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2013年12月4日水曜日

スティーブン・キング『トウモロコシ畑の子供たち』についての、ま、いわば、エッセイみたいなもの



「トウモロコシ畑」と、映画とか


今回は、スティーブン・キングの『ナイトシフト』という短編集の第二巻を読みました。
「トウモロコシ畑の子供たち」(1977)という短編が気になっていたのです。以下で、この短編を指すとき、「トウモロコシ畑」と言います。
元々このタイトルは、「チルドレン・オブ・ザ・コーン」という映画経由で知っていました。知ったのは、高校のときだったかな。

例えば、このブログで言われているように、狂乱の子供たちが大人たちを虐殺する映画「ザ・チャイルド」(予告編がアップされてました)に触発されたものであるというのは明白です。
※ちなみに、「ザ・チャイルド」についてはNAVERでもまとめられていました→二度と観たくない?ハッピーエンドでもキツいトラウマ級衝撃映画! - NAVER まとめ 


「ザ・チャイルド」。「トウモロコシ畑」も脳内で大体こんなのでした

でも、どうやら、「ザ・チャイルド」は、ヒッチコックの「鳥」のオマージュで、その「ザ・チャイルド」にスティーブン・キングが触発されたようです。

ちなみに、「チルドレン・オブ・ザ・コーン」は、スプラッタとは違う「あーあー……あぁ……」みたいなグロがあるので注意してください。トウモロコシ関連の「あーあー」です。

……いっそ言ってしまうと、目からコーン的な……いや、なんでもありません。。。


少し逸れて『狼の口』のお話


この手の「あーあー」系のグロがいけるなら、興味深い歴史フィクション――いや、むしろ拷問の博覧会である『狼の口 ヴォルフスムント』(久慈光久)をおすすめします。
舞台はスイス。ヴィルヘルム・テルやハプスブルグ家などが出てきます。あらすじは↓です(wikiからコピペ)。
中世、アルプス山脈ドイツイタリアを最短距離で結ぶ交通の要衝であるザンクト・ゴットハルト峠は、アルプス山脈に住まう人々に交易による大きな利益を齎していた。
峠に権益を持つウーリシュヴァイツウンターヴァルデン二準邦の森林同盟三邦は、敵から既得権益と自由を守るため、13世紀末に盟約者同盟en、後のスイス連邦)を結成したが、峠の権益を狙うオーストリア公ハプスブルク家によって三邦は占領され、圧政が敷かれてしまう。これに対抗する盟約者同盟の闘士たちは、独立を取り戻すために地の利を活かして抵抗を続けており、三邦には叛乱の機運が大いに高まっていた。
しかし、14世紀初頭にはハプスブルク家によって峠には堅牢な砦からなる関所が設けられ、三邦の民衆は内部に閉じ込められていた。地元民は何人たりとも通行できず、密行を企てた者を一人残らず抹殺するこの非情な関所を、人々は恐れと恨みをこめて、『狼の口(ヴォルフスムント)』と呼んだ。




人が人にどれだけ残酷なことができるかということについて、たまには考えるのもいいかもしれません。四巻までは、鬱屈とした感じがやばいです。
特定の主人公はいない、民衆や大衆を描いているという点で、スタインベック『怒りの葡萄』を思い出したりはしました。(古い例だと、「出エジプト記」みたいな系列の物語です。『狼の口』の話ですよ。)


B級ホラーとクトゥルフの、にわか与太話




はっきり言って動画内容は下品なのですが、このTRPGリプレイ動画が、この「トウモロコシ畑」を元にしていて(ラストでは、映画や短編について簡単な解説もあります)、それでまた読みたくなったんです。
B級映画感満載で、映画好きの人がTRPGのセッションをしているだけあって、短編より「あー、B級映画っぽい」「B級映画感あるあるー」という感想が得られるかなと。
元はニコニコなので、一応「Children of the Corn トウモロコシ畑の子供たち」のマイリストを貼っておきます。
短編の「トウモロコシ畑」を読んだあと、内容を思い返すと、「はぁ、うまいことTRPGにしたもんだ!」と正直舌を巻きました。
語弊を恐れずに言えば、スティーブン・キングって、クトゥルフ神話の「ハイブロウで、ぞっとしない」ホラーを、「わかりやすくて、ショックのある」ホラーに、彼一流の筆致で「おろした」ところがあると思うので、この手のセッションとの相性は元々いいんでしょうね。

ほとんど詳しくないながらにわか知識で、ごにょごにょ蛇足してみます。
クトゥルフ神話がホラー的な観点から見て面白いのは、それが「神話」であることに尽きるのではないかと個人的には思います。
というのも、「ぞっとしなさ」の起源は見た目の醜悪さ・生理的な嫌悪と共に、「本当は、~」という付け足しを、私たちの世界理解に迫るものだからだと思うんです。
私たちの世界認識を笑い飛ばすように、「それ、間違いだから。本当は、こうなっていて、これが『真実』だ」と語るわけです。(逆説的に、不変・無時間的な「真実」という発想そのものの虚構臭さまで描いているように思うのですが、さてはて)

クトゥルフが単なるホラーではなく、神話、つまり説明の体系、私たちが世界を理解するときの関数であることは、その意味で必然的だったんだろうな、と。
普通のホラーって、「こんなことがあります」「私たちが目を向けない範囲でこんなひどいことが……」「ほら、あなたのすぐそばでも」みたいな諸事実の集合でしかないと思うので。
だから、神話をおろしてきたキングを、クトゥルフ神話に差し戻すのは、理に適っているというか……まぁ、にわかの与太話ですね。
ラブクラフトは結構読みましたが、覚えられないので、いつまで経ってもにわか仕込みですw


「トウモロコシ畑」と、キングについて少し


むっちゃ話がそれましたね。
各短編の紹介は、このサイトでも参考にしてください(丸投げ)

とはいえ、普通にさくさく読めるので、「トウモロコシ畑」について語ることはあんまりないんですよね。一気に小説世界に入っていけたのは、先に挙げたTRPGでB級ホラーとしての世界設定はなんとなく持てていたから、一種の「二次創作小説」として読めたという点もかなり大きいのかもしれません。時系列は逆ですが、個人の楽しみなので別にいいですよねw

加えて、以下に引く、小説冒頭の会話は、「おおっ。キング、さすが」と思うに足るものでした。

「ときどき、あたし、なんであんたなんかと結婚しちゃんたんだろう、とふしぎに思うことがあるのよ」
「短い二つの言葉を牧師に言ったからだろ」(p176)

訳もかなりリーダビリティ高かったです。娯楽小説を読む人にとって一番重要な部分と思われる、読みやすさ・流暢さ……もろもろは、読書のハードルにはなりませんでした。
とはいえ、「トウモロコシ畑」について少しだけ言えば、キリスト教もじりなのに、「予言者」じゃなくて「預言者」でしょ、普通……という文句くらいは付けたいところ。
あと、当然のことながら、ホラーにつきものの、ヒステリー起こす人もしばしばでてきます。


なお、文庫解説として、新井素子のエッセイ「スティーブン・キングについての、ま、いわば、エッセイみたいなもの」が収録されています。


蛇足ですが、スティーブン・キングの『書くことについて』(別タイトルとしては『小説作法』)で、いいフレーズがあったので引用します。
(ちなみに、自伝部分が最高に面白かった)



2013年11月4日月曜日

【同人誌の感想をもらうのは】 同人誌invertの感想 【売れるより難しい問題】

invert vol.1の感想を言おうの回。
invertという評論同人誌については、ここを見ればわかるはず。

まずはかみにゃんのから……と行きたいけど、経緯もメモがてら。


invertという評論同人誌を作っているfrom H(というグループ)のアカウント?の、このツイートを見て、思わず以下ようなツイートをしたので、「先ず隗より始めよ」と、感想を言うことにします。
なんか全体的に先輩ヅラっぽくて超絶消したくてたまらない文章になりましたが、まさに今立っている身としては、先輩どころか、invertを書いている人たちと肩を並べて勉強している立場なので、自己(事故?)対話に近いのだと思いますがががが……


https://twitter.com/mircea_morning/status/396610833209229312
https://twitter.com/mircea_morning/status/396611724553375745
https://twitter.com/mircea_morning/status/397016664815849472


なにかを「やってみる」ことについて



言説が誰に届くのか、誰に向けての言説か問題についての「正しい」回答は、恐らく『ミニコミ2.0』などで(宇野さんと仲が良かった頃の)あずまんが、部数を出すことなど各種のことを言っていて、それに全面的に同意します。

(既に黒歴史になってるけど)都市をテーマに『都市のイメージ、イメージの都市』という評論《も》ある同人誌を作った(データ販売してます。最近安くしたのでぜひ。)ことがあるので、それも込みで言えば、何かを始めるということはそれ自体圧倒的に支持されることだと思っています。

稚拙さとか、粗とか、届くかどうかは、一旦置いてもいいかな、と。若いことになんでも下駄を履かせるべきだとも思わないし、履かないで高圧にもまれて、ある種のアカハラ(=教養主義的な意味に限って)を受けて、定期的に打ちのめされるくらいがちょうどいいのかもしれない。

でも、やはりなにかを「やってみる」という経験はとても大事で、ものを作った経験のある人なら、そのことに同意してくれると思います。
《言葉》に関して読むけど何も言わないことは、《絵》において見るけど何も描かないことに似ているのだと思います。



小説を書くことができる能力はあって何も書かないことと、小説を書いてみることは天と地ほど違う。
頭の中にイメージを持っていてきっと絵にもなるだろうことと、絵を描き上げることは月とスッポン以上に違う。
存在しなかったものを存在させるということは、その制作物・製作物の、巧拙やプレゼンス、効果の大小に関わらず、決定的に大きい。

J.デューイが繰り返し述べるように、教育や学びでは、経験が決定的に重要だし、経験は単独で存在しないので、意義深い経験であればあるほど、その後の経験(の仕方・あり方)を決して同じものにはさせない。

新著が出た千葉雅也さんが、『動きすぎてはいけない』の出版前に、「いつまでも書き換えたくなる、手を入れ続けてしまう、どこかで妥協しないと」とツイートしていたことがありました。ちなみに、退官寸前のうちの大学の教授も似たことを言ってました。研究者・アカデミシャンですらそうなのだから、打ち出した自分言説が、完璧でないことを恐れて何も言わないでいる必要はないのだと思います。
(自分自身、数週間ペースで自分の文章を黒歴史に感じてしまうけど、過去の言説はなかったことにできなくて、恥ずかしいやら辛いやら……ですが、そのおかげで、それなりのペースで走ることができているのだと思います)


元も子もない言い方をすれば、(作った経験からして)めっちゃ製作過程で本を読んだり勉強したり、議論するので、「焦り」が出るんですよね。笑
あと、作り上げてから、自分の書いたことをもっと簡単に言えるなって思ったり、ピントがズレて見えたり。。。
その後悔自体も、学んでいく原動力になる。とても意味があることだと思います。


だから、目標の方向性としては、これくらいが丁度いいのかもしれないとは思います。
事故のように知りもしない誰かにはできるだけ沢山届けること。
そして、知っている人には共感以上のものを感じさせること。
(全然論文書かない大学人とかだと、自分の著書は生徒しか読まない人とか結構いるはずなので、この目標って部数を拡大すれば、研究者にもある程度そのまま妥当するんじゃないかな、とも思ったりラジバンダリ。)

それに、若い人が何か真剣に考えたり、熱いことを言ってるってこと自体、それをとりあえず表現してみたいんだ!!ってこと自体、社会にとって財産だと思うのですが、いかがでしょう。
だって、テーマが「若者と社会」ですよ? 書き手は20歳前後ですよ?
40歳の自分を想像すれば、直ちに満足そうに頷く気がします。

でも、部室感、馴れ合い感とかは(自覚がなくても外からはそう見えることは多くあるだろうし)、助走から疾走に変わるまでには徐々に脱していきたいですよね(自己願望)。

少なくとも、背中を押す大人でありたい、あってほしいと思うけれど。
(未来の私は、どうなってるんでしょうかね。)

