2015年11月15日日曜日

大槻香奈個展「わたしを忘れないで。」についての、かなり長めの感想(リライト版)。

まえがきのようなもの

日帰りの東京旅行へ行っていました。
内容としては、新宿御苑、村上隆の例の展示、そして、大槻香奈さんの展示「わたしを忘れないで。」です。
完全なるアート・ツーリズムです。


今回は、「わたしを忘れないで。」を見てきた感想を書きたいと思います。
なお、本文では、今回の個展のことを「忘れないで」と表記します。


「忘れないで」の感想を、一言でいうとすれば、「行って本当によかった」です。
余談ですが、「忘れないで」を観に行く直前、新海誠監督の「言の葉の庭」の舞台になった新宿御苑を訪れていました。
映画をなぞるように、雨がしっとり降ってくる中、展示会場に向かったことをよく覚えています。新海作品のように雨の風情を楽しむことはできず、11月の外気に凍えながら歩いて行きました。


展示を見る以前、大槻香奈さんについて抱いていた印象を正直に書きます。
クオリティ高くて安心して観られるので、大槻さんは元々好きな作家さんでした。
かといって、「いい絵だな」「印象に残るな」「面白い人だな」といった一言以上の言葉が出てくるかというと、ちょっと違うかなと思ったりもしてました。
それ以上のことを言うことが難しいなと思っていました。

しかし、個展「わたしを忘れないで」は、こうした印象とは異なる感じを与えてくれました。
自分なりに大槻香奈という作家が掴めた気がしたのです。
言い換えると、いくつかの補助線を引けば、(今の)大槻さんの作家性を自分なりに言葉にできそうだと思ったのです。


さいごに、画像使用に関してあらかじめ断っておきます。
今回の記事では、
・ウェブサイトなど、公式に公開されている画像(へのリンク)
・グッズ化された商品の画像
・筆者が現地で実際に撮った写真で、しかも、鮮明には映っていない写真
に限って、画像を使用することにします。

というのも、大槻さんの次のような発言があるからです。
「個展に来ないともうみられないよっていうスタンスですね。……やはり空間を見てもらわないと、私の表現したいことはぜったい伝わらないと思っていて。」

なお、本稿は、2016年8月に大幅に書き直されました。

さて、御託はさておき、本論へ。

重なる/混じる――境界侵犯の戦略


大槻さんの絵と言えば、「混じる」「重なる」という描き方をするのが特徴的です。
あるいは、「同化する」と言っていいのかもしれません。
例えばこの絵などは、まさに典型ですね。

町と少女が「重なる」
家と少女が「重なる」
繭と少女が「重なる」

このように、しばしば「重ね」て描かれる一対のモチーフをいくつか書き出すことだってできるくらいに、反復されている手法です。
絵をよく見ると、「重なる」というより、「混ざる」と呼びたくなるものもあります。
しかし、特にここでは区別しないことにします。というのも、こうした特徴は何であれ、〈境界侵犯〉の戦略を採っている点で共通しているからです。
この「境界侵犯」という言葉は、少し大げさなので、同化、重なり、混ざりといった特徴を一括して、「重なり/混ざり」や「重なる/混ざる」などと書くことにしましょう。

11/25より発売のアーカイブvol.1 「乳白の街」
「重なる/混ざる」という特徴が率直に表れているのは、「忘れないで」ではなくて、2011年の展示「乳白の街」かもしれません。
そもそも、展示のタイトルからして、境界の曖昧化を示唆するように思えます。
この「乳白の街」という展示は、「忘れないで 」を捉える上でとても大切だと私は考えています。

「忘れないで」で興味深かったのは、「乳白の街」でも展示されていた作品が飾られていたことです。記憶違いでなければ、会場に入って左手に数点配置されていました。
「共通するものを描いているから、今回も展示している」という趣旨の注記があったように思います。


