2013年5月27日月曜日

新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』――誘拐願望としての青春、の過呼吸


新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』
いくつもの角度から切ることのできるSF青春小説だった。
2005年に出た作品を、私は2008年に手に取った。買ってすぐに読み終える。
その時は無意味に思えた衒学に幻惑しながら、目の前に広がるブッシュをかき分けるように読んだ。

今日、二度目の再読を終えた。
もう、「青春」なんて語るような歳でもないし、それを味わえるくらいフレッシュでもスイートでもない(´・ω・`) どっちかというと、お金(食費とか家賃とか、そういう生活費に社会保障にどれだけお金をかけるかとか)にばかり行くようになってしまった。

青春なんて人それぞれだろうけど、この本を読んで得た経験としては、「青春は、ここではないどこかに憧れ続けること」なのかもしれないということだった。
楽しかろうとなんだろうと、今生きている場所(いま、ここ)が、とても退屈で窮屈で、精彩を欠くものに思えること。
中学二年で中二病っていうのは、案外妥当なものなのかもしれない。自分の中の、誇大妄想癖(メガロマニア)が肥大化するのは、自分の過ごしている町の閉塞を感じていればこそだろうから。
この本に頻出するパターンを真似すれば、こんな風に言えるかもしれない。
教訓その一、青春はいつか終わってしまうもので、終わるからこそ、未来で「あの時ゃよかった」と笑える。
教訓その二、いつまでも青春を追いかけてるやつはきっとろくなやつじゃない。

「どこでもいい、ここでなければ(Anywhre but here)」
なんども出てくるこの言葉は、ライトノベルの雰囲気にも呼応している。
多くの人が抱えている気持ちとしての「誘拐願望」。バリエーションは色々ある。

王子様に迎えに来てもらう。(少女漫画によくある)
さらわれるようにして仲間になる。(エウレカセブンとか)
現実やその場所からの逃避を手助けしてくれる。(俺妹とか)
……そして、この退屈な日常から、この窮屈な町から飛び出していく。私を閉じ込めてしまう、時間と空間から逃げ出していく。


お金もない。知識もない。子供であるというだけで、行動が制限される。
10代というのは、感情だけが肥大化していくのに、自分の抱えている「退屈」を魅力的に変える力を持たない年頃のことなのかもしれない。
時間が経ってから、「案外、あの時って楽しかったんだな」「あの頃に戻りたい」だなんて言い始める。「退屈だー」とか「絶対、この町から出たい」って言い合う会話それ自体が楽しいということに気付けるほど、経験も追いついていないのが10代なんだろうな。
変化を怖がるくせに、変化を求めるような矛盾。きっと、それが青春なんだろう、みたいな気付きなう。

時空間跳躍能力を身に付けたある少女は、他の仲間を置いて、「いま」からも、「ここ」からも脱出してしまう。
その時、残された仲間達は気付くことになる。
「自分は自分でしかないし、『いま』からも、『ここ』からも逃げられない」

IQだけ高いという意味で、自分には何かあると思っている仲間達。その中で、唯一なにもなかった少女。ある夏、能力に目覚めた彼女だけが、「いま」「ここ」を自由に離れてみせる(時空間トラベル)。
自分にとって不可能なことを平気でやってのける少女を前に、昔は、この子の手を取って登校したことを少年は思い出す。

嫉妬やあこがれとも、不安とも後悔ともつかない感覚を前に、彼ができることは、以下の二択だった。
・彼女にタイムトラベルさせたりしないで、縛り付けること
・彼女のトラベルとは無関係に、自分の足で、「いま・ここ」と付き合いながら、この町を去っていくこと

どういう小説かを、無理に一言で表すなら、変わっていくことの「不安」に言葉(解釈)を与え続け、最後は「不安」よりも「吐き気」(痛みとも言う)の方がいいと思う――という青春小説。
主人公達は、IQだけ高くて、賢いのに、(幸せにはなれないという意味で)あまり頭は良くなかった。少女だけが、他のみんなを置いて、先に変わっていってしまう。
彼女の変化を中心にして、仲間も変わっていく。


