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2017年1月12日木曜日

中島隆信『子どもをナメるな――賢い消費者をつくる』(ちくま新書、2007年)のレジュメを公開

消費社会論勉強会で扱った本のレジュメを公開します。

2017年1月8日に開催した消費社会論勉強会第11回「消費者教育を学ぶ!」で採り上げた、中島隆信『子どもをナメるな――賢い消費者をつくる』(ちくま新書、2007年)です。
筆者の中島隆信さんは経済学の専門家だそうです。

レジュメをまるっと公開すると、本の内容の引き写しになるので、全てではなく、一部を削除した上で公開することにします。
気になったら、書店や図書館にGOということでお願いします。

ちなみに当日は、動機や方向性はわからないではないが、各論では異論噴出という感じでした。
用語の定義の安定しなさや、論法の雑多さが目立つ本ではあるので、当然といや当然なのですが。
(例えば、一章で「インセンティブ設計」の重要性を謳いながら、各論では大して触れていないとか、色々問題のある本ではありそうです)

なお、勉強会は、京都の出町柳にて開催されており、毎回Twiplaで告知されます。毎回、読んでいなくても参加できます。
次回は、2月25日13時から、開催します。テーマは、ミニマリズム/ミニマリストです。シンプルライフについて考えましょう!

以下、レジュメです。扱ったのは、1,3,4章です。


 *




第一章 義務教育の役割


・話題は義務教育。

・いじめを解決するために、子どもにお題目(みんなと仲良くしよう)を伝えても効果がない。上下関係が地下に潜ってさらに陰湿になりかねない。子どもは上から押さえつける/教え込むのではなく、合理的な説明により、筋道立てて説得すべき。

・誰もが消費者になる。だまされないため、よい企業を育てるために、消費者教育が必要。すべての教科に消費者教育の発想を持ち込むべきではないか。



筆者による第一章のまとめ

「義務教育の目的は賢い消費者を育てることである。賢い消費者とはテストができることでもなければ頭の回転が速いことでもない。自分の人生をどのように楽しめばよいいか知っている人である。人生の楽しみ方は誰かに教えてもらうものでもないし、誰かの真似をするものでもない。義務教育における勉強を通じて自分なりの楽しみ方をマスターしていくのである。

 こうした教育は義務教育でしか実現することはできない。なぜなら、いったん愚かな消費者になってしまった人が後から賢い消費者に転身するためには多大なコストを要するからだ。賢い消費者は表層的な情報に惑わされることなく、モノやサービスの品質を見極める能力を持ち、次々と新しいニーズを生み出す。これは市場の質を高め、市場を活性化させる。まさに賢い消費者は社会にとっての大きな財産となるのである。」(48頁)



第三章 すべての学科は「役に立つ」

▼ニーズの明確化を

・本章は、義務教育を念頭に置いている。

・「なぜこの科目を勉強するんですか」(114頁)と子どもに聞かれたとき、教師の真価が問われる。
・筆者は「子どもが賢い消費者になるための教え方」(115頁)を提案する。

1 数学で世の中がわかる
▼数学は世界共通語
・数学は論理的思考を身につけるのに役立つと言われるが、実際は、論理的思考が得意な学生にとって、数学は有効な「表現ツール」なのではないか。
▼伝達のための抽象的な表現手法
・語学の勉強と同じように、「表現手段としての数学も言語の一種である」とみなせばよい。とすると、「使ってみて役に立つことがわかれば勉強が楽しくなるはずである」。ここでいう「言語というのは、ものごとを抽象化する手段といえる」(117頁)。
▼確率の重要性を敎える
・「確率はリスクすなわち不確実性の伝達手段である」(119頁)。「……現実に人生においてリスクは存在し、人生で危険な目に一切遭わないで済むようなことはあり得ないからだ」(121頁)。