「重なる/混ざる」という動きは、結果として対象の「識別しがたさ(indiscerniblity)」を生じさせます。
建築と少女の「重なり/ 混ざり」を例に挙げれば、大槻さんの絵では、どこからが建築でどこからが少女かを截然と分けることができません。
単に緩やかに「重なる」場合もあれば、「乳白の街」のタッチのように(上絵)、癒着的に溶け合い「混ざる」場合もありますが、いずれにせよ、「重なり/混ざり」合っている当のものは、相互に区別しがたいところがある。



群体的な攪乱――差異から微差へ


今までの話は、異なるカテゴリの対象が「重なる/混ざる」話でした。
例えば、建築と少女。
例えば、繭と少女。

「重なる/混ざる」描き方によってもたらされた「識別しがたさ」という特徴に注目して、少し連想を広げてみましょう。

大槻さんの描く絵の中には、デフォルメされた少女が、複数人、ぽこぽこと並んでいるものがあります。修学旅行のように少女の並んでいる絵が、「忘れないで」でも展示されていました。
このタイプの絵では、個々の少女がデフォルメされているし、その上、個体としてでなく「群れ」として提示されています。
はっきり言って、「識別しがたい」ですよね。あるデフォルメされた少女は、その隣の少女とをほとんど区別せずに鑑賞していると思います。

デフォルメ少女列挙型の絵だけでなく、カプセルに入れられた繭や、シールを付けられて無数に並べられた繭が使われた作品も、これと同じ見方をすることができます。
ある繭は、私たちがもし十分注意深ければ、他の繭との違いを見出すこともできそうです。
実際、個々の繭は違うでしょう。カプセルに貼られたシールの位置、作品内での配置、繭の大きさ、襞の様子、色……私たちが注意深ければ、千差万別と言ってよいほどの差異を見出すことは可能です。
しかし、実際の鑑賞実践としては、同列に扱い、ほとんど区別しないか、全く区別していません。そうした差異は、「微差」であって、先に触れたような「識別しがたさ」がここでも生じているわけです。


大槻さんの印象的なシリーズ、少女のポートレイトも、同じ見方で解釈することができます。
ポートレイトごとに少女の表情や髪形、服装や姿勢の違いが結構あるにもかかわらず、実際のところ、鑑賞している私たちは、彼女たちを区別できていないのではないでしょうか。
AKBに興味がない人にとって、メンバーが全員「同じ顔に見える」のと同じように、私たちは展示空間において、大槻さんの描く少女の肖像をどれほど「識別」しているでしょうか。

「これはあの時の展示のやつね」
「これは二年前の……」
「ああ、これはウェブで販売されてたポートレイト」
といった風に、作品を識別しているとは思えません。

もちろん少女から受ける印象は、ポートレイトによって少しずつ違うでしょう。それにもかかわらず、私たちは、展示空間において、少女たちを並列的に――群体として――見ている。
恐らく、そこでは、個々の少女の違いが、十分関心を払い、考察し、味わうような「差異」というよりも、「微差」に還元されてしまっているのではないでしょうか。
言い換えると、違うにもかかわらず、「同じ顔に見えている」のではないでしょうか。
西洋人からすれば、日本人なんて、大体みんな「同じ顔に見える」のと同じように。


死の平等性――「識別しがたさ」と「掛け替えなさ」は両立する


群体、つまり、群れとして、無数に対象を提示することによって、差異に関する私たちの意識を攪乱する。
その「群体的な攪乱」は、「重なる/混じる」と同様、「識別しがたさ」を生じさせるものでした。
こういう話を今までしてきました。

少し話はズレますが、さらに連想を広げることが可能です。
今回「忘れないで」において、いくつかの絵にでは、ドクロのモチーフが採用されていました。
このモチーフを、「識別しがたさ」という文脈で見てみたいと思います。

死というと、当然なら、誰にでもやってくるもの。
つまり、誰であれ、「区別なく」、平等に訪れるものです。
それに、死の結果として存在する、個々の骸(むくろ)は、私たちにとってやはり「区別のつかない」ものでしょう。
誰が祖母の遺骨と、隣町の誰かの遺骨とを識別できるでしょうか。
もちろん、差異を見出すことは可能です。しかし、受け取る私たちからすれば、微差といってよい程度の違いでしかありません。
こうした連想をなぞるように、「忘れないで」では、少女のポートレイトの前に、各々違う仕方でデコられた/しかし区別の難しいドクロが配置されていました。