この物語はある意味で、ハルキの新作『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』にも似ている。
失われてしまった時間と、失われてしまった関係。
親密だった関係も、維持するのは難しい。人は常に変わるから。
手違いと後悔のせいで、セックスしかけることもあれば、大事な所でくだらない嘘をついて、自分自身を傷つけてしまうこともある。
なにより、形の変わったパズルのピースを、かつてのような絵にしようとして無理やり接合すれば、お互いダメになったりする。
あんなに仲が良かったはずなのに、お互いのことをあんまり真剣に考えてなかったのかもしれない、とか。自分のことが一番わかっていなかったな、とか。
そういう思いばかりが渦巻く。
人間は変化するものだし、変化したくなくても環境は変化していく。自分達が変わっていくのだとしたら、寄り集まって作るパズルの絵の方も変わって然るべきなのだろうと思う。いつまでも、同じ絵を描こうとするから、息苦しさが生まれてしまう。


あ、なんかまとまらないww ちゃんと考えた上で、書かないといけないんだろうけど。感想としては、こんな感じ。
自分が好きなのは、ここじゃなくて、もっと細かい所だけど。
それを一言で表現するなら、2010年に出た『われら銀河をググるべきや―テキスト化される世界の読み方』(新城カズマ)との間を楽しめるのは、今だけの特権だな、ということです。
この『われら~』が、普通に「過去」になってしまえば、『サマー/タイム/トラベラー』も『われら~』も一切合切、ただの「過去の未来」でしかない。
ただの「あらかじめ失われた未来」。

「到来しつつある/到来した未来」(『われら~』)と「到来するかもしれなかった未来」(『サマー~』)との間を埋めるのは、今を生きる読者だけの楽しみだろうと思うのです。

事前に考えずに、書きつつ考えるとこんなもんです。いつもながら、まとまらなくてすみません><


まぁ至極の当たり前のことだけれど、自分の未来に行くのは、多分自分だけなんだろう。他の人の未来とどれだけ重ね合わせるかは、きっと別の話で。



______
情けなく追記。
どうしても言いたいことができた。
「よかった」悠有は微笑む。「タクトが素直になったこと、見れて」
下巻のp.289にこんな一節がある。
大したことないかもしれないけど、ちゃんと丁寧にこの物語を追ってきた人には、このフレーズがどれだけ心地いい、魔法みたいに響くかわかると思う。旅立ちの直前に、遠くから音だけ聴こえるOlreansのDande With Meみたいに。
恋人のようで、そうでなさそうで、やっぱり多分恋人っぽいけどよくわからない幼馴染を送り出す時、「前借りした未来」として手に入れた不思議な自転車と共に現れるのはちょっと心憎い。(それに、このストーリーでは、自転車が自分を書き換える「最適な」乗り物だった。)
苦い夏の日を、「いま」でも、「過去」でも「未来」でもなく、ただのファンタジー(フィクション?)として、追ってきた読者だけが、「とこ」でなく、「こと」であることの単純な美しさに頷くことを許されるのだと思ったりした。


2013年5月21日火曜日

音のない戦争世界――如月芳規『ハスク・エディン』


如月芳規(リンクはTwitterアカウント)さんの漫画。如月さんはサイトも持っているらしい→whitecrow

一迅社の謳い文句を引用するとこんなお話です。
古代城塞都市エルドラド。この街の中央にある聖なる塔と、塔を守る3つの壁。そこに何があるのか誰も知らないまま、世界政府はこれを守る為に軍を置く。第56部隊もそこに配備される一部隊だった…そしてまた今日も、事実を知らないテロリストを迎え撃つ。「#000000-ultra black-」の如月芳規が描く、少年少女の戦いの物語――。

あんまりいいレビューはなかったのですが(というか、落ちてる感想が少ない)、このサイト(鮮烈に咲いて散る少年少女の戦いの物語:如月芳規「ハスク・エディン」1巻)のものは面白かったです。あらすじとかも結構詳しく書いてくれています。

如月さんは、既にいくつか漫画を描いているようです。名前聞いたことなかったので、これが処女作かと思って、新たな新人作家の出現に戦慄していましたw まぁ、それにしてもいい描き手だなーと思います。
『水の旋律』『#000000~ultra black』の2シリーズなど、多数の単行本を出している。

