2014年10月23日木曜日

バウマン『新しい貧困』の第二章について




授業で読んだときに作った要約です。
あまりに急いで作ったので、誤字もあるでしょうし、これだけ読んでもわからない箇所もあるでしょうが、それでももしかしたら役に立つかもしれないということで、公開してみます。

要約ではほとんどうまく抽出できていないのですが、本章最後の「経済成長」に関する箇所はとても興味深い一節でした。ぜひ、実際本にあたって確認してみてください。



バウマン『新しい貧困 労働・消費主義・ニュープア』 第二章 労働倫理から消費の美学へ

労働倫理:「近代の始まりから、貧しい人々を通常の工場労働へと引き寄せ、貧困を撲滅し、社会の安寧を確保するための万能薬であると期待」されたが、実際は人々を規律訓練し、「彼らを新たな工場レジーム労働を行うのに必要な従順さを浸透させる」ための装置だった。[i]



1,消費、消費と対比される生産、及び消費社会について

 私たちの社会は消費社会であり、私たちは「消費者」だ。消費とは「モノ」を使い果たすことを意味する(モノを食べる/を着る/で遊ぶ/欲求を満たそうとする)。消費は、専有と破壊を意味する。このような意味での消費は、現代でなくとも見いだせるが全面化している(社会の成員の全てが消費する)。前期近代/産業化段階の社会が「生産社会」という名に値するのと同じように根源的・基本的な意味で、私たちの社会は消費社会である。「生産社会」は、成員をもっぱら生産者としての活動に従事させ、また成員形成のあり方が生産者としての役割を担う必要性にもとづいており、生産者としての役割を果たす能力や意欲を規準として彼らに求めたのに対して、「消費社会」は、生産者を消費者に置き換えたそれである。過去と現在の違いは、力点の違いではあるが、力点の転換は広範かつ重大な影響力を持っている。
 そのような変化のなかで最も重要なのは、社会統合のされ方、そして社会の要求を受けてのアイデンティティのあり方である。パノプティコン的教練がもたらす気質や生活態度は、消費社会では逆効果であり、ニーズにマッチしない。習慣は常に暫定的なもので、ニーズは常に完全には満たされないのが理想的なあり方だと言える。ここではあらゆる関係は不安定であり、消費するのに必要な時間は一過的になる。消費の時間は短縮され、また新たな誘惑に絶えずさらされる。市場は顧客を誘惑するが、消費者も積極的に誘惑される下地がある。選択肢の多さは「消費者主権」の幻想を与える。アイデンティティを獲得し、社会に一定の場所を占め、意義ある生活だと承認されながら生きるためには、人は連日消費する必要がある。



2,消費者の形成

 労働(労働スキル、職場、キャリア)は、近代人の社会的アイデンティティの構築に際しての、最も重要なツールだった(安定していて、永続的で、持続的で、論理的にも一貫していて、堅固な)。フレキシブル化した現在は、従事する仕事を通じた恒久的なアイデンティティはめったに保証されず、明確に規定されない(不安定で、一時的で、フレキシブルで、パートタイムの)。この「流砂のようなもの」の上では、労働市場と同様に、生涯の一貫したアイデンティティというよりもフレキシブルな性格を持ったそれにならざるを得ない。アイデンティティは複数形で語るほうが適切だろう(あるいは言葉としての有効性を失っているか)。アイデンティティという考えは、憧れと嫌悪感とを喚起する両義的なものと化している――これは、消費財が使い果たされる一時的なものであると同時に、消費の欲望は残りつづけることと並行的である。伝統的な規律訓練や、規準による規制・制限は、市場中心型社会で最も嫌悪感を呼ぶことになり、規制緩和措置への支持としても表明され、減税とセットの社会保障費の削減にも賛意が示される。



3,審美的な基準で評価される労働

 生産は集団的な取り組みであり、個人間の意思疎通や協調、統合によってのみ諸労働は目標を達成できるのに対して、消費は完全に個人的かつ単独な営みであり、欲望の私秘性が基本にあるので、消費の過程で集うとしても、快楽を高める目的に限る。より多くの選択の自由は、「よい生活」の理想への漸近を意味する。富と収入(資本)は、消費者の選択の幅を拡大する限りにおいて評価される。
 倫理的な規準でなく、審美的な関心に消費者は導かれる。倫理的な義務は満足感の漸次的な蓄積や遅延をもたらすが、それによって崇高な経験の機会は消えてしまう。賢い消費者は率先してチャンスに居合わせようとする。労働倫理の位置は消費の美学が占める。労働は特権的な地位を喪失し、倫理的関心の焦点でもなくなり、他の生活活動と同じく、消費者としての私たちの審美的なまなざしにさらされるようになっている。



4,特権としての天職

 過去には全ての労働は人間の尊厳を高め、道徳的な妥当性を持ち、精神的な救いとなる役割を果たしたので、労働倫理の観点から労働はそれ自体で「人間的」だとされた(平等性、同等性の強調、伝播)。一方現在、審美的なまなざしが前景化するなか、やり甲斐ある一部職業と対比される形で、多くの職業は苦行的に耐え忍ぶ対象と化している(差異、格差の強調、拡大)。「高尚な」前者の仕事は変化に富んで「面白く」、後者は反復的で「退屈」だとされる。現在支配的である審美的な基準からも評価されない後者は、かつてのように倫理的基準からの価値保証もない。消費社会において、選択や移動の自由と同様に、労働の審美的価値が、階層化の潜在要因に変わりつつある。創造的な前者の仕事は娯楽化し、労働時間の定まらないワーカホリックを生み出してもいる。満足すべき娯楽的労働、自己実現としての労働はエリートだけに許される印となり、他の人々は彼らの生活スタイルを遠くから畏敬の念で見つめることになる(スターは賞賛され、模範とされても、模倣の対象にはならない)。



5,消費社会における貧困

 規準の定義は、アブノーマルなものの定義につながる。労働倫理は失業という現象の異常性を指摘した。貧しい人は仕事不足や勤労意欲の問題に還元されたので、完全雇用の状態の貧困現象(ワーキングプア)の存在は衝撃をもって受け止められた。貧困は物質的・身体的状態だけでなく、社会的心理的な状態でもある――貧困はその社会の「世間並みの生活」を送ることを阻まれ、剥奪感を生んでいる。世間並みの/幸福な/正常な生活を送れない人々は、不適格な消費者と社会的に規定され、自己規定もされる。無業が消費文化からの排除でもあるという点で、消費文化が根絶しようとしている「退屈」が、消費社会下の失業経験では前景化している。新しい貧困者は、法と秩序の力に挑むことを魅力的に思うかもしれない。
 かつては失業者を怠惰認定する声に家事労働など儀礼的なパフォーマンスで反撃できたが、今日失業のスティグマや不適格消費者という屈辱に抵抗できる者はいない。消費者の適性(資産の基準)は、地域社会からはるか遠く、メディアやコマーシャルによって左右される(引き上げられる)からだ。
 貧困者は、富裕者の利益のために作られた同じ世界に住まねばならず、景気後退やゼロ成長だけでなく、経済成長によっても彼らの貧困は二重に悪化することになる。経済成長によって、リストラや非正規雇用など労働のフレキシブル化(生活水準の低下)とともに、消費の美徳の範たる富裕者はさらに豊かになり、彼らを前にした「主観的な欠乏感」(相対的剥奪感)をもたらす。



