2012年12月27日木曜日

新宮一成『夢と構造』/精神分析と死への手紙



今回読んだのは、新宮一成先生の『夢と構造』1988年に出版された本、その時に私は生まれていない。
私の生まれを準備するような時期に、先生はこの本を書きつつあり、そして現に本は書かれた。

書かれた。記述された。エクリチュール。テクスト。シニフィアン。……こうした、言葉を巡る諸々の概念。
この本は、夢=テクストを巡る精神分析の本になっている。
何回か前に、ウンベルト・エーコの『エーコの文学講義』を取り上げた。その本の中でエーコは、度々「森」の比喩を用いていた。本=物語という「森」に迷い込むこと、そこを探検すること。

エーコは同時に「モデル読者」という概念を提出している。楽しく、魅力的に、深いような仕方で、(モデル)作者の作り上げた森を、散策するような読者のことを指している。
この流れで言えば、明らかに私は、本書のモデル読者からは程遠い。
はっきり言って、大陸哲学・大陸思想は苦手だし、内的にはそれほど親近感すら湧かない。(興味はあるし、必要でもあるから、もちろんやるのだけれど)

ポストモダン系の思想家にも、かなり批判的な方だと思う。適当に誹謗中傷を加える、「したり顔」の文系初学者とか、何がしたいかわからない、文系批判したがる理系とか……そういう人間には、ほとほと嫌気がさしているから、そういう人たちを見つける度に、個人としては支持しない思想であっても、精神分析や精神病理学をはじめとする、大陸系思想・学問を擁護したりもする。

――けど、それだけだ。
それだけの思い入れしかない。今回だって、テストに向けて本を読んだに過ぎない。
入学当時に買った、同じ新宮先生の新書『ラカンの精神分析』も、耐え切れなくて20ページほどで投げ飛ばした。
これまた新宮先生の『無意識の病理学』も途中で諦めた。


しかし、今回どうしたものか、これが滅法面白いのだ。
その理由は簡単で、症例の面白さ、文体の平易さ、そして何より、精神分析学との心地いい距離感を見出し始めたこと、この3つだろうと思う。
文体の平易さについて、先に言及しておこう。
別々の媒体に出された論文が元になった論文集でありながら、全体で、迷うに面白い「森」に仕上がっている。
その統一された雰囲気、まさに「夢と構造」に向かい合っているのだという感じ。改稿の成果もあってだろうが(あとがきによると、かなり各論文の接続には気を遣ったようだ)、リーダビリティは本当に高かった。


目次
緒言
第一部 テクストとしての夢
 第一章 夢テクストの構成
 第二章 夢からの帰路のためのチャート
第二部 シニフィアンとしての夢
 第三章 精神療法の経過中に出現する妊娠と赤ん坊の夢心像について
 第四章 精神療法の経過中に出現する「文字」の夢心像について
 第五章 ロベルト・シューマンの夢と音楽における「文字」の心像について
第三部 夢から妄想を通って自殺へ
 第六章 現実生活の象徴的先取りとしての妄想形成
 第七章 精神分裂病の妄想世界における自殺の問題
夢一覧表/初出一覧/あとがき


別に、精神分析に対する個人的な違和感や不満を披露しても仕方がないし、それは論争史、学説史の中で、もっと聡明で高名な人びとが論文という形でやっていることだし、繰り返さない。繰り返す意味もない。

読んでいる時になにより感じたことは、「創作がしたい!!」ということだった。
ウラジミール・プロップや、バルト、レヴィ・ストロースを引用している上に、症例の不思議な魅力(被験者自身が、自分の言葉で語ったとされる夢の魔力とでも言おうか)を避ける事はできない。
そもそも、光文社新訳文庫のフロイト『ドストエフスキーと父殺し/不気味なもの』の中にも色々収録されているように、最初から、文学的なものとの相性はいい。
ユングにしたって、延々と神話を扱って、原型を求めている(ユングは全然知らないけど大体合ってると思う)
ただ、ロベルト・シューマンの所は、あまりにも「文学的」すぎて、はっきり言ってよくわからなかった。この不満については、なんでシューマンを取り上げるのか説明してあるけど、それを聞いても、趣味的興味以上の理由を感じなかったせいかもしれない。

まぁ、それはいい。
『中二病でも恋がしたい』のアニメ化もされていることですし、第三部に触れないわけにはいきません。(アニメ化決定する前には手に入れてたのにまだ読んでない)
第六章で示される症例、守護妄想という言葉と共に示されるそれは、リアルに想像すれば、戦慄する類のものでした。
彼女は、熱心に宗教体験の如き、自らの経験を医師に伝えるのです。一部を書いてみます。

「その夢の頃から、未来のことが分かるようになった。『おばさま』がいて、その人が教えてくれる。ある日家に帰る途中、いつもの歩道を歩いていると突然気が変わって反対側の歩道へ移った。するとさっきまで歩いていた歩道の上に石が落ちてきた(石の落ちたことは新聞で読んだ。時間的にも符合する)。……」
「自分のことに関しても、私はあと二年で大きな転機を迎えることになると分かっている。そして今、大きな賭けをしている。……」

よく中二病の妄想であるような、「殺される」「組織が…」というのから、「サタン」という言葉も彼女の口からは出てきます。
私が、中二病という時、それはまさに自覚的、少なくとも、半ば自覚的なものとしてあるわけです。ある共有されたネタを自覚的に演じるもの、それが中二病です(よね)。
しかし、彼女は違う。涙を流し、ついには、「二年後」自殺をはかる。

(これでもって、「ほら、宗教はキ印の妄言だ」とか言う人もいそうですが、そういう人はもっと勉強しようね。
例えば中世キリスト教神学の、ある種の伝統では、理的に信仰を捉えるんだ、とやっている人がたくさんいます。つまり、適切な信仰には、理性的な把握が必要だと考えるタイプの伝統。中世ではありませんが、アウグスティヌスもある程度そうだと思います。)

ちなみに、彼女は、一命をとりとめ、しかものちに幸せな家庭を築きます。よかった。

しかし、他のいくつかの症例ではそうではない。未遂もあれば、もうこの世にはいない場合もあった。
分析とか考察という言葉が伴うある種の感じ、それは一言で「冷たさ」といっても言いと思う。人の死んでいる/死んでいく時の苦しい言葉を、分析する言葉の冷たさについて考えざるを得ませんでした。
もちろん、平気であるはずはありません。表面的な言葉の裏に、筆者の思いは透けて見える。
でも、その言葉自体は、現象から遠い感じがする。(その距離感が、分析には必要なのだから当然だ)
まぁ、それは仕方ない。そこを非難するのはお門違いだ。
結局、違う畑であれ、自分のしている/しようとする/したいことも同じであることも忘れていない。
そして何より、私は、本書のどの症例を読んでも「面白い」(interesting的な意味で)と思った。これも事実だ。
『サラダ記念日』のあとがきで、俵万智が述べている感じも同型の問題だと思う。(特に自分の)経験を、上から見つめている自分がいて、「面白い!これでまた、短歌が作れる」と思うのだという。