だから、最初に「これが『正しい』回答」だと示したタイプの確かさは――言い換えると、言説の「重み」と「拡散性」、スタイルの洗練は――現に全国に名を知られる文芸なり、批評なり、学術誌なりで戦っている現場の「おっさん」「おばさん」(若者との対比で?)に任せればいい。
(だからといって「だって同人誌だし?」「だってまだ若いし?」っていう構え・態度に居直ることは許されないけど、自分は今、そういう話をしているのではないし。)
現に、文フリとかの頒布が中心なわけだし、規範的・意気込み的にそうだというのと、現実・能力は違うわけだから、当然の話なんですけどね。



褒めたようで、自己弁護したようで、励ましたようで、何も語っていないので、さくっと内容も触れます。



内容への感想


・ふわっと全体のこと

タイトルのすぐ下とかに、書き手の名前と、Twitterアカウント名があるのいいなと思いました。

文字幅狭い(もしかしたらフォントの問題?)のと、改行が少ないのは個人的に見にくいなーと思いました。全然許容範囲だけど、少し古い岩波文庫みたいな。

表紙かっちょいい。



既にいっぱい書いちゃったので、以下は特にいくつかピックアップして。


・巻頭言

問題にしたいことについての状況整理を、短雋な言葉でやってしまうこと自体は、新書や力のあるブロガーレベルであるので、ここに書かなくても、もっとコンセプトや、思想、思想にもならないとにかく熱い感じのアレとか語れば、いいのになと思いました。
つまり、終盤のことです。終盤で言ってることを、もっとたくさん/ちゃんと語ればいいのに(もったいないな)、と。


・「死にゆく世界に生きるということ」神山六人

清涼院流水とAKBから、見通しを得るという形で現実把握がなされて、それを踏まえて自己論を語っている(という三部構成)。
とても読みやすくてまとまっている文章で、超頭が下がります。

社会を語る時、コンテンツを通じて、それをするというのは結構厄介だな、と。
宇野さん型の批評は、個人的には苦手です。特に宇野さんは、道具として割り切ることと、コンテンツを楽しむための補助線とを、意図的に曖昧にしてる。(ネタとして語ることと、ベタに語ることを混ぜてる)
清涼院流水というフィルターを通して、社会を見れば、こういう風なもの《として》映り、それによってこういうことにスポットがあたるから、これを考えないと……さらにこのフィルターを重ねて……
みたいに、コンテンツを《利用》するという立場の方が、個人的には好みです。

社会を語る時くらい、社会にだけ視線向けてほしいかな、って。(コンテンツ批評はコンテンツ批評で、好きです。目的に応じて使い分ける方がよりいいと私は思うだけで。)

完全に好みの問題ですね。笑 
神山くんはどっちなんでしょうか。私、気になります。


多元的自己論の部分は、二年前くらいに見たこの動画が面白かったので、ぜひみてください。
多元化する若者の自己とアイデンティティ資本
後期近代におけるアイデンティティ資本

特に前者は、多元的自己論を複数的確にまとめてあるので便利。


・「社会のキリトリ線」伊丹空互

『太陽の季節』(1957・石原慎太郎)と『イン・ザ・ミソスープ』(1997・村上龍)を、20歳前後の人間が読んで書いているということだけで、もうなんか読む価値があった。
自分はというと……ぶっちゃけ読んだことない。笑


・「WHAT  "□□□" BE INVERTED?」堀真流知

大学に入学してすぐの女の子が、ゼミで考えたこと・考えなければいけないことを、最初に父親にメールすることで一度ぶつけてみて、次の週はまた別の考えたことを投げてみて……

という形式で続く。読みやすいし、発想が面白い。



なにかを「続けていく」ことについて


……はい。
あからさまに途中で書き疲れた感あふれていますが、ごめんなさい。笑
もう十分、言ったことの義務は果たしたかな、と思いますので、ここらで勘弁してください。

40歳くらいの、友人であり先生であり、導きの糸でもある某人に、「自分たちが考えたこと、話したことを、残しておくってことは、大事だなって今になって思うよ」と言われました。
「拙くても、きっと今とは違う考えだろうし、たまには面白いこと言ってたはずだし、そういうものを確認できない僕たちは、今はただ単に懐かしむことしかできない。過去の自分達のことが、今に対する直接の刺激にはならない」
という趣旨の言葉だったはずです(うろ覚え)。

同人誌は、(ガンダム的な使い方に近い仕方で)「黒歴史」なのかもしれません。
一番最後の読者は、未来の自分たちだったりするのかも。遠い手紙になると思えば、少し励みになる……かも?w

最初の言葉を翻せば、「創業は易く、守成は難し」とも言いますし、今度は頑張ってとりあえず続けていくことを頑張ってほしいなと思います(invertにはナンバリングタイトルもあるし)。
(そういえば、チャーリーもどこかでそんなことを言っていましたし、大槻さんと今日そういう話をしました。)

続けていく中で、不断に向上していくこと、広く届けようとすることはもちろんのこと。



はい、終わり。
こんなブログ書いていいのかわからないけど、まぁいいか。
すごい適当に、ねむいまま、推敲もせずに書いたので、お前が言うな感、満載ですが、大目に見てくだしあヽ(・ω・)/

2013年11月1日金曜日

攻殻S.A.C.「悟りのダウンロード」について、考えてみた


「座禅って、宗教的意味よりもむしろ人間の業を雑念から解放する意味合いが強いんでしょ?」
「僕たちで言うと溜まったキャッシュ上のデータを消去するってことかもしれないね。それと並列化を足したような意味かな?」
「じゃあ、座禅を組んでる人と繋がったら悟りがダウンロードできちゃうかも」

出典: 士郎正宗原作/協力・神山健治監督「攻殻機動隊 S.A.C 2nd GIG 動機ある者たち」



※ちゃんと書き直したり、まとめようと思っていましたが、飽きちゃったので思考メモみたいな状態のまま公開しますね※


悟りのダウンロードの話になったので、ちょっと考えてみます。
書きつつ考えるので、まとまってないかも。

《悟り》とはなんでしょうか。
あるいは、悟りを《ダウンロードする》というのはどういうことでしょうか。

ダウンロードされる「悟り」が知識なのだとすれば、「悟りとは◯◯の状態である」ということでしょうか。




「ダウンロード」する、という時に、悟りをアプリケーションのように考えているのでしょう。
そして、「悟り」は同時に一種の状態だと考えている。

この時、ダウンロードしただけではダメなのでしょう。「実行」がなければなんにもなりません。
アプリケーションをインストールしなければならない。
loading(弾丸を詰める)だけではだめで、shooting(打ち込む)が必要。

ソクラテスのパラドックスというものがあります。
プラトンの『プロタゴラス』に出てくるのですが、「最善のことを知っているのに、他のことをすることはできない」というものです。
このパラドックスは、大抵「意志の問題」あるいは、ソクラテスの倫理的な宣言として、受け取ることで解消される(と私は理解しています)。
例えば、この論文

「知っているのに、その知に反して他のことをする」という時に、それを「知っている」と呼ばない!という感じで。
(実際のところ、論文にあるようにかなり論争の的なのでしょうが、ほんとのところどうでもいいです)

思うに、悟りは「状態」というよりも「経験」なのではないでしょうか。
上のソクラテスのパラドックスも、ある種の経験のことをそう言っているのではないかと考えることができます。



タチコマは御存知の通り、案外執着を持っています。
うろ覚えで話せば、「もっと戦争がしたい」とのたまっているシーンもあったような。
(これを思い出すとき、そもそも、悟りがキャッシュを消す行為と一致するとは思えないのですが)

タチコマはアタラクシア(意志の弱さ)を克服できるのでしょうか。
悟りは知識というより「経験」なので、そもそも「状態」とは言いがたいのではないかと思います。



アプリケーション・サトリをダウンロードすればPCの状態が悟りになる、というのは、ある種の薬を飲めば幸福になる、というのと同じことなのではないかと思います。
それを悟り・幸福と呼びたいなら、それはそれでいいのですが。


「あの人みたいにドイツ語ペラペラになりたい」
というとき、私は「あの人」の「(語学が)ペラペラ」という状態だけを欲していますが、言語の違いはかなりの程度、思考パターンにも違いを生むので、ある言語が自家薬籠中の物になった人は、単にその状態を得たというよりも、ある種の経験を獲得したと言った方がよいのではないでしょうか。

ここで仮に私が、「ペラペラ」を得たとしても、「あの人」が「ペラペラ」である時に必要だと思っているその他の経験は
(その他の経験→例えば、ドイツの友人との交流、その友人と与太話をしたこと、ドイツの歴史に関する興味、専門分野に関する知識などなど)
なにより、経験は、ネットワーク状に組織されているので、それ単体で抽出されて得ないのではないかと思います。

まぁ、実際は電脳化の経験が私にはないので、わかんないんですけど。



ある種の(根本的な?)経験は、それ以降の自分の経験のあり方を変える。それだけでなく、それ以前の自分の経験を再組織化する。
ある経験は、その後の経験を左右するだけでなく、以前の経験に対する自己理解を書き換えてしまう。


つまり、私が思うところでは、タチコマたちが言っている「悟り」は実際は状態ではなく、経験なので、悟りのダウンロードは擬似問題かなと思います。


……みたいな。
思いつくまま、推敲しないままのメモの状態ですが、飽きたのでこのへんで。




2013年10月2日水曜日

鈴木博之『都市のかなしみ』――ゲニウス・ロキ、街歩き、そして復元と復原



元々、『東京の地霊』という本で知っていた著者でした。今回、この『都市のかなしみ』を頂戴したので、なにごとか書いてみようと思います。
鈴木博之さんについては、Wikipediaにページがありますので、そちらを見てください。

地霊―ゲニウス・ロキについて


まず、『東京の地霊』について。
地霊――ゲニウス・ロキ――という言葉は、分析概念として提出されているわけですが、それほど有意味でも有用でもないと思います。
土地を特徴付ける霊、とでも言うべき内容が、元々の意味です。
ちなみに地縛霊とは違います。地縛霊は、19世紀辺りに流行した、降霊術や心霊科学辺りが起源で、しかも怨霊に近い含意があるはずです。つまり、地縛霊は近代産。

そのゲニウス・ロキ、地霊を、著者は土地の固有性が希薄化していく(『東京から考える』的言えば、「郊外化」していく。もっと有名なバズワードなら「ファスト風土化」)現状で、土地の個性みたいなのを引き出す概念として考えているわけです。

けど、実質的には、《エピソードで追う土地の歴史》以上のものではありません。
それが悪いというのではないのですが、大上段に振りかぶった割に、「で?」という内容なので。とはいえ、エッセイとしては比類のない出来で、サントリー学芸賞かなにかを受賞するのも頷けます。
こういう風に、丁寧に土地の歴史を追いかけるということをするだけ、土地に対する愛着がかくも生まれてくるものか、と思います。

しかし、この種の試みが目指しているものは、他の手法でもっと簡単に達成されているのではないでしょうか。
目指しているのは、自分の生きている、生活している、訪れる所の「街」「都市」を、ビビッドなものとして感受し、交わり、関わっていく……というような。
念頭に置いているのはいくつかの漫画です。

例えばこの本。

衿沢世衣子『ちづかマップ』――ちづかと一緒に街を読もう!(NETOKARU)


それから、ancouさんという漫画家さんの一連の漫画です。「街歩きもの」とでも言うべき漫画は、結構沢山あって、しかも面白いものが多い。


小難しく考えたい人は、東浩紀・北田暁大『東京から考える』中沢新一『アースダイバー』でも手にとればいいのであって、普通に、自分の街を楽しんでみたい人は、こういう漫画にこそ出会えば、それで十分なのではないかな、と思います。

『東京の地霊』は帯に短し襷に長し。いいエッセイなんだけど、最近の漫画なめんなよ。
読ませる文章だからって、漫画より優れているというわけではないのだから。




復元と復原――東洋と西洋は、向き合う問題もロジックも違うらしい、というお話


そもそも復元と復原ってなんぞ…?という方は、こちらか、こちらをご覧ください。

ある先生に復原と復元について以下のような質問をしました(問題のないように大幅に改変)。

建築史が専門の鈴木博之さんの本の中で建築史の観点からの復原・復元の議論は紹介されるものの、観光や文化遺産の観点が抜け落ちていて片手落ちの感が否めませんでした。
ヨーロッパでは復原・復元の事例が(特に主要観光都市や有名文化遺産で)少ない・認めないタイプの立場が一般的かと思います。鈴木さんはこちらに賛意を示していらっしゃいました。

