2016年4月14日木曜日

オスカー・ワイルド『幸福な王子』読書メモ

2015年度に出席した文学の演習に参加したときの読書メモです。
オスカー・ワイルドの『幸福な王子』を扱いました。

ちなみに言語は英語で読みました。



・なぜIや神が出てくる必要があったのか?
 245-246に唐突にI(筆者?)が出てくる。物語上、必要のなかったものを唐突に出す必要はあったのか(唐突な印象を与えるのは、末尾の神もであるが)。少し考えたが、理由はいまいちわからなかった。


・大人の有用性・実際性信仰

 町会議員の「風見鶏ほど有用usefulではないが」(7)、数学教師の「幸福な王子の像が天使みたいだ」という子どもに対する言葉(「一度も見たことがないだろう」(16))
 市長の「実際にactually」「本当にreally」(237-238)、美術教授の「もはや美しくないがゆえに有用usefulではない」(240-241)
 →実際家を気取っていながら、自分の住んでいる街での他人の声は聞こえないまま、鳥の死を禁止しようとしたり、誰の銅像を作るかで争ったりと、非実際的なことに最もかかずらわっている(と作者はは考えているようである)。 


・好意の利用?

 お願いしている体裁だが、良心に漬け込んでツバメを誘導しているように思える。少なくとも、王子がどういう意図であれ、結果だけ見れば、ツバメの好意と良心を利用して王子が目的を達成したととられても仕方ないのではないか。感想めくが、自分の分を超えた善意は他者を過度に巻き込むことになるのではないかと思った。


・王子の道徳的実践について

 ここではツバメを利用している点についてはペンディングして指摘を行うことにする。
 王子は単に「残酷」な状況が目につく度に、その状況をその都度解消しようとしているに過ぎない。一見場当たり的ではあるが、誇大な理念や理論的整合性を優先する態度よりは、ひとまず評価できるのではないか。
 また、王子が貧しい人は素晴らしいと言い立てている箇所はないし、富裕者を直接的に批判している箇所もない。貧民のパーソナリティを云々して、それを理由に助けようとするのではなく(貧しいけれどいい人だから助けようという話ではなく、単に困っているから助けている)、義賊的に富裕層の財産を奪って代わりに与えるというのでもない。この意味で、「虐げられる者こそが本物だ、そうでないものは認められない」とでもまとめたくなるような思想に陥った新左翼の轍を踏んでいないところがあるのではないか。その点は非常に興味深いものがある。


・キスする二人

 親愛の感情でもキスをするのはやや不自然? 同性愛的なモチーフが見出せる。

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