いずれにせよ、死と喪――これは、「夢と構造」と重なる形で、本書を貫くテーマだったと思う。


自殺に至った症例について読んでいる時に思い出したのは、村上裕一さんの『ゴーストの条件』のあとがきだった。もしかしたら、別の場所で村上さんが話していただけで、これには書いてなかったかも。
いずれにせよ、村上さんが『ゴーストの条件』が出た当時に喋っていたことがある。
そこには、ある自殺事件について書かれてある。
スピリチュアル系の諸々が流行った頃に、ある学生が、ポジティブな遺書を書いて死んだのだという。
「生まれ変わって親孝行しますから」(大意)
彼(確か男)は、輪廻転生を信じていた。
そんなポジティブな自殺があってたまるか、と。

簡単に共感されるのはウザいし、むしろ迷惑だし、悪影響だけれど、それでもあえて用いるとすると、私は彼の思いの全てがわからないとは思わない。
ちょっとはわかると言いたい。

けど、その自分の気持ち、どうしようもなく、逃れようもなく「そう思ってしまう」のだということからは、どんな言葉も経験も、助けてくれないことを知っている。
自然に治癒されるにしても、誰かに治療されるにしても、「健康な状態」に戻るのに時間がかかるのは、「そう思ってしまう」ことから出るのには時間がかかるせいだろうと思う。

自分の思いから、自分の言葉から出られないこと。
それは、時々恐怖だ。本当に。
他人の何でもない言葉が、絶望に突き落とす原因になったり、その逆もある。
だからこそ、ここに記された症例の「言葉」は本当に辛かった。

こういう言葉以外にも自殺にアプローチする方法は実際ある。例えば、その最初期の試みが、エミール・デュルケムの『自殺論』だった。
プロテスタントよりカトリックが、未婚より既婚が、平時より戦時中が、自殺率が低くなっている。……とかとか諸々のデータを使って言っている。つまり、「より統合されている」方が自殺しにくくなる、とデュルケムは考えた。(しかし、過度な統合もいけないと彼は言う。)
この本だけで色々話すことはあるけど、今はこれくらいにしておこう。

いや、本当は色々この「自殺」ということについて言いたいことはある。色々、それを巡ってしてきた経験もある。けど、まぁ、やっぱりやめよう。今でも、そのことを考えるだけで動けなくなる。
いくらチラシの裏でも、不特定多数にベラベラと聞かせるものでもないし。
ということで、さくっと話題を変えて、もうちょっと生産的なことを言うことにする。


本書を読んで思い出したのは、東浩紀さんの初期の文芸批評。『郵便的不安たちβ』(河出文庫)に収録されている「雨音に寄生する文字たちのように――筒井康隆『敵』への批評」(1998)だ。
そして、これはあらゆる意味で正しい想起だと思う。

これについても、御託は抜きにして、本質だけ引用してしまおうと思う。pp200-201

「聞く」ことが聴覚器官の単なる生理学的興奮でない以上、私たちは正確には雨音を聞くことはできない。そもそもそのあまりに微かな音はおそらく大半が閾値下にあるものだろうし、たとえそうでなかったとしても私たちの記憶はその音を正確に蓄えることができない。したがってその音を「聞く」ためには私たちは擬声語を捏造するしかなく、その結果その響きから意味を捏造してしまうのもまた不可避である。ありもしない響きからありもしない意味が生まれる。……雨音をめぐるそのイメージはおそらくは、筒井が長い間「虚構」と呼び続けているものの位置をきわめてよく示している。現実が決して聞こえない雨音だとすれば、虚構はそこに寄生する文字たちである。その文字たちを介することで、私たちははじめて現実=雨音に生を与えることができる。小説とは、擬声語に誤って付された当て字にほかならない。

山崎ナオコーラは、『指先からソーダ』(河出文庫)にあるエッセイで、文芸批評に対して小説家の目線で不満を吐露している。
「新しい女性像がある!」だなんだと、見出すばっかじゃねーか。そんなんじゃなくて、芸術そのものとぶつかるような評論書けよ!(大意)、と。……こんなことを言っていた。
ごく短い文芸批評ながら、これにも真正面から応えている、とても魅力的な文章だと思う。なので、是非読んでね。
ついでに、山崎ナオコーラはエッセイストとしても比類ないので、おすすめ。

この二重の捏造、詳しくないけど、『夢と構造』の中の言葉では、多分「在不在」「断絶」「伸縮」……この辺りの語彙に繋がる話ではないかと。
違うかな? でも、ここでいう「擬声語」「文字」は、本書のテーマに通じていることは確かだと思う。

いずれにせよ、今回もいい読書でした。

2012年12月19日水曜日

レジュメ風レビュー、レベッカ・ソルニット『暗闇のなかの希望』

ジャーナリスト/批評家/作家のレベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit)。3,11以後、改めて話題になった「災害ユートピア」という本/概念。
彼女について簡単に知りたい場合は、以下を参照するといいと思う。

レベッカ・ソルニット来日講演 「災害ユートピア」から検証する3,11(YouTube)
・カリフォルニア大学バークリー校英文学専攻2005年度卒業生のための講演(06年)、「このあり得ない世界へ、ようこそ!」→以下の二箇所にあります。ひとつめふたつめ
英語Wikipediaの「レベッカ・ソルニットの項」

今回読むのは、『暗闇のなかの希望』です。ごく薄い(全部で250ページほどで、字も大きい)本です。今回は読みつつ、先を知らずにレジュメを作るつもりで書きます。どんな内容かも知らずに読んでます。文章はかなり「詩的」で、文章も論理的に整然としているわけではないようです。
けれど、訳文の努力もあってか、かなりリーダビリティは高い。
とりあえず、いつものように目次をば。多そうに見えるけれど、各章はごく短い。
エッセイじみていて、理論的でもないから、レジュメ化する心が折れる様もご覧になれると思います。あと、理念自体は同じでも、行動原理や現状認識にかなり相違があるので、平気で適当化してます。過渡な期待はしないでください。

日本のみなさんへ
1 暗闇を覗きこむ
2 視点を変えて語る
3 絶望と不満、あるいは壁と扉
4 わたしたちが勝ち取ったもの
5 千年紀の到来――1989年11月9日
6 千年紀の到来――1994年1日1日
7 千年紀の到来――1999年11月30日
8 千年紀の到来――2001年9月11日
9 千年紀の到来――2003年2月25日
10 変革のための想像力を変革する
11 直接行動の間接性について
12 天使が見せたもうひとつの歴史
13 カリブーのために処分するバイアグラ
14 失楽園
15 北米大陸分水嶺を超えて
16 イデオロギーの後に
17 グローバルなローカル
18 中断――世界が燃えている
19 テキサスの三倍大きな夢
20 疑い
21 世界の中心への旅
謝辞、注釈、訳者あとがき


日本のみなさんへ

この本は「仏教の気配」があると言われた。座禅をしている筆者。
→オリエンタリスティックな日本/東洋観? 多少ニューエイジ的?

