2016年1月6日水曜日

栗原康『現代暴力論』と千坂恭二『思想としてのファシズム』

今回は、読書会によく来てくれる方から、本を二冊いただきました。
ので、感想をあげてみたいと思います。

ちなみに、Amazonのほしいものリストを公開しています。送っていただければ、こんな感じで感想・レビューをあげます。



ではまず、栗原康さんの方から。ネット上にいくつか対談やインタビューがありました。著作もいくつかあるみたいです。
最近注目されている論客だそうですが、初めて名前知りました。白井聡さんの後輩だそうですね。

北海道新聞:「はたらかないで、たらふく食べたい」を書いた 栗原康(くりはら・やすし)さん
タバブックス:『はたらかないで、たらふく食べたい』刊行記念・栗原康インタビュー 前編  後編 
cakes:「気分はもう、焼き討ち――栗原康×白井聡対談」 前編  後編


まず、第一印象というか、そもそも文章・文体が生理的に合いませんでした。なので、私はこの人のよい読者にはなれないでしょう。人を選ぶ文章を書く人だと思います。
ちょっと、冒頭にあるデモ参加記を引用してみましょう。金曜日官邸前デモに参加すべく、地下鉄の国会議事堂前駅についた、という箇所です。
三〇分くらいしてようやく地上にでると、あまりの混雑にあるく場所さえありはしない。歩道をまっすぐいけば官邸前なのだが、警官がテープで阻止線をはっていてすすめない。とうぜん車道側には警官隊がびっしりで横にそれることはできないし、うしろにもどろうにも後方の人だかりをきるためか、やはり警官が阻止線をはっていていもどれない。友人から電話がかかってきて合流しようというが、ちがう駅からでたようで、ぜんぜんあえない。まいった。ひとが増えるにしたがって、ぎゅうぎゅう詰めになっていき、暑くて、暑くてたまらない。くるしい。わたしは水が飲みたくなって、カバンをゴソゴソやっていると、となりにいたおじさんが、「ううっ、ううっ」とうめき声をあげている。だ、だいじょうぶか。そうおもった瞬間、おじさんはなにかブツブツいいながら、ひとり警官隊につっこんでいった。車道にでる気だ。すごい。まっていましたといわんばかりに、みんながおじさんについていく。いっきに警官をおしのけて、道路にひとがなだれこんだ。みんな解放感に酔いしれる。おおきな歓声があがった。ふとあたりをみあwたすと、まえでもうしろでもおなじことがおおっている。道路占拠だ。/わあい、涼しい。わたしもうれしくて小躍りしてしまった。(pp.9-10)
ちょっと長めに引用してみました。
私と同じように、生理的に合わないという人もいるんじゃないでしょうか。

「生の負債化」がこの人のキーワードのようです。
この概念は何を意味するのか。人びとが奴隷根性的に「主人」の秩序に甘んじ、その体制に従うことを自己正当化している、というような秩序維持の戦略のことを指しているようです。
ただ、「戦略家なき戦略」というよりも、体制によるコントロールという古い管理社会的なイメージに引きずられているようにも思います。
この生の負債化、蓄群的な生をSurviveという言葉で著者は表現しています。帯文の言葉で言えば、「隷従の空気」ですね。
 
ところで、本著の副題には「あばれる力を取り戻す」とあります。
この「回復された生」のイメージ、蓄群的な生に対置された生のイメージを、Liveと著者は呼んでいます。
さらに言えば、道路占拠(オキュパイ)的な解放感、祝祭的なイメージが、この生のイメージには託されているようです。(それを「あばれる力」と呼んでいる?)

めっちゃ読みにくかったのですが、自分なりに主題を読み解いてみました。
しかし、回復された生のイメージに独自性があるようにも感じませんし(それは悪いことではないのですが)、批判している体制のイメージはやや古臭さが抜けきっていないような気もします。
個人的に、こういう議論の構成はあまり可能性がないのではないかと思いますし、こういう構成をとるにしても、もう少し洗練する必要があるのではないかと思います。

余談。
栗原さんのことは、特に知らなかったのですが、やせ過ぎだと思います。帯に著者近影があるのですが、ガリガリなんですよね。
こういう変わった生き方をしている人が、それなりに生きていける社会のことを、ゆとりある社会とか豊かな社会とか呼べるのだろうな、とか思いました。