平等院鳳凰堂の庭改修・改変についての批判しているように、鈴木博之さんは文化財の復元・復原に否定的でした。場合によるとそれは「過去への敬意」どころか、曖昧な想像による「過去の踏みにじり」になる、と。 
リンクを貼った知恵袋に引き寄せて言えば、「当初」をどこに認めるか、どの「当初」を価値あるものとするのか(どの「当初」が「真正性」を持つのか)、未来(世代)のことを勘案すれば、そのような改変はそもそも許されるのか……などのような疑問に集約されるのではないかと思われます。復原・復元によって全ての瞬間を保存し、提示することはできませんので。
ただ、歴史上あった東大寺の改修と、まちづくり的復原・復元とは、共に広義の「復原・復元」に属するものの、筆者の態度は違っているようでした。(前者は文章から伺う限り、それほど否定的だとは思えません。)

平等院鳳凰堂に関しても、最近こんな改修がありました。
これに対して得られた回答はこのようなものです。

例えば、世界遺産は、「時間を今のまま止めることが重視される」ので、復元や復原は重視されない。
そもそも修繕や修復に対する思想が、西洋と東洋で違う。(参考

古い遺跡はヨーロッパにもあるが、アジア圏の遺跡は、そもそも修復が必要なものが多く、ヨーロッパの論理の単純適応では解消しきれない問題が沢山ある。
(アンコールワットの修理・修復は批判できないと、確かに私も思います。)


最近、福島第一原発観光地化計画というものもありますが、物事を維持するには当初から「維持しよう」と努力を続けなければ、なんにも残りませんよね。
一応、曲がりなりにも、95年の震災を体験した身としては、そのことを思わずにはおれないのです。
感情的に「ねーよ!」「廃炉先だろ!」と言うことは簡単です。
けれど、こういう発言を見る度に、残すことと、諸々の必要な作業は、互いに齟齬や妨害を生むことなく並行できることだろうと思わざるを得ないのですが。

それに、勝手に誰でもが入れる現状よりは、管理できる体制を整える意味でも、「観光地化」は意味ある営みだと思います。

動き出している福島、双葉の観光 小松 理虔


その話は置いときましょう。
こういう出来事について、「復原や復元」をどう考えるかということは重要かもしれません。
広島平和記念資料館で、蝋人形が撤去されるという件は、広い意味で言えば「復原や復元」が持つ恣意性を排除しようとするものでした。
現物による展示に換え、「時間を今のまま止めて」その展示物をして語らせるような仕方に転換しようとする。

復原や復元によって、イメージが物質化されてしまうことで、事実化・外在化され、あたかも「実体」のように、さも当然のように、そのイメージが受け取られるのではないでしょうか。
復原や復元――もう少し広いスキームで、修復や修繕も含めて――とはどういう営みなのか、考える必要があるのかもしれません。



『都市のかなしみ』という本だったので、ダークツーリズム的な本だろうという意図で、この本をプレゼントして頂いたのだと思うのですが、全然関係ないですね!笑

とはいえ、頑張って話をご希望されているであろう方向に寄せてみました。





2013年9月24日火曜日

根本彰『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』――観光、まちづくり、ショッピングモール



院試も終わって、何か知識欲と興味のままに調べ物がしたいということで図書館(学)について色々調べていました。
まず蔵書を調べる中で気付いたのは、図書の分類において、図書館学・図書館・読書・本についての本は、情報に関する本と共に分類の最初の方にあること。
(これは図書館によって違うのかな?)
分類に思想が現れてるのかな、とか思ったり。この辺は気になった。

それはさておき。
今回の本は、根本彰『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』です。
これについての覚書は後に回すとして、図書館学について気付いたことを最初に挙げてしまいます。

・観光学とくらべて、随分丁寧に研究が行われている。司書養成などの都合からか、比べるとかなり体系的に見える。
・お題目のように学際性が訴えられる観光学とくらべて、(同じく学際性の要求される)図書館学は、題目抜きに、ちゃんと様々な分野からのアプローチが行われている印象。(教科書シリーズの巻数の多さ!)
・図書館学という学問の特性上、「現に図書館は存在するし、今後も存在するだろう」+「一般的に言って、図書館は必要とされているし、今後も必要とされる存在であり続けるだろう」みたいな共通認識がスタートにあること。(一切の反省がないというわけではい。「図書館は不要だ」という認識に立った図書館学は、そもそも学問である必要もないだろうし)

追記。
図書館不要を前提に図書館学は難しい、について。
不要を前提にすることは難しいでしょうが(この種のものは文化や歴史によってかなり定義が異なるので、何らかの形で生き残るだろうし)、宗教学・宗教論に宗教批判が存在するように、図書館批判は存在するし、存在し得ると思います。

大抵、宗教批判は、理念・理想としての宗教と、制度化された宗教・現実の宗教との相克において捉え、前者に立ち返りながら、「もっと熱くなれよ!」と語るタイプのものです。
同種の議論は、図書館学でも多く存在することでしょう。
宗教批判については、こちら参照。

この点面白いのは、図書館に関する書物は、図書館が意識的に買う傾向にあるそうです。一般に受容がなくても、図書館に関する本が、結構出版点数があるのはこういう理由があるのだとか(最終章参照)。


とりあえず、ぱっと気付いたことは以上。




『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』

目次
はしがき
第一部 図書館を考えるための枠組み
 第一章 日本の情報管理
  コラム1 図書館の新しいイメージ
 第二章 図書館、知の大海に乗り出すためのツール
  コラム2 ヤマニ書房の思い出
 第三章 交流の場、図書館――日本での可能性――
  コラム3 出版文化と図書館
 第四章 「場所としての図書館」をめぐる議論
  コラム4 青森の図書館を訪れて
 第五章 図書館における情報通信技術の活用
  コラム5 ソウルから
第二部 公立図書館論の展開
 第六章 公立図書館について考える――ハコか、働きか――
  コラム6 豊田市図書館と名護市率図書館
 第七章 貸出サービス論批判――1970年代以降の公立図書館をどう評価するか――
  コラム7 いわきの図書館に注文する
 第八章 地域で展開する公立図書館サービス――続・貸出サービス論批判――
  コラム8 いわきの図書館はどうなったか
 第九章 公共図書館学とポスト福祉国家型サービス論
 補章 「図書館奉仕」vs.「サービス経済」

本当は節タイトルまで書けば、もっと魅力的に見えるのですがめんどくさいので割愛。
有川浩『図書館戦争』や、エジプトの新アレクサンドリア図書館藤原正彦の『国家の品格』や齋藤孝の読書術系のアレ(三色ボールペン声に出して読みたい)、公共貸与権、大英博物館、六本木ヒルズの会員制図書館など、キャッチーだったり、流行した概念にもちゃんと触れていることが手に取った最大の理由でした。(出版自体は2011年の夏ですが、論考の発表年度は2000年初めから2010年くらいまでです)
お高く止まらずに、こういうことにもちゃんと目配せしつつ、持論を展開するのは学識者として当然のことだと思うので。

それに、筆者は、キャッチーな所から説き起こして、本論に繋げていくのが結構うまい。



追記。
公共貸与権は日本では例のごとく曲解されているようです。詳しくは本文の他、この辺りをご覧ください(誤解も含めて、主要な扱いをピックアップ)

動向レビュー:英国における公貸権制度の最新動向―「デジタル経済法2010」との関連で / カオリ・リチャーズ
動向レビュー:公共貸与権をめぐる国際動向 / 南亮一
英政府「図書館での電子書籍貸し出しは公共貸与権の対象」と作家団体に公式伝達
著作権をめぐる最近の動向
公共貸与権にかんするメモ~新武雄市図書館を例に~

筆者曰く。図書館も出版社も著者も、出版文化を共に形成していく仲間であり担い手。利益を奪いあいう関係ではない。……という認識ありきなのだそうで。
保証も政府が、そして図書館業務に支障のない限りでの話だそうです。
日本は日本だ!!と言うのは簡単ですが、知った上で言うのと、知ったかして言うのと、知らないで言うのは全部違いますよね。


図書館の理念の変化


図書館の理念は、設立者の理想、時代の理想に左右されている。日本の図書館理念の変化について、大体三つの転換点から筆者は捉えています。時系列に見ていきます。


1、自習の場としての図書館
・古い資料の保存
・第二の勉強部屋や書斎として
・知的で落ち着ける雰囲気を求めている
・科挙型の系統的カリキュラム(いわゆる「詰め込み式」)の影響
・立身出世主義など儒学の影響もあるのか

2、資料提供型の図書館
・資料の貸出と閲覧を中心とする
・自立した市民の「自己教育」の場(探索型カリキュラムとの呼応関係)
・ジャーナリストや著述家の図書館擁護論は、現に彼らが図書館に通って恩恵を被っている
・レファレンスと蔵書のお陰で、多様な観点から著述できる
(本文での例は、『思想としての日本近代建築』八束はじめ。個人的に覚えている例で言えば、『パラダイムとは何か  クーンの科学史革命』野家啓一が、謝辞で司書さんのレファレンスに言及していた。)
・1970年代以降のモデル。今新しくできる図書館は基本的にこのモデル。
・住民のニーズに即した蔵書(貸出数によって、図書館の指標とする)
・貸出サービス論を最初に打ち出した前川恒雄の目論見とは違って、単に流行の小説を集めるだけになりつつあるのではないかという危惧

3、地域文化志向の図書館
・これは、資料提供型図書館ないし貸出サービス論からのオルタナティブな選択肢として筆者が提出しているもの
・郷土資料の充実。地域の記事の切り抜きなどを行なっている所は元々結構ある。
・展示や出版物、イベントなどを通じた図書館からの情報発信
・地域文化の機関となる

といった感じです。
1だからといって、閲覧してないわけでもないですし、2だからといってイベントを一切しないわけでもなく、3だからといって流行の本を意識的に排除するわけでもない……ということは、一応付言します。

図書館と「まちづくり」、あるいは「ショッピングモール化」


3つめについては、「まちづくり」の文脈で語られることと同様ですね。「まちづくり」を考える時には、「~とまちづくり」みたいに対でイメージするといいかもしれません。
「観光とまちづくり」「図書館とまちづくり」……
結局、観光にしろ、図書館にしろ、街としてのプライド、地域のアイデンティティをどう作り出していくか、作り出していきたいかという問題に関わっているのだと思います。
(そもそも、観光地としての成功や、人口増加、雇用創出などの達成が実現する地域の方が少ないのですから、焦点が「シビックプライド」に移行するのは自然だと思います。)
チャーリーこと、鈴木謙介さんの新刊(『ウェブ社会のゆくえ』)にもシビックプライドの議論が紙面を割かれていましたが、この辺りの潮流を受けてのことなのだろうなと思います。


それから、2については本文で結構面白い紹介があります。

明らかに図書館サービスの手法に変化が見られる。「市民の図書館」は資料を借りて、自宅で読むことを強調したが、その手法は継承しながらも、施設を大型化し利用できる資料の幅を広げたり居心地をよくしたりすることで快適な公共施設であることを強調している。滞在型図書館あるいは居場所としての図書館などと呼ばれることもあるが、ここでは仮にアメニティ型図書館と呼んでおく。(根本彰『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』p138-139)

このすぐ後に、こんな話もあります。

「現在、良い図書館の要素としては、駅前や繁華街近くなどのアクセスしやすい場所、郊外の場合は広い駐車スペース、滞在して資料を利用するのに快適な施設、大きな開架スペースと豊富な新刊書供給、ビデオやCDの視聴やインターネット端末のりよう、貸出冊数の制限をつけずインターネットからも予約できる、というように、施設面を中心とした利用しやすさがきわめて重視されるようになっている。」(p139)

この辺りは、ショッピングモール(化)を特集している『思想地図β1』や、その成果を受けて書かれた速水健朗さんの『都市と消費とディズニーの夢  ショッピングモーライゼーションの時代』などの議論と明確に呼応するように思えます。
筆者である根本は、これを必ずしも好ましい傾向とみていません。
「知の公共性」とタイトルに入っていることからもわかることかと思いますが、消費としての読書を前提にした図書館、商業主義的な図書館は、害のあるものだと見ています。