リンクを貼ったサイトでは、『進撃の巨人』と比べられていましたが、どちらかというと、ああいう理不尽さではないと思います。
手の届く、ありそうな理不尽しかありません。
戦争で人は死にます。身近な人間は悲しみをかかえながら、亡き人を悼みます。人の死は淡々としている。

弾丸を人に向けて撃つから死んで、撃たれるから憎んで撃ち返し、あるいは意味もわからず無我夢中で撃って当たらずに撃たれて死んで。
カント大先生みたいに大上段の説教や、意識の高い道徳格率を提示されても、それでもきっと多くの人は、疑問を持ちながらも、悩みながらも銃を構えて、刃を交えて。
もしくは、漫然と殺人の道具を抱えて戦場に赴き、何もしないで死んでいったり。

ありそうですよね。理解できる死ですよね。なんの不思議もない死です。ちょっとくらいドラマティックかもしれないけど、戦場の最中ではありふれている平凡な死です。

理不尽というほどではない。
彼らは互いに互いを殺そうとしていて、ただ単に双方が被害者で加害者だ。
『進撃の巨人』とは違う。巨人のように一方的に駆逐する存在がいたり、徹頭徹尾憎悪の塊になれるほど、一方的な蹂躙があるわけでもない。



まぁ、そんなこんなです。
人が普通に死んで、その人が埋めていたポジションを、別の誰かがやってきて(補充されて)、埋めてしまう。
この交換可能性を、私達は(少なくとも私は)普通に理解できます。

時々やってくる敵襲。それとの戦闘で、軍人しかいない古代都市は破壊される。平時は訓練と、誰もいない町の補修。
崩しては、直す。誰かのためではない。「弾除けにもなるから」と言われて、命令のままに、兵士達は町を直す。それ以上でもそれ以下でもない。シーシュポスの神話みたいな何かですね。

本編通じて静かな空気のおかげで、理解できてしまう不運と理不尽の周りにある悲しさを、読者は過剰に語ることができません。
この「静かさ」は、この漫画に生活感がないことに起因するのだと思います。

食事の風景はあっても、食料の調達や確保、調理の光景は描かれない。日常はあっても、町中の平凡な人間は出てこない。
静かな世界。
音に囲まれて生きている自分の生活のことを、この世界の生活のことを、かえって思い出させる漫画でした。

人間は、世界に無数に存在する埋草でしかない。目的も意図も後回しで、きっと陰謀すらないのでしょう。
音に溢れている世界では、死者への嘆きや悼みも、喧騒のような言葉とともに発することができます。しかし、音のない戦争世界、生活のないハスク・エディンの風景の中では、死者に対する悲しみの声も、荒野を吹く風や、一発の銃声ほどのものでしかない。


んーw なんかうまく、紹介できないやw 面白い漫画です。
群像劇的に、話ごとに焦点を当てられる人物が次々と変わりながら、物語が進んでいく感じの話です。
いくつか画像貼るので、絵で気に入った人は、とりあえず買うってのはありです。

朝日の書評サイトでは、ササキバラ・ゴウさんのレビューがありました。読んでいて気付いたのは、「廃墟」ものでもあるんですよね、これ。
アマゾンレビューの感想も結構よかったので、下に引用してみます。


あとがきにもありましたが、各話主人公が変わる形式で進みます。とはいえ、ただ無為に戦死するのではなく、そうして物語は進んでるようですし、死んだ後もほかのキャラクターがその死んだキャラを思い返すシーンなどがあったり、連鎖して積み重ねながら、核心に少しずつ迫っていく感じが面白かったです。だからこそ、キャラクターに思い入れが生まれて辛いところではありますが。ただ、もう少し各話の主軸が誰なのか分かりやすくしてほしいなとは思いました。全編通しての主人公ぽい子と混乱するというか。こういった形式に描き慣れてないだけで、少しずつよくなっていくのかな。
表紙絵で戦争ものにしてはさっぱりしすぎな絵柄かな?と思っても、帯の文章や世界観に興味を惹かれる部分があれば手に取ってみる価値のある漫画なんじゃないかなと思います。本文はそれこそ戦争ものらしく線多めな、泥臭さがあるし。
物語は始まったばかり。次巻予告からすると、少年兵達の属する世界政府の黒い部分が描かれそう。肩透かしにならないことを祈りつつ、応援したいと思います。今から次巻が楽しみです。