「何が起こるか、わたしたちはまったく知らないという事実を抱きしめること――これが、わたしに何よりも身に染みる仏教の教えなのです。未来の不確かさが、希望の基盤になります。何が起こるかは、部分的にしろ、何をわたしたちがするのかによります」(p4)

静態的な既知の物語でなく、わたしたち自身が語り部として、自分自身の新しい物語を語ることを目指す。(物語自体は、陥れも、解き放ちもするものだが…)


序文にかなりの内容が現れていそう。


一章「暗闇を覗きこむ」

『ダロウェイ夫人』で有名なイギリスの女性作家、ヴァージニア・ウルフの引用から始まる。
「未来は暗闇に包まれている。概して、未来は暗闇であることが一番いいのではないかと考える」(彼女の日記、1915年)
「暗闇」=見通せない/予想外/未知という意味であって、恐ろしいということではない。
ex.ソ連崩壊、インターネット、南ア体制変革(ネルソン・マンデラ)、同性愛者の地位向上etc.

未来だけでなく、いまこの時さえ「暗闇」に包まれている。
→夢や理想は実現するという望みを持ち続けなければならない。同時に、世界は想像以上に奔放であると認識する必要がある。
未来も現在も「暗闇」=予想外

反戦にしろ、反核にしろ、女性の地位向上にしろ、活動は失敗し、失望が広がった。
しかし、本人達が活動に諦めを抱いたとしても、「予想外のことに」その活動に触発されて、新たな活動/理想が生まれることもある。
短期的な結果、影響関係も「暗闇」=予想外

歴史は軍隊の行進のように進歩するのではない。
長期的な結果、影響関係も「暗闇」=予想外

想像や希望によって、これらの「変化」ははじまる。希望とは、未来や欲求=「別の世界」の可能性に賭けること
希望のギャンブル性、冒険/危険性→恐怖と希望は対極

未来では、あらゆることが起こりうる。未来に自分を捧げる限りで現在に住まい、積極的に関心を持ってかかわることが大切。

※フーコーの晩年の講義『真理の勇気』における、「他界の生」(プラトン主義)と「別の生」(キュニコス主義との対比。キュニコス主義的系譜は、政治的革命やアヴァンギャルドとかに流れ込んでいる(批判力)。


二章「視点を変えて語る」

アルジェリアで05年に起きた自身の際の、少女エミリー・カイディの救出現場(右の写真)by写真家ジェローム・ドレ(※写真はここで拾った
直接アメリカに影響はないし、アメリカの責任ではないが、筆者は心打たれた。ニュース化すらされていない。

03年4月、米軍爆撃で自分の両腕、そして家族を奪われた12歳のイラク少年、アリ・イスマイル・アッバスとの共通点と差異。
周知の通り、アメリカの野蛮さと無慈悲さの象徴。

エミリーが象徴するのは、希望?=「過去の事象に反して生まれるものとしての、事象が方向を変えて未来へ向かうものとしての」by哲学者アルフォンソ・リンギス

生存のためには、美しい/快い対象よりも、危険/問題に向き合う必要がある→眼前の問題が全てではないと知った上で、それに向き合うことが、希望の行為になり得る。

未来の予測は、ある程度まで語り口で決まる(3つの語り口)
・暴力の勝利として→現状で停止する
・非暴力的活動の勝利として→物語は進む
・自発的/個人的勇気の試みとして→結末は誰にも知られない

世界には残虐さが満ちている。(眼前の問題ではない)エミリーの物語を経由することで、かえってアリ・アッバスへ共感が増す。

勝利と可能性を物語の両輪とする。
「膨大な形のないもの」=想像と実現に役立つ所の、権利/理念/概念/言葉を獲得してきた。

危機emaergencyという言葉は、出現するemaergeという意味が含まれるように、危険と可能性は姉妹関係にある。

※鈴木謙介の『SQ かかわりの知能指数』で言われる所の、近場の幸せで満足する人も、遠くの幸せで満足する人も、比較的不幸であり、最も幸福を感じる人は、友人・知人の協力で、近場プラスαの範囲、近場を少し越えた場所まで幸せにしようとする人だ……的なものに通じる。(遠景、中景、近景)
※リチャード・ローティのvocabulary論(大賀佑樹の『リベラルアイロニストの思想』が簡明)、伊藤計劃の言語観(特に『虐殺器官』の中で触れられるもの)
https://twitter.com/mircea_morning/status/279226132140814336
※リスク社会論に通じなくもない→ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊』がわかりよい。


三章「絶望と不満、あるいは壁と扉」

ユートピア思想で有名な、エルンスト・ブロッホ『希望の原理』を引いて、(根拠の薄弱な)「偽りの希望」と「具体的に誠実な希望」を対比。
前者は、気力を失わせ、進んで剥奪に同意させ、嘘を黙認することになる。どちらも人を麻痺させるという点で、絶望に近い。
しかし、前者と異なり、絶望は解放の母になる。

「やみくもな希望」は、人を行動させず、人を待つだけの存在にさせる。
このような状況下では、ある「制度」や「場所」に絶望することで、解放への希求を生む。

左翼にありがちな、ピューリタン的陥穽=成果や結果よりも、アイデンティティの証明/己の徳目の提示に拘る。これはノンノン

「活動家」=世界を民主化し、力をわかち合い、多様さと複雑さ、人間と人間以外のものを護る特定の政治力を持って、直接的に関与することが重要。活動のあり方は無数にあり得る。
→「直接行動主義は、それ自体のうちにオルタナティブを構成し、中心部にある腐敗から視線をずらして、その周辺部や自分の側に見つかる奔放な可能性と主人公たちとに目を向けるから、希望を育むことができる」(p36)=草の根運動的デモクラシー
←→「行動を伴わない政治意識」…中心部だけに視線を向ける。

※ブロッホの思想は、解放の神学(南米とかでかなりキテた)とか、学生運動に影響を与えたとか。このブログに、ちょっと感想が書いてあった。
※哲学辞典とかに必ず書いてあるけど、「ユートピアにも色々類型があるよ!問題」も同時に考えると面白そう。


四章「わたしたちが勝ち取ったもの」

イラク戦争に対する反戦運動/平和活動での、失望や敗北→同時に、いくつかのことは達成している

・「恐怖と畏怖」作戦の中止
・2002年秋を境に、活動家は、「多様で筋の通った、社会を代表する勢力と見なされることが一般的」になった。(以前は、誰も代表せず、どうでもいい集団として描かれがちだった)
←活動に参加する行為は、ディープなものだけでなく、非常にカジュアルでアドホックなものも含まれている。広く連帯し、共にあると筆者は考えている。