[i] ジグムント・バウマン[伊藤茂:訳]『新しい貧困 労働、消費主義、ニュープア』青土社、p8-9。「初版の序」にあたる箇所。そこで二章は次のように紹介される。「二章で語られる物語は、近代社会の初期段階から後期段階、つまり『生産社会』から『消費社会』へ、したがって、労働倫理によって導かれる社会から消費の美学に支配される社会へのゆるやかな、しかし苛烈な移行についてである。消費社会における大量生産はもはや大量労働を必要とせず、したがって、かつての『労働予備軍』であった貧しい人々は『欠陥のある消費者』の役を新たに割り振られる。そのため、貧しい人々は、現実にも可能性としても有益な社会的機能を果たさないままに放置され、彼らの社会的立場やその向上の機会に広範な影響が及んでいる」

2014年10月15日水曜日

上田秋成、中国文化、散文


レポートを晒そう、第四弾。
これは入門みたいな講義だったでしょうか。
大体『復興文化論』。
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 授業では、中国から伝えられた文化を扱っていた。レポートのテーマも「中国由来の文化をピックアップし、それにコメントを加える」ことである。以下では、上田秋成の『雨月物語』を採り上げることにする。漢字や漢詩が、中国からかなりストレートに持ち込まれた文化であるのに対して、国学的な教養を豊穣に持っていた町人たる秋成は、小説の中に、古い日本の文化と中国白話小説とをサンプリング的に取り込んでいるという点で、より複雑だろうが。なお、以下で明示なく()で頁を記したのは、ちくま学芸文庫『雨月物語』からのもの。


 『雨月物語』の最初「白峰」は西行と崇徳院が言い争う(言説の内容は構造的にすれ違っているが)ものだが、その冒頭の「道行文」は、歌枕・景勝地が連続的に重ねられていく。逢坂の関、鳴海がた、浮嶋がはら、大磯小磯の浦々、紫草、塩釜、木曽……加えてこの文章は、稲田篤信によれば『撰集抄』巻二「花林院永玄僧正之事」と同書巻一「新院御墓白峰之事」の文章の一部を下敷きに書かれたものだ(27-28頁)。
 事例はいくらでも挙げることができる。『雨月物語』の中でもとりわけ有名な「蛇性の婬」は、「冒頭の三輪崎に降りしきる雨からして明らかに文学的な出来事」だった。というのも、「文学的故地の記憶を巧妙に再生」しているのだ(福嶋、260頁/傍点は原文ママ)。例えば『万葉集』巻三・二六五の長忌寸奥麻呂の歌「苦しくも降り来る雨か神の崎狭野の渡りに家もあらなくに」などを参照せよ(三輪崎は歌枕だ)。豊雄の姉夫婦が住む石榴市も、崇神天皇の時代都があったと言われ、日本最古の文学的空間でありかつ、最古の政治・宗教的な空間のひとつだった。そこは、「交通の要衝であり、『海石榴市の八十のちまたに立ち平し結びし紐を解かまく惜しも』(『万葉集』巻十二・二九五一)等の歌が示すように歌垣……の場所であり、さらに初瀬川付近は仏教伝来の地とも伝えられ、後には長谷寺参詣の拠点としても賑わった」(福嶋、261頁)。
 それと同時に、『水滸伝』をはじめとする近世中国の白話小説も秋成の想像力の源泉となっている。『雨月物語』所収の「青頭巾」で、快庵禅師の訪れた人喰い住職の住む寺院は次のように描写される。
 「山院人とどまらねば、楼門は荊棘おひかかり、経閣もむなしく苔蒸ぬ。蜘網をむすびて諸仏を繋ぎ、燕来の糞護摩の牀をうづみ、方丈廊房すべて物すさまじく荒れはてぬ。日の影申にかたふく比、快庵禅師寺に入りて錫を鳴らし給ひ、『遍参の僧今夜ばかりの宿をかし給へ』と、あまたたび叫どもさらに応なし」(385-386頁)
 稲田の語釈によると、『水滸伝』第六回、僧形になったばかりの魯智深が訪れた『瓦罐之寺』――そこは強盗同然の悪僧の棲家になっており、もともといた僧侶たちは追い出されて縮こまっている――を詠んだ詩を踏まえて、秋成は怪物化した僧侶の棲む山院を記述したものだ。その詩は以下のようなものだ。「鐘楼は倒とうし、殿宇は崩催す。山門は尽く蒼苔長り、経閣は都て碧蘇生う。釈迦仏は盧芽膝を穿ち、渾かも雪嶺に在りし時の如し。観世音は荊棘身に纏い、却って香山を守りし日に似たり。諸天は壊損して、懐中に鳥雀巣を営み、帝釈はい斜して、口内に蜘蛛網を結ぶ」(福嶋、259頁からの引用/原文は『雨月物語』386頁の語釈にも載せられている)。

 では、秋成において、このような日本文学的想像力と中国近世白話小説的想像力は分裂しているのか、文章中に並置されているに過ぎないのか。文芸批評家の福嶋亮大はそうではない、と答える。「秋成は日本文学の閾下(サブリミナル)の領域に潜り込み、そこで仕事をする。しかも秋成はその閾下の領域に、論敵であった本居宣長のように『めでたくうるはしき』王朝時代の美学を見出すのではなく、むしろ幽霊や怪物が跳梁跋扈する不気味な風景を書き込んでいった」(福嶋、258頁)と福嶋は解するのだ。例えば、「蛇性の婬」は、日本古代文学の恋の聖地たる石榴市で、蛇の妖怪と人間との危険な出会いの場に書き換えた。他には、「天皇と万葉の歌人たちが国家につきまとう不吉さを洗い清めようとした吉野――、しかしその正常な空間は今や邪悪な蛇の霊と仙人の戦いの場となった。……古くからの霊地・吉野にもかえって不気味な瘴気が漂い始める。考えてみれば、さんざめく陽光を浴びて、自然の徴を惜しげもなく浮かび上がらせる畿内の温和なしぜんは、日本文学の発祥の地となり、無数の歌謡がその自然のサインを丹念に読み取ってきた。だが、秋成はその……風土に、蛇の執拗さを備えた女性の幽霊をあえて送り込み、由緒正しい文学的故地を危機的な場所に書き換え」たことが「蛇性の婬」で挙げておくべき箇所だろう(福嶋、261-262頁)。
 福嶋の見立てでは、短型詩を中心とした、「めでたくうるはしき」白昼の無邪気さとしてイメージされてきた(例えば宣長)「日本文学のプログラムの中枢に、不気味な瘴気を満たそうとした上田秋成も、近世中国文学のデータを吸い出すことによって……想像力を更新した作家」である(福嶋、227頁)。その意味で、『雨月物語』というタイトルはいかにも象徴的だろう。先に挙げた「蛇性の婬」(だけでなく他のいくつかの作品もなのだが)は、文章だけでなくプロット的な元ネタも中国から採られている。不安定化し、動揺させる力能を中国から借り、自家薬籠中の物としているのだ。