消費としての読書それ自体は別段、いいも悪いもないのですが、知の公共性という観点から考えれば、望ましいと言えないのはその通りかもしれません。
資料収集に関する資金は不況でばっちり減っているという現状を踏まえれば、特に。




まぁ、覚書を作りたかっただけなので以上で。
読みやすいので、手にとっていいんじゃないかなと思います。
説教臭くもないし、経済的観点を常に考慮しているのは、とてもいいと思う。


図書館ってそもそも、自立した個人が自己教育の場として利用することを前提にしているっていうのが、改めて考えると面白いですよね。
一般的に言って、開かれた場でありながら、結構な「能力」を要求している。……とも受け取れるわけですから。
よく、生涯教育とはいいますが、「生涯教育としての図書館」と書いた所で何か明らかになるわけではありません。とはいえ、現実に様々な収入の人、様々な立場の人、年齢の人が訪れる場であるということは、ある地域の中に存在する図書館を見る時に、気に留めておいてもいいかもしれません。(この多様性は、ショッピングモールに関して言われることに少し似ています。もちろん、ショッピングモールの方が、図書館に比べて、地域をより「離陸」している傾向にあるとは思いますが)
卒論はジョン・デューイで書くのですが、彼が想定している市民もこういう市民だし、『学校と社会』『経験と教育』などでは、教育が地域社会にあるものを利用することが主張されるのですが、まさに図書館なんかはその典型例ですよね。
もう少し本気で考えるのもいいかな、と思いました。


2013年9月12日木曜日

@showitch さんの批評へのコメント――短歌、やっぱり衰退するんじゃないでしょうか。ただし…

短歌は衰退しますか――ポストモダンに防人はいない

今回の話題はこちら↑です。


2012年活動報告に書かれてある通り、実は京大短歌に所属しています。
会報誌?の『京大短歌』19号に、「短歌は衰退しました――短歌構造の素描と三つの短歌小説」という評論を書きました。
(なお、短歌小説論のうち、森田季節『ウタカイ』の一部分はこちらに掲載されています。)


反論というほどのことはありませんし、(今は京大短歌に興味を持った知り合いに貸していて、自分の原稿が参照できないこともあって)自分より自分の評論を読み込んでくれているのではないかと思います。
ありがたいお話です。

「ライトノベルが価値があることを前提としている時点で議論が弱い」というような、別の方の感想をお見かけしたので、そのような勘違いよりは辛辣さの方が心地よいものです。
辛辣どころか、吉田さんは丁寧に過ぎるくらいで。
(どちらかというと、ハイカルチャーとサブカルチャー、「純文学」と「俗文学」のような二項対立に還元したがる人にこそ、そのような偏見を解いて頂きたく書いたというのが本心なのですが。
つまり、ラノベを列挙したのは、「どうせ、こんな文脈知らないでしょ?」という煽りであり、釣りです。
実を言うと、どちらかというとラノベはそれほど沢山よみません。漫画は読みますが)



あの評論の意図は最初と最後とにまとめてあるので、お持ちの方は最初と最後だけでもご確認ください。

さて。その上でいくつかコメントを。

※手元に自分の原稿がないこと、院試の一週間程度前であることなどを踏まえて、「だらだらしたコメント」であること、「疑問に対する的確な答え」にはなっていないことについて、ご寛恕願います。


コミュニティ論としての側面


理論選択については書いている時点から疑問でした。
ポストモダンが進行していることは論じる余地がないと思います(東浩紀「ポストモダン再考」的な意味で)。
ただ、短歌にデータベース消費があるかというと、これは怪しいと思います(東浩紀『動物化するポストモダン』の用語)。

個々のコンテンツや出来事が、諸々の要素に還元された上で集積されていることが前提ですし(そうした営みは、更に「情報技術」によって大幅に勢いづけられた、技術的に高度な集積=データベース)。
それに比べて、短歌は情報技術や時代の変遷を前にして、何か変化を遂げたかというと、良くも悪くも「相変わらず」なのではないでしょうか。


なので、かなり本文での私の話はあずまんの言っていることと違うはずです(うろ覚え)
そのままの応用ではないはず。

※あずまんの例の本については、このへんとか、このへんとか。これが一番いいかというと疑問ですが。


うまくいかないかもしれないのになぜ、あの評論を書いたかということからお話するべきかもしれません。
「クラスタ」という言葉を使っているように、あれはある種のコミュニティ論のつもりでした。
短歌という磁場に集まった人たち、その集まりそのものを、まるっと対象にしたかったのです。

きょうびのコミュニティ論は、管見では以下のような所に話が既に向かっていると思います。
「もう開いている・繋がっていることは自明なところまでいったので、開きつつどう閉じるか、閉じることで個性・固有性を維持するか、開きつつ閉じることでどう変化に対応するか」

それなのに短歌ってなんか変なところがあるなぁ。閉じる所に寄り過ぎなんじゃないの?という疑問。上の話で言えば、スタート地点にすら立っていないように思える。
反論されるならば、これが杞憂であるならば、結構な話なのです。

阿呆陀羅経でも構わないなら簡単に作れるし、読むことも日本人なら簡単。
けど、それだけでは何の楽しみもない。
向こうから手を伸ばしかけている、クラスタ外の人にちゃんと短歌好きが手を伸ばさないといけないんじゃないの。
科学で言えば、科学コミュニケーションとか、アウトリーチ活動とか、啓蒙活動とか……こういうものに当たる営みが決定的に乏しい!と書きはじめる前は、そういうイメージを持っていたかもしれません。

いや、言えば言うほど安っぽいんですけど。
もっと、砕けた言い方を許してもらえるならば、「駄サイクル」(石黒正数)に見えてしまうことがあるんです。
歌壇ってちょっと大きい部室じゃないの?
部室の真ん中で、「芸術の真正性がー」「社会がー」みたいな話をされても、ちょっとなーと思うんです。


理論選択/創作の諸前提という側面


本当は、解釈学とかの理論(こういうイメージ)で話がしたかったのですが、力不足で。なので、とりあえず次善の策として、あずまんの理論を借りたのです。

リンクをご覧になれば、解釈学のアプローチによって、えぐり取られる側面が伝わるかと思います。
いかに当たり前のことを、当たり前に解釈することが困難かということ。
私たちが、何を受け取る時に、恐ろしいほどの前提を「自明視」するまでもなく前提にしていること。
その前提の洗練された集積のことを、「伝統」と言ったり、「文化」と言ったりするのでしょうね。

この前提を、コモン・ノレッジと呼んでいたのだと思います。
暗黙の諸前提=コモン・ノレッジもっと意識的に言葉化・可視化する努力をしてもいいんじゃないか。それをしないことで、作られている部外者への壁に気付いてもいいんじゃないか。

みたいな話だと思います。

心の習慣にしろ、暗黙の前提にしろ、互いの付き合いや作風の変化を織り込み済みにした批評にしろ……あんまりそれが肥大化しすぎると……ちょっと大きい部活の「部室」、タコツボ、内輪……なんと言ってもいいのですが。


いや、うまく言えませんが、それでいいのかな、短歌は。

……と思うのです。
そりゃ伝統あるし、魅力もあるけど。
でも、魅力的な「部室」ってどうなんやって思うじゃないですか、やっぱり。


「情報」について


ページ数まで挙げて頂いて、丁寧に読んでいただいている中、記憶で返すのがほんとに心苦しい。笑
ごめんなさい>< 今、短歌に興味あると言ってる友達に貸してるので、『京大短歌』が手元にないのです。
書いている当時も結構焦って書いていたので、使用語彙に甘さはあるかもしれません。


情報という言葉はまさに仰るとおりです。
「描かれてある文字数」です。解釈学について紹介したエントリでいえば、「ももたろう」についての文字列=「ももたろう」の情報です。

第一稿では、シャノン-ウィーバーの名前と共に、図まであったような気がします。デリダの名前はもっと意識的に出していく予定でした。前者は、出すだけややこしいかと思ってカット。後者は、やや力不足で。ディスコミュニケーションを強調すれば足りるかということで、あの程度にとどめました。


ただ、「それ以前の情報へのコメント」として、連作が機能するかについては結構怪しいと思います。
「短歌にコンテクスト構築能力はない」と断言していたらしいのですが、意識的にやっているなら、レトリックであり、政治的な意図だと思います。
実際には「弱い」と言うべきでしょう。

例えば、馬場めぐみさんの短歌研究新人賞の、選考座談会を読めば、少なくとも審査員のような「短歌クラスタを率いている偉い人」は、コンテクストを作るものとして読んでいないと言えるんじゃないでしょうか。
他には、誰だったか、「風邪をひいて、街を歩いて、イライラしたりして、最後は治る」という一連の体調変化・気分の変化の中にいる青年のシーンを、時系列にスナップショットで撮ったような連作を作っていたのですが、その歌会で「コンテクスト」に気付いていた人は誰もいなかったように思います。

※です↑

つまり、不可能ではないにしろ、結構現実的に無理なんじゃないかとは思います。そういう風に読むという「身体」を、短歌クラスタは持っていない。
すみません、今はこの2つくらいしか、いい例が浮かびません。


本文では『回転ドアは、順番に』をどう扱っていたか思い出せませんが(あれも連作みたいなものでした。詩もありましたが。大まかには章ごとに完結し、全体としてもストーリーになっている感じ。)、あれに収録されてる露骨なセックスの短歌が編集者には理解されていなかったそうですし。

普通の短歌人同士では下手に伝わり合ってきたこともあってか、部外者には絶望的に伝わらないことを自覚してもいいんじゃないかな、と。



んー。用語の混乱は結構あるような気がしてきました。
造語しちゃうくらいがよかったのかもしれませんね。



うろ覚えで書いていて、自分でも答えになっていないような気がしてきたのでここらにしときますw


短歌、やっぱり衰退するんじゃないでしょうか。
ただし、短歌クラスタが「流通」に注意を払うならば、その限りではないでしょうけど。

短歌って、消費のされ方、受け取られ方を含めて、想像以上に「通じてない」「伝わってない」んですよね。
枡野浩一さんとかはわかりやすすぎるくらいわかりやすい歌も多いし、ドラえもん短歌(でしたっけ)も「共通体験」を意識的に使っているわけですし。
そりゃ「文学」が好きな人としては、枡野浩一をくさすのが「かっこいい」とか思ってるのかもしれませんが、そんなのクソッタレだと私は思っています。
ドラえもん短歌、いいじゃないですか。枡野浩一、最高じゃないですか。

気に入らないなら、お前がやれ。
――と、批判を聞く度に思います。



おらああ! 俺がちゃんと布教やってるよ!!
アウトリーチやってるよ、既に私がっ!!!