2 「伝達力」は国語から
▼「読み書き」偏重の国語
・「ものごとの伝達は、基本的に『よっむ』『書く』『聞く』『話す』の四つから成り立っている。言語を学習することの目的は、この四つの手法を身につけることである」(121頁)。
・授業の効率性の観点からも、「聞く」「話す」教育はあまり重視・実践されていない。
▼「聞く」「話す」教育の重視へ
・婉曲表現が広がっていることからしても、自分の意見をはっきりと表明することへの恐怖が見て取れる。スピーク(話す)の名詞形でしかないスピーチ(発話)に、福沢諭吉が「演説」という訳語を当てた後進性は、今も現役なのではないか。
・民の側が筋道立てて広く議論をするという風土が形成されていない日本では、「民は難しいことを知らなくても官のすることに任せておけばいいという考えが染みついて」いるように思える(124頁)。
・こうした事態を招いた一因は、「聞く」「話す」教育の軽視だと思われる。
・「帰りの会」や「自由研究」も、儀礼的・アリバイ的にやっているだけで、「話す」ことの本質を捉えていない。「本来、『話す』ことには話し手によって何らかの価値が付加されていなければならない。単に調べたことを報告するだけなら、どうやって調べたかだけ教えれば誰にでも真似できることだからだ」(125頁)。
・「従来型の『聞く』教育は〔マニュアル化された〕『調査報告』」を静かにおとなしく『ごもっとも』と拝聴することであった」。しかし、本来の「聞く」ことは、「相手の『話す』内容のなかにおかしなところはないか、もしあったら質問してやろうというくらいの緊張感を持って聞かなければ」ならない。その際、「独自性」「論理性」「頑健性」を基準にすればよいのではないか(125頁)。
▼「話す」と「書く」の違い
・「話す」は現前的だが、「書く」は持続性があるなど特性の違いが多い。また、メールなどメディアごとに、あるいは世代ごとに、どういう「つもり」で送っているか/受け取っているかにも違いが出てくる。

3 社会科で平和の価値を知る
▼戦争は損な活動
・第一次安倍政権での教育基本法が説くように、社会科に「愛(国心)」という「きわめてあいまいで個人的なもの」を持ち込んだとしても、「すべての国民にとって学習の目標になりうるか疑問である」(129頁)
・筆者は、社会科の目標として、「平和というものが日本にとっていかに価値のある有り難いものであるか知ること」を掲げる(129頁)。
・戦争という国家による、人的・物的資本の破壊的な消費は、消費者の生活を悲惨なものにする。
▼平和の恩恵が大きい日本
・(平和が可能にする)自由貿易により、資源と食料というネックを解消できている。
・冷害や飢饉などの災害に対して、「有効な手立てを講じる」上でも、交易により社会を豊かにすることは重要(132頁)。
▼消費者主権の合理性
・基本的人権、国民主権、平和主義といった日本国憲法の柱は、「市場経済における消費者主権の考え方」と同義的である(133頁)。
▼統計教育の必要性
・正確な統計へのアクセスは、現状に対する敏感な感受性と変化に対する感覚を喚起する。例えば、国家の窮乏化が政情不安をもたらす、というように思考を働かせることができる。
・政府の統計作成は各省庁に任されている。「見かけ上は数多くの統計が存在しているものの、それらは体系化されておらず、統計作成のための資源が効率的に使われていないのである」(137頁)。また、「現状の業務に差し障りがなく、かつもっとも手っ取り早く人員を減らせる統計部局」が、公務員数の一律削減の影響を受け、統計の質の維持の点でも問題を生んでいる。さらに、省庁ごとに類似した調査が企業や国民に繰り返されるため、「協力を拒むケースが広がり始めている」(138頁)。

4 理科で自然とうまく付き合う
▼自然の偉大さを知る
・将来の職業と結び付け必要性を議論すると、「理科が嫌いなら文系を選択すればいいという……発想」を後押しし、理科離れ・科学離れを助長してしまう(140頁)。
▼自然からの恩恵を知る
・地球が稀有な惑星であることを教える、害獣や害虫とされる生き物が生態系で果たす役割を教えるなどして、自然からの恩恵や相互依存性についての学習。
▼環境問題は理科教育で
・環境問題を意識して一人ひとり行動してもらうには、コスト意識を持ってもらう(経済学的なアプローチをする)よりも、化石燃料の生成過程や、現状の地球環境ができあがる過程などを学ぶことで、自然からの恩恵や、「自然界の一員としての人間」という意識を育むことに注力した方がよい(145頁)。

5 英語はまず聞くことから
→ニーズないし学習目標の再定義については、一切触れられていないので省略

6 芸術も体育も消費者教育
▼芸術はまず消費者を育てよ
・音楽や美術は、特に上手でも好きでもない子も一緒に制作に参加させられ、上手な子と同列に陳列される。それにより、音楽・美術嫌いが生まれることはままある。
・「美を感じる感性には知識も教養も身分も関係ない。美は万人のものなのだ。美を素直に理解して、美に接すれば接するほどその感性を磨いていくのは子どもである。その感性を育てるのが美術館なのだ」(154頁)。金沢21世紀美術館の蓑豊の言葉に、筆者は大いに賛同。