 最後に付言しておけば、このような日本的・中国的サンプリングは、思わぬ副産物も生み出している。ひとつに、散文という形態がそれだ。「精神からいえば、一脈それ[=『胆大小心録』]に通ずるような文章を[『春雨物語』所収の]「樊 噲」において書いております。……どこまでも伸びて行き、遠くに駆け出していくような性質をもった内容。……これは今日から振り返ってみて、散文という方法を江戸で使っためずらしい例ではないか」(石川、230-231頁)と石川淳の発言は注目に値するだろう。また、テーマ系自体中国小説からの借用だが、サルトルも注目した『雨月物語』の「菊花の約」――「交わりは軽薄な人と結ぶなかれ」という漢文の引用から始まる――にも関心を払っておくべきだろう(サルトル、124-125頁)。三島由紀夫も特別気にかけているこの話自体、軽薄さでなく忠実さこそが主題になっているように、少しねじれた形でテーマ系が取り入れられている。サルトルは、問いの一般性と具体的な状況という自家撞着・矛盾・ねじれに陥らざるを得ない作家という存在の象徴的な一例として、これを見ている(同、99-100頁、125頁)。中国小説だけでも駄目だったし、秋成が思いついた個人的な小説のアイデアだけでも成立しなかった副産物のもうひとつだと言えよう。

<参考文献>
石川淳(1991)『新釈雨月物語・新釈春雨物語』ちくま文庫
上田秋成(1997)『雨月物語』ちくま学芸文庫、高田衛・稲田篤信[校注]
小松左京(1993)『わたしの大阪』中公文庫
福嶋亮大(2013)『復興文化論』青土社
三島由紀夫「雨月物語について」、石川淳『新釈雨月物語・新釈春雨物語』ちくま文庫、所収
ジャン=ポール・サルトル(1967)「作家は知識人か」、『知識人の擁護』人文書院佐藤朔ほか[訳]、所収

イメージの更新――チェルノブイリ、ゲンロン、三木清


レポートを晒してみよう、第三弾。
これはよく覚えています。提出日に急いで書き上げた記憶がふつふつと……。
授業でチンポムの話が出てきたのにも驚きました。
三年前くらいでしょうか。

レポートを書く度に思うのですが、どういうふうに終わればいいのかわからないんですよね。ちょっと無理やりさくっと終わらせている感じがあるのは、そのせいです。

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「イメージを更新・転倒・転換するような試みに関する記録をとりあげ、レビューする」という方をとりあげる。採用する記録は、思想家・東浩紀の率いるプロジェクトの報告たる『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(以下チェル本)である。以下、本文。

「福島第一原発観光地化計画」のスプリングボードとして、チェルノブイリへのサーヴェイは行われた。実際、東浩紀・ゲンロンが発行する『思想地図β』シリーズの第4期では、4-1(チェル本)・4-2(『福島第一原発観光地化計画』)と、対の書籍として位置づけられる。サーヴェイに参加したのは、思想家の東浩紀、ジャーナリストの津田大介、社会学者の開沼博、写真家の新保津健秀、ロシア文学研究者の上田洋子らが参加していることからもわかるように、チェル本は今までのチェルノブイリに関するレポートと異なる様相を呈することになった。

しかしこのサーヴェイは、最初からチェルノブイリのイメージを更新を念頭に行われたわけではない。「このようなイメージ、このような情報を得よう」という形での『予断』はなかった。この予期のなさこそが、まさに重要な点であった。というのも、報道したいイメージを集めてくるためだけの取材こそが、日本のチェルノブイリ報道では多かったのだ(ウクライナ人医師の語る所によると、「放射能で苦しんでいて、かわいそうな被害者」としての患者像ばかり撮ろうとする日本の報道への不満が語られていた)。はたして、編集後記にて東浩紀は「素人仕事」の「重要性を認識することとなった」と記す。「素人仕事のかたまり」である本書は、「それぞれの領域でプロ中のプロ」ではあるけれども、「チェルノブイリについてはみな『素人』」が集まって作った、と。そのような座組こそが、新鮮な視点を可能にしていると彼は振り返っている。既存メディアの「悲劇のチェルノブイリ」という《文法》に囚われず自由に取材対象を選び、訪問先の現実を素直な言葉で書き記した。

チェルノブイリに対する素人性は各所に見出だせる。例えば、3.11で事故を起こした日本から取材しにくると聞いて突撃的に取材に同行したデザイナーのハイダマカの熱弁に促されて、チェルノブイリ原発事故のメモリアルである、ニガヨモギの星公園を訪れる。そこには、「フクシマとの連帯」が打ち出されていた。これは取材行程を大幅に無視することで成り立っている素人仕事である(プロならば時間も予定も守るだろう。事前に決まっていたインタビューをひとつ放棄することで成り立っている)。例えば、チェルノブイリ原発が未だに「現役」であることに素直に彼らは驚いている。送電線としては現役であり、さらに「一時的にでも原発を停止したこと」を《二度目の悲劇》と呼ぶウクライナ人の言葉をそのまま伝える(一度目は事故が起きたことだ)。ソ連の政治的力学が作用し、そして資源も産業もない国であるウクライナでは、原発が避けられない手段であると多くのウクライナ人に認識されているのだ。例えば、彼らの他に「観光」、つまり物見遊山的に原発に訪れる人のことも報道すれば、それを支援する国家的・草の根的な制度や人のことも伝える。同書では、パック旅行企画者や旅行社へのインタビューも行われている。例えば、原発作業員が陽気に仕事を行うところや、サマショール(汚染地域に戻って違法に暮らす人。法的には違法だが、黙認されている)の「平穏で幸せな生活」を装飾なく報告する。そして、原発の処理作業員だけでなく、清掃員や食堂の料理人も、「ちゃんとそこにいる」ことを伝える(ちなみに食事はとても美味しいらしい)。現実は決して悲劇一色に塗りつぶされたりはしない。そこには多面的な「日常」がある。現実は常に複雑なのだから。

