2019年1月13日日曜日

岡本健『巡礼ビジネス』を読みまして。:都市と地方、終末世界、アーカイブ

(写真を見て)「違う時間の同じ場所…?でしょうか」
「たぶんね。ここに住み続けながら、記録を続けてたんだろう」

1.はじめに


 岡本健さんの『巡礼ビジネス』(角川新書 2018年)を読みました。
『フィルカル』という雑誌に、聖地巡礼論を書き、そのうちの一章を「岡本健論」とでもいうような文章に割いた者として、とても面白く読みました。

 この本、いかついタイトルをしていますが、岡本さんがこれまで書いてきた論文・書籍などの論点を総ざらいしたものだと言えます。
 具体的には、100-101頁は、「スマートフォンゲームの観光メディアコミュニケーション」(ポケモンGO論文)の冒頭の変奏だったりする……というように、これまでの研究が集約されるような本であり、語り口がやさしく、データは新しいという……買うしかないな。



2.どこが面白かったか


 「はじめに」と「序章」では、なぜ観光に注目するのか、そしてその中でもなぜ「(アニメ)聖地巡礼」なのかということが説明されると同時に、そもそも聖地巡礼とはどんなことなのかが具体例とともに語られています。

 これはとても重要で、単にAを紹介した上で、Aについて論じるだけでなく、「なぜAを扱うのか」ということを何らかの水準で示す必要があります。卒論・修論シーズンなので、それっぽいことを言ってみました。

 個人的に興味深かった箇所は二つあります。それが、第三章「観光資源を生む『創造性』」の景観論であり、第五章「観光『資産』化への道」のアーカイブ論です。
 いずれも、論点としては、岡本さんの研究や、聖地巡礼の先行研究を追っていれば、どこかで出会ったことのあるもののはずですが、書籍という一つの流れの中に置かれ、一定の分量で掘り下げられたとき、改めて興味深いものとして映りました。



3.観光における「外部のまなざし」:都市と地方と終末世界


 122頁に、「内部/外部のまなざし」と「日常/非日常的風景」という二項目×二項目の図が挙がっています。言葉遣いが少し抽象的なものの、ここで言われていることはとてもシンプルで、観光資源を「発見」できるのは往々にしてアウトサイダーである、ということです。(先回りして言えば、そうした発見が、地域住民へとフィードバックされていくし、観光者の側でも、地域の日常的な風景への関心が次第に惹起されていきます。)

 『巡礼ビジネス』内でも語られていた通り、その他の多くの観光と同様、聖地巡礼でも、開拓的にアニメやドラマなどの舞台を「発見」し、そこを訪れる観光者がいます。
 注意したいのは、「聖地巡礼のような仕方で、その土地をまなざす」ことは、土地の住民にとってはピンときにくいもののはずです。どうしてなんてことのない神社や駐車場や自動販売機が「魅力」を持つものと言えるのか、コンテンツを共有しない人にとっては意味がわからないからです。

 このことは、かつて「ニッポンのジレンマ」(Eテレ)の「都市と地方、みえない分断線」という回に出演したときにも、出演者の間で議論になりました。
 その土地に住む人にとって、通り過ぎる花や樹が、都会の人間にとっては、そのためだけにそこに行ってもいいというくらい魅力を持つものかもしれないわけです。
 他の地域ではなかなか見られない絶滅危惧種の観察会などは、「保護」を持続するために必要な公衆の関心を調達できるだけでなく、その地域への愛着に結びつくかもしれないのです(例えばこういうの)。
 地元の農家が親戚や知り合いにあげてしまう収穫物は、都会に暮らす人にとって、大枚はたいて買いたいものかもしれません。収穫の体験そのものも、魅力的にうつるかもしれません。

 ここで何が言いたいかというと、「観光のまなざし」は、大抵の場合、外から惹起されるものであり、観光地に成功しているのは、敏感な住民サイド(ホスト)が、そうした視線のよいところを汲み取って、その資源へのアクセスを高めたり、環境を整備したり、ほかの観光資源との接続を考えたりしている、ということです。
 そのようにして、人が集まることが、そうして関心を持ってもらえているという実感が、翻って、住民に、通り過ぎていた日常の風景の魅力を再発見させるものでしょう。