7 個人のための家庭科
▼家庭科学習に必要なもの
・小学校の教科書には、家族観や生活パターンなど「『あるべき論』のにおいが漂っている」。「価値観の押しつけをしない」ことは、現実の変化に即していないし、意味をなさない(167頁)。
・家族という組織は、一枚岩ではない。「家族という組織を維持するためには」、ある生活様式を協働的に「実行するためのインセンティブ」を考える必要がある。「組織運営」について考えねばならない(168頁)。
・子どもが自分自身を守ることができるように、人権教育を徹底した方が良い。自身の位置を相対化し、親(毒親?)から距離を取るためにも重要である。
 


第四章 これからの社会、これからの教育

1 今こそ個人尊重を

・教育は大人が子どもにするものである以上、大人の都合の良いものになりがちである(戦前・戦中を見よ)。 
・現代の個人化社会を支えるのは、明らかに、技術進歩である。家族でばらばらに過ごすこと(例えば食事を別個にとること)が「それほど非効率ではなくなったのだ」(175頁)。 
・この個人化の流れが「社会への求心力を失わせるのではないか」という危惧がある。右傾化や愛国心の強調はその典型だろう。筆者はその動機に理解を示しながらも、「個人化へむけて大きく舵を切った時代の流れに逆らうことは難しい」としている(177頁)。 
・個人主義の蔓延が社会道徳を衰退させたと言われるが、この意見は的を外している。本来の個人主義は孤立主義でも利己主義でもない。「すべての人間が互いの存在を尊重することである」(178-9頁)。より徹底した個人主義が必要である。日本国憲法の自由主義的な精神は、これを理念化したものではないだろうか。



2 徳育より宗教教育

・福沢諭吉の『文明諭之概略』によると、「徳」の効果は近親者にだけ及ぶ。それに対して、「智」は広範囲で、社会生活を一変させたりもする。この対比を踏まえると、徳育の科目化が不毛であることは明らか。 
・福沢は、徳も智も公共化されねばならないと説く。しかし、私徳を公徳へと変換することは難しい。公的権力による徳育は戦前のような全体主義化にも近接しかねない。智を伴った伝統宗教のように、徳を公的なものに変換した例に注目することが有用だろう。 
・公徳の内実は大まかに収斂しており、世界的にも大差はない。筆者によると、重要なのは人間の不完全性――「人間の愚かさや弱さ」(188頁)――を学び、衝撃を受け入れられるほど心を柔軟にしておくことである。それにより、自他への思いやり、謙虚さ、寛容性、自己承認を育て、結果的に道徳心を形成していくことこそ目指されるべきである。 
・「道徳を教科化し、モラルを子どもに押しつけることは、知的のみならず道徳的にも完全な人間を目指すよう指導するようなもので、子どもの心の鍛錬という点からいえばまったくの逆効果である。世の中はますます窮屈になり、ルールを守らなければならないと心が固くなり、同時に傷つきやすくなる。その一方で、ルールに厳格な人はそうでない人を軽蔑し、馬鹿にするようになるだろう」(188頁)。 
・現代人がキレるのは、実際には「多様な価値観が氾濫」している社会であるにもかかわらず、「モラルという一定の狭い枠に人間を押し込めようとしていることの弊害ではないだろうか」(188頁)。



3 恋愛は立派な学科

→前節の内容を、子どもにとって身近な「恋愛」で置き換えているだけなので省略



4 「自立」とは何だろうか

・現代、自立は経済的自立=働いていることと同義になってしまっている。これは、実情に即していない。「なぜなら日本では人口の約半数が働いていないからである。働かなければ自立できないのなら、日本人の約半分は自立できていないことになる。こんなおかしいことはない」(195頁)。 
・障碍者は、自分の経験の範囲が、「養護学校という狭い範囲」での友人関係か、家族といったものに限定されてしまっており、自分自身に関する知識や、消費行動のための情報が不足している(198頁)。経験値を得る機会が限られていたために、自分の意志で自分の生活を豊かにすることができない。
・自立とは、「自分で選択肢を探し出し、その中から自分にとって最適なものを選び、自ら実行する」ことである(199頁)。「家事や育児の一切を妻に任せ、その見返りとして家計の財布を妻に渡している夫も自立できていない人間の典型例だ」(201頁)。だそうです。



※「子どもは実家に留まり続ける限り、たとえ働いていても、親に生活費を渡していたとしても自立した人間とみなすことはでいない。親に朝起こしてもらったり、部屋の掃除をしてもらったりするのは論外というべきである。自ら主体性を持ってひとつの家計を運営してこそ自立なのだ。逆にいえば、わずかな年金で生活する重度の障害者であっても、実家を出てグループホームで暮らし、限られた収入をどう配分すべきかを自分の頭で考えて生活していれば立派な自立といえる。」(201頁)