ここで、日本では、犯罪や災害の被害者・被害者家族に「悲劇一色でいること」を強要するところがあることを思い出してもよいし、高野秀行の『謎の独立国家ソマリランド』に挙げられた事例と重ねてもよい。高野によると、アフリカで貧困や病気で苦しむ人にカメラを向けると「笑顔」で映ろうとすることがあるらしい。というのも、アフリカの「苦しむ人々」にとって、カメラを向ける人は自分たちへ手を差し伸べてくれる、支援を誘発するものだと知っているから、自分たちを見てくれることを喜んで笑顔で写真や映像に映ろうとすることがあるのだ。しかし、「プロの仕事」「予期を重視する仕事」にとってそれは「ブレ」であって、撮りたいもの、ほしい情報ではなく、むしろ避けられるべきものだ。実際、私たちが触れる報道的な写真や映像で、苦しみの最中にある人が笑っているものはほとんど(全く?)ないのではないか。事程左様に私たちは、気を抜けばすぐ悲劇は悲劇でしかないと思い込んでしまうし、それを加速するような社会に生きている。

チェル本は素朴な言葉で、真剣に一面的な悲劇像でなく、多面的な現実を伝える(Chim↑Pomの『芸術実行犯』でも、広島の空をピカッとさせたことに関して、「実相」という語彙に注目していたことを私たちは想起すべきだろう)。それを伝える「素人の視線」を、東浩紀は「観光の視線」と二重写しにする。観光客の無知とむせきにんは、その分自由で予断を持たないからだ(そういえば、公式サイトによれば、高野秀行は「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをして、それを面白おかしく書く」ことをモットーにしていた。まさに観光客!)。

哲学者の三木清は、「旅について」というエッセイで、到達点を求めず絶えず過程にあるものとして旅を位置づける。それゆえ、旅は漂泊であり、観想的である。旅人は「つねに(観想的に)見る人」である、と三木は述べる。単なる思い付きにしてはあまりに熱く語られている三木のアイデアは、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』において、東が元も子もなく「素人」「無責任」と語った「観光」の視点を、少々ロマンティックに言い換えたものに他ならないだろう(三木のロマンティシズムと、東の現実主義は、冒険性を含意する「旅」と、商業性や欲望の肯定を含意する「観光」「ツーリズム」という語彙の差にも現れている)。このように、観光・ツーリズムと接続した形の主張をすることで、悲劇の現場に関する「情報公開」を東は主張していることになる。しかも、商業的に・経済的にサステイナブルであることが、悲劇の現場保存にも繋がり、長期的に忘れらないことを意味している、とプラグマティックに「効果」を主張することを忘れない。チェル本だけで既にイメージ更新的であるが、(誰しも観光客たりうる以上)余裕のある読者が実際に行ってみて、確かめてみること、「実相」に触れてみることを提案するものと受け取ることもできる。チェルノブイリのイメージを更新するチェル本の試みは、読者が行ってみて、一区切りつくような更新の営みなのかもしれない。

<参考文献>
Chim↑Pom、2012『芸術実行犯』朝日出版社
東浩紀編集、2013『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』ゲンロン
東浩紀編集、2013『福島第一原発観光地化計画』ゲンロン
高野秀行、2013『謎の独立国家ソマリランド』本の雑誌社
三木清、1978『人生論ノート』新潮社;改版

無常に関する一考察/唐木、田辺、道元

レポートを晒そうシリーズ。
まとまらない内容。字数が肥大化してますね。
田辺元を扱いかねている感じがひしひしと伝わる。大体『復興文化論』。ほとんど『復興文化論』。

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無常に関する一考察――唐木順三にならって

1,無常と日本の美学


日本人的精神や美の本質を無常観に見出すことは古くから繰り返されてきた紋切り型である。例えば、村上春樹は、2011年の東日本大震災から約半年後、カタルーニャ国際賞のスピーチにおいて、次のように発言している。
日本語には「無常」という言葉があります。この世に生まれたあらゆるものは、やがては消滅し、すべてはとどまることなく形を変え続ける。永遠の安定とか、不変不滅のものなどどこにもない、ということです。これは仏教から来た世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し別の脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても無駄だ、ということにもなります。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。[1]

 震災にかこつけて、外国人好みの日本イメージを補強しているに過ぎないのではないか。ここで問題になるのは、こういう振る舞いを続けるうちに、日本人自身がこの種の無常の感じが、自分たちの唯一の美学だと錯覚してしまうことだ。外国人に「日本の美とは何か」(あるいは「日本らしさとは何か」でもよいだろうが)と問われたとき、こういう「無常観」や、それを背景として生まれた「侘び・寂び」などを挙げてしまいがちではないか。[2]
 しかし、私はここで無常観以外の日本の美学を提出したいわけではない。それは手に余るし、授業内容からも逸脱しかねない。[3] そうではなくて、無常観それ自体について分析・整理を試みることで、お題目としての「無常」から脱しようとしたい。
 唐木順三が述べているように、無常について既に多くの人が書いており、その結果、一種の教科書的概念ができあがり、無常概念自体が通俗化していることは否定しがたい。唐木の『無常』は、「この教科書的概念規定から、『無常』を救ひ出すことが、私に課せられてゐると、私はさう思って」書かれたものだ。[4] これは、無常の安易な神聖化・神秘化に対抗する別の経路である(注2)。
 

 2,ありふれた無常の感じ

 唐木は『無常』を「はかなし」分析から始める。王朝女流文学に見られる、停滞した社会のなかでの女性的で心理的なままならなさとしての「はかなし」。これが、兵(つはもの)の世界、戦乱や動乱、そこに起こる栄枯盛衰、盛者必衰の事実認識と結びついて、無常の哀感、詠嘆的無常観として、「無常感」が生まれた、とする。このような無常の見方からすれば、「人生無常、世間無常、という王朝以来の『はかなし』に通じる普通の無常」では、常ならぬものとして、「名利、財産珍賓、権勢、地位、世情、人情、文名、學名など」が挙げられることになる。仏教的な「無常観」はそれを裏付けるために、いわば表面的に借用された。[5] 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で知られる『平家物語』も、その無常の見方そのものは、石母田正が述べているように、当時のありふれた認識に他ならない。[6]
 このような「無常感」に気付いた保田與重郎は、日本文学の死や滅亡、あるいは終末の感覚が「個人」の情念と結び付けられていたと述べる。日本の古代文学は、「片恋や失恋をことのはじめに考え、うらみわびの心をさきに発想して、恋歌のなかに終末感を歌い出すほどに発達してしまっていた」[7]。終末感覚は、国家や社会というよりも、失恋した一人の個人や、恨みつつ死んだ御霊に託されてきた。[8]
 ここに述べたのは、ありふれた無常の感じだ。それを唐木的に言えば、仏教的な補強を受けた、王朝以来の流れある「はかなし」に象徴されるような「無常感」となり、保田的に言えば、個人の情念に紐付けられるような終末感覚だと言える。