2013年5月7日火曜日

同人誌「都市のイメージ イメージの都市」(印刷版)の誤植について。

「都市のイメージ イメージの都市」については、以下の記事をご覧ください。

第16回文フリin大阪〈都市のイメージ、イメージの都市〉F19
(文フリin大阪での頒布時。こちらで購入された方向けの記事です。)
(目次などはこちらで詳しく紹介しています。)
(最も都市論的ではない部分ですが、本文をほんの少し公開しています。)
(電子書籍版の購入はこちらでお願いします。)

電子書籍版を、印刷版(現物)を購入頂いている方には差し上げます。
購入者で、電子版(pdf形式)もほしいという方は、Twitterのリプライや当サイトのプロフィールページからメールを送ってください。


さて、要件に戻ります。
印刷版(大阪の文学フリマで頒布したもの)のp.13(『新世界より』の座談の最初の方)に脱文・誤植がありました。訂正して、以下に該当部分を公開します。
購入頂いた方には、本当に申し訳なく思っています。すみませんでした。コピー誌クオリティとはいえ、ぐぬぬ(´・ω・`)
電子書籍版では、修正されています。



次に示すのは印刷版のものです。ジョン・アーリの『観光のまなざし』を引用した直後、こう続いています。

と交流したり、お客さんを笑顔にしたり、問題を解決したりと、コミュニケーション生成される場になっている。ここでのゴンドラは、チャリ的な乗り物というより、「飲み会」「喫煙室」「ゴルフ」「ランチタイム」……そういうイメージ。不思議と、『新世界より』では、チャリくらいの意味合いしかなくて、コミュニケーションを生み出す場でもない。

t|船の上にかぎらず、『新世界より』では全般的にコミュニケーションがうまくいっていない感じがする。基本的に、あの集落の抱えている問題も、そういうコミュニケーション不全から来ている気がする。あの社会の人間にとって、「他者」の位置づけは、100%信頼できる存在/そうでない、監視=管理する恐怖すべき存在かの二択しかない。信頼と恐怖の間で、想像力を働かせて、そこから一歩踏み込む、それがコミュニケーションというものだと思うけど、そういうものが全般でできていない。
唐突に「と交流したり、」と述べられているので、気付いた方もいると思います。
いくつかの文章が抜けていました。「都市を訪ね、歩くにも、それなりの知識が必要だ、訓練や導き手がいるのだ」という趣旨の文章に続く部分です。具体的には、マーカーを引いている箇所が抜けていました。


t| 実は、夏季キャンプで一部だけ、自然観光地的なコミュニケーションをしてる。川に映る星々を見たり、川から眺められる木々や鳥の話をしたり。でも、あそこ以外にはない。 
m| なるほど、さりげない観光ww でも、チャリで町を通り過ぎる時の、「あ、あの店美味しそう」「あのラーメン屋は美味しくないって聞いた」っていう会話とそれほど違わないのかも。

1-② ゴンドラ・コミュニケーションと他者
m| さらに違う方向で、ヴェネツィアを推してみようかな。ARIAというアニメがある。ネオ・ヴェネツィアというヴェネツィアを模してテラフォーミングされた他の惑星が舞台の話。あれでは、現実のヴェネツィア的に、都市の見方を観光客に教える(つまり、ガイドする)「船頭」がいて、主人公の女の子はそれを目指している。『新世界より』やヴェネツィアと同じく水路が重要な交通手段でもあって、主人公は失敗しつつも、地域の人や仲間と交流したり、お客さんを笑顔にしたり、問題を解決したりと、コミュニケーションが生成される場になっている。ここでのゴンドラは、チャリ的な乗り物・移動手段というより、「飲み会」「喫煙室」「ゴルフ」「ランチタイム」……そういうコミュニケーションの場のイメージに近い。それなのに『新世界より』では、チャリくらいの意味合いしかなくて、コミュニケーションを生み出す場にもなっていない。 
t| 船の上に限らず、『新世界より』では全般的にコミュニケーションがうまくいってない感じがする。基本的に、あの集落の抱えている問題も、そういうコミュニケーション不全から来ている気がする。あの社会の人間にとって、「他者」の位置づけは、100%信頼出来る存在/そうではない、監視=管理する恐怖すべき存在かの二択しかない。信頼と恐怖の間で、想像力を働かせて、そこから一歩踏み込む、それがコミュニケーションというものだと思うけど、そういうものが全般でできていない。