→今度は、物理的自立+経済的独立性を「自立」と短絡しているように思える。本書の「自立」の用法はあまりに多様なので、前述の意味(199頁の例)で理解するのが生産的だろう。

2016年6月21日火曜日

ルース・リスター『貧困とは何か――概念・言説・ポリティクス』

今回取り上げるのは、2011年に明石書店から翻訳の出た、『貧困とは何か』です。
著者は、イギリス労働党議員にして、気鋭の社会学者、ルース・リスター(Ruth Lister)です。

今回の訳出は、ありそうであまりない手順で行われています。まず、翻訳家の立木勝さんが下訳を作り、専門家である松本伊智朗さんが、リスターへのインタビューや関連文献の読解を経て、「監訳」という形で下訳に手を入れたそうです。
時間もお互いに節約になるし、翻訳の精度も上がるだろうから、これはいいワークシェアだなーと思いました。


原著のPovertyは、キーコンセプトシリーズの一環として出版されたもので、「貧困」以外には、GenderなどCitizenshipなどがあるそうです。
また、原著は改訂版の準備中とのこと。
原著にはkindle版もあるので、英語が得意な方はそちらで読んでみてもいいかもしれません。

個人的に気になった点をもう一つ挙げておくと、原著と翻訳の表紙がすごく似ているように見えて、実際は全然別の写真だというのは面白いですね。

この小石たちの写真は、恐らく本書の理念的なところを正確に捉えたものです。
一筋縄にはいかず、捉えがたい上に、経験も内容も千差万別の「貧困」を、それでも、政治的・社会的な課題として引き受けていこうという姿勢を読み取ることができるのではないでしょうか。

さて、目次はこんな感じです。


序章  概念、定義、測定基準  各章とそのテーマ
第一章 貧困の定義  貧困の定義に向けたアプローチ  絶対的/相対的の二分法を超えて  結論
第二章 貧困の測定  〈なぜ〉と〈どのように〉の問題  〈なにが〉の問題  〈だれが〉の問題  結論
第三章 不平等、社会的区分、さまざまな貧困の経験  不平等、社会階級、二極化  貧困の経験  ジェンダー  「人種」  生涯  年齢  地理  結論
第四章 貧困と社会的排除  社会的排除の概念  社会的排除と貧困の関係  結論
第五章 貧困についての言説――〈他者化〉から尊重・敬意へ  〈他者化〉と言説の力  歴史に根ざして  「アンダークラス」と「福祉依存」  「P」ワード  貧困の表現  スティグマ、恥辱、屈辱、  尊厳と尊重・敬意  結論
第六章 貧困と行為における主体性――〈やりくり〉から〈組織化〉へ  行為における主体性  〈やりくり〉  〈反抗〉  〈脱出〉  〈組織化〉  結論
第七章 貧困、人権、シチズンシップ  人権  シチズンシップ  声  「哀れみではなく力を」  結論
終章――概念からポリティクスへ  重要なテーマ  研究と政策  再分配のポリティクス、承認と尊重・敬意のポリティクス
註、参考文献、監訳者解説、索引


 この本の要約をすることは難しいところがあります。第一に、各章で本人が巧みに要約をすませているから。本人よりは幾分精細に欠ける要約を披露してしまうことになりかねません。
第二に、すでに示唆した通り、貧困という複層的で捉えがたい事態を取り扱っているから。この点についていえば、本書は、こうした「捉えがたさ」を安易に割り切ってしまうことなく、複雑なままに取り扱おうとするところがあります。
 「貧困の女性化」を論じた箇所を例として見てみましょう。
北でも南でも、貧困者は女性であることがあまりに多い。EUおよびアメリカからの証拠は(スウェーデンだけは明らかに例外だが)、程度の差こそあれ、すべて女性の方が男性よりも大きな貧困リスクに直面していることを示している。(中略)「貧困の女性化」は、こうしたパターンを捉えるための用語で、いまでは幅広く使われるようになっている。しかし、レトリックとしては力強いのだが、この用語には誤解をまねく部分がある。(中略)「貧困の女性化」という命題のもとで用いられている統計は、世帯主を基礎にしたものが大半で、世帯の中の個人に基づくものになっていない。後者のデータがない場合は、粗い「推測による見積もり」で済ませている。いい例が、広く引用されている世界の貧困者の70%は女性であるという国連の見積もりである。女性が世帯主の世帯での貧困リスクにばかり気を取られていると、そうした集団内での不均質性や、男性が世帯主の世帯での女性の貧困が覆い隠されてしまう。(p.89-90)
「言われてみれば、確かにそうだ」と思わされる指摘ではないでしょうか。貧困に関連する多くの学説や理論、データ、言説を検討しながら、リスターは逐一こうした批判的な視線を向けていくことになります。