 3,道元の無常観――はかなし的無常感の否定
 唐木は『無常』の章の最後を道元に割り当てている。道元が生まれる前年に源頼朝は亡くなっており、八歳の頃には、法然と親鸞が地方に配流されている。十三のとき、『方丈記』が書かれ、二十歳のときは源実朝が殺され、二十二歳のときには承久の乱があった。そういう動乱の青年時代を道元は過ごしていた。八歳で母を亡くし、人生のはかなさを知ったとされる道元は、こういった社会事情を背景にしながら思想を形作っていた。吾我を離れることが仏道の成就につながると考えられていたのだが、そのためには「無常を観ずることが第一の用心」であると、重要視せられている。そして、頼りにならないもの(国王以下、妻子、眷族という世俗の縁)は頼りにならないものとして先取し、積極的にこちらから捨てよ(「捨棄」)とも主張される。こうして無常についての道元の言説を唐木は紹介するのだが、これは何ら特別な発想ではないとする。「言葉の背景にある経験が深いといふだけ」だ、と。しかし、『正法眼蔵』の第九十三「道心」には、「無常の形而上学」と呼ぶべき、彼の思想の独自性・本質が現れていると唐木は述べる[9]。彼が注目するのは次の箇所だ。
 よのすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、よのはかなく、人のいのちのあやふきことを、わすれざるべし。われは、よのはかなきことを、おもふと、しらざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、わがいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちも、をしまざるべし。
発心のために第一に心にかけるべきは、「無常を観ずる」ことだった。頼むべからざるものを頼みとして生きている世人が、出家し得道に至るのには、頼みにしているものが頼みにならないことを確知することが第一の条件というわけだ。「心を無常にかける」ことによって、「よのはかなく、人のいのちのあやふきこと」が知られる。この「心」は主観的な心、吾我のことであるのに対して、「無常」は世界における端的な事実、客観的な現実に他ならない。続く文章で言われているのは、吾我なるものがあって、それが「よのはかなきこと」を思っているのではないということだ。自分の心が主体として、世界を認識しているのではない。むしろ、心や情緒はまずもって捨てるべきものであり、吾我は離れ、捨棄すべきものなのだ。「まづ、『しばらく』心を用ゐて、無常を観ずるのだが、無常を観ずることによつて、反つて逆に、その心、吾我の心それ自体を離れるといふことが起る。それが道心といふものである」。[10] 道心は、吾我の心ではなく、自我を超えている。唐木が言うように、このような道元の道心の捉え方は、王朝的な「はかなし」や「無常感」を批判・否定している。引用文の直前には、「わがこころをさきとせざれ。ほとけのとかせたまひたるのりをさきとすべきし」と説かれているように、世の「はかなき」を思い観ずる自我という固定した実体があり、それが心というものを持っているのではない、というのである。[11]


 4,時間の観点から――道元とアウグスティヌス

 生死即涅槃という、「ありきたりの言葉」の意味を債権とする。道元も『正法眼蔵』のなかで、「生死はすなはち涅槃なりと覺了すべし。いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし」と述べている。諸行無常偈として知られる涅槃経の句、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」を引きながら、生滅が滅し已んだところが寂滅ないし涅槃とされている。ここで、滅已は終局・生滅の果てと考えられ、性の果てとしての「死」だと考えられている。そしてその死の先に、寂滅涅槃境があると思われている。[12]
 「生死即涅槃」は、こういった発想に対する否定となっている。無常なる生死のさきに、常住の涅槃があるのではなく、無常が涅槃、生死が寂滅だというのだ。「つねに生じつねに滅するといふ生滅無常が時間の裸形である。時間は本来無目的、非連続である」。刹那生滅、刹那生起なのである。「目的へ向つて進んでゐるのではないといふ點からいへば、虚無、死、寂静へ向つて進んでゐるのではないといふことになる。反つて、時間は、念々虚無につながつてゐる」。無意味なことの果てしない反復という時間像の下では、その時間が反復される間は虚無である。「人生も諸行も森羅萬象も、この時間においてあるよりほかはないのだから、結局は虚無、無意味である。無常はかくして虚無、無意味をあらはに示してゐるといふことになる。無常は、詠嘆の感情、情緒などとは全く無縁な冷嚴な事實、現實である」。[13]
 『正法眼蔵』の第十一「有時」に依拠しながら、時間論を深めよう。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」「時は飛来するとのみ解會すべからず、飛来は時の能とのみ學すべからず。時もし飛来に一任せば、間隙ありぬべし」とある。「山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば山海も壊す、時もし不壊なれば山海も不壊なり」。山も海も念々生起念々生滅、刹那起刹那滅である。山は瞬間ごとに時間によって切断され、非連続である。飛来し、飛去する時間という観点からすれば、切断ごとに「間隙」がある。去来の間として、虚無と言ってもよい。しかし、そういう非連続の存在でありながら、山としては自己同一である。「要をとりていはば、盡界にあらゆる盡有は、つらなりながら時時なり、有時なるによりて吾有時なり。有時に經歷の功徳あり、いはゆる今日より明日に經歷す、今日より昨日に經歷す、昨日より今日に經歷す、今日より今日に經歷す、明日より明日に經歷す」。
 田辺元もこの箇所をとりあげ、「時の非連続的有時」と「經歷の主體的同一」に注目した。そして、アウグスティヌスの時間分析になぞらえながら、「今の去來と今の恆常との相卽、時の媒介としての世界と意識との對立的同一が直ちに自己分裂的動性そのものとして、非連続的有時を絶対否定する永遠の動卽靜なることを表はす。經歷とは、時の各瞬間を絕對の現成として絕對的に個別化する裁斷が、直ちに絕對統一としてそれ等を合一せしめる連續の原理なることを意味するであろう」。[14] 飛来という側面から見れば、時間それ自体は無意味に無限に反復されているのであって非連続的だ。一方で、「時は有なり」という側面から見れば、有時が現成して個別化する切断も、意識のレベルでは合一化され統一される。世界の水準からすれば自己分裂的ではあるが、意識からすれば自己同一、あるいは動的ではあるが、静的である。このように言えるだろうか。

 ところで、田辺はこの道元の時間論について、「プラトンの突如態(瞬間)、アウグスティヌスの『現在の現在』、ハイデッガーの脱自的統一といふ如きものも、時間の原理として歸趣を同じくするであらう」[15]と述べている。このアウグスティヌスの時間論について、主要な展開を見せるのは、マラルメの『イジチュール』と『双賽一擲』を論じている「マラルメ覚書」、その第三章である。[16]
 アウグスティヌスの時間論によると、「常識的にはすでに過ぎ去ってもはや無いと思われるところの過去を、現在記憶に存続するものとしての「過去の現在」と解し、まだ未だ来らざる従ってまだ無い未来を、現在の予期においてあるものとして「未来の現在」と解するのである」。この中間に位置すると考えられる現在において両者が統一されるのではない。その現在は、「過去の現在」および「未来の現在」とあり方が異なっており、その現在も「現象学的に変容」させ、「現在の現在」とする必要がある。言ってみれば、「現在の自覚が、『時』の基底をなす……。アウグスティヌスのいわゆる『現在の現在』は、現前意識の焦点たる現在の、過現未を通ずる普遍本質的自覚に他ならないのである」。しかし、「アウグスティヌスの時間論は、その立場の現象学的なるために、その意味分析が意識面に偏局せられる結果、意識面を超えて否定契機の転換飛躍を、立体的高次超越的に実践する自我の自覚には、達しない」ので、限界があるとも田辺は述べている。[17] 翻って道元は自我意識なるものから離れているという点で、より遠くまで議論が及んでいる。


