2012年12月17日月曜日

新書『イタリア・マフィア』――「終わっている」こと。元も子もない自由、暴力、秩序。

       
今回読んだのはちくま新書の『イタリア・マフィア』(厳密には再読)。
副読本としては、河出文庫化された『死都ゴモラ』がおすすめ。しかも、この『死都ゴモラ』は映画化されていて、現在円盤も買える(GOMORRAってやつ)。
他にまとまった(かつ手頃で、手に入りやすい)良書というと、『シチリア・マフィア』(講談社学術文庫)もおすすめ。

まずは目次。

プロローグ
一章 マフィアの組織構造
二章 英雄か殉教か
三章 マフィアに激震が走る
四章 史上最大の裁判
五章 マフィアとバチカンの金融スキャンダル
六章 マフィアとベルルスコーニ政権
エピローグ
本書に登場する主要人物一覧

・「終わっている」ことについて

割りと変な国、失礼を承知で言えば、「終わっている」国の代表例は、イタリアと韓国だと思っている。
イタリア人の知り合いはいないけれど(逆に韓国の知り合い・友達はいる)、個々人が終わっているとかじゃなくて、社会構造が何か、どうしようもない闇を抱えているということ、それを指して「終わっている」なぁと思ってしまうという話。

韓国については、元大統領が必ず暗殺され、変死することが代表的な例かな、と思う。とても象徴的で、それを聞くだけで、「国難」の意味合いが他の国とはどこか違うのだな、という感じが直感的に伝わるのではないかと思う。
危機の時代、国難、「終わっている」こと。並べると、日本とか大したことない気がしてきますよね。安住はできないにしても、、、
そうすると、心配あまって、過剰に危機を煽っているのは誰か問題もある。(凶悪)犯罪が増えた!っていうのと一緒で。知っている世界が狭く、印象だけで、少ない情報だけで語っている可能性があるのかも。まぁ、そういう与太話はさておき。

イタリアは何が「終わっている」のかというと、マフィアの存在だ。日本人として生まれ、日本に住んできた人間にとっては、想像だにできない。
こういうマフィア的なものというと、今はコロンビアとかの方が有名かもしれない(麻薬カルテルとか)けどね。
とにかく、そのイタリアにおけるマフィアというものを、ごくわかりやすく、ジャーナリスティックにまとめたのが、この『イタリア・マフィア』という本なのです。

※マフィアが出てくる背景とかは歴史とかを見るしかないので、講談社現代新書『中世シチリア王国』を含め、いくつかの書籍に当たるのがいいと思われ。『イタリア・マフィア』の中ではほんの少し触れられる程度。


・結局マフィアはなんなのさ

マフィアって、結局どういうものなのかと言われると、結構困る。日本におけるヤクザみたいなもんだ……と断言してしまうことはできるし、それで合ってないことはない。けど、それは歴史的背景も、個々の国や地域、組織の事情を完全に無視した上での第一次接近でしかない。
逃げかもしれないが、プロローグから一節を引用することで、マフィアのイメージを伝え、それでよしとしたいと思う。

ジュゼッペ・ディ・マッテーオは、馬好きで、順風満帆な人生を歩んでいる少年だった。すでに有能な馬術家として、馬上の彼の写真をイタリア国内で目にすることもしばしばあった。……12歳の誕生日を迎えたばかりのジュゼッペは、馬場に向かう途中、姿を消した。マフィアの殺し屋に誘拐されたのだ。ジュゼッペの家族のもとには、捕らえられた彼の写真とメッセージが送られてきた。メッセージには、「口を閉じろ」とだけ書かれていた。
この殺し屋は十数件の殺人罪で告訴されている指名手配中の男だった。ジュゼッペの父親は以前から警察の捜査に協力的で、殺し屋の名前や居所、人間関係など、知る限りの情報を提供していた。マフィア撲滅を目指して。
……父親は要求に従うことに決めた。息子を助け出し、その後自分で殺し屋を始末できるかもしれないと考えたのだ。しかし、マフィアは父親にその隙を与えなかった。ジュゼッペは殺されて硫酸液の中に放り込まれ、遺体は発見することもできなかったのだ。(本文pp8~9)

判断は冷酷で、行動は凶暴、殺し方やメッセージの残忍さは言うに及ばない。
マフィアは、組織というよりも、ある種のネットワークだと考えた方がいいと思う。現実社会の上に、走っているネットワーク。
政府や警察、軍隊、会社……他の国ならば、そういう他の(あえてそう書くと)「平和主義的な」組織がになっている所のものを、マフィアが代行している。いや、マフィアは、それら全ての組織を支配下に、影響下にすら置いている。