しかし、遺骨はかけがえのないものだと私たちは考えています。
個々の対象は「識別しがたい」程度の差、微妙な違いしかない。大体同じ。他のものと並べられたら区別すら危うい。
でも、それにもかかわらず、「他でもない、このこれ」が私にとって重要だと思うわけです。
そう思うからこそ、災害などで誰かが亡くなったとき、適当な誰かの骨ではなく、他でもないその人の遺骨が、家族の下に帰ってきてほしいと、人は願うのだと思います。
同じように、個別には識別しがたいポートレイトの一つに、他でもない「このこれ」に、なぜか惹かれて、人は、それを購入するのだと思います。


(余談ですが、ポートレイトとドクロのセットについて。いくつかのポートレイトが購入されていたのですが、購入者の中に、一緒に目の前のドクロも買おうと思った人がいなかったことは、残念です。もちろん、これは自分が観に行った段階での話ですが。)


「識別しがたさ」の経験としての〈夢〉


唐突ですが、これまで挙げてきた大槻作品の特徴を、ある「経験」に結び付けたいと思います。それは、「夢」です。
連想としては、かなり安易ですが、それはまぁ、いいんです。

私たちは、夢を通じて、日常的に「識別しがたさ」に接しています。
大槻さんのあるタイプの絵が、どこか親しみ深く感じるのは、夢と似ていることに理由があるのかもしれません。
実際、「うつくしい夢」という、どストレートなタイトルの絵もあります。



今回の個展で興味深かったのは、フライヤーなどでも描かれている「ゆめしか」ちゃんが以前よりも強調されていることでした。

ベッドが描かれています。
明らかに睡眠への連想が働きます。
「夢」と結び付けるのは自然なことでしょう。


さて、夢の中では、色んなものの「区別がつかない」という話でした。

私が、東京からの帰りに見た夢を例にとりますね。

私はビートルズの夢を見ました。
私の夢の中でのビートルズのメンバーは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、それからハリソン・フォード(スターウォーズ楽しみです)でした。

興味深いのは、夢を見ているとき、私はジョージ・ハリスンとハリソン・フォードの「区別がついていなかっ」たことです。
起きてからすぐに気が付きました。驚きですね。
(なぜかリンゴ・スターがいないことについては、関係ない話題なので置いておきます。)

自分はスパイダーマンではないのに、自分がスパイダーマンであるかのような夢を見ることを、私たちは簡単に想像できます。自分とスパイダーマンが「区別できない」なんて、あり得ないのに、夢を通じてであれば、私たちはそれを素直に受け取ることができます。

「重なる」こともよく起きます。例えば、夢特有のぬるっとした場面転換。場面と場面が曖昧に「重なり合う」ようにして、転換していく。
完全に転換し終えてから、夢の中の私たちは、場面が変わったことに気付いたりします。

今まで、大槻さんの絵を手掛かりに捉えてきた諸々の戦略や特徴は、まさに夢の特徴のように思えます。
夢は、「識別しがたさ」を経験することであり、大槻さんの絵は、夢のような「識別しがたさ」を演出する戦略で満ち満ちているように私には思えます。


覚醒と酩酊のあいだ/現実と夢のあいだ


今回の展示(筆者撮影)
フライヤーに使われた絵の少女も、展示空間の中央に配された巨大「ゆめしか」ちゃんも、ベッドに入っている。
夢というタイトルの作品まである。
けれど、少女たちがいずれも、呆けたように目を開けています。
「もう眠れない」とばかりに起きている。少女は、目を覚ましているように見える。

目が覚めているなら、彼女は「現実」を見ているのでしょうか。
しかし、描かれた内容を見る限り、単に「現実」を見ているわけでもなさそうです。

ここでは、夢と現実が「重なり/混ざり」合っている。両者は截然と区別されません。
実に「識別しがたい」。
覚醒と酩酊の境界が壊れた時間を表現している、と言っていいかもしれません。