 5.道元・無常観の特色

 唐木は「恁麼(いんも)」という語彙に注目している。もとは「このように」という意味だったが、「恁麼事」「恁麼人」などとも使われるとき、「ありのまま」「そのまま」の意味、飛躍して自然法爾と言ってもよい、と唐木は述べている。「恁麼なるに無端に發心するものあり」という道元の言葉は、理由づけや因果を斥けている。『正法眼蔵』第七十「發菩提心」によると、思慮分別の「慮知心」によって無常を観ずることで、菩提心を起こす。菩提心は、個々人(個我)の菩提を求める心ではなく、個人に内在する心を超えた形而上的なもの=「恁麼」である。刹那流転なるままに、「恁麼人」になることができるのは、「發心する者の發心の機が、まさに時を得て、個我を超えたものに逢着する」、すなわち「時節到来」「感應道交」するからだ。これは単なる偶然でも、僥倖でもない。[18]
 慮知心をうながし、菩提を求めようとさせるその「心」は、「ひとへにわたくしの所爲にあらず」とされる。私という實體があつて、その私が私の心を働かせるのではない……。恁麼人の恁麼がそれを促し働かせる……。……無常を観じ思はせる心も、この恁麼の働きである。……働きをさまたげる働きも恁麼であるのだから、恁麼ならぬ何ものもない。恁麼の純粹行、無色透明の行為である。[19]
 こういう「非情」の、「無色透明」の世界は、なにも時間論に限った話ではなかった。例えば、「この身体」実体があるのではない。衆法すなはち四大五蘊がたまたま合成されたところが、「この身体」というものだというのだ。私という実体があって、それが「起こる」のでもない。四大五蘊の衆法があらしめ、また解体するだけだ。この無為、等閑の世界を、唐木は「虚無といつてよい」と断じる。「彩色せず、抒情せず、その意味で、裸裸、如如である」。道元の無常観の特色は、思慮分別といってよい「慮知心」すら自我に内在するものとみなさない点であると言える。



 6.簡易のまとめ

 私たちが普段、目にし、耳にし、口にするような「無常」。外国人から質問などで、急に「日本人」であらねばならないときの「無常」。それは、疑うべくもなく、ありふれた無常感、石母田正が『平家物語』で指摘したような陳腐な世界認識でしかない。このとき、福嶋亮大の指摘は非常に興味深い。
 「この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける」という思想によって日本を代表させてきたのは、決して村上のような小説家だけではない。例えば、……丸山眞男は記紀神話を例に出しながら、「つぎつぎとなりゆくいきほひ」、つまり自然生成を肯定する意識が日本人の精神構造を深く規定していると見なした。[20]
 「自ずから」や、「なる/なります」という語彙をキーワードにした議論を思い出せばよい。他にも福嶋の言うように、日本のポストモダニストたちが、丸山の理論を反転させて自然生成こそを美的なものとして鑑賞してきた。褒めるにせよ、貶めるにせよ、日本やしばしば「無作為」の国、自然の「いきほひ」に身を任せる主体性のない国だと考えられてきた。他でもない日本人自身によってである。[21] このような現状からすれば、その「無常」にあっても、透徹した非情の、冷厳たる世界を描いた道元を論じることは有意義であるだろう。

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[1] 「非現実的な夢想家として」と題されたスピーチは2011年6月9日にスペインで行われた。/NHK「かぶん」ブログ、2011/06/11(土)http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/800/85518.html で全文閲覧できる。
[2] 唐木順三『唐木順三全集』7巻、241-242頁など。宗祇も世阿弥も利休も芭蕉も禅に関係しているし、殊に利休と芭蕉は、禅に参じ、禅を学んでいる。
[3] 文芸評論家・中国文学研究者の福嶋亮大は、『復興文化論』において無常観を日本精神の主流とする安易な議論に反対し、いくつかの固有名を「復興文化」という視座から流通させることで対抗している。「無常観に対抗」すること自体、無常観が主流と目されていることを再強化しかねない(社会における周縁を指摘することが周縁という立場を強化してしまうのと同じように)とはいえ、有意義な研究であろう。
[4] 唐木順三『唐木順三全集』7巻、4-5頁。その前後で、ニヒリズムが「普遍化し、すでにニヒリズムという實態が観念されえないほどに、ニヒリズムそのものがのさばってゐる」今日、「無常」の自体が眼前にさらけ出していると言ってもよい。それゆえに、今日、「無常」は世界的な意味を持つ、と唐木は語っているが、村上春樹は先のスピーチにおいて「今日、世界的に有意義な概念」として無常を紹介しているのではない。
[5] 同上、4及び212頁
[6] 石母田正『平家物語』(岩波新書、1957年)43-44頁
[7] 保田與重郎『改版日本の橋』(新学社、2001年)41頁
[8] 福嶋亮大『復興文化論』(青土社、2013年)391-392頁
[9] 唐木『唐木順三全集』7、202-209頁。直後にある『正法眼蔵』の「道心」からの引用は、同書209 頁からの孫引き。
[10] 同上、211頁
[11] 唐木は引用文の四つの文章を、発心する、道心を発するための順序・手続きを、順に表現したものだと考えている。「法(のり)を第一とし、吾我の心を離れよといふのである」。この「法」は、我や心をもその内に含んでいる無常であり、対象・客体として認識するような無常ではなく、それゆえ形而上的な無常だと言ってよい。(同書、212-213)それゆえ、唐木は「無常の形而上学」と章題を付けているのだ。
[12] 同上、214頁。寂滅涅槃境のように死・終局のさきにあるようなものとして、「浄土、彼岸、極樂もさういふ聯想で語られてゐる」。
[13] 同上、214-216頁。この冷厳なニヒリズムからの逃避が生み出すものとして、「始原の想定」「終局の想定」「有為の功業」(歴史や流れの意味付け)の三つを挙げている。
[14] 田辺元「正法眼蔵の哲学私観」『田辺元全集』5巻、476-477頁。唐木が同箇所に注目しているのは、同書の221-222頁である。
[15] 同上、477頁
[16] 『正法眼蔵の哲学私観』(1939年)は中期に分類される一方、『マラルメ覚書』(1961年)最晩年・遺作である。「アウグスティヌスの時間論の核心というべきものは、常識的に時間を水の流れの如く客観的に存在する対象と観ることを斥け、時間をあくまで現在の自覚において統一せられる意識の綜合に成立するところの主観の構造と認めたことに存する」。これは、常識的・自然的な時間への態度に対して、「意識の現象学的態度を以て、時間考察の要求」をする立場だと言える。『正法眼蔵の哲学私観』で出てくる「渦旋」という概念が道元に関連して言っている箇所がある。「小生は面授を……、時間的過去(師)と未来(弟)との対決葛藤と解し、両者の商量の行はるる現在は、……前者が後者を媒介するのみならず逆に後者が却て前者を媒介する交互態として、その限り現在の局所的即非局所的なる渦旋が、師弟の同時性を成立せしめるものと思惟します」(唐木順三宛の書簡 1955年11月15日) この論理は、直後の引用文からもわかるように、アウグスティヌスの時間論では、師は「過去の現在」、弟は「未来の現在」に辺り、渦旋が「現在の現在」にあたるものとして考えることができる。
[17] 田辺元「マラルメの覚書」、藤田正勝・編『死の哲学』(岩波文庫、2010年)、78-81頁
[18] 唐木、同書、223-227頁
[19] 同上、234頁
[20] 福嶋、前掲書、397頁
[21] 同上