直接行動が即効的な成果を出すのは稀だが、ブッシュ政権と癒着している戦争利権者を標的にし、メディアを通じて衆目に晒した。

ブッシュ=ブレア政権に対する、世界各地での反戦/反対行為による勝利。
←例えば03年、全世界七大陸全てで、1100~3000万の人びとがデモ行進。


五章「千年紀の到来――1989年11月9日」

・1960年代(※筆者は61年生まれ)
公民権運動の進展
WSP(女性のためのストライキ運動)が創設。全米100の地域、10万人の女性が参加。反核平和運動も。
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』→エコロジーへの世界認識
人種差別、セクハラ、同性愛差別、その他の排除抑に関する情報源どころか、言葉すらなかった。
消費行動やライフスタイルの選択範囲もずっと狭かった。

~グローバリゼーションによる急速な変化(+/-)~

・89年~
ベルリンの壁崩壊
天安門事件、ネルソン・マンデラ釈放、東欧共産圏消滅→ソビエト崩壊、ポーランド「連帯」、ハンガリーとチェコスロヴァキアでの無血革命、「憲章七七」、ロックンロールが南米で誕生/拡散……

六章「千年紀の到来――1994年1月1日」

メキシコで最も貧しい地域とされる、南端のチアパス州でゲリラ軍、「サパティスタ」誕生
「第四世界」の復活宣言
→NAFTAなど、ネオリベへのラディカルな拒否(←※安易感。ネオリベ=グローバル化とか言ってる程度には筆者もナイーブ)

サパティスタの、体制とか理念の紹介
ジョージ・オーウェルが自ら義勇軍として参戦した所のスペイン内戦を記録した『カタロニア讃歌』の引用。

七章「千年紀の到来――1999年11月30日」

WTO体制への反対運動←「グローバル化恐怖症」(Global Phobia)とのレッテル(?)
むしろ、「地球規模の公正を目指す運動」(global justice movement)
シアトルでのWTO抗議デモについて何か書いてるサイト

八章「千年紀の到来――2001年9月11日」

「英雄的行為とは、多少なりとも無私の存在および行動を意味している。……戦時と災害時にこそ、このような英雄的行為がもっとも強烈に誘発される。……市民感覚に、社会への繋がりと関与の感覚だ。9,11から数ヶ月にわたり、わたしたちは、この国で市民意識の不思議な高揚を体験したのである」(p86)

※周知の事態である9,11についてあまり特別引用することはないけれど、上記の点は、まさに日本が3,11以後経験した事態ではないかと思う。
※冒頭で訳文褒めたけど、時々やばい。「もっとも穏やかな形において、英雄的資質がすなわちほかならない」(p36)とかマジで謎。

九章「千年紀の到来――2003年2月25日」

四章最後で触れた、地球上全ての大陸で行なわれた、イラク戦争反対のデモの話

十章「変革のための想像力を変革する」/十一章「直接行動の間接生について」
カット…

十二章「天使が見せたもうひとつの歴史」

訳文では『歴史哲学論』となっているけれど、普通は『歴史哲学テーゼ』(アドルノによる命名だった気がする)とか、『歴史の概念について』(岩波文庫の『ボードレール他』に収録)とか訳される。

ベンヤミンの「歴史の天使」を引用して、彼は悲劇的で固定的な歴史像を描いているのに対して、「わたしとしては、別の天使、喜劇の天使であり『もうひとつの歴史を見せる天使』を推薦」しようとする。
ベンヤミンの天使は、「歴史とは身に降りかかるものだと語る」が、もうひとつの歴史の天使は、「わたしたちの行動には意味がある、現実になったことも、ならなかったことも含めて、いつもわたしたちが歴史を作るのだと語る」

※ベンヤミンの『歴史の概念について』は、解釈可能性の幅が広いので、変な誤読にならないためには、彼の著作に広くあたった上で読み込む必要がある。筆者の理解は……正直どうかわかりませぬ。

十三章「カリブーのために処方するバイアグラ」

バイアグラが絶滅危惧種に効くよ!いや、まじで!


===========

すみません。力尽きました。以下は、概観ということで勘弁を。



確かに、これは、「暗闇のなかの希望」を語る本だった。
そして恐らく、この本の英語は、原語で読むと美文なんだろうなぁと思う。原文で読めばよかったな。。。あと、なにより、装丁とデザインがとても美麗で最高。本棚にあると素敵。これはモテる。
『暗闇のなかの希望』で恋人ができました(・ω<)ウソダヨ

適当なごまかしはこれくらいにして……。

いわゆる「ローカリズム」「ローカリゼーション」を真面目に、まともに、理論的に、そして何より、経済学的に有意味に語ることができている本は、それほど多くありません。
國分功一郎さんなんかは、こういうの好きだと思います。経済的な洞察が少ないので、特に。
決してトンデモ本ではありません。「ローカリズム」的な言説の中で、かなりまともかつ説得力ある部類のものだと思われます。
最後はものすごい速度で、パパっと読み終えてしまいましたが、同系列の本として、経済学者E.F.シューマッハー(1911~1977)の『スモール・イズ・ビューティフル』は、最もクリティカルな論考でありつつ、古典として未だに価値ある本だと思います。

 
(マルクス主義的にしろ、近代経済学的にしろ、)経済学的な洞察なしに思考されているという一点については、レベッカ・ソルニットに決して同意できません。
トレードに関して、自らも消費者であるということ、自らもインセンティブに従う主体であること、市場は企業や国など大きな組織の専制では必ずしもないこと、外国からの資本すら集まらないで取り残された途上国の惨状について何も語られていないこと……
事程左様に、経済的側面に関しては、学び始めの自分ですら簡単に批判ができます。
(レベッカ・ソルニットは、必ずしもグローバル化を否定していないという点は、明言しておきますね。)


しかし、震災を経て、選挙を経て、不況と貧困の最中にある日本人にとって、彼女のように、熱く希望を語る言葉は、ストレートに心に届くし、文章のリズムと相まって励ましになります。これは疑いようもありません。
そして何より、9,11を経た、アメリカ人としての彼女の言葉が、3,11以後の私たちの経験といかに符合するかを確認できたことで、彼女の語る「希望」とはまた別の回路から与えられた、不思議な安心感が得られました。

希望は、現在と未来が「暗闇」の中に置かれていることである。
私たちが、自らの行動――直接的な関与によって――において作っていけること。
……全く同意です。
しかし、そこから描く未来は、筆者とは違うようです。行動のための理論も、現状理解も彼女とは違う。文体の魅力にも関わらず、読みが一瞬滞ったのは、まさにこの相違がゆえでした。
……繰り返せば、國分功一郎さんなんかは、この本好きだと思います。あの人の考えに共感する人は、何度も読み返すくらいハマると思います。


最後に一点だけ。
文化左翼を経由したリベラルな、実存主義(特にサルトル的なアンガージュマン)と、どの程度差異化できているのか、あるいは同じものなのか――この辺りは、筆者もちゃんと書いてほしかったかな、と思います。
最初に書いてあるように、決して「理論的」でも、論理が整然としているわけでもありません。しかし、詩的で情感的で、読みやすいものでした。
野上弥生子が、ローマに留学する息子へ出した手紙を思い出しました。あれと同じにおいがします。岩波文庫の『野上弥生子随筆集』に入っていたと思います。