……というお兄さん、お姉さんが沢山いることを願っています。




以下、9月14日追記。「長めの蛇足」
理論的な問題点を抱えている点、意図は多くの人に汲んでもらったという点を見ても、もはやこれ以上自分からこの評論について語ることはないだろうと思います。
本来私はただの引きこもりだし、最近バイトや院試対策、身内の不幸で全然歌会行けてないんですよね。だから、本当は様々な意味で、別の人の仕事だったのだと思います。


勝手に埋め込んじゃいますが、その点、下に挙げる発言には同意なんですよね。そういう方向を選ぶことには同意できる。
それは、おおまかに認識を共有できているからです。大まかな現状認識は一緒だけど、問題を見出すところが違うというだけで。少なくとも、私の思う「問題」の解決には一切貢献しないし、疑問点はあるけど。(でも、この点も「逆もまた然り」、です。)

周回遅れのポストモダン(プレモダンである日本が周回遅れで先進的になる)という昔ながらの議論の構造を、宇野は焼きなおしているわけですが、それを個々の島宇宙=クラスタで主張しているのかなと思います。この種の議論のバリアントでしょう。

とはいえ、それも「開くことが自明になった上かな」というのが本心でして。

だから、そういう風には思うけど、 ほんとの所。

まさかあ
「馬人が悪い」が「猿人が悪い」にかわってるだけよ
何にも違わないわ 
そうかなあ 
そんなもの
なんにも違わないのよ
なーんにも

同じ生活形式ならば、時には、主張の違いなど些細な問題なのかもしれません。短歌のことが好きなら、なおさら。

2013年8月19日月曜日

『ワールドゲイズ クリップス』と『3月のライオン』―風車みたいな空転、スミスという軽さ

五十嵐藍さんの 『ワールドゲイズ クリップス』を買った。
お金ないくせに買った。でも、2冊にしておいた。レシートはすぐにどこかへやった。

最近、色んな人に「読んでるよ」「楽しみにしてる」という声を、(お世辞でしょうが)頂くので、ずっと気になっていたこの記事を書き直すことにしました。
元エントリは11年の11月頃だったかな。



五十嵐藍さんというと、『鬼灯さん家のアネキ』は有名かな、と思います

『鬼灯さん家のアネキ』は、一見軽薄なストーリーだけれど、展開が本当にうまい。
にくい、と言うべきか。
五十嵐さんの目を見張る実力もあって、ただ単なる「チャラい」漫画じゃなくなった。(他にいい言葉浮かばない)
設定だけ聴けば、最初はワンアイデアの、「なんでもない」「普通の」「面白い」漫画でしかないのに。

人気が出たから続刊して、あのような展開になったのでしょうが、五十嵐藍に脱帽です。
……あ、ちょっと褒め過ぎたかもしれません。
ハードルあげちゃうと、楽しめるものも楽しめなくなっちゃいますから。


『ワールドゲイズ クリップス』の視線、の回避


画像を見てすぐに誰しも感じることだと思いますが、何を差し置いても、表紙がズルい。
こんな目で、こんな表情をされたら、もう買うしかないですよねー


並べての本のように、キャラがこちらを向いているのでなく、身体は半ばこちらを向いているのに、目と顔は斜を向いていることが、かなり示唆的。
本編読了後には、「やっぱこの表紙じゃないとなぁ」という納得感すら得られることは請け合いです。


ラノベや漫画の表紙を改めて眺めてみてほしいのですが、ほとんどのものがキャラクターは「こちら」を向いていることかと思います。
アニメの「版権絵」も大抵そうですよね。あと、実は雑誌のグラビアも大抵「こっち」を向いています。

表紙のキャラクターや人物が、なぜ読者や手に取る人の方を向いているかというと、「手にとってほしい」からですよね、多分。
《似たような》本はたくさんあるし、《魅力的》で、《お金を出してまで読む価値のある》本なんて五万とある。
その中で、それでもあくまでも、この本を「手にとってほしい」からキャラクターや人物は、読者の方に視線を送っている。



しかし待て。

――――この本のキャラクターは、「こちら」を向いていないじゃないか。



なぜかということは語りません。
ワンコインかそこらなので、騙されてみてください。いいから読んでください。
そりゃ、合わない人もいるでしょうとも。
ただ合う人には、決して一生手放さない本になるでしょうけど。



追記。
この発想はお友達の、なぞべーむさんに負っています。NETOKARUでの寄稿が見つかったので貼っておきますね。
彼女たちの視線と、僕たちの視線――コンテクチュアズ「genron etc. #1」に寄せて


風車という軽さ



『鬼灯さん家のアネキ』を描いた人だけあって、何でもないストーリーが軽くて重い。(けれど、やはり軽い)

一言で表現すれば、風車みたいな話だと思った。



見ていて決して軽くないはずなのに、するりと読者を通り抜けていく。心で重いものがカラカラと空転する。重く見えるだけで、とても薄くて軽い。危うさすら感じるくらい、軽い。
そういう空転、そういう感じ。

登場人物、みんな水彩画みたいに薄くて、言葉はしんと静かなくせに、とても軽い。体重なんて無いみたいにまわっていく。

主人公が「委員長」だというのがまたいい。
委員長に当てられるラベルといえば――真面目、勉強ができる、(真面目すぎて)空気を読まない、(あるいは真面目すぎて)地味、(地味で)存在感が薄い

色々あるとは思いますが。


スミスという軽さ


『3月のライオン』3巻には、最愛のキャラであるスミスが主役のシーンがあります。
(将棋の盤面についてはこちらを)

彼の使う戦法も「風車」と呼ばれるものです。
その3巻の中にはこんな一節があります。

これがスミス(棋士)。軽い男?


後藤の型は 居飛車 穴熊
対する俺は 風車
後藤が「重く」「堅い」とすれば
オレは「軽く」「広く」が持ち味だ
(Chapter26 「黒い河」その② ※俺とオレの部分は原文ママ)



戦術面でも、生活面でも、迷っていたスミスは、敗北した対局の後で(そもそも、彼は「挑戦者」としてどれだけ落ち着いて相対するかということに腐心していた)、対戦者である後藤にこう言われます。



軽いな

――だが まだちょっと重い―― 
☗2六角とのぞいた後 ☖5二金と守ったな
☖6三金と上がった方が良かったな
あれで「重さ」が出てしまった 
……… 
身軽さが信条なのだろう
――ならば 
迷うな 
(同上)

感想戦で、「分厚い」壁である後藤に、スミスは後押しすらされてしまいます。
対戦者にそう言われた直後、スミスは対局からの帰り道で、「為す術なく完敗したあげく 憑き物まで落とされて フルコースかよ…」と、事も無げに認めてしまう。

相手の「強さ」だけでなく、自分の信念の「薄さ」も、後藤という男の「分厚さ」も認めてしまう。

スミスは、軽い。
風車のように軽い。

棋士にとって、将棋は、それによって口を糊するものでもあるのでしょう。
漫画家にとって、漫画が、生活を支える手段でもあるのと同じように。

それなのに、スミスは軽い。
帰り道、半ばテンションのままにやけっぱちで、「お姉ちゃんたちのいる店で飲んだくれる」か、「家に帰って布団をかぶってワンワン泣く」か、どっちにしてやろうか!と悩みながらも、ふと捨て猫を見つけてしまったスミスは、事も無げに、その子猫を連れて帰ってしまう。


スミスは軽い。
スミスを取り巻く生活そのものが、空転するようにまわり、たくさんのものを広く巻き込んでいく。

淡々と、「非行」に走る、『ワールドゲイズ クリップス』の委員長と同じで。
軽く、広く。

いや、委員長は学生だし、スミスのような「大人」よりは手の届く範囲は狭いけど。


からからと、淡々とまわっていく風車。
二人とも、「軽い」けれど、重くないけれど


――――無視できるわけがないのだ。彼らのように、「軽く」生きていない人間は。





……などと申しております。
ミルチでしたー

追記。そういえば、ドン・キホーテが挑むのは「風車(ふうしゃ)」でしたね。
羽海野チカさんが意識しているか否かとは全く無関係に、なかなか味わい深い気もします。


2013年8月3日土曜日

同人誌『カラフルパッチワーク』について(頒布・紹介など)

同人誌の内容について、歌人でお友達の馬場めぐみさんとお話した告知・宣伝Ustreamの録音がありますー!
Ustreamのアーカイブ方針変更で、データ消えちゃいました。



表紙絵「陽溜まりのようだ」byけーしん


同人誌について


タイトルは『カラフルパッチワーク』。
いつの間にか、自分を取り囲んでいる「どうにもならないもの」「どうしようもないこと」。
人間関係における、自分を縛るもの。
本書に収録された、文章そしてイラストは、こういったことをモチーフが共通していると思います。

参加者の馬場めぐみさんが書いた小説の言葉を借りれば、こういうことです。
言ってしまったことは取り返しがつかないし、してしまったことも取り返しがつかない。あたしは13歳にして既に取り返しのつかないことに取り囲まれて生きている。(「さよなら夕焼け」 より)

13歳だろうと、23歳だろうと、きっと63歳だろうと、私は何かに縛られている。

もちろん、それはネガティブな意味合いだけではなくて。私を規定する何かだろうし。「私の可能性」という言葉に対応させるなら、「私の不可能性」とでも言うべき何か。
私が逃れられない、私でしかないもの。
一言でいえば、「こじらせ」について書いた、生きにくい人のための同人誌です。

『カラフルパッチワーク』の紹介(目次・値段)


与太話が過ぎました。

表紙はけーしん @keisin さん。想像以上に魅力的なイラストがあがってきました。
ひいき目もあるでしょうが、けーしん絵で、最上位にいい絵じゃないでしょうか。
裏表紙は買ってのお楽しみ、です。


・坂上秋成、エッセイ
文芸批評家で小説家(13年4月に『惜日のアリス』を上梓されました)の坂上秋成 @ssakagami さんのエッセイ。
挿絵は結構時間をかけて相談をして、さんざし @xxsanzashixx さんに描いてもらいました。
「坂上さんのエッセイ読みたいなぁ。それも、普段聞かない話題で」

……この目論見は間違いなく達成されました。


・馬場めぐみ、エッセイ+小説
馬場めぐみ @onemomonga さんは、短歌研究新人賞を受賞された歌人です。
個人的に彼女の言葉に興味があって(馬場さんの興味に興味があるというより)、それにとても面白い方なので、ずっと注目していました。短歌以外にはなにをしたら、もっと面白い・より新しい馬場めぐみが見れるだろうか、と考えて、小説を書いてもらいました。

依頼をする前から、馬場さんの小説に付くイラストはおきつぐ @okitugu_ さんがいいなと確信していたので、そのように。「百合小説を書きます!」との意気込みをうかがっています。正直、3回目くらいでちょっと泣きました。


・ミルチ、小説
末席を汚しているだけなので、ごく簡単に。
現代が舞台の、ちょっと不思議な大学に関する小説です。

追記。『都市のイメージ、イメージの都市』という同人誌も作ってます。こっちは電子版売ってます。300円です。

2013年7月22日月曜日

ボカクリの京大寄贈に寄せて――アーカイブとランドスケープ

ボカロクリティークについて


ご存知の方はご存知かと思いますが、われらがVOCALO CRITIQUEが京都大学の図書館のひとつである、人環・総人図書館に所蔵されました。
編集長の中村屋曰く、「ボカロ界隈で一番あやしい同人誌」であるボカクリですが、ボカロ批評誌ボカロクリティークをご存知でない方はサイトをご覧ください。

・公式Twitterアカウント @Vocalo_critique
公式サイト(こちらから飛べるブログにて、目次がご覧になれます)

また、今回の大学図書館寄贈についてはTogetterにまとめましたので、こちらをご覧頂けると幸いです。
ボカロクリティークの成立事情や、経緯、方向性の思想などについてかいま見えるのは、このまとめです。一緒にどうぞ。

大体、個人的な意見にまみれているので、ご意見に関しては、ボカクリでなく私個人におなしゃす。
@mircea_morning


チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド――遺構(モノ)を残すこと


最初に、直接関係のない話を少しさせてください。
思想家・小説家の東浩紀さんが、フクシマ論などで有名な開沼博さんや、メディア・アクティヴィストの津田大介さんと組んで『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』という本を作りました。



チェルノブイリで、原発事故が起こったことそのものはみんな知っているわけですが、報道によってもたらされる情報は非常に限られたものでした。
チェルノブイリの人のその後の生活や、思いなどは、ほとんど報道されてはいない。日本のメディアが事前に撮りたいと思ったことを確認するような報道がメインだったと思います。
「大変なんだよ……」「ひどいだろ?」
その言葉の先をほとんど取材してこなかったように思います。

例えば、チェルノブイリ原発が主に送電設備として、未だに現役であり続けていることはどれだけの人が知っているでしょうか。
例えば、観光客(つまり一般の人)が訪れることのできる場所の放射線量は、「東京と同じくらい」だということを知っている人がどれほどいるでしょうか。
例えば、チェルノブイリ原発事故を起こしたウクライナが、まだまだ原子力発電を増やしていこうとしていることを知っているでしょうか。
例えば、チェルノブイリには未だに多くの人がいて、多くの人が訪れていること。作業員や作業員のための食堂で働く人がたくさんいて、ある意味では「死の町」のイメージを裏切る側面があることを知っているでしょうか。

そういう意味で、内部の声を、当事者の声を残すというのは重要だと思います。


個人的な本の感想を言うなら、原発事故から25年経った今、チェルノブイリで様々な活動をしている人にインタビューをしている所が、本書のハイライトかな、と。ここが一番、教えられるところが大きかったです。
複数のインタビュイーが言っていたのは、「震災遺構は、意識的に、早くから残そうとしなければ、維持できなくなっていく」という点でした。
25年経った今、寄付を受けても今となっては「そのままの形」を維持できないということでした。