本地垂迹/「おのずから」=「みずから」/エコロジー




学部時代のレポートが発掘されたので晒してみます。


正直クオリティは高くありません。
二回生か三回生くらいでしょうか。(とすると、三、四年くらい前ですね……はずかし)
色々あるレポートのなかでも、悪い直前のまとめ書きなのか、見通しが悪く、言いたいことも見えず、正直恥ずかしいです。とにかく本を読んでいることだけはわかる。

吉田敦彦の研究などが神道神話に関して示していることと相似形ですが、日本の精神的源流は、シルクロード的、東アジア的に開かれており、非常にグローバルなものだった。
言われてみれば当たり前のことを、再度主張したかったのでしょう。
「日本的」と安っぽく使われていることに、レポートの締め切りとの戦いに焦りながらも、強く反発していたようです。
前半と後半の架橋が強引なところを見ると、字数が少なくて焦ったようですね。
文献くらいは参考になるでしょうか。


誤字などは修正しています。
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 『天台本覚論』の内容が議論され、書かれつつあったとき、日本では神仏習合思想(例えば本地垂迹)が全国的に広がっていた。『天台本覚論』で提唱された本地垂迹的主張は、山王一実神道(比叡山仏教)の二度和光と呼ばれる。本論では、本地垂迹を佐藤弘夫や吉田一彦らの論考を参照しつつ、より広い文脈の中で捉え返し、神仏習合を「日本的」と無批判的に呼ぶことへの批判を展開する。最後に、なります思想を確認した上で、その観点から自然保護やエコロジーへ資する点があるのかという疑問を提示する。


本地垂迹の系譜と神仏関係の変遷

 本地垂迹説は、「本地」であるインドの仏が、より現世に適合的な姿である神として日本に「垂迹」する現象と説明されてきた。加えて、外来の仏教(6世紀に伝来)と在来の神が交渉を重ねた神仏習合の最終段階で、神仏の事実上の一体化であり、そして日本に特有の、すぐれて日本的な現象だと捉えられてきた。
 ここで、佐藤弘夫は本地垂迹という用語に注意を払う。「実際に史料に当ってみると……『本地垂迹』という言葉には中世という一つの時代においてさえ、これまで考えられていたよりはるかに広い用例があるとわかる」。中世の本地垂迹の基本的な意味は、「目に見えない彼岸世界の超越者が可視的な姿をとってこの世界に顕現する」というものだった。従来の本地垂迹説理解(通俗的な本地垂迹説)は、広義の本地垂迹説のいちバリエーションに過ぎないことになる。

 このような「目に見えない根源的存在」―「目に見えるその現れ」というカミの二項的把握は、日本の古代中世に共通する神観念の特色であるが、この世で人間と共存すると考えられていたか(古代)、別世界に神が分かたれているか(中世)という点が異なっている。
 佐藤によると、縄文時代は具体的な事象や現象(蛇や太陽、妊娠や種など)に象徴される形で超越的存在がその背後に想定され、弥生時代(や古墳時代)には特定の事象・現象でなくそれらの背後一般にある不可思議な現象を引き起こすパワーと捉えられるようになり、形を失う(シャーマンの登場と軌を一にする)。カミが人と似た姿をとって表現される契機は、6世紀の仏像の移入だった。不可視のカミは自己表現の方法を得る。
 また、江戸時代には、お盆などの折々に自宅に変えることが習わしとなり、死者と聖者が密接な交流を持つようになり、本地垂迹はもはや此岸と彼岸を結びつける昨日を果たさない。近世の本地垂迹の論理は、現世の神仏と他界の仏を媒介する論理でなく、この世の内部にある糖質な存在としての神と仏をつなぐ論理になる。
 「江戸時代以降になって、本地垂迹といえば狭義の神と仏の関係であるというイメージが定着していく」ことになっていくなか、近世以降の思想では、神と仏だけが特権的に焦点化され、中世本地垂迹が包摂していた「仏像」「板碑」「疫神」などの多様なカミが抜け落ちてしまうことになったと佐藤は主張する。現在の日本人が思い描く、「インドの仏―日本の神の関係としての本地垂迹の構図は、本地垂迹の文化が全盛をきわめた中世のものではなく、江戸時代以降の神仏関係を踏まえたものだった」と言える。


本地垂迹と「日本的」という表現の曖昧さ


 本地―垂迹という発想は、吉田一彦によると、決して日本固有のものではなかった。中国で発展した天台教学では、大乗仏典『法華経』で説かれる久遠成実の仏とインドで生まれた釈迦との関係が本地―垂迹の論理で解説される。他には、偽経の『清浄法行経』では、孔子や老師の本地が「特定」されたように、日本の本地垂迹の論理や神仏習合の思想的源流を『法華経』(中国仏教)に求める学問的潮流が存在する。
 本地垂迹の起源を中国に求める形で、日本の思想を捉え直そうという潮流があると言った。吉田などが主張する学説だが、佐藤はその影響関係は認めつつも、「本地垂迹的発想はこの列島において縄文時代以来の長いカミ信仰の歴史の中で育まれ」ている側面があるので、「起源」とは言いがたいと述べて、全面的には受け入れない。信仰の歴史の中で、彼岸表象が膨大になり、肥大化している最中、「たまたま思想界の主役になっていた仏教の論理を借りて、彼岸―此土、本地―垂迹として表現されるようになったと考えるべきだ」と佐藤は主張する。つまり、佐藤によれば、本地―垂迹的発想そのものは、世界中に見られる現象であるが、それが(たまたま)どのように体系化され、どのような「論理」として捉えられるかという点が異なっている(あるいは、宗教の体系化の中で、このような発想そのものが棄却される場合もあるかもしれない)のだ。
 私個人としては、吉田と佐藤の主張は対立せず、補い合う関係にあり、佐藤の主張の中に取り込めるように思える(佐藤は少しアンフェアな解釈をしているのではないか)。いずれにせよ、彼らの論考を見ることで、簡単には「日本的」と口走ることなどできなくなるだろう。二者の主張にかかわらず言えることとして、非常に多国的で、グローバルな見通しのなかで、神仏習合思想/本地垂迹は形作られているからだ。