訂正を出してしまったことを、重ねてお詫び致します。すみませんでした。

ちなみにですが、観光については、メモがてらこんなエントリも書きました。

同人誌「都市のイメージ イメージの都市」をよろしくお願いします。→「都市のイメージ イメージの都市」pdf版の購入

2013年5月3日金曜日

『観光のラビリンス』より「観光の郊外化」、ついでにヴェブレン

興味深い一節があったので、書きだす。



ラルース辞典では、「ツーリスト=好奇心と無為から旅行する人で、女性系はほとんど使われない」とし、リトレ辞典の定義を注解しながら、その本質を「無為に過ごすことであり、旅行の楽しみのためにしか、ないしは旅行したと自慢するためにしか旅に出ない旅行者。……飲んだものはもっと飲むだろうということわざがあるが、旅行したものはもっと旅行するだろう。純粋な旅行者は過ごしやすい季節になると、渡りの季節に鳥たちが抱くのと同じ不安を抱く。彼は発たねばならない。どこでもいいからとにかく行かねばならないのだ。燕が戻ってくるのと同じように旅行者がアルプスやピレネーの長い坂を上るのが見られる。毎年彼らの数は増加し、その結果、彼らはいつもの出会いの場所の様子を一変させてしまうにいたる。実際、旅行者の行くところどこでも宿屋が必要であったが、そこでは、多少なりともスコットランド風のもてなしが旅行者を待ちかまえているのであった。例えばスイスでは毎年増加し、だんだんと標高の高いところに建設される宿屋はついにはきわめて急な峰にまで建てられるようになった。宿屋はテーブルを置いて焼き串をまわすのだが、その場所というのは10年前に羚羊(シャモア)がまったく安全ななわばりだと信じていたところなのであった。言わを砕き、切り通しを作り、急流の上に張り出した言えを作り、どんな山腹にでも言えを貼り付けた。住民たちは全員ひとつのことしか頭になかった。旅行者に飲食を提供することである。」

自分が制作した同人誌「都市のイメージ、イメージの都市」(電子書籍版発売中!こちらをクリック!)の旅行記の前文で触れた、「観光地の郊外化」の現象は、このラルース辞典の記述を信じる限り、18世紀にも見出だせるらしい。

ただ、啓蒙主義的な「旅行」理解とか、単なる「旅」との区別は、ラルース辞典においても、どの程度なされているのかは不明。
引用はマルク・ボワイエの『観光のラビリンス』

その内、最近読んだ観光学関連書籍の中で、ためになったものはガイドブック的に紹介しようかな。読みたければ、コメントかリプライで、一声おかけください。


この『観光のラビリンス』は大変な労作で、読むのも骨が折れるくらい。訳者もそのことにすごく気を遣っていて、訳注が膨大すぎるくらいに膨大。
基本的には、旅行行為が、マスツーリズム化し、ポストモダン化していくのを、ソースタイン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』の肩を借りつつ説明している感じですね。
ヴェブレンたん
滴下効果(トリクルダウン・エフェクト)ってやつです(流行理論)。
ヴェブレンさんも、なかなか食わせ者で、面白いことを沢山言ってますよね。某柑橘さんなんかに、ファッションのこと聞いた時もヴェブレンの名前が出てきて驚きました。

訳者あとがきにも書かれていることですが、「普及学」みたいな領域があるようですね。ファッションでもそうであるように、観光でも同じように拡がり、多様化していくことが確認されます。

流行理論のヴェブレン以外での話で言えば、この論文、結構面白かったです。まだ読んでる途中ですけど。
ル・ボン、タルド、ジンメルにみる流行理論の系譜


ざっとメモがてら書いてみました。