*

 本書は貧困をテーマにしています。とはいっても、よくあるルポルタージュの類ではなく、貧困という「概念」に焦点を当てた研究だというのが、本書の特異な点でしょう。監訳者の松本さんも、日本の研究と比べて、その点が珍しいと解説で記しています。
 とすれば、気になるのは、この「概念」とは何ものか、ということです。リスターは、「概念」を「意味」と言い換えています。
貧困の概念は非常に一般的な次元で働く。それは定義と測定基準を考える枠組みを提供する。それはつまるところ、貧困の概念とは貧困の意味ということである。(p.17)
しかし、この「意味」とは何なのでしょうか。十分説明されているとは言い難いのですが、人びとが「貧困」ということで意味しているものの総体、つまり、貧困ということで理解していることの総体を指しているのではないかと思います。
貧困の概念の研究には人々が貧困をどのように語り、思い描くかということもふくまれる。すなわち言語とイメージを通じて表現される「貧困の言説」ということである。そうした言説はさまざまな場で構築されるが、もっとも顕著であるのは政治・学問・メディアである。このいずれもが、一般社会での貧困の理解のされ方に影響を与えている。(p.17)
この一節からしても、上のような解釈で間違いなさそうです。


こういう感じで、「概念」「定義」「測定基準」など種々の道具立てを準備しつつ、それらの関係を、序章では図のように整理しています。

しかし、この図はわかりやすいにせよ、誤りがあるでしょう。
ごく細かい点ではありますが。

まず一点目。
「概念」が、「意味と理解」、私たちが対象に抱く「言説やイメージ」の総体なのだとすれば、厳密にいえば、調査・研究の際の「定義」や、研究それ自体、考案された「測定基準」も、当の「概念」に含まれねばならないのではないでしょうか。

また、図に関連することで、もう一点気になることがあります。
監訳者解説によると、邦訳の際に著者から「貧困の再概念化」というタイトルを提案されたそうです。つまり、「再概念化」は著者にとって、決定的なキータームなのです。

「再概念化」とは何でしょうか。
上図のような関係にある諸観念のもとで探求・研究した成果は、私たちの貧困イメージ、つまり、「貧困の概念」に差し戻されねばならない、ということだろうと推測されます。
とすれば、気になるのは上図の矢印の方向です。上図がわかりやすいのは確かです。
しかし、「再概念化」という鍵概念を踏まえるならば、すべての矢印は、本書の探求を通じて、当の貧困概念それ自体に帰っていくはずです。跳ね返っていく、反映されていくはずです。
矢印は、それぞれが円環を書くように、「概念」へと回帰せねばならないと思われます。

「再概念化」というと、「また新しい社会学の道具立てですか?」という気がしないでもないのですが、哲学でなじみ深い言葉を使うなら、「解釈学的循環」のことでしょう。


*

やや抽象的な話になってしまいました。
細かな指摘も、うなずくところが多い本だったので、いくつか引用してみます。
……貧困と闘うための政策は、隠れた不平等に取り組むとともに、ジェンダーや「人種」や障害とも関連する、幅広い平等・反差別戦略のなかに組み込まれるのでなければならない……。(p.112)
地理、不平等、社会的区分、ライフコースなどと絡めつつ、貧困を検討した際に、結論部分で述べられる言葉です。

また、リスターが暗示する連帯のありようにも共感しました。
ジャーナリストのニック・デイヴィーズが『暗い気持ち――隠されたイギリスのショッキングな真実』を書いて話題となった。この本は、「同情的な〈他者化〉」とでも呼ぶべきものである。デイヴィーズは自らを「遠くの密林に分け入るヴィクトリア朝の探検家」として示し、「もうひとつの」「まだ発見されていない国」に「貧困者」が暮らしているとする。彼はdifferentという形容詞を盛んに用いることで、このメッセージを強化している。デイヴィーズは貧困によって人々が受ける損害を強調しているが、こうしたイメージの使用は、おそらく読者にっ距離をおかせ、恐怖を抱かせる面の方が大きくて、彼が求めたような「貧困と闘う十字軍」を呼び起こすことにはならないであろう。(p.170-1)
リスターのメッセージを理解するためには、これを裏返しに理解しなければなりません。差異を強調したり、〈他者化〉したりしない。これです。
 〈他者化〉というのはOtheringの訳語です。森達也風に言えば、「われわれ」と「かれら」に分けることだと言えるでしょうか。違う存在として、頭の中で、単に区分してしまうのです。違う存在、異質な存在として、「私たち」と「彼ら」を分割することです。
 そうして分断を誘い、エイリアン化するのではなく、むしろ「私たち」を拡張する仕方で連帯を確保しようとする。こうした連帯のあり方に、私は共感します。