神仏習合的な発想は日本的と捉えられるが、土着の信仰(カミ)と外来の宗教(特に体系性を伴った宗教)との交渉・習合は珍しい事態ではない。とりわけ世界宗教はローカライズを伴いがちであり、キリスト教にもそのような例は多分に確認されることは言うまでもない(M.エリアーデの『世界宗教史』を参照)。日本の事例しか見ない者が、日本の特殊性を叫ぶのは、井の中に存在する蛙が世界で唯一の蛙だと主張するようなものだ。詳しく見るべきは、世界中に存在するであろう「蛙」の差異であり、その微差にこそ「日本的」(あるいは「ヨーロッパ的」「スラブ的」「東アジア的」……)なものが看取されるであろう。
 「根源的な」神観念という語彙にも疑問を持つ。『古事記』や『日本書紀』の記述を参照して、「根源的」と言うのはあまりにも早計だ。そもそも『古事記』の成立が712年であり、一方仏教の伝来(公伝)は6世紀であるとされる。日本で「神道」なるものが生まれた(体系化された)のは、仏教という、すぐれて体系的な(外来の)宗教との影響関係においてである。




「なります」思想と理


 竹内整一らが指摘するように、名詞の「自然」はnatureの翻訳語であって、明治中頃以降に出てくるものであり、それまでの日本語(そして中国語)で「自然」という語彙は、「偶然」や「突然」(そして「必然」をも意味するのだがそれは置く)と同じ副詞・形容詞的な用法しか持たなかった。以下では、名詞的な「自然」を意味するのでない限り、「自然」ではなく「おのずから」と表記する。
 西田幾多郎は「おのずから」を日本文化の特色として以下のように述べる。
私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向に於て何処までも自己自身を否定して物となる、物となつて見、物となつて行ふにあるのではないかと思ふ。己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。(『日本文化の問題』)
九鬼周造も似た指摘をしており、「おのずから」という心性が日本特有のものであると考えられることは珍しくない。物事をあらしめる論理、理顕本や事理無礙などという時の「理」が、日本においては「おのずから」ということと関わっていると考えられる。
 理顕本は、個々の事態(事)を、万物の論理である理が世界の本質を存在せしめている、という論法であるのに対し、『天台本覚論』などに見られる事顕本は、媒介項である理が抜け落ちて、個々の事象を本質(本)が存在させているという論法になっている。理顕本では、理が本質と個物をつなぐ一般原理として機能していたが、ハイデガーが主張する「存在忘却」のような仕方で「忘却」されていったと考えられる。


 「ある」という語彙は、「在る」「生る」「現はる」などの語彙と同根であるとされる。「おのずから」を支えるのは、このような生成の論理である。
 「柿がなる」という文章をしばしば日本人は口にする。この時の「なる」は、上記のような「おのずから」ありつつ、あらしめられるという生成の発想が現れている。生命の結実として、柿が「なる」。柿が「おのずから」成ったのだという受け止め方が現れている。
 竹内整一は、「みずから」も「おのずから」も共に「自(か)ら」と表記されることに注目している。「今度結婚することになりました」。この表現には、ここに当人の「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても、それは「おのずから」のある種の働きでそう「成ったのだ」と受け止め方が存在することを示していると言えるだろう。

コンビニなどでよく耳にする「以上で300円になります」という(しばしば妙な敬語だと避難される)文も、「みずから」の比重が少ないとはいえ、「ある」ことの原理に支えられて、「おのずから」そうなっているのだという受け止め方が現れているものだと捉えることができる。


なります思想とエコロジー

 「おのずから」と「みずから」が「自」という一語で語りうることに象徴されるように、(両者は異なるのだが、多分に重なっているという点で)魅力的な視点を持つと共に、極めて「曖昧で無責任な、雑然とした成り行き主義でしかないのだ」という批判も十分成り立つと竹内は述べる。
 こういう「ずるずるべったり」の動きは、丸山眞男が「無責任の体系」と批判するものであり、猪瀬直樹が「日本国の研究」で批判する(逆に「家長」の復権を訴える)ものであり、柄谷行人も日本の「自然」がナルシシズムや共同体に閉じられやすいことに対して厳しい批判を向けるものである。こういった反対論のいずれもが、次のように主張している――――天皇制や官僚制、戦後民主主義に通底する形で、「おのずから」と「みずから」という「自然」は、互いに癒着する形で固定化していき、「見えない制度」として機能してしまっている。


 以上のような批判を突き詰めるならば、「おのずから」=「みずから」において「他性」をどう捉えるかということになる。責任はどこか、決断する家長はどうなっているか、他者性はどう立ち現れるのか――それが彼らの批判だからだ。しかし、歴史が慣性を持っている以上、現実的に言って、ボタンを押すように他性がポンっと出現することに期待はできない。
 こういう自然観は、どちらが主体となるわけでもなく、渾然一体となって集合している「神仏習合」にも見出すことができよう。グローバルな視野のなか形成された、「おのずから」=「みずから」的自然観は、日本国内のエコロジー思想にも影響を与えていると考えられるだろう。エコロジーというとき、自然内に生きる人間として、「主体」的に動き、責任感を持って行動することが求められている。しかし、このような自然観を突き詰めるならば、「つぎつぎになりゆく」だけであって、意識して自然に資するような行動をとり、他人にもとらせるような計らいは矛盾を伴ってはいないだろうか。ディープ・エコロジーのような、よりラディカルで、より一貫した思想が存在するなか、自然を擁護する思想として「おのずから」=「みずから」的自然観は弱い。


参考文献
エリアーデ,ミルチア2000~『世界宗教史』1~8、ちくま学芸文庫
柄谷行人1990『言葉と悲劇』第三文明社
佐藤弘夫2000『アマテラスの変貌』法蔵館
佐藤弘夫2012「本地垂迹」『日本思想史講座 古代』ぺりかん社
西田幾多郎1982『日本文化の問題』岩波書店
竹内整一2010『「おのずから」と「みずから」――日本思想の基層』増補版、春秋社
フェリ,リュック1994『エコロジーの新秩序――樹木、動物、人間』法政大学出版局
丸山眞男1961『日本の思想』岩波書店
吉田一彦2006「本地垂迹の需要と展開――本地垂迹説の成立過程」『日本社会における仏と神』吉川弘文館