まぁ、いずれにしても、薄い本ですし、魅力がある本でした。

2012年12月17日月曜日

『エーコの文学講義』――エーコから開かれる、読書についての読書の森

     

ウンベルト・エーコとは……ウンベルト・エーコ(Umberto Eco、1932年1月5日 - )はイタリアの記号論哲学者、小説家、中世研究者、文芸評論家で、ボローニャ大学教授、ケロッグ大学およびオックスフォード大学名誉会員。 北西部のアレッサンドリア生まれ。エコ、エコーの表記も見られる。現実の事件に啓示を受け、小説の執筆を開始。(以上、wikiより丸パクリ)

『エーコの文学講義―小説の森散策』は、ハーヴァード大学ノートン・レクチャーズのために彼が書き下ろした講義草稿を下に成り立っている本。これは『前日島』という本の執筆と同時並行だったそうです。
だからこそ、彼の言葉を借りれば、「小説を書く中で頭を悩ませた問題の多くがこの講義草稿のなかに流れ込んだのか、それとも小説の作成が講義草稿に影響されたのか、どちらか判然としない」のだそうだ。実際、前者を読み終えた後に、『前日島』を読むと、変な感じがした。

まぁ、とりあえず目次。

日本語版序文
1 森に分け入る
2 ロワジーの森
3 森のなかの道草
4 可能性の森
5 セルヴァンドーニ街の奇怪な事件
6 虚構の議定書(プロトコル)
註 訳者解説 索引

講義はイタロ・カルヴィーノの言及から始まる。岩波文庫化されている『アメリカ講義―新たな千年紀のための六つのメモ』、これはノートン・レクチャーズで彼が行うはずだった講義草稿だったりする。これもすごい変で、章が「速度」とかだったり、面白い。
(そういや、年末で、黒子のバスケ然り、色々話題になっているコミケですが、イタロ・カルヴィーノといえば、『レ・コスミコミケ』をなんとなく思い出します。)

第一回では、イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』『物語における読者』の相互補完性とか、カルヴィーノとの私的なやりとりの紹介もあったりする。
カルヴィーノは実際ちゃんと読んだことがないので、これを機会に読みたくなりましたね。

面白い概念としては、「モデル作者」と「モデル読者」がある。エーコは、「モデル読者」と「経験的読者」を分ける。同様に、「モデル作者」と「経験的作者」も。
モデル読者とは、ざっくり言えば作者の物語に乗っかれる人間という感じでしょうか。よい読み手と言ってもいいかもしれません。
モデル読者も、初心者と中級者の二通りあるとエーコは考えています。
もっぱら作品の結末に関心を寄せるのは前者、「物語が要請しているのはどんな読者かを自問し、モデル作者の戦略を発見したいと願う読者」というのが後者。
あとがきにも引かれている、本文の言葉を再引用すれば、「モデル作者を認識するには、繰り返し読む必要があります。物語によっては際限なく読み返さねばならないでしょう。一方、経験的読者たちはモデル作者を発見し、モデル作者にもとめられているものを理解したとき初めて、まぎれもないモデル読者になったと言えるのです」(42ページ)

エーコの考える読書、森の散策とは、モデル作者とモデル読者の協同なのです。
この「繰り返し読む」という点、そして本書の『エーコの文学講義』というタイトルから、ウラジミール・ナボコフを思い出す人もいるでしょう。
日本では、『ナボコフの文学講義』として、親しまれています。
しかも、来年、河出文庫から上下分冊形式で、『ナボコフの文学講義』が出されるそうですよ。
関西クラスタ座談会で触れた(アニメルカではカットされた)話ですが、再読論が面白いのです。書籍の決定的な制約だと考えられている、単線的な構造(前から読んでいくしかないということ)についての考えです。
それこそ、村上裕一さんの『ゴーストの条件』で、『クォンタム・ファミリーズ』論のさなかに持ち出されたのは、まさに読書に不可避と考えられがちな、単線的な構造でした。
しかし、ナボコフはそれをするっと回避してみせます。再読によって、単線的な構造を脱し、本を絵画的に把握できるようになる……と。
この辺りの問題は、G.E.レッシングの『ラオコオン―絵画と文学の限界について』(岩波文庫)にも直ちに繋がっていく話です。


色々書こうと思いましたが、面倒なのでやめときます。ストップウォッチを使いながら、読書における速度について考えたり、あるいは読書に関する3つの時間概念を使って、読者と読書(世界)の関係について考えたりと、わかりやすくて読みやすい(訳もいい)し、面白い。
ウンベルト・エーコ入門としても最適かなーと思いました。
けれども、これをわかりにくいと感じた方は、現代思想の冒険者たちシリーズで出ている『エーコ―記号の時空』(篠原資明、京大の先生)を読めばよいかと。ナボコフの『ロリータ』を訳した若島正さん然り、京大の文学系は熱いですね。あと、ナボコフ―ロリータと来ると、リチャード・ローティのナボコフ論!!!なわけですが、ここではカット。『偶然性・アイロニー・連帯』でも読んでください。

新書『イタリア・マフィア』――「終わっている」こと。元も子もない自由、暴力、秩序。

       
今回読んだのはちくま新書の『イタリア・マフィア』(厳密には再読)。
副読本としては、河出文庫化された『死都ゴモラ』がおすすめ。しかも、この『死都ゴモラ』は映画化されていて、現在円盤も買える(GOMORRAってやつ)。
他にまとまった(かつ手頃で、手に入りやすい)良書というと、『シチリア・マフィア』(講談社学術文庫)もおすすめ。

まずは目次。

プロローグ
一章 マフィアの組織構造
二章 英雄か殉教か
三章 マフィアに激震が走る
四章 史上最大の裁判
五章 マフィアとバチカンの金融スキャンダル
六章 マフィアとベルルスコーニ政権
エピローグ
本書に登場する主要人物一覧

・「終わっている」ことについて

割りと変な国、失礼を承知で言えば、「終わっている」国の代表例は、イタリアと韓国だと思っている。
イタリア人の知り合いはいないけれど(逆に韓国の知り合い・友達はいる)、個々人が終わっているとかじゃなくて、社会構造が何か、どうしようもない闇を抱えているということ、それを指して「終わっている」なぁと思ってしまうという話。

韓国については、元大統領が必ず暗殺され、変死することが代表的な例かな、と思う。とても象徴的で、それを聞くだけで、「国難」の意味合いが他の国とはどこか違うのだな、という感じが直感的に伝わるのではないかと思う。
危機の時代、国難、「終わっている」こと。並べると、日本とか大したことない気がしてきますよね。安住はできないにしても、、、
そうすると、心配あまって、過剰に危機を煽っているのは誰か問題もある。(凶悪)犯罪が増えた!っていうのと一緒で。知っている世界が狭く、印象だけで、少ない情報だけで語っている可能性があるのかも。まぁ、そういう与太話はさておき。