 貧困を取り扱った本としてはかなり抽象的なコメントになりましたが、それは本書が「概念」に焦点を当てている以上、致し方ありません。
 遅くなりましたが、頂いた本をざっくりと書評してみました。






2016年1月6日水曜日

栗原康『現代暴力論』と千坂恭二『思想としてのファシズム』

今回は、読書会によく来てくれる方から、本を二冊いただきました。
ので、感想をあげてみたいと思います。

ちなみに、Amazonのほしいものリストを公開しています。送っていただければ、こんな感じで感想・レビューをあげます。



ではまず、栗原康さんの方から。ネット上にいくつか対談やインタビューがありました。著作もいくつかあるみたいです。
最近注目されている論客だそうですが、初めて名前知りました。白井聡さんの後輩だそうですね。

北海道新聞:「はたらかないで、たらふく食べたい」を書いた 栗原康(くりはら・やすし)さん
タバブックス:『はたらかないで、たらふく食べたい』刊行記念・栗原康インタビュー 前編  後編 
cakes:「気分はもう、焼き討ち――栗原康×白井聡対談」 前編  後編


まず、第一印象というか、そもそも文章・文体が生理的に合いませんでした。なので、私はこの人のよい読者にはなれないでしょう。人を選ぶ文章を書く人だと思います。
ちょっと、冒頭にあるデモ参加記を引用してみましょう。金曜日官邸前デモに参加すべく、地下鉄の国会議事堂前駅についた、という箇所です。
三〇分くらいしてようやく地上にでると、あまりの混雑にあるく場所さえありはしない。歩道をまっすぐいけば官邸前なのだが、警官がテープで阻止線をはっていてすすめない。とうぜん車道側には警官隊がびっしりで横にそれることはできないし、うしろにもどろうにも後方の人だかりをきるためか、やはり警官が阻止線をはっていていもどれない。友人から電話がかかってきて合流しようというが、ちがう駅からでたようで、ぜんぜんあえない。まいった。ひとが増えるにしたがって、ぎゅうぎゅう詰めになっていき、暑くて、暑くてたまらない。くるしい。わたしは水が飲みたくなって、カバンをゴソゴソやっていると、となりにいたおじさんが、「ううっ、ううっ」とうめき声をあげている。だ、だいじょうぶか。そうおもった瞬間、おじさんはなにかブツブツいいながら、ひとり警官隊につっこんでいった。車道にでる気だ。すごい。まっていましたといわんばかりに、みんながおじさんについていく。いっきに警官をおしのけて、道路にひとがなだれこんだ。みんな解放感に酔いしれる。おおきな歓声があがった。ふとあたりをみあwたすと、まえでもうしろでもおなじことがおおっている。道路占拠だ。/わあい、涼しい。わたしもうれしくて小躍りしてしまった。(pp.9-10)
ちょっと長めに引用してみました。
私と同じように、生理的に合わないという人もいるんじゃないでしょうか。

「生の負債化」がこの人のキーワードのようです。
この概念は何を意味するのか。人びとが奴隷根性的に「主人」の秩序に甘んじ、その体制に従うことを自己正当化している、というような秩序維持の戦略のことを指しているようです。
ただ、「戦略家なき戦略」というよりも、体制によるコントロールという古い管理社会的なイメージに引きずられているようにも思います。
この生の負債化、蓄群的な生をSurviveという言葉で著者は表現しています。帯文の言葉で言えば、「隷従の空気」ですね。
 
ところで、本著の副題には「あばれる力を取り戻す」とあります。
この「回復された生」のイメージ、蓄群的な生に対置された生のイメージを、Liveと著者は呼んでいます。
さらに言えば、道路占拠(オキュパイ)的な解放感、祝祭的なイメージが、この生のイメージには託されているようです。(それを「あばれる力」と呼んでいる?)