実際、小さな作品の中には、写真にキャラクター的な少女が描き込まれているものがありました。
普通の人が映っている写真の上に、キャラクターを「重ね」描きしているのです。

現実の人がキャラクターと並列されている、あるいは上書きされているという点で、現実の人とキャラクター(虚構の人)も、識別されていません。

現実と夢(虚構)の間に存在する截然たる区別が壊れたという感覚が、大槻さんにはあるのではないでしょうか。



〈夢〉では不気味なものが侵入する


今回の展示(筆者撮影)

夢には他にも目立った特徴があります。
それは、「よくわからないものがぽこぽこ侵入してくる」ことです。

さっきの夢でいえば、ハリソン・フォードも「よくわからないもの」の実例かもしれません。


夢のこうした特徴を明確に表している作品は、2014年の「ゆめしか」などでしょう。
やや気味の悪いリボン、十字、円を伴った十字、謎の液体に満たされたカップ、粘度をもってしたたる液体。
「ゆめしか」では、不可解なものがぽこぽこ侵入しています。
(この「よくわからないものがぽこぽこ侵入してくる」感じがよくわからない人は、まどマギの魔女空間を思い出すとよいかもしれません。)


「忘れないで」で言えば、上写真の右側の作品が同系統のものでしょう。
目を閉じた犬のような謎の生物、大きなリボン、謎の液体で満たされた器……不気味なものたちが絵の中に侵入しています。
それどころか、赤や緑、青といった「色彩」それ自体も侵入し、少女を不気味に取り囲んでいます。

ことほどさように、「不気味なもの」「かわいいもの」が、少女のいる空間に侵入している。

余談ですが、写真の左側の作品は、興味深いものがあります。
というのも、レイヤーを物理的に分離して、隔てつつ(=区別しつつ)「重ねる」(=区別しない)という仕方で構成された作品だからです。


鏡の侵入――鑑賞者と作品の境界を侵犯する


「夢」というアイデアを手放さずに、もう少し考えてみましょう。
写真で挙げた右手の作品には、少女の空間に、「鏡」までも侵入しています(見えにくいですが)。
(さらに言えば、今回の展示では、タイトルにも使われているだけでなく、作品にも以前より多用されていることから、重要な素材なのだろうと推定できます。)

鏡には何が映るのでしょうか。
夢に侵入してきた鏡は何を映しているのでしょうか。

それは、鑑賞者でしょう。

様々な不気味でかわいいものが、ぽこぽこと、過剰に侵入している。
「なんだこれは」と思って絵を覗き込むとき、映されるのは、当然、その絵を見ている人です。

女性が見ることもあれば、男性が見ることもあるでしょう。
子供や、大人。東京在住、地方出身、旅行者、アーティスト、投資家、コレクター、学生、プログラマー、20歳、53歳、マイノリティ、マジョリティ、右翼、左翼、政治に無関心な表情、笑顔、悲しみ、退屈、疲れ、無表情。

鏡をのぞき込む人によって、当然映り込むものは違うし、近くにいる人も映り込むかもしれない。
その違いにもかかわらず一つ言えるとすれば、鏡に映る鑑賞者が誰であっても、夢を見ている少女にとっては「他者」だということです。

「他者」、つまり、「私」とは違う存在は、夢に「よくわからないもの」として侵入してくる。
鏡は断片的なので、映るものも不完全です。不気味で、よくわからないものが映り込むことでしょう。
同時に、不完全で断片的な映り込みによって、鑑賞者である私たちは、少なくとも部分的に、絵と「重なり/混ざり」合っていきます。
作品と鑑賞者が十分隔てられた美術館・博物館的な空間構成とは全く異なり、作品と鑑賞者の境界は、鏡によってストレートに攪乱されています。


空虚?――鑑賞者の喩、またはシミュレーションの場としての「わたしを忘れないで。」


さて、ここで気になるのは、大槻香奈さん自身の言葉です。
大槻さんは、比較的分量のあるステートメントを書く人でもあるので、しっかり読んでみたいと思います。(ステートメントはこちらで見られます。)
特に注目したいのは、この一節です。

