2015年7月22日水曜日

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので①

参考にではあるけど、Wikipediaとか引用しちゃってますね。正直者だなと思います。笑
誰かの役に立つかもしれないと思ってアップしておきます。


上山安敏『法社会史』 

範囲:第1部第2章、1家産型官僚「雇われ博士」2法律家層の諸特権3学識的後進性と法学植民地(p55‐70)

1節

単語
P55 公証人→ある事実の存在、もしくは契約等の法律行為の適法性等について、公権力を根拠に証明・認証する者のこと(wikipedia)

P56 家産国家→国家を封建君主の私的な世襲財産と見る国家観。19世紀のドイツの貴族・政治学者であるカール・ルートヴィヒ・ハラーの提唱したPatrimonialstaatの訳。

ハラーは著書『国家学の復興』の中において、家産国家の中では国内の一切の関係は君主の私的な関係とみなされ、領土と人民は君主の所有物であり、財産は君主の私的収入で、戦争もまた君主の私的紛争とされる。そのために国家が君主の世襲財産のように扱われ、国家の統治権(支配権)と君主個人の所有権(財産権)との区別が存在しないような状況に置かれていると説いた(国政と家政の未分離)。彼の理論は後にマックス・ウェーバーによって再構成されて「家産制」概念へと発展することになる。(wikipedia)

*家産制→支配階級の長が土地や社会的地位を自らの家産のように扱い、家父長制支配をもって統治する支配形態のこと。支配者は国家の統治権を自らの家計管理の一環として所有権的な行使を行い、その機構は国家の統治機能と家産の管理機能が融合されている。ウェーバーによると、伝統的支配の典型。(wikipedia)

プロクラ-トル→法定代理人

雇傭=雇用


1節の小要約
家産国家である等族国家において、外国で法学を学んだ法律家に対する需要は非常に高かった。公権力からの需要だけでなく、大学の「博士」に対する必要も大きかった。官吏としては契約的雇用形態で、通常は非常勤で奉仕し、複数の諸侯に仕えた。また教授と国家官吏間の移動は容易だった。法律家層の形成初期は、ソサエティを形成せず純粋に私的営業目的であった。



2節

単語
P60 懲憑→1しるし。証拠。2訴訟上、ある事実の存在を間接的に推理させる別の事実。間接事実とも。このような証拠は間接証拠という。(大辞泉)

註釈学派→註釈学派とは、11世紀から13世紀にかけて、古代ローマ法の主要文言に註釈つけて解釈を行った法学者の一派。中心地はボローニャ。そのためまたの名をボローニャ学派とも呼ばれる。同様にその学説はイタリア学風とも呼ばれる。

開祖はイルネリウスで、彼らの研究成果の集大成である『標準註釈』はアックルシウスの手によるものである。スコラ学を背景に『ローマ法大全』を「書かれた理性」として聖書のように絶対・完全無欠なものとみなし、現在の法哲学のベースとなる哲学体系を確立した。(wikipedia)

バルドゥス→バルドゥス・デー・ウバルディス(1327-1400) は、イタリアの法学者。ペールジア大学でバルトールスに師事する。1351年頃からボローニャ大学を始め権威ある著名な大学でローマ法とカノン法を講義する。著作は中世の法学者の中で最も多いと言われる。

P61 お手盛り→〔自分の好きなように食物を器に盛ることから〕地位などを利用して、決定者自身に利益があるように物事を決めること。

ブルクハルト→19世紀のスイスの歴史家、文化史家。『イタリア・ルネサンスの文化』が有名。

ランデスヘル→大諸侯や修道会総長などの大領主。*グーツヘル→騎士層などの小領主

P63 レジスト→教会法学者を「カノ二ステン」(Kanonisten)と呼び、ローマ法学者を「レギステン」(Legisten、フランス語読みではレジスト)と呼ぶようになった。(wapedia「教会法」)

2節の小要約
独において、法律学は中世的知識権威を伝承し、支配の道具としての学問であった。貴族社会への昇格手段となったように、営利以上に身分と連結していた。権力との政治的結合から爵位のみならず様々な特権を獲得するようになった。政治構造には等族制が深く残っていた独では、17世紀には法律家層は政治的特権階層として、法律家が貴族支配をとった。


3節

単語
逗留→1旅先などに一定期間とどまること。滞在。2その場にとどまって進まないこと。また、一か所でぐずぐずすること。3その場にとどまる時間。ひま。

3節小要約
独は文化的には後進的という劣等感を抱いていた。外国法崇拝の思想が強く、伊仏の大学卒業が高級官吏への必要条件だった。留学への要請は流行するあまり、名目的となった。英仏は自国法への矜持があるのに対し、独はコンプレックスを抱いていた。欧州全体として、大学で自国法はなかなか顧みられなかった。しかし英仏では自国法を学問化する機関が他にあったのに対し、独は教授も法律家もローマ法に専心していた。


要約
外国で法学を学んだ法律家に対すて様々に需要は非常に高かった。官吏の雇用形態は契約で、また教授と国家官吏間の移動は容易だった。法学は私的営業目的であった。一方で独では、法律学は中世的知識権威を伝承したものとみなされ、支配の道具であったため、営利以上に身分と連結していた。政治構造には等族制が深く残っていたため、17世紀には法律家層は政治的特権階層として、法律家が貴族支配をとった。独は文化の後進性という劣等感からか、外国法崇拝の思想が強く、伊仏の大学卒業が高級官吏への必要条件だった。留学への要請は流行するあまり、名目的となった。欧州全体として、大学で自国法はなかなか顧みられなかったものの、英仏では自国法を学問化する機関が他にあったのに対し、独は教授も法律家もローマ法に専心していた。



論点・疑問点


・外国への崇拝・劣等感は、日本にも言えるのではないか。共通点と相違点。現在はどうか。

・独で、宮廷外官吏が複数の諸侯に仕えたというのは、中世騎士の契約的な主従関係の影響があるのか。

・身分の風穴という役割が、聖職者が法律家に置き換わるという理解でよいのか。江戸時代の側用人もそんな側面があったのか、も。

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