めっちゃ読みにくかったのですが、自分なりに主題を読み解いてみました。
しかし、回復された生のイメージに独自性があるようにも感じませんし(それは悪いことではないのですが)、批判している体制のイメージはやや古臭さが抜けきっていないような気もします。
個人的に、こういう議論の構成はあまり可能性がないのではないかと思いますし、こういう構成をとるにしても、もう少し洗練する必要があるのではないかと思います。

余談。
栗原さんのことは、特に知らなかったのですが、やせ過ぎだと思います。帯に著者近影があるのですが、ガリガリなんですよね。
こういう変わった生き方をしている人が、それなりに生きていける社会のことを、ゆとりある社会とか豊かな社会とか呼べるのだろうな、とか思いました。


さて、千坂恭二さん。
この方は、ウィキペディアの項目があったので貼っておきます。映画批評なんかもやっているようです。
『思想としてのファシズム』を書かしめた千坂さんの背景には、ユンガーの次の言葉があったようです。
ドイツの左翼知識人たちは、カール・シュミットやマルティン・ハイデッガーやエルンスト・ユンガーと、本来ならば是非とも対決しなければならないはずなのに、彼らを『ファシストの先駆け』だと断定してしまい、対決を避けるという悪い習慣にとらわれている。ナチス時代についてタブーを作ってしまうことで、左翼自身が自らの前史から切断されてしまっている。(ノルベルト・ボルツ『批判理論の系譜学』)
戦前日本において、戦争を支持し、それに大義を与えかねない思想を展開した思想家・哲学者らを、「悪」と名指すことで、彼らを特殊な存在として隔離してしまう。
悪をラベリングすることではなく、がっぷり四つに取り組んで、それと対決することこそ必要なのではないか。
この点は共感します。

雑誌に寄稿していた記事をまとめた論集だそうです。目次はこんな感じ。

中野正剛と東方会――日本ファシズムの源流とファシスト民主主義
内田良平と黒龍会――アジア主義の戦争と革命
世界革命としての八紘一宇――保守と右翼の相克
1968年の戦争と可能性――新左翼、アナキズム、ファシズム
連合赤軍の倫理とその時代――「軍」と「戦争」の主張
蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜――戦後日本と保守革命
ロングインタビュー 21世紀の革命戦争――ファシズム・ホロコースト

第三章をちょっと取り上げてみましょう。
前半部分では、保守の革命思想が取り上げられています。
革命といえば、左みたいな感じになっていますが、実のところ、右派にもそうした革命志向は存在したと指摘されています。典型的な例としては、世界革命としての八紘一宇があるだろう、と。

とはいえ、反安保闘争や全学連の闘争の頃までに、右翼は「反共」を意味するに過ぎないものとなっている。もっと言えば、反共親米です。
しかし、左翼が反米愛国的な民族的立場すなわちブルジョア革命の立場から、さらに日本帝国主義の自律(それはつまるところは日本が民族的独立を達成したということでもある)による社会主義革命を展望する地点にいたのに対して、右翼はまさにその出発点において反民族的といってもいいような反共親米派にすぎなかったことは看過されてはならないだろう。むろん右翼もすべてがそうだったわけではなく、個々的には神社本庁の葦津珍彦やクーデター論を展開した護国団の小島玄之などが存在したが、前者は戦後保守の内部に位置し、後者は右翼における周辺的な「トロツキスト」の域を越えることはなかった。(中略)……〔こうした動きは〕保守の急進化以上のものではなかったともいえるだろう。(pp.70-1)

「愛国」は、この後しばらくして、保守や右翼の文脈に回収されていくことになりますが、戦後以来、「愛国」は進歩派のキータームだったということを思い出してもいいかもしれません(小熊英二『民主と愛国』を参照のこと)。

右派にも革命思想があった。左派にも愛国思想が根付いていた。
この二つの指摘は、非常に重要なものだと思います。
(しかし、既に他の人が、より明確かつ体系的に扱っている論点でもあるでしょう。それこそ『民主と愛国』などが。 )


面白かったかというと、この本については、知識不足で評価しきれないところがあります。ただ、統一的な視点のもとに書かれた文章ではないので、読んでいて乗り切れないところもありました。
また、ロングインタビューを読むと、結構本気で「革命」を問題化しているんですよね。「こういう人ってまだいるんだな」と思ったというのが正直な感想です。

自分としては、革命のように「がらっと何かが変わる」ことに期待する気持ちは理解できますし、そういう思想を批判の論拠とすることに異論はありません。
例えばユートピア思想は、現実・現状に対する批判的な視線として、強烈な魅力がありますし、一定の効果があるでしょう(実際、ユートピア文学は、変革への期待に寄り添いつつ、現代まで読み継がれており、書かれ続けているわけです)。
しかし、歴史を見れば、そうした期待が十全に適ったことなどありません。期待は常に期待外れでした。変革は常に必要だと思います。しかし、その変革の戦略は、革命のような「ガラガラポン」よりも、ポパーのいうようなピースミール・エンジニアリングが現実的で妥当ではないでしょうか。
私はそう思っています。