イタリアは何が「終わっている」のかというと、マフィアの存在だ。日本人として生まれ、日本に住んできた人間にとっては、想像だにできない。
こういうマフィア的なものというと、今はコロンビアとかの方が有名かもしれない(麻薬カルテルとか)けどね。
とにかく、そのイタリアにおけるマフィアというものを、ごくわかりやすく、ジャーナリスティックにまとめたのが、この『イタリア・マフィア』という本なのです。

※マフィアが出てくる背景とかは歴史とかを見るしかないので、講談社現代新書『中世シチリア王国』を含め、いくつかの書籍に当たるのがいいと思われ。『イタリア・マフィア』の中ではほんの少し触れられる程度。


・結局マフィアはなんなのさ

マフィアって、結局どういうものなのかと言われると、結構困る。日本におけるヤクザみたいなもんだ……と断言してしまうことはできるし、それで合ってないことはない。けど、それは歴史的背景も、個々の国や地域、組織の事情を完全に無視した上での第一次接近でしかない。
逃げかもしれないが、プロローグから一節を引用することで、マフィアのイメージを伝え、それでよしとしたいと思う。

ジュゼッペ・ディ・マッテーオは、馬好きで、順風満帆な人生を歩んでいる少年だった。すでに有能な馬術家として、馬上の彼の写真をイタリア国内で目にすることもしばしばあった。……12歳の誕生日を迎えたばかりのジュゼッペは、馬場に向かう途中、姿を消した。マフィアの殺し屋に誘拐されたのだ。ジュゼッペの家族のもとには、捕らえられた彼の写真とメッセージが送られてきた。メッセージには、「口を閉じろ」とだけ書かれていた。
この殺し屋は十数件の殺人罪で告訴されている指名手配中の男だった。ジュゼッペの父親は以前から警察の捜査に協力的で、殺し屋の名前や居所、人間関係など、知る限りの情報を提供していた。マフィア撲滅を目指して。
……父親は要求に従うことに決めた。息子を助け出し、その後自分で殺し屋を始末できるかもしれないと考えたのだ。しかし、マフィアは父親にその隙を与えなかった。ジュゼッペは殺されて硫酸液の中に放り込まれ、遺体は発見することもできなかったのだ。(本文pp8~9)

判断は冷酷で、行動は凶暴、殺し方やメッセージの残忍さは言うに及ばない。
マフィアは、組織というよりも、ある種のネットワークだと考えた方がいいと思う。現実社会の上に、走っているネットワーク。
政府や警察、軍隊、会社……他の国ならば、そういう他の(あえてそう書くと)「平和主義的な」組織がになっている所のものを、マフィアが代行している。いや、マフィアは、それら全ての組織を支配下に、影響下にすら置いている。

しかし、これも厳密ではない。現実は陰謀論ではかたがつかない。「これしかない」という個々の決断や行為、個々人の小ずるさや欲望の集積でしかない。
どういうことかというと、社会のほとんど全ては疑いようもなく共犯関係にある。

本文中には、(大意だが)こういう言葉すらある。

「本当の政府は我々だ」

マフィアはプランターの雑草のようなものではない。(乗っ取られた)血管のようなものだ。それを前提として社会が成立してしまっている。
自分も、自分の家族や親戚も、隣人も、知人も、宗教者も、裁判官も、公務員も、政府関係者や銀行員も、マフィアから切れて存在していることなどあり得ない。
根絶することの困難さが伝わるだろうか?
血と鉄の掟で縛られたマフィアは、徹底的に管理・統制されていて、誰がマフィア関係者なのかは判然としない。それはマフィア同士であっても、わからないことがあるくらい(裏切りとか諸々の事情のために、仲間内でも身を明かさなかったりする)。
時々、マフィアのボスが捕まっても、「なぜか」無罪になったり、「なぜか」起訴した検察官が変死したり、「なぜか」突入して証拠を揃える前に、隠れ家が指紋一つない場所に変わっていたり……。
癌と言ってもいいけれど、それを切除することはできない。した所で、数が多い上に、切ったことを患者、患者家族、世間、同僚、あらゆる他人からボロクソに非難され、気づけば仕事を干され、しまいには暗殺されたりする。……こんな感じでアナロジカルに語るのが難しい。
こんな風に、想像を絶する特殊な時空間だったりするのです。
(あ、ちなみに、この新書は2006年のものです。例とか紹介は、70年代~90年代のものが多いけれど)

報復や、ファミリー間抗争も、ここに書くのを憚られるくらい凄惨を極めている。


・元も子もない自由、暴力、秩序

俺ルール、自由、アナーキズム、体制への反抗、価値への懐疑……
そういうものに対して、消費文化に身を置く、安全な「一般市民」は憧れを抱く。これは、日本人だけではない。あらゆる「一般市民」がそうだろうし、イタリア国内ですらそうだ。
たとえ、実際のマフィアが暴走していたとしても、妙に理想化され、資本主義的に飼い慣らされたマフィア・イメージは、ある種のダークヒーローとして、私たちの眼前に存在している。
マフィアの反権力としての権力の、アイコンは、ある特殊な力を持っている。

単なる反権力というよりも、やはりそれは権力の権化であり、何より、(現実の「この秩序」に対する)「別の秩序」の重ね書きでもある。
しかも、彼らが持つのは「暴力」――論ずるまでもない暴力、元も子もない暴力による統制、それに担保された「社会的凝集性」。
汚く猥雑である自由、仲間による命がけの絆と承認、デカい資産、陰に陽に贈られる名誉。

自分がイタリア・マフィアに興味を持ったのは、直接は中二病的回路というより、近代以前の「傭兵」という存在、「義勇軍」以前の軍隊的な存在に興味を抱いたからだ。(傭兵については、講談社現代新書の『傭兵の二千年史』が、底抜けに面白い)
彼らは、思想的に見るまでもないくらい、語る言葉が続かなくなるくらい、元も子もない自由を語り、そのような自由を求め、自由であるからこそ、むき出しの暴力を持っていて、それによる生のままの秩序を持っている。
しかし、その秩序は、ボスが資金を適切にまわし、他のメンバーに承認される限りでの秩序だ。これもまた、元も子もないくらい、生のままの秩序だ。
どんなカリスマも、一旦しくじったり、ファミリーに不名誉を与えたり、親類に裏切り者が出たりすれば終わり。
ウェーバーの権力理論、カリスマ支配の話が、ごくごくシンプルに図式的に成立している。いや、ウェーバーの言うよりも、もっと元も子もない形で成立している。
※ウェーバーの『権力と支配』(講談社学術文庫)とか参照

      