 もちろん、こうした魅力発見のプロセスがオリエンタリズムにならないよう、都市の論理と地方の論理をうまく橋渡しする人物がいなければならないでしょう。観光学者としては、そうしたコンサルティングもできたらいいなと思っています。

 余談ですが、終末世界ものがすべて「観光もの」でもあるのは、すべての人が、住民としての視線を失うからです。『巡礼ビジネス』の言葉でいいかえるなら、終末世界の人びとは、必然的に「内部のまなざし」を失ってしまう、ということです。誰もそこに住んでいる住民ではありえません。少なくとも、かつてのような日常を営むことはできない、という意味では。
 冒頭には『旅とごはんと終末世界』という最近出たマンガの台詞を掲げました。これは、今はもう死んでしまっている人が、かつて生きていたとき撮り貯めていた写真に気づいた直後のシーンです。
 終末世界にとって、日常は失われたもの、手の届かないものです。であれば、写真を撮り続けた人は、そして、その撮り続けられた写真に目を留めたマンガの人物たちは、失われた日常を、「非日常」として受け取らざるをえない、というわけです。



4.私たちは何を残すのか、どう残すのか:アーカイブの問題


 私たちは、アニメ聖地巡礼における「アーカイブ」についてそれほど関心を払っていません。
 そこそこ昔のアニメもオンデマンドとかネットフリックスとかで観られるし、マンガは割と書店やAmazonで買えるし、何をアーカイブするのかピンときていないのだと思います。
 とはいえ、保管は重要な問題です。『巡礼ビジネス』のなかでは、資料保存するスペースや管理者などの問題から、アニメ会社が原画を保管し続けられないという事例が紹介されていますが、マンガなどでも、出版社側が原画を十分管理してこなかったため、名作の原画が失われたり、勝手にオークションなどで転売されたり……といった悲しむべき事態も起こっています。
 そこで、京都精華大学がやっている「マンガミュージアム」、立命館大学ゲーム研究センターのゲームアーカイブスのような試みが重要となってきます。特に後者の場合、ゲームハードがなければ、そのゲームをプレイできないという事態がしばしば生じるので、なおさら保存が問題になります。

 とはいえ、こうした大学によるアーカイブ化は、金銭的な事情でつらいものを抱えていると言わざるをえません。保存・維持・研究は時間も人の手もかかるので、直接的な形で換金性を高めることは難しいからです(時々図書館や博物館関係のニュースで見かけますすが、保存・維持・収集にも当然ながら専門知がいるので、人件費を削るのは悪手です)。
 『ゴールデンカムイ』のアイヌ語の監修をされているアイヌ語研究者の中川裕さんのインタビュー「エンターテインメントと研究の相互作用」でも語られている通り、収集・保存・維持・研究といったプロセスから成るアーカイビングは、結果として、ものすごく魅力的なコンテンツを生み出すのに役立つものです。

 ちょうど、冒頭に引用した『旅とごはんと終末世界』の台詞が示唆するように、写真という仕方で、その土地の情報を蓄積しておいたからこそ、主人公たちが、その土地について思いを馳せることができたように。その蓄積なくして、冒頭のシーンは、いや、「終末世界もの」=「観光もの」はありえないのです。
 アーカイブは、今すぐに役立つ類のものではありませんが、観光や創作のように中長期的な視点が必要となる文脈では、これ以上ない基盤として機能するのだと思います。

 KADOKAWAが主導している埼玉県所沢市の「サクラタウン」計画について『巡礼ビジネス』が言及しているのが、第五章の終盤であり、資料館・博物館やアーカイブ化について述べた後だということの意味に、私たちは注目する必要があると思います。


……というまとまらない感想でした。

0 件のコメント:

コメントを投稿