震災遺構については、この辺りを参照のこと。
「震災遺構に対する宮城県の基本的な考え方について」
「特集:話そう、震災遺構」(朝日Digital)
→当該書籍の、津田さんの論考がまさにこのテーマを扱っているので是非。

追記:観光学者の井出明さんとお話した時の話題を思い出したので。
その当時に価値がないと思われていることが、大変な重要性を持つことはままある。沢山あるからと誰も残そうとしなかったり、ありふれているからと捨て置いている間に、どこにもなくなってしまったり。
その時の具体例は、鳥取県の歴史を記念するハコを作った時、「農業の歴史を飾るためのもの」がなくて困った、というものでした。県内ではどれだけ探しても見つからず、北海道に移住した元県民が、(自分の祖父母たちのルーツだからと)大切に保管していたものを、県が譲り受けた……みたいな経緯だったと思います。

震災遺構の「価値」「意義」「大切さ」は、今、そこにいる人だけではかるものなのでしょうか。
今、そこにいる人の気持ちも変わっていくのではないでしょうか。津田さんの記事でも述べられていますが、震災が落ち着いた時、残そうという方向に意見を変える人が数として増えるというのは、頭に留めておいていいのかもしれません。神戸でもそんなことあった気がします。


人と防災未来センター――情報(声)を残すこと


これと合わせて考えたいのは、阪神淡路大震災後に建てられた施設である、人と防災未来センターです。

人と防災未来センター(公式サイト)

震災や災害が起こると、たいてい「ハコ」が作られるわけですが、この施設はちょっと毛色が違うようです。
住民の「ちゃんと、これを教訓にして活かしてほしい」という声が多数あり、それを受けて近隣の大学の専門家が、多数の人の声を集め、資料を収集し、作り上げられた……という経緯がある。
つまり、有り体に言って、下からの声ありきで作られたものであって、とりあえずハコを作って、さて何を展示しようか……というタイプの倒錯ではないということです。

展示内容も結構凝っている。役場の人、消防士、住民…様々な立場の人に話を聞いている。(住民も場所によって全然被害程度も、被害内容が違う)

チェルノブイリでは、物の話をしたわけですが、「声」も、その時・その瞬間に残さなければ失われてしまう。
人は悲惨な、辛い記憶を「全くそのまま純粋に」抱えておくことはできない。時間によって、曖昧になったり、反復して思い出す中で悲惨な部分が過剰に拡大されたり、逆に美化されてしまったり……。
その時見えているものと、来年、あるいは10年、25年後に見えているものは決して同じものではない。10年前の自分と今の自分が全く同じ人などいないように、思いや記憶も(維持される点もある一方で)変わっていく。変わってしまう。

その当時の人間のランドスケープは保存しておかなければ、後の人間にはわからない。
加えて、資料や情報を蓄えていることで、人と防災未来センターが研究や専門家の交流拠点にもなっていたりもします。



アーカイブ化すること――例えば鎌倉仏教に対する反応


なにやら真面目な話をしてしまいました。
兵庫県民的には、思わず考えてしまうことなんですよね。

「当時の人間の見ている世界は、その当時の人間にしかわからない」ということの事例はたくさんあります。
例えば、鎌倉仏教。
日本史の教科書で教えられる限りの印象だと、鎌倉時代ぽこぽこ出てきたこれらの宗教は、一気に広がって、それ以前の仏教教派(南都六宗平安仏教)は退潮していったかのように感じる人もいるかと思います。


日本思想が専門の佐藤弘夫の言葉を借りればこうです。

学会において、戦後長きにわたって中世思想史の中心対象となってきたのが鎌倉仏教だった。鎌倉仏教を論じることがとりもなおさず中世仏教・中世思想を論じることである、という認識が共有されてきた。 (『日本思想史講座〈1〉古代』より)

しかし、黒田俊雄の「顕密体制論」によって、この種の誤解は日本の歴史学の中ではなくなったと言っていいはずです。
まぁ、小中高の教科書ではそうでないのでしょうけど。
黒田俊雄その人は、専門外の人にも結構有名で、『王法と仏法――中世史の構図』松岡正剛の例のアレにもありますね。
「顕密体制論」も、そのサイトを見ればざっくりわかります。「ざっくり」ですが。


仏教界全体としては「新しく出てきたセクトのひとつ」という受け取り方だったり、批判的な意見もあったりと……そんな様子だったようです。
実際、真言宗や天台宗の寺社には、その当時の鎌倉仏教に対する言説がちゃんと残っているそうです。
(議論されたことや、説法の内容などを、記録する専門の役職もあるのだとか)
こういうことも当時の記録が残っていたから、確認できることですよね。


VOCALOIDをアーカイブ化すること



今まではちょっと繊細な話題を抱えていたので、あんまり気にし過ぎないでください。
ご存知の方もいるでしょうが、ボカクリは国会図書館に納本されています。
国会図書館のサーチ画面

今、文化の当事者である自分達にしか見えないランドスケープがあると信じているからです。
将来的にVOCALOIDがどういう存在になっているのだとしても、その時代の感性で、その時代の言説を残すというのは意義があるだろうと考えています。

大学図書館に所蔵するというのも、そういう意識の一環なんですよね、実は。
文化は残すことによって育っていくし、残すこと抜きには育たない。
あるいは、ある「終わってしまった」文化であっても、そのことを思い出したり、確認したり、他の文化と比較する時、痕跡がどれだけ残されているかということは重要なことじゃないのかな、と思います。


本職がミク廃で、片手間にSF作家をしている尻Pこと野尻抱介さんの小説で、『南極点のピアピア動画』というのがあります。
これがまたよくできた小説なんですよ。



「歌う潜水艦とピアピア動画」(p157)では、こんな一節があります。

「『(潜水艦の)なつしおを神戸のドックに入れて、元町に乗り出した。そのときだなぁ、スナックに「めると」が流れて』
『ああ、名曲ですなあ』
『言ってみりゃティーンズの痛い歌なわけですよ。だがそれがいい。(中略)西里さんは?』
『私はね、(中略)「おしえて☆ますたぁ」ね。リップシンクロのアニメがついてるんで度肝を抜かれましたね』
(中略)
産総研の後藤は話についていけるらしく、時々合いの手を入れている。大賀艦長は如才なく笑顔を向けているが、話に入ろうとはしなかった」
野尻抱介『南極点のピアピア動画』p156,157より

これは随分未来に、こんな風に懐かしめたら、いいなと思います。
残すことで、文化が育っていけば。
残すことで、未来の人が過去を確認する手段になれば。
残すことで、ボーカロイドに色んな人の、色んな視点が触発されて生まれていくきっかけになれば。

とまぁ、私見にまみれていますが、なんか書いてみました。どうでもいいですね、すみませんw

vol.5では、「60年後のボーカロイドを夢みて」という論考を書いたのですが、60年後に草創期のボーカロイドを、笑顔で思い出せたらいいなと思います。


注記①
奈良県立大学や日本大学にも所蔵されています。
注記②
『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』ですが、尻Pも絶賛してましたね。思わず話繋がってしまった。
注記③
開沼博さんが京都のイベントスペース・GACCOHでイベントをします。7月27日18:30から。
詳細はこちら

2013年7月9日火曜日

ニコニコ学会βとその周辺――『進化するアカデミア』と『これが応用哲学だ』

2012年のニコニコ超会議には参加して、ニコニコ学会にも張り付いていました。
そして、かつてニコニコ学会で、宣伝されたことのあるボカロ総合誌(批評誌)の『VOCALO CRITIQUE』のスタッフでもあります(クリプトンの伊藤社長の寄稿もあったり、いくつかの大学図書館に所蔵されてたり…。とらのあなで通販してますよ!)

知り合いも関わっているし、うちの大学の教授もいるので、かなり熱心なニコニコ学会ウォッチャーだと思います。我ながら。

そんなニコニコ学会のことが綴られた『進化するアカデミア』(seroriさんの表紙絵がまたいいんだ、これ)のKindle版が発売されたので、Amazonに掲載したレビューをちょっと修正しつつ書こうかなと思います。


扱うのは、ニコニコ学会βと応用哲学会。
テーマは、研究、面白さ、思想、やってみせること。




・ニコニコ学会βができるまで


一言で本書を表現すれば、「ニコニコ学会β」ができるまで。

ドキュメンタリー的にニコニコ学会βという名称や、コンセプト、ニコニコ学会βの特徴的な発表である「研究100連発」や「研究してみたマッドネス」が生まれるまでについて語っている所がハイライトかな、と思います。
想像以上に、〈思想〉の詰まっている「学会」なのだと感じました。ニコニコ学会βは、コミュニティ論的にもなんだかちょっと面白いというのが持論なのですが、それを確認させるような内容でした。

(〈思想〉の感じは、「ニコニコ学会βとは」を見るだけでも片鱗は感じられると思います。)

もともとニコニコ学会βをちょっとでも見たことがある人じゃないとピンとこない話かなと思います。

ニコニコ生放送で、タイムシフトがまだ残っていて見れるはずなので、未見の人はまずはそちらへ。あるいはニコニコ学会βを研究してみた (#NNG)という本に当たるのもいいかもしれません。他に似た雰囲気を掴めるものとしては、情報処理2012年05月号別刷「《特集》CGMの現在と未来: 初音ミク,ニコニコ動画,ピアプロの切り拓いた世界」とかでしょうか。



個人的に面白いなと思ったのは、「研究してみた」タグを奨励すること、「研究」の意味を書き換えることでした。
初音ミク、Illustrator、pixiv諸々の技術やインターフェイス、プラットフォームが「表現する」ことの意味を書き換えたように、「研究」の意味も、情報技術など諸々の環境変化にともなって更新されて然るべきなのかもしれません。

しかしながら、どれほど「敷居が下がっている」かは疑問符を付けるべきかもしれません。例えば、「研究してみた」タグが付いた動画は現在13件(2013年6月5日)のみです。

「タグが付いているからいいというものではない。付いていないものも我々は研究と見なすのだ」と言うのならそれもいいでしょうが、それは「手前」の中で勝手に「研究」の意味が更新されているだけです。学会βとして社会と技術、社会と研究との両輪を重視していくのだと謳っている以上、これからそこをどう埋め合わせていくかは注目していきたいところです。

「研究100連発」にしろ、ファラデーのロウソクの科学 (角川文庫)みたいに、上から下ろしてくる方向性がメインだった(少なくともそっちの存在感が大きかった)からというのもあるのでしょうが。ニコニコ超会議では、ポスターセッションなどの試みもありましたし、野生の研究者という呼称を生み出して、潜在的「研究」をすくい出す試みもあるにはあります。個人的にはこっちももっともっと力を入れてほしいなと思います。


付記:

タグと言えば、岡田斗司夫と東浩紀が対談した時(2013年)、「語ってみた」というタグは面白いかもしれないという話をしていたのを思い出しました。

現在は一人だけ登録してありますね。ニコ生じゃなくて語ったことがアーカイブされることが重要なんですかね。顔出しは基本)
それと、ある程度ですが、美術手帖の初音ミク特集と出てる人かぶってますね。ある程度。



・他の学会の話――応用哲学会


世の中には、「応用哲学会」というのが存在します。
立ち上げには戸田山和久さんや、出口康夫さん、美濃正さんなどが関わっている、かなり若い学会です。
この立ち上げや学会の「位置」については、話せば実は、長い文脈がその背景にあるのですが割愛するとして……。

悪しき意味で専門化(=タコツボ化)し、そして相互のコミュニケーションすらままならず、更に「自分で考えることすら忘れてしまった」哲学。
もっとしなやかで、「自分の頭で考える」(eingedenken…だったかな)哲学を披露し、議論する場、もっと開かれて、活気ある哲学の場<も>あっていいんじゃないか。
……かなり強引な要約ですが、そういう立場に立っている学会だと思います。


一つに議論の闊達さに関して既存の学会に息苦しさを感じていること。
一つに若手の研究者の表現・発表の場を確保すること。
一つに分野横断的な知的なネットワーク、忌憚ない議論の場を準備すること。