系譜的に面白いと思うのは、この元も子もない自由、暴力、秩序が、ギブソン―『ニューロマンサー』的なサイバーパンク世界に、部分的に体現されてるだろうことだ。(ヒッピー、ニューエイジ、あの辺りから繋がっていくのも同時に想像してほしい)
あの、陰鬱で、汚く、隣人が怪物であるような、自由と暴力の街、チバシティ。
(現在がどうかは正直詳しくないのだけど)しかし、シチリアほど放埒でもないかもしれない。これもまた、消費文化の中のダークヒーローとして、マフィアが飼い慣らされたアイコン化するように、サイバースペースも、そこで描かれる「猥雑世界」のサイバーパンク飼い慣らされた自由の場なのかもしれない。それはわからない。

インターネットに付きまとう匿名(それも徹底的な匿名)も、これに繋がる話だろうと思う。
それ以前の経歴、来歴、環境、人生、人格、願望etc.の全てと無関係に、「別の名前」を与えられ、「別の生」を、「この生」に重ねながら生きるということ。
『傭兵の二千年史』で出てくる、驚くような例の一部には、金持ちや地位のある人間の三男坊とかが、身分を偽って傭兵として働くというものがある。
彼らは、匿名性、しかも複数的に匿名の仮面を付け替えられる(複数の偽名を持てる)ほど匿名が、可能になっているこの時代に生まれたら、「傭兵」をしていただろうか。

現在、この種の、元も子もないほど生のままの「自由」、「暴力」、「秩序」はどこにいくのだろうか。


40歳になるまでに、かなり実証的なレベルで、フーコーの系譜学のような形で、この思想史を追って行きたいと思う。
今日はとりあえず、走り書きだけど、メモという形で。この3年くらいこんなことも考えていました。
正直、考えるには、情報収集のお金も時間もなく、語学もどこまで追いつけるか…といった感じで、大変です。

面白いと思ったら、サイト経由で、アマゾンの買い物してくれると、ちょっと助かりますです。嬉しいです

2012年12月8日土曜日

アームソン『アリストテレス倫理学入門』レビュー

      

オックスフォードの哲学者、J.O.アームソン(解説によると英米系哲学、分析哲学系の畑の人らしい。ご存命かはわからない。)の『アリストテレス倫理学入門』を読んだ。
 分析哲学系の人は、伝統的な哲学や大陸哲学に大抵弱いのだけど、この人は例外的らしい。自分の教わっている教授もそうだが、ラテン語やギリシア語にも堪能で、決して自分野に自閉せず、美学、認識論、時代も古代、中世と限定しない。 
文章の簡明さもさることながら、研究姿勢にも学ぶところがある。訳文も気になるところがないくらい、とても模範的で、リーダビリティの高さはやばい。







今回はそのレビューと感想まとめ。 


(追記:訳本について。個人的には、京都大学出版の方の『ニコマコス倫理学』の方が圧倒的にいい。読みやすいし、訳文も適切ではないかと思う。)



*倫理思想の困難さと、原典の成立過程

まず、アリストテレスの倫理思想について。 アリストテレス倫理学を語ることの困難性は、常に語られる。
事程左様に、この本でも最初に触れられ、アームソンは3つ上げている。一点目は明らかだが、二点目、三点目は、案外忘れられる。

1,時代の隔たりによる、観点や概念、言語使用の馴染みのなさ
2,翻訳の困難さ(ストレートに該当する語彙がない)
3,本書成立の過程が生む困難さ

1は読めばわかるのでカット。2点目に触れるとしたら、新しい語彙を生み出したり(形相とか)、カタカナやアルファベット表記のままにしたりと、色々試行錯誤がされているが、注意しなければすぐに「誤訳」となる可能性がある。


3点目。
アリストテレスが倫理学について触れた主に論じている本はふたつある。
『エウデモス倫理学』と『ニコマコス倫理学』だ。(エントリの最初に翻訳本を貼ってある)

不思議な事に、この二冊の本は、内容の一部が重複している。
というのも、この二冊ともが、アリストテレスの「講義ノート」に当たるもので、それほど改変の必要がないと考えて流用したのだと思われる。
面倒なのは、適宜改変されていたせいか、一冊の本の中でも、矛盾するような記述があったりすること。メモのように不思議な文章が差し込まれていたり、文中で投げ出された宙ぶらりんの問いもある。

更には、書名にすら謎を抱えている。
エウデモスという教え子がいたこと、ニコマコスという父(そして息子)がいたことは史実としてわかっている。しかし、なぜ『エウデモス倫理学』と呼ぶのか、『ニコマコス倫理学』と呼ぶのかは明らかではない。
当時、「誰々に捧ぐ」という献呈の習慣は存在しなかったという。エウデモスはまだしも、ニコマコスについては夭逝しているので、息子がその本を編集したとも思えない。(アリストテレスは、まさに『ニコマコス倫理学』において、年齢を経ること、経験を豊かに持つことの重要性をまっさきに説いていることは、注目すべき点だろう。)
この辺りの詳しい話は、京都大学出版の方の『ニコマコス倫理学』訳者解説参照してほしいのだが、実際本当の理由は明らかではない。


*アリストテレス入門入門

正直めんどくさいし、その能力もないので、彼の倫理思想について詳述はしない。
しかし、いくつかの本を読んで持っていた知識、自分自身で『ニコマコス倫理学』を読んだ経験でもって、このアームソンの本に挑んだ時、自分の中で宙吊りになっていた諸々の未解決事項が整理されたように思えた。
訳者解説でも述べられているように、アームソンの出す例がとても面白く、イメージがしやすいせいだと思う。実際に講義を受けているかのような語りで(訳者の方の技量でもあると思う)、一気に読めた。それに、本書はそれほど分厚くない。

序論
第一章 理想的人生(予備的考察)
第二章 優れた性格
第三章 行動と動機
第四章 責任と選択
第五章 個々の優れた性格
第六章 優れた知性
第七章 意志の強さと弱さ
第八章 快楽
第九章 社会的関係
第十章 エウダイモニア

個々の検討のすべてが言及され、吟味されるのではないが、アリストテレスの議論の重要で、論争の的になっている所を取り出して、そこをじっくり見ていく形になっていた。(確かに、他の論文や解説書などでも、詳述されていた箇所だった。)

この本の面白い点は、例のわかりやすさ適切な縮約だけでなく、アームソン自身が、時折アップデートを加えている点も挙げられる。もしかしたら、これは本書最大の魅力かもしれない。
「ここまではアリストテレスはきている。しかし、これは回りくどいし、限界がある。こうすればどうか」と。
とても分析哲学者らしい。その提案の仕方も、とても慎重に思えた。

アリストテレスの倫理思想は、直ちに参考になりそうなものがいくつかある。
本書の言葉を使うと、「不正な人」は二種類ある。「一つは、法を守らぬ人という意味であり、一つは、不公平で欲張りな人、すなわち、自分の公平な分け前以上を取ろうとする人という意味である」(p124)
前者は、サークルクラッシャー、テロル、それから後者は、ワナビー、フリーライダーに通じていく話ですよね、現代に引き付けて言えば。