人は自分の 存在を忘れられたくない為により強いアイデンティティを求めるようになる。それは特にSNS を見ていて感じる事でもある。 誰かに忘れられたくないという気持ち自体は、生物的にとても自然な事だと思う。しかし本来小さな個人的感情でしかないも のが大きな問題として頻繁に顔を覗かせるようになった今、中心を失った世界が内側から徐々に崩壊していく危機感をおぼえるのだ。震災から4年経ち、多くの人が普通の日常をおくるようになった今、じわじわと膨らむ現代の「空虚」さを簡単に見過ごしてはならない気がした。

人に忘れられないために、私たちが採用する最も単純な戦略は、「差異」を強調することです。

「あの人とは違うし、この人とも違う!」 と言うために、人は色んなことをします。
突飛な振る舞いをする/変わった趣味を始める/肉体を猛烈に鍛える/人一倍儲ける/奇矯な服装を選ぶ/邪気眼設定を採用する/勝ち馬に乗る/「俺最初から知ってた」/自分の属する集団の優位性を主張する……

そうした欲望は自然なものです(承認欲求と呼んでいいのかはわかりませんが)。
しかし、忘れないでもらうための振る舞いが、今日、「大きな問題として」「顔を覗かせるようになった」。

大槻さんは、こうした問題意識の下、現代において、「空虚」が増幅していると指摘しています。


その「空虚」というのは、これまで「識別しがたさ」という不器用な単語で呼んできたもののことではないでしょうか。
大槻さんはこうも言っています。


画面の中の少女の瞳から何かを読みとろうとするが言葉に出来ない、そんな感想を多く頂いた。(中略)それは観た人がそこに「何も無い」という事を感じたからなので はないか、それで何も言えなくなってしまうのではないのか…と。

展示空間において、ポートレイトの少女たちは複数――つまり群れとして――提示されている以上、少女たちの差異は「微差」であって、「識別しがたい」。

安っぽい落ちであることを許してもらえるなら、この少女たちは、まさに微差を競って、「わたしを忘れないで」と個別に叫びあっている鑑賞者自身のことに他ならないと思う。
少なくとも、ステートメントを素直に受け取る限り、そう言うほかない。
自分の作品を空虚だと言って人に見せる行為は、たとえば自分が制作した木 彫りの仏像を「これは仏様ではなく、ただの木だよ」と言っているに等しいものだ。自分でかけた魔法を自分で解いてしまうことになる。

こんな風に、大槻さんは自嘲して見せている。
今までの解釈路線が妥当だとすれば、この路線を固辞することは、表面的には、「大体同じものを並べている」と言っていることになるのではないか。
しかし、死体・遺骨について語ったところで述べたように、そうした見方は一面的であるように思う。

それでも「空虚」なものを愛しいと思えたり、また痛みであったり、何かを心に残すようであれば、そしてそれを誰かと共有する事が 出来たら、それこそが人生の中で本当に心強く、かけがえのないものになりはしないだろうか。
 「識別しがたい」ものたちの中の、他でもない「このこれ」が、自分の心に痛切に感じられてどうしようもない、ということはある。
いや、むしろ、日常の中で私たちが大切に思うもの、大切していること、大切にしてきたものは、全て、(群れとしてみれば)「空虚」なものに過ぎない。
小さい頃から大切にしているぬいぐるみは、まさに「識別しがたい」大量生産によって作られたものだけれど、古くなったからといって交換したいとは誰も思わない。
(柄谷行人の『探究』みたいな話です)

大槻香奈の描いた、ある少女の、他でもない「この」少女のポートレイトに惹かれて見つめる人は、「空虚」から「何か」――「愛しいと思えたり、また痛みであったり」――を受け取るシミュレーションをしているのかもしれない。

「空虚」を見せるとうそぶく個展「忘れないで」は、鑑賞者自身の比喩であり、さらに、固有性を受け取るためのシミュレーションゲームでもある。


……ということを考えていました。
最近はまた違う大槻作品への関心もあるのですが、それはまた今度。
おしまい。