この辺りが目的なのではないかな、と思っています。
ニコニコ学会βは、「期限付き」の5年で解消してしまう学会であることと、なぜニコニコ学会βはそうすることを選んだのかということを思い出せば、このような目的は、頷けるものであるなぁと思ったりします。


応用哲学会の最初の会では、茂木健一郎が真面目な発表をしたりしてます(これは以下に示される『これが応用哲学だ』に収録されている)。
エンジニアや都市工学系の人も参加していれば、認知心理学者や社会学者、企業出身の研究者も参加しているそうです。



自分の教わっている先生も関わっている学会で、しかも、ちょっとした知り合いが『これが応用哲学だ』の出版社にいるので、ばっちりこの本も読んでます。
個人的におすすめなのが、Kindle版も安いことですし、『これが応用哲学だ』です。

この本に現れている問題でいくつか興味深いことがあります。
・なぜ哲学でなければいけないか
・結局哲学は何の役に立つのか
・哲学は何を社会に示すことができるか
この辺の疑問に、どの文章も向き合っているからです。ちなみに3.11後なので、その意味でも興味深い。ニコ生思想地図で、國分功一郎と東浩紀が、哲学について言っていたことと『これが応用哲学だ』で示されているいくつかの回答は、結構似ているんですよね。

つまり――現に哲学をやってみせることによって示していくしかない、ということ。

この点は共通していました。もちろん、方法はそれだけじゃないんでしょうが。

震災後哲学に何ができるか。『これが応用哲学だ』の座談会には、出口康夫、戸田山和久はもちろん、鷲田清一から、野家啓一も参加していて、結構アツいんです。岩波書店が出している『思想』という学術誌がありますが、関東大震災後の『思想』を掘り返して、文章に目を通している話などは、傾聴に値すると思います。
物理学者の長岡半太郎や、寺田寅彦(「天災は忘れた頃にやってくる」)、京都学派の人々の文章もあって、結構言っていることは、2011年と似ている印象がありました。もちろん、あの時と違って、原発のことがあるので色々場合は違いますが、歴史を参照することは、未来を考える上で参考になると思います。
(ちなみに、この座談会では、『一般意志2.0』も話題になっていて、結構的確な批評がなされています。)



応用哲学会も、文脈を踏まえると(今回はその説明をしていないわけですが)、かなり「思想」と「理想」の詰まった「学会」です。
ニコニコ学会βもそう。
しかし、両者には色々違いがあります。決定的な違いも多くある(例えば、学会費がニコニコ学会βにはありませんね)。とはいえ、かなり似ているところもある。

「何か面白いことがしたいということ」
「分野を超えて、学際的な議論がしたいということ」
「他分野に、知的な野次馬根性を持っていること」
「官民学、そんな違いなんて本質的なものじゃないということ」
「既存の学会もいい。でも、その他にオルタナティブな可能性を示す学会もあっていいんじゃないかということ」
「自分たちのやっていることが本当に面白いし、それが社会に還元できると信じていること」
「人の面白がっていることに触れるのは、自分の面白さでもあること」

例えばこのような点でしょうか。
応用哲学会は、特に『応用哲学を学ぶ人のために』を読めばわかると思いますが、「誰にどのように読んでもらいたいのかわからない」所がある。
開こうとしすぎて、求心力がないというか、単なる雑多なものの並列になっていないか?という疑問はあってしかるべきだと思います。個々の論考は面白かったりするのですが、統一的な視点を欠くのです。
これからの応用哲学会がどうなっていくのか、注目したいところです。教授自身も、その問題点をどう克服するかについて悩んでいらっしゃったので(とはいえ、変化を恐れない人なので、きっと変わっていけるでしょうが)。

もちろん、その雑多さは、ニコニコ学会βに例えるなら、何か生まれてきそうな「野生感」の反映でもあるし、ここの分野が交わっていくための準備として、「私の分野は、こう『やってみせる』よ。君はどうだ?」という問いかけであると解釈することもできるかもしれません。
好意的すぎるでしょうか。
けどやっぱ、面白がって何かやっている人は輝いているし、実際彼らはとても楽しそうに見えます。それは重要なことじゃないのかな、研究について。

2013年5月27日月曜日

新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』――誘拐願望としての青春、の過呼吸


新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』
いくつもの角度から切ることのできるSF青春小説だった。
2005年に出た作品を、私は2008年に手に取った。買ってすぐに読み終える。
その時は無意味に思えた衒学に幻惑しながら、目の前に広がるブッシュをかき分けるように読んだ。

今日、二度目の再読を終えた。
もう、「青春」なんて語るような歳でもないし、それを味わえるくらいフレッシュでもスイートでもない(´・ω・`) どっちかというと、お金(食費とか家賃とか、そういう生活費に社会保障にどれだけお金をかけるかとか)にばかり行くようになってしまった。

青春なんて人それぞれだろうけど、この本を読んで得た経験としては、「青春は、ここではないどこかに憧れ続けること」なのかもしれないということだった。
楽しかろうとなんだろうと、今生きている場所(いま、ここ)が、とても退屈で窮屈で、精彩を欠くものに思えること。
中学二年で中二病っていうのは、案外妥当なものなのかもしれない。自分の中の、誇大妄想癖(メガロマニア)が肥大化するのは、自分の過ごしている町の閉塞を感じていればこそだろうから。
この本に頻出するパターンを真似すれば、こんな風に言えるかもしれない。
教訓その一、青春はいつか終わってしまうもので、終わるからこそ、未来で「あの時ゃよかった」と笑える。
教訓その二、いつまでも青春を追いかけてるやつはきっとろくなやつじゃない。

「どこでもいい、ここでなければ(Anywhre but here)」
なんども出てくるこの言葉は、ライトノベルの雰囲気にも呼応している。
多くの人が抱えている気持ちとしての「誘拐願望」。バリエーションは色々ある。

王子様に迎えに来てもらう。(少女漫画によくある)
さらわれるようにして仲間になる。(エウレカセブンとか)
現実やその場所からの逃避を手助けしてくれる。(俺妹とか)
……そして、この退屈な日常から、この窮屈な町から飛び出していく。私を閉じ込めてしまう、時間と空間から逃げ出していく。


お金もない。知識もない。子供であるというだけで、行動が制限される。
10代というのは、感情だけが肥大化していくのに、自分の抱えている「退屈」を魅力的に変える力を持たない年頃のことなのかもしれない。
時間が経ってから、「案外、あの時って楽しかったんだな」「あの頃に戻りたい」だなんて言い始める。「退屈だー」とか「絶対、この町から出たい」って言い合う会話それ自体が楽しいということに気付けるほど、経験も追いついていないのが10代なんだろうな。
変化を怖がるくせに、変化を求めるような矛盾。きっと、それが青春なんだろう、みたいな気付きなう。

時空間跳躍能力を身に付けたある少女は、他の仲間を置いて、「いま」からも、「ここ」からも脱出してしまう。
その時、残された仲間達は気付くことになる。
「自分は自分でしかないし、『いま』からも、『ここ』からも逃げられない」

IQだけ高いという意味で、自分には何かあると思っている仲間達。その中で、唯一なにもなかった少女。ある夏、能力に目覚めた彼女だけが、「いま」「ここ」を自由に離れてみせる(時空間トラベル)。
自分にとって不可能なことを平気でやってのける少女を前に、昔は、この子の手を取って登校したことを少年は思い出す。

嫉妬やあこがれとも、不安とも後悔ともつかない感覚を前に、彼ができることは、以下の二択だった。
・彼女にタイムトラベルさせたりしないで、縛り付けること
・彼女のトラベルとは無関係に、自分の足で、「いま・ここ」と付き合いながら、この町を去っていくこと

どういう小説かを、無理に一言で表すなら、変わっていくことの「不安」に言葉(解釈)を与え続け、最後は「不安」よりも「吐き気」(痛みとも言う)の方がいいと思う――という青春小説。
主人公達は、IQだけ高くて、賢いのに、(幸せにはなれないという意味で)あまり頭は良くなかった。少女だけが、他のみんなを置いて、先に変わっていってしまう。
彼女の変化を中心にして、仲間も変わっていく。


この物語はある意味で、ハルキの新作『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』にも似ている。
失われてしまった時間と、失われてしまった関係。
親密だった関係も、維持するのは難しい。人は常に変わるから。
手違いと後悔のせいで、セックスしかけることもあれば、大事な所でくだらない嘘をついて、自分自身を傷つけてしまうこともある。
なにより、形の変わったパズルのピースを、かつてのような絵にしようとして無理やり接合すれば、お互いダメになったりする。
あんなに仲が良かったはずなのに、お互いのことをあんまり真剣に考えてなかったのかもしれない、とか。自分のことが一番わかっていなかったな、とか。
そういう思いばかりが渦巻く。
人間は変化するものだし、変化したくなくても環境は変化していく。自分達が変わっていくのだとしたら、寄り集まって作るパズルの絵の方も変わって然るべきなのだろうと思う。いつまでも、同じ絵を描こうとするから、息苦しさが生まれてしまう。


あ、なんかまとまらないww ちゃんと考えた上で、書かないといけないんだろうけど。感想としては、こんな感じ。
自分が好きなのは、ここじゃなくて、もっと細かい所だけど。
それを一言で表現するなら、2010年に出た『われら銀河をググるべきや―テキスト化される世界の読み方』(新城カズマ)との間を楽しめるのは、今だけの特権だな、ということです。
この『われら~』が、普通に「過去」になってしまえば、『サマー/タイム/トラベラー』も『われら~』も一切合切、ただの「過去の未来」でしかない。
ただの「あらかじめ失われた未来」。

「到来しつつある/到来した未来」(『われら~』)と「到来するかもしれなかった未来」(『サマー~』)との間を埋めるのは、今を生きる読者だけの楽しみだろうと思うのです。

事前に考えずに、書きつつ考えるとこんなもんです。いつもながら、まとまらなくてすみません><


まぁ至極の当たり前のことだけれど、自分の未来に行くのは、多分自分だけなんだろう。他の人の未来とどれだけ重ね合わせるかは、きっと別の話で。



______
情けなく追記。
どうしても言いたいことができた。
「よかった」悠有は微笑む。「タクトが素直になったこと、見れて」
下巻のp.289にこんな一節がある。
大したことないかもしれないけど、ちゃんと丁寧にこの物語を追ってきた人には、このフレーズがどれだけ心地いい、魔法みたいに響くかわかると思う。旅立ちの直前に、遠くから音だけ聴こえるOlreansのDande With Meみたいに。
恋人のようで、そうでなさそうで、やっぱり多分恋人っぽいけどよくわからない幼馴染を送り出す時、「前借りした未来」として手に入れた不思議な自転車と共に現れるのはちょっと心憎い。(それに、このストーリーでは、自転車が自分を書き換える「最適な」乗り物だった。)
苦い夏の日を、「いま」でも、「過去」でも「未来」でもなく、ただのファンタジー(フィクション?)として、追ってきた読者だけが、「とこ」でなく、「こと」であることの単純な美しさに頷くことを許されるのだと思ったりした。


2013年5月21日火曜日

音のない戦争世界――如月芳規『ハスク・エディン』


如月芳規(リンクはTwitterアカウント)さんの漫画。如月さんはサイトも持っているらしい→whitecrow

一迅社の謳い文句を引用するとこんなお話です。
古代城塞都市エルドラド。この街の中央にある聖なる塔と、塔を守る3つの壁。そこに何があるのか誰も知らないまま、世界政府はこれを守る為に軍を置く。第56部隊もそこに配備される一部隊だった…そしてまた今日も、事実を知らないテロリストを迎え撃つ。「#000000-ultra black-」の如月芳規が描く、少年少女の戦いの物語――。

あんまりいいレビューはなかったのですが(というか、落ちてる感想が少ない)、このサイト(鮮烈に咲いて散る少年少女の戦いの物語:如月芳規「ハスク・エディン」1巻)のものは面白かったです。あらすじとかも結構詳しく書いてくれています。

如月さんは、既にいくつか漫画を描いているようです。名前聞いたことなかったので、これが処女作かと思って、新たな新人作家の出現に戦慄していましたw まぁ、それにしてもいい描き手だなーと思います。
『水の旋律』『#000000~ultra black』の2シリーズなど、多数の単行本を出している。