正直、要約するのが難しい本だから(それはアリストテレス倫理思想の要約に等しい)、ふわっとしたまとめになったけど、いくつかの読んできたおすすめのアリストテレス本も貼っておこうと思う。
アームソンのこの本は、絶版になっていて中古も高いから、図書館で読むとして、代わりに下記のいくつかの本を買って併読するといいと思う。



↑教授とかに、まっさきに勧められる。のがジョン・L・アクリルの本。定番っぽい。実際面白い。
  
↑何だかんだで、哲学のice-breakingに最適なのが、ちくま新書の入門本。ちくま新書の哲学解説・入門系の本ではずれは少ない。実際、この本も、かなりよかった。アームソンと同じく、「アリストテレスの魅力、鋭さをいかに引き出すか」という観点からも適切な紹介本。/哲学のエッセンスシリーズは、基本的にどの本も面白い。解説や紹介に留まらない点が魅力。

↑アームソンの次に読むとしたらやっぱりこの辺りか。倫理思想に的を絞ったアリストテレス本は案外少ない。
 
↑手に入りやすくて、ある程度分厚さのある解説本はこれくらいしかないと思う。個人的には……まぁまぁという感じ。普通に岩波文庫辺りで、実際にアリストテレスに当たる方がいいかもしれない。好著だし、わかりやすいのは確か。

2012年12月3日月曜日

近いうちに読む、積ん読たちリストと、覚書(小説)

座っている場所から目に付く範囲、そして、思い出せる限りの積ん読リスト(一言付き)
読んだら、その本に線を引いて、to do帳的に達成感を味わうことにする。
(なんか、わくわくしてる顔をご想像ください)


↓↓



年末に読みたいディストピア小説
…賛同者がいれば、ツイッターで読書マラソンしたい所。一人だと心折れるし

ジョージ・オーウェル『1984年』(ハヤカワepi文庫) 新訳版。トマス・ピンチョンのエッセイ付き。覚えてないからもう一回読みたい
ハクスリー『すばらしい新世界』(講談社文庫) 講談社文庫は松村訳。中公文庫から出ている池澤夏樹訳版が超気になる!けど後者持ってない><
・E.ザミャーチン『われら』(岩波文庫)上2つとこれで三大ディストピア小説なのだとか。
・トマス・モア『ユートピア』(岩波文庫) カテゴリーエラー? とんでもない!
・ウィリアム・S・バロウズ『ブレードランナー』 山形浩生訳
・貴志祐介『新世界より』(講談社文庫) 文庫なら三分冊 次回の小説読書会(13年2月16日14時~)のテーマ本。興味あればリプライでもしてください。京都でやってます
→レビューも書いた。その1その2


SF

・カート・ボネガット・ジュニア『タイタンの妖女』(ハヤカワ文庫)
・フィリップ・K・ディック『ユービック』(ハヤカワ文庫) 新装になったから買ったよ
伊藤計劃/円城塔『屍者の帝国』(河出書房) 発売日に買って、そのままだよ。このやろー><
伊藤計劃『The Indiference Engine』(ハヤカワ文庫) 別々のタイミングに、バラバラに読んだから、もしかしたら網羅できてない?
ブラッドレー・ボンド/フィリップ・N・モーゼス『ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上1』(エンターブレイン) こないだ1巻買った!実際やすい!
野尻抱介『ロケットガール 1』(富士見ファンタジア文庫)
・神林長平『戦闘妖精 雪風(改)』(ハヤカワ文庫) 絶対ハマることがわかっている作家なのに/だから、なかなか読み始めない不思議について一日中考えた、わけではない。
神林長平『いま、集合無意識を、』(ハヤカワ文庫) 表題作しか読んでない?
神林長平『神林長平トリビュート』(ハヤカワ文庫) いくつか読んだはず。笹井一個さんの表紙が素敵。カワイイとクールが同居し、同時に生物的かつ機械的で、グロテスクな雰囲気と、確固たる視線を裏切る曖昧なイメージ。 あ、でも、Amazonの適当な☆1のレビュー書いた人は、パラノイアなら死んでた
小川一水『フリーランチの時代』(ハヤカワ文庫) 表紙が素敵なんだわこれ。どれ読んだかも忘れた短篇集シリーズなので再読。


ミステリとか辺り

・ポーはなんか色々。どれ読んだかもよくわからない。
・アラン・ブラッドリー『パイは小さな秘密を運ぶ』(創元推理文庫) タイトルとあらすじだけで、これがめっちゃ面白いことはわかっていたし、最初の10ページほどでそれは確認できてる。でもいつの間にか積んでたごめん



ざっくりその他1

村上春樹『アフターダーク』(講談社文庫) なんか友達が好き。ずっと借りっぱなし。でも、そいつに何冊か貸しっぱなしでお相子。それでいいのか? うーむ、まぁいいか。
池澤夏樹『スティルライフ』(文春文庫) 理系の先生に勧められた。エッセイはいくつか読んだけど、とても誠実で、理的な文章を書く人だと思う。なかなかいない。
・柴崎友香『フルタイムライフ』(河出文庫) デビュー作の『きょうのできごと』(河出文庫)を読んでからすぐに、この人から一生離れられないことだけはわかった。
・柴崎友香『青空感傷ツアー』(河出文庫)
・島本理生『クローバー』(角川文庫) 最初に出会ったのは中村航さんの『100回泣くこと』の文庫解説。本文で泣かなかったのに、たった数ページで号泣させられた。とても綺麗な文章だと思ったし、「綺麗」ってこういうことなんだと思った。それから、デビュー作『ナラタージュ』を読み、いくつかの短編へ(特に『大きな熊が来る前に、おやすみ』は秀逸)。そしてこれは積ん読である!
・米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫) 生まれて初めて、この人の文章になりたいと思った人。この人みたいな文章が書きたいではなくて。 改めて合掌。


さくっとその他A

林亮介『迷宮街クロニクル』シリーズ(GA文庫) 和風Wizardry純情派の文庫化したやつ 全四巻
西尾維新『憑物語』(講談社BOX) 西尾維新は読み始めると他の全てを放棄するから、なかなか手を出せない。
・西尾維新『ダブルダウン勘繰郎 トリプルプレイ助悪郎』(講談社文庫)
西尾維新『悲鳴伝』(講談社ノベルス)
冲方丁『天地明察』(角川文庫) 上下分冊 次の読書会できっと読むから放置継続!
萬屋直人『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。』(電撃文庫) SSのように、固有名が失われた世界。「喪失症」が蔓延した世界で、どこか穏やかな終末世界で、静かに終わりつつある世界で、主人公は互いに「少年」「少女」と呼び合う。……この設定だけで3杯はいける(迫真)


どっかりその他イ

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(280円文庫) 装丁が綺麗だったし、覚えてないから読み返そうと思って買ってそのまま。ざまぁみろ
遠藤周作『海と毒薬』(角川文庫) 太宰が好きだって人が昔は一番信頼できなかったけど、好きな作家を聞いた時に、まっさきに迷わず「遠藤」って答える人は、あんまり美味しそうにご飯を食べなさそう。