さて、千坂恭二さん。
この方は、ウィキペディアの項目があったので貼っておきます。映画批評なんかもやっているようです。
『思想としてのファシズム』を書かしめた千坂さんの背景には、ユンガーの次の言葉があったようです。
ドイツの左翼知識人たちは、カール・シュミットやマルティン・ハイデッガーやエルンスト・ユンガーと、本来ならば是非とも対決しなければならないはずなのに、彼らを『ファシストの先駆け』だと断定してしまい、対決を避けるという悪い習慣にとらわれている。ナチス時代についてタブーを作ってしまうことで、左翼自身が自らの前史から切断されてしまっている。(ノルベルト・ボルツ『批判理論の系譜学』)
戦前日本において、戦争を支持し、それに大義を与えかねない思想を展開した思想家・哲学者らを、「悪」と名指すことで、彼らを特殊な存在として隔離してしまう。
悪をラベリングすることではなく、がっぷり四つに取り組んで、それと対決することこそ必要なのではないか。
この点は共感します。

雑誌に寄稿していた記事をまとめた論集だそうです。目次はこんな感じ。

中野正剛と東方会――日本ファシズムの源流とファシスト民主主義
内田良平と黒龍会――アジア主義の戦争と革命
世界革命としての八紘一宇――保守と右翼の相克
1968年の戦争と可能性――新左翼、アナキズム、ファシズム
連合赤軍の倫理とその時代――「軍」と「戦争」の主張
蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜――戦後日本と保守革命
ロングインタビュー 21世紀の革命戦争――ファシズム・ホロコースト

第三章をちょっと取り上げてみましょう。
前半部分では、保守の革命思想が取り上げられています。
革命といえば、左みたいな感じになっていますが、実のところ、右派にもそうした革命志向は存在したと指摘されています。典型的な例としては、世界革命としての八紘一宇があるだろう、と。

とはいえ、反安保闘争や全学連の闘争の頃までに、右翼は「反共」を意味するに過ぎないものとなっている。もっと言えば、反共親米です。
しかし、左翼が反米愛国的な民族的立場すなわちブルジョア革命の立場から、さらに日本帝国主義の自律(それはつまるところは日本が民族的独立を達成したということでもある)による社会主義革命を展望する地点にいたのに対して、右翼はまさにその出発点において反民族的といってもいいような反共親米派にすぎなかったことは看過されてはならないだろう。むろん右翼もすべてがそうだったわけではなく、個々的には神社本庁の葦津珍彦やクーデター論を展開した護国団の小島玄之などが存在したが、前者は戦後保守の内部に位置し、後者は右翼における周辺的な「トロツキスト」の域を越えることはなかった。(中略)……〔こうした動きは〕保守の急進化以上のものではなかったともいえるだろう。(pp.70-1)

「愛国」は、この後しばらくして、保守や右翼の文脈に回収されていくことになりますが、戦後以来、「愛国」は進歩派のキータームだったということを思い出してもいいかもしれません(小熊英二『民主と愛国』を参照のこと)。

右派にも革命思想があった。左派にも愛国思想が根付いていた。
この二つの指摘は、非常に重要なものだと思います。
(しかし、既に他の人が、より明確かつ体系的に扱っている論点でもあるでしょう。それこそ『民主と愛国』などが。 )


面白かったかというと、この本については、知識不足で評価しきれないところがあります。ただ、統一的な視点のもとに書かれた文章ではないので、読んでいて乗り切れないところもありました。
また、ロングインタビューを読むと、結構本気で「革命」を問題化しているんですよね。「こういう人ってまだいるんだな」と思ったというのが正直な感想です。

自分としては、革命のように「がらっと何かが変わる」ことに期待する気持ちは理解できますし、そういう思想を批判の論拠とすることに異論はありません。
例えばユートピア思想は、現実・現状に対する批判的な視線として、強烈な魅力がありますし、一定の効果があるでしょう(実際、ユートピア文学は、変革への期待に寄り添いつつ、現代まで読み継がれており、書かれ続けているわけです)。
しかし、歴史を見れば、そうした期待が十全に適ったことなどありません。期待は常に期待外れでした。変革は常に必要だと思います。しかし、その変革の戦略は、革命のような「ガラガラポン」よりも、ポパーのいうようなピースミール・エンジニアリングが現実的で妥当ではないでしょうか。
私はそう思っています。


二冊の本を通じて感じたのは、「こういう世界もあるんだな」というものです。
そして、ほとんど自分の視界にそれらが入っていないことにも衝撃でした(外山恒一くらいなら知っているのですが)。
あまり、いい読者とは言えなかったのですが、以上で感想・レビューとさせていただきたいと思います。