リンクを貼ったサイトでは、『進撃の巨人』と比べられていましたが、どちらかというと、ああいう理不尽さではないと思います。
手の届く、ありそうな理不尽しかありません。
戦争で人は死にます。身近な人間は悲しみをかかえながら、亡き人を悼みます。人の死は淡々としている。

弾丸を人に向けて撃つから死んで、撃たれるから憎んで撃ち返し、あるいは意味もわからず無我夢中で撃って当たらずに撃たれて死んで。
カント大先生みたいに大上段の説教や、意識の高い道徳格率を提示されても、それでもきっと多くの人は、疑問を持ちながらも、悩みながらも銃を構えて、刃を交えて。
もしくは、漫然と殺人の道具を抱えて戦場に赴き、何もしないで死んでいったり。

ありそうですよね。理解できる死ですよね。なんの不思議もない死です。ちょっとくらいドラマティックかもしれないけど、戦場の最中ではありふれている平凡な死です。

理不尽というほどではない。
彼らは互いに互いを殺そうとしていて、ただ単に双方が被害者で加害者だ。
『進撃の巨人』とは違う。巨人のように一方的に駆逐する存在がいたり、徹頭徹尾憎悪の塊になれるほど、一方的な蹂躙があるわけでもない。



まぁ、そんなこんなです。
人が普通に死んで、その人が埋めていたポジションを、別の誰かがやってきて(補充されて)、埋めてしまう。
この交換可能性を、私達は(少なくとも私は)普通に理解できます。

時々やってくる敵襲。それとの戦闘で、軍人しかいない古代都市は破壊される。平時は訓練と、誰もいない町の補修。
崩しては、直す。誰かのためではない。「弾除けにもなるから」と言われて、命令のままに、兵士達は町を直す。それ以上でもそれ以下でもない。シーシュポスの神話みたいな何かですね。

本編通じて静かな空気のおかげで、理解できてしまう不運と理不尽の周りにある悲しさを、読者は過剰に語ることができません。
この「静かさ」は、この漫画に生活感がないことに起因するのだと思います。

食事の風景はあっても、食料の調達や確保、調理の光景は描かれない。日常はあっても、町中の平凡な人間は出てこない。
静かな世界。
音に囲まれて生きている自分の生活のことを、この世界の生活のことを、かえって思い出させる漫画でした。

人間は、世界に無数に存在する埋草でしかない。目的も意図も後回しで、きっと陰謀すらないのでしょう。
音に溢れている世界では、死者への嘆きや悼みも、喧騒のような言葉とともに発することができます。しかし、音のない戦争世界、生活のないハスク・エディンの風景の中では、死者に対する悲しみの声も、荒野を吹く風や、一発の銃声ほどのものでしかない。


んーw なんかうまく、紹介できないやw 面白い漫画です。
群像劇的に、話ごとに焦点を当てられる人物が次々と変わりながら、物語が進んでいく感じの話です。
いくつか画像貼るので、絵で気に入った人は、とりあえず買うってのはありです。

朝日の書評サイトでは、ササキバラ・ゴウさんのレビューがありました。読んでいて気付いたのは、「廃墟」ものでもあるんですよね、これ。
アマゾンレビューの感想も結構よかったので、下に引用してみます。


あとがきにもありましたが、各話主人公が変わる形式で進みます。とはいえ、ただ無為に戦死するのではなく、そうして物語は進んでるようですし、死んだ後もほかのキャラクターがその死んだキャラを思い返すシーンなどがあったり、連鎖して積み重ねながら、核心に少しずつ迫っていく感じが面白かったです。だからこそ、キャラクターに思い入れが生まれて辛いところではありますが。ただ、もう少し各話の主軸が誰なのか分かりやすくしてほしいなとは思いました。全編通しての主人公ぽい子と混乱するというか。こういった形式に描き慣れてないだけで、少しずつよくなっていくのかな。
表紙絵で戦争ものにしてはさっぱりしすぎな絵柄かな?と思っても、帯の文章や世界観に興味を惹かれる部分があれば手に取ってみる価値のある漫画なんじゃないかなと思います。本文はそれこそ戦争ものらしく線多めな、泥臭さがあるし。
物語は始まったばかり。次巻予告からすると、少年兵達の属する世界政府の黒い部分が描かれそう。肩透かしにならないことを祈りつつ、応援したいと思います。今から次巻が楽しみです。

2013年5月7日火曜日

同人誌「都市のイメージ イメージの都市」(印刷版)の誤植について。

「都市のイメージ イメージの都市」については、以下の記事をご覧ください。

第16回文フリin大阪〈都市のイメージ、イメージの都市〉F19
(文フリin大阪での頒布時。こちらで購入された方向けの記事です。)
(目次などはこちらで詳しく紹介しています。)
(最も都市論的ではない部分ですが、本文をほんの少し公開しています。)
(電子書籍版の購入はこちらでお願いします。)

電子書籍版を、印刷版(現物)を購入頂いている方には差し上げます。
購入者で、電子版(pdf形式)もほしいという方は、Twitterのリプライや当サイトのプロフィールページからメールを送ってください。


さて、要件に戻ります。
印刷版(大阪の文学フリマで頒布したもの)のp.13(『新世界より』の座談の最初の方)に脱文・誤植がありました。訂正して、以下に該当部分を公開します。
購入頂いた方には、本当に申し訳なく思っています。すみませんでした。コピー誌クオリティとはいえ、ぐぬぬ(´・ω・`)
電子書籍版では、修正されています。



次に示すのは印刷版のものです。ジョン・アーリの『観光のまなざし』を引用した直後、こう続いています。

と交流したり、お客さんを笑顔にしたり、問題を解決したりと、コミュニケーション生成される場になっている。ここでのゴンドラは、チャリ的な乗り物というより、「飲み会」「喫煙室」「ゴルフ」「ランチタイム」……そういうイメージ。不思議と、『新世界より』では、チャリくらいの意味合いしかなくて、コミュニケーションを生み出す場でもない。

t|船の上にかぎらず、『新世界より』では全般的にコミュニケーションがうまくいっていない感じがする。基本的に、あの集落の抱えている問題も、そういうコミュニケーション不全から来ている気がする。あの社会の人間にとって、「他者」の位置づけは、100%信頼できる存在/そうでない、監視=管理する恐怖すべき存在かの二択しかない。信頼と恐怖の間で、想像力を働かせて、そこから一歩踏み込む、それがコミュニケーションというものだと思うけど、そういうものが全般でできていない。
唐突に「と交流したり、」と述べられているので、気付いた方もいると思います。
いくつかの文章が抜けていました。「都市を訪ね、歩くにも、それなりの知識が必要だ、訓練や導き手がいるのだ」という趣旨の文章に続く部分です。具体的には、マーカーを引いている箇所が抜けていました。


t| 実は、夏季キャンプで一部だけ、自然観光地的なコミュニケーションをしてる。川に映る星々を見たり、川から眺められる木々や鳥の話をしたり。でも、あそこ以外にはない。 
m| なるほど、さりげない観光ww でも、チャリで町を通り過ぎる時の、「あ、あの店美味しそう」「あのラーメン屋は美味しくないって聞いた」っていう会話とそれほど違わないのかも。

1-② ゴンドラ・コミュニケーションと他者
m| さらに違う方向で、ヴェネツィアを推してみようかな。ARIAというアニメがある。ネオ・ヴェネツィアというヴェネツィアを模してテラフォーミングされた他の惑星が舞台の話。あれでは、現実のヴェネツィア的に、都市の見方を観光客に教える(つまり、ガイドする)「船頭」がいて、主人公の女の子はそれを目指している。『新世界より』やヴェネツィアと同じく水路が重要な交通手段でもあって、主人公は失敗しつつも、地域の人や仲間と交流したり、お客さんを笑顔にしたり、問題を解決したりと、コミュニケーションが生成される場になっている。ここでのゴンドラは、チャリ的な乗り物・移動手段というより、「飲み会」「喫煙室」「ゴルフ」「ランチタイム」……そういうコミュニケーションの場のイメージに近い。それなのに『新世界より』では、チャリくらいの意味合いしかなくて、コミュニケーションを生み出す場にもなっていない。 
t| 船の上に限らず、『新世界より』では全般的にコミュニケーションがうまくいってない感じがする。基本的に、あの集落の抱えている問題も、そういうコミュニケーション不全から来ている気がする。あの社会の人間にとって、「他者」の位置づけは、100%信頼出来る存在/そうではない、監視=管理する恐怖すべき存在かの二択しかない。信頼と恐怖の間で、想像力を働かせて、そこから一歩踏み込む、それがコミュニケーションというものだと思うけど、そういうものが全般でできていない。

訂正を出してしまったことを、重ねてお詫び致します。すみませんでした。

ちなみにですが、観光については、メモがてらこんなエントリも書きました。

同人誌「都市のイメージ イメージの都市」をよろしくお願いします。→「都市のイメージ イメージの都市」pdf版の購入

2013年5月3日金曜日

『観光のラビリンス』より「観光の郊外化」、ついでにヴェブレン

興味深い一節があったので、書きだす。



ラルース辞典では、「ツーリスト=好奇心と無為から旅行する人で、女性系はほとんど使われない」とし、リトレ辞典の定義を注解しながら、その本質を「無為に過ごすことであり、旅行の楽しみのためにしか、ないしは旅行したと自慢するためにしか旅に出ない旅行者。……飲んだものはもっと飲むだろうということわざがあるが、旅行したものはもっと旅行するだろう。純粋な旅行者は過ごしやすい季節になると、渡りの季節に鳥たちが抱くのと同じ不安を抱く。彼は発たねばならない。どこでもいいからとにかく行かねばならないのだ。燕が戻ってくるのと同じように旅行者がアルプスやピレネーの長い坂を上るのが見られる。毎年彼らの数は増加し、その結果、彼らはいつもの出会いの場所の様子を一変させてしまうにいたる。実際、旅行者の行くところどこでも宿屋が必要であったが、そこでは、多少なりともスコットランド風のもてなしが旅行者を待ちかまえているのであった。例えばスイスでは毎年増加し、だんだんと標高の高いところに建設される宿屋はついにはきわめて急な峰にまで建てられるようになった。宿屋はテーブルを置いて焼き串をまわすのだが、その場所というのは10年前に羚羊(シャモア)がまったく安全ななわばりだと信じていたところなのであった。言わを砕き、切り通しを作り、急流の上に張り出した言えを作り、どんな山腹にでも言えを貼り付けた。住民たちは全員ひとつのことしか頭になかった。旅行者に飲食を提供することである。」

自分が制作した同人誌「都市のイメージ、イメージの都市」(電子書籍版発売中!こちらをクリック!)の旅行記の前文で触れた、「観光地の郊外化」の現象は、このラルース辞典の記述を信じる限り、18世紀にも見出だせるらしい。

ただ、啓蒙主義的な「旅行」理解とか、単なる「旅」との区別は、ラルース辞典においても、どの程度なされているのかは不明。
引用はマルク・ボワイエの『観光のラビリンス』

その内、最近読んだ観光学関連書籍の中で、ためになったものはガイドブック的に紹介しようかな。読みたければ、コメントかリプライで、一声おかけください。


この『観光のラビリンス』は大変な労作で、読むのも骨が折れるくらい。訳者もそのことにすごく気を遣っていて、訳注が膨大すぎるくらいに膨大。
基本的には、旅行行為が、マスツーリズム化し、ポストモダン化していくのを、ソースタイン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』の肩を借りつつ説明している感じですね。
ヴェブレンたん
滴下効果(トリクルダウン・エフェクト)ってやつです(流行理論)。
ヴェブレンさんも、なかなか食わせ者で、面白いことを沢山言ってますよね。某柑橘さんなんかに、ファッションのこと聞いた時もヴェブレンの名前が出てきて驚きました。

訳者あとがきにも書かれていることですが、「普及学」みたいな領域があるようですね。ファッションでもそうであるように、観光でも同じように拡がり、多様化していくことが確認されます。

流行理論のヴェブレン以外での話で言えば、この論文、結構面白かったです。まだ読んでる途中ですけど。
ル・ボン、タルド、ジンメルにみる流行理論の系譜


ざっとメモがてら書いてみました。