることでアーカイブ化しておきます。
ざっと書いたエッセイなので、間に合わせ感も半端ないですが。



1.授業を通じて学んだことや身についたこと


 誰かと協働するというとき,相手からのアクションがなければ,協働の関係をうまく築くことはできない。主役を張る人がたった一人で暖簾を押したところで,何か事態は変わったりしない。これは当たり前のことではあるが,積極的なパートナーたちとチームを組んだことで,その意を実感した。(全然関係はないが,円城塔『道化師の蝶』には,集団で織りものを織るというシーンがあり,それを思い出した。)

今後,教員として,私が他の教員と組んで授業することもあろうし,複数教員がかかわるような講義やコースを設計することがあるかもしれない。その場合,今回の講義のようなパートナーシップが望めるかというと,あまり期待できないのではないかと思うと,少し悲しく思う。シンポジウムの企画や,自分の講義でゲストスピーカーを設定するときなど,まずは自分の手の届く範囲で,そして,自分が確かに信頼し,既に協働関係を築くことのできた人たちとのあいだで,ひとまずは,個別の実践を積み重ねていけたらと思う。



2.自身の教育観


 私は,少なくとも,10代の私は,グループワークが苦手だし,学校の講義もあまり好きではなかった。正直,しゃらくさいとさえ思っていた。「低い」レベルに合わせなければいけないからというわけではない。どちらかというと,学問的でないことについて,ぼっち的である人間として,単に「つらい」ということかもしれない。かつての私は,集団で何かをすることに,精神的に向いていなかった。今後は,そんなことなどなかったかのように,グループワークをしたりもするのだろう。しかし,心のどこかでは,嫌がっていた過去の自分のことを思い出して,「これにはついていけない,ついていくのが嫌な人もいるだろう」と思う余地を,頭の片隅に残していたい。

 このような,ある種の「不信感」は,学校や授業への疑いというより,(チームトマトの授業内容のよろしく)「教え」や「学び」の遍在に対する信念につながっている。私が単著を準備している思想家の鶴見俊輔(2019年には刊行できるようにがんばります!)は,これを「偶発性教育」などと呼んでいる。これは、「ハッとするような瞬間に,自己の中でうまれる変化に注目しよう」という掛け声だと理解すればいい。実際に教える立場,教師と呼ばれる立場に立つだろうからこそ,「実際はそうでなくてもいい」という反対の視点を忘れないようにしたいと思う。少なくとも,私は,そういう大人に助けられてきたからだ。



3.実際の授業で実践してみたいこと


 京都大学人間・環境学研究科のプレFD企画「総人のミカタ」にて私が担当した講義では,プラトンやハイデガーが使った論法を体感してみようということで,「哲学に関するイメージ」をグループごとに挙げてもらい,それを全体で共有しつつ,哲学者の既存の哲学に関する言説と突き合わせるという作業をやってみた。これは,優秀な院生の友人たちがグループについてもらうなどのサポートがあったからこそできたことではあるが,参加者や参加院生にも好評であり,類似の試みは一層実践されていいと実感した。(具体的には,「メノンのパラドックス」をすでにクリアしているということを,哲学の定義をめぐって、実体験してもらうというもの)

 哲学教育において,座学的な教授はどうしても必要になるし,それが主となることはやむを得ないところがあると思う。学生の関心や,学習意欲などにもよるだろうが,典型例としては,やはりそうなのだろうと思う。(さらに言えば,チーム地球惑星開発連合?の貫井さんが言っていたように,他の講義から必要とされ,そこに参与するような形でかかわるときは,その限りではないと思う。)とはいえ,グループワークは,哲学の敵ではないし,そもそも,私が哲学を学ぶ上で最も有益だったのは,ゼミや読書会での対話であり,そこに参加している先輩や友人,後輩たちとのインフォーマルな会話である。そうした対話的な知性を育むために,様々な教授法と,よりよい付き合いを模索しなければならないと思った。

しかしながら,それ以上に,講義を受けて実感したのが,とりあえずグループワーク,とりあえずアクティブラーニングの危うさということだ。自分自身,実際にグループワークをやったりする中で,それなりに考えている風の振る舞いや発言をするときであっても,それが腑に落ちているわけでもなかったり,それが授業の前後の流れと有機的に結びついているわけでもなかったりすることがあると思うことがあった(連続講義で疲れているのもあるだろうが)。設計の上で導入されたグループワーク・アクティブラーニングですら,こうなのだから,「上から言われたから/そういう時代だから/流行りだから,ただ単にやってみる」というのは,教師の主観的な満足をもたらし,学生も何かをやった気にはさせるが,身にならないという不幸な事態をもたらすのではないか。

 随分,天邪鬼なことを書いたが,こうしてバランスをとり,ブレーキをかけるのも哲学研究者らしい気もする。高等教育について,哲学教育については,これからも調査・研究・実践を続けていきたいので,頭のどこかではブレーキをかけるような冷静さを保ちながら,学生たちに学習しやすい場を提供できるように,できることはなんでもやっていきたいと思っている。