二冊の本を通じて感じたのは、「こういう世界もあるんだな」というものです。
そして、ほとんど自分の視界にそれらが入っていないことにも衝撃でした(外山恒一くらいなら知っているのですが)。
あまり、いい読者とは言えなかったのですが、以上で感想・レビューとさせていただきたいと思います。

2015年12月22日火曜日

2015年の活動まとめ

毎年なんだかやってますが、今年も今年とて総括。
2014年のまとめはこちら。2013年のまとめへもそこから飛べます。

なんだかんだと今年は忙しく過ごしていました。
ブクログによると、書籍は今年一年で、352冊読んだようです(12/29現在)。
ただ、ブクログの本棚登録は、アマゾンがその商品を取り扱っているかどうかに依存しているので、もうちょっと多いかなと(古い絶版本や論文、珍しい洋書も読みました)。それから登録したのは、読了書籍のみなので、実数はもっとあるんじゃないかと思います。
映画・映像を加えると、442コンテンツだそうです(カウントしたのはDVD・Blu-ray化されたもの)。
今年は例年以上に読んだんじゃないかな。なお、漫画は除きます。


・閲覧数の伸びたブログ記事
大槻香奈個展「私を忘れないで。」についての、かなり長めの感想。

さすが、大槻さんの人気ぶりというか、どかんと閲覧数増えました。
こういうのは批評未満ですし、論としてかなりごまかしもあるのですが、ご本人はじめ、それなりに面白く読んでいただけたようでよかったです。

『後宮小説』と『ジェイン・エア』――二つの「適当」な主体
読書会で『後宮小説』扱ったときですね。全く人が来なかったので、代わりにネットに書いたのでした。


・プラグマティズム講座(全三回)
イベントスペースのGACCOH(京都・出町柳)さんにて、ワークショップを開催しました。
それぞれ、こういうタイトルです。
「哲学史のなかのプラグマティズム」(8月)
「鶴見俊輔とプラグマティズム」(9月)
「ジョン・デューイと原理主義とプラグマティズム」 (11月)



おかげさまで、こちらは盛況でした。
GACCOHのサイトが残っていないので、 関連するブログ記事へのリンクを貼っておきます。
→残ってました。リンクはこちら。


・GACCOH小説読書会
直近から下っていくと、こんな感じ。
伊藤計劃『虐殺器官』×『ハーモニー』読書会(11月)
伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』読書会(10月)
酒見賢一『後宮小説』読書会(5月)
ミシェル・ウェルベック『素粒子』読書会(1月)

『素粒子』は映画も結構よかったです。内容はかなり違うんですけど。主人公も、もっとデブのキモい感じを想像してた。しかし、それはそれとして悪くないと思いました。

さておき、12月26日に、ミシェル・ウェルベック『服従』読書会を開催します!
→開催しました。

過去に扱った本はこちらをご覧ください。


・消費社会論勉強会
扱った本を挙げています。毎回テーマらしきものを設けて読むと、内容がリンクしてくるので、かなり面白いです。内容をまとめてくるので、他の参加者の読了は「推奨」。読まなくても参加できる勉強会です。開催場所はいずれもGACCOH。
第四回のテーマは東京でした。(2月)
北田暁大『増補 広告都市・東京:その誕生と死』
吉見俊哉『都市のドラマツルギー』
森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』
第五回のテーマは「食」。(3月)
厚香苗『テキヤはどこからやってくるのか』
今柊二『ファミリーレストラン 「外食」の近現代史』
速水健朗『フード左翼とフード右翼』

番外編は、ショッピングモール散策オフ。(3月)
イオンモール桂川で、色々歩きつつ以下の二冊を読みました。
東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える』
速水健朗『都市と消費とディズニーの夢』

第六回は理論的な著作。(5月)
ブライマン『ディズニー化する社会』
セネット『不安な経済/漂流する個人』
第七回も、理論よりの良書を。(8月)
サンデル『それをお金で買いますか』
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
リッツァ『消費社会の魔術的体系』
第八回も引き続き、消費社会論の名著を。(10月)
見田宗介『現代社会の理論』
ショア『浪費するアメリカ人』

次回は2016年の2月を予定しています。



・クトゥルフ神話TRPG
今年から始めたんじゃないかな、と思います。
これが面白いのなんの。
気が付いたら……








動画投稿してました。
「夜は短し飲んでは歩け」は、初心者のソロプレイでも遊べる感じに構成。森見登美彦の小説をもとにした自作シナリオ。
「沈滞する水都」は、友人作のシナリオ。


・燻製
燻製、はじめました。
こちらも「ゆっくりいぶり暮らし」と題して動画を投稿し、大島さんの燻製漫画『いぶり暮らし』のステマしてます。
かなり編集ミスが多くて、正直消したい。