しかし、これも厳密ではない。現実は陰謀論ではかたがつかない。「これしかない」という個々の決断や行為、個々人の小ずるさや欲望の集積でしかない。
どういうことかというと、社会のほとんど全ては疑いようもなく共犯関係にある。

本文中には、(大意だが)こういう言葉すらある。

「本当の政府は我々だ」

マフィアはプランターの雑草のようなものではない。(乗っ取られた)血管のようなものだ。それを前提として社会が成立してしまっている。
自分も、自分の家族や親戚も、隣人も、知人も、宗教者も、裁判官も、公務員も、政府関係者や銀行員も、マフィアから切れて存在していることなどあり得ない。
根絶することの困難さが伝わるだろうか?
血と鉄の掟で縛られたマフィアは、徹底的に管理・統制されていて、誰がマフィア関係者なのかは判然としない。それはマフィア同士であっても、わからないことがあるくらい(裏切りとか諸々の事情のために、仲間内でも身を明かさなかったりする)。
時々、マフィアのボスが捕まっても、「なぜか」無罪になったり、「なぜか」起訴した検察官が変死したり、「なぜか」突入して証拠を揃える前に、隠れ家が指紋一つない場所に変わっていたり……。
癌と言ってもいいけれど、それを切除することはできない。した所で、数が多い上に、切ったことを患者、患者家族、世間、同僚、あらゆる他人からボロクソに非難され、気づけば仕事を干され、しまいには暗殺されたりする。……こんな感じでアナロジカルに語るのが難しい。
こんな風に、想像を絶する特殊な時空間だったりするのです。
(あ、ちなみに、この新書は2006年のものです。例とか紹介は、70年代~90年代のものが多いけれど)

報復や、ファミリー間抗争も、ここに書くのを憚られるくらい凄惨を極めている。


・元も子もない自由、暴力、秩序

俺ルール、自由、アナーキズム、体制への反抗、価値への懐疑……
そういうものに対して、消費文化に身を置く、安全な「一般市民」は憧れを抱く。これは、日本人だけではない。あらゆる「一般市民」がそうだろうし、イタリア国内ですらそうだ。
たとえ、実際のマフィアが暴走していたとしても、妙に理想化され、資本主義的に飼い慣らされたマフィア・イメージは、ある種のダークヒーローとして、私たちの眼前に存在している。
マフィアの反権力としての権力の、アイコンは、ある特殊な力を持っている。

単なる反権力というよりも、やはりそれは権力の権化であり、何より、(現実の「この秩序」に対する)「別の秩序」の重ね書きでもある。
しかも、彼らが持つのは「暴力」――論ずるまでもない暴力、元も子もない暴力による統制、それに担保された「社会的凝集性」。
汚く猥雑である自由、仲間による命がけの絆と承認、デカい資産、陰に陽に贈られる名誉。

自分がイタリア・マフィアに興味を持ったのは、直接は中二病的回路というより、近代以前の「傭兵」という存在、「義勇軍」以前の軍隊的な存在に興味を抱いたからだ。(傭兵については、講談社現代新書の『傭兵の二千年史』が、底抜けに面白い)
彼らは、思想的に見るまでもないくらい、語る言葉が続かなくなるくらい、元も子もない自由を語り、そのような自由を求め、自由であるからこそ、むき出しの暴力を持っていて、それによる生のままの秩序を持っている。
しかし、その秩序は、ボスが資金を適切にまわし、他のメンバーに承認される限りでの秩序だ。これもまた、元も子もないくらい、生のままの秩序だ。
どんなカリスマも、一旦しくじったり、ファミリーに不名誉を与えたり、親類に裏切り者が出たりすれば終わり。
ウェーバーの権力理論、カリスマ支配の話が、ごくごくシンプルに図式的に成立している。いや、ウェーバーの言うよりも、もっと元も子もない形で成立している。
※ウェーバーの『権力と支配』(講談社学術文庫)とか参照

      

系譜的に面白いと思うのは、この元も子もない自由、暴力、秩序が、ギブソン―『ニューロマンサー』的なサイバーパンク世界に、部分的に体現されてるだろうことだ。(ヒッピー、ニューエイジ、あの辺りから繋がっていくのも同時に想像してほしい)
あの、陰鬱で、汚く、隣人が怪物であるような、自由と暴力の街、チバシティ。
(現在がどうかは正直詳しくないのだけど)しかし、シチリアほど放埒でもないかもしれない。これもまた、消費文化の中のダークヒーローとして、マフィアが飼い慣らされたアイコン化するように、サイバースペースも、そこで描かれる「猥雑世界」のサイバーパンク飼い慣らされた自由の場なのかもしれない。それはわからない。

インターネットに付きまとう匿名(それも徹底的な匿名)も、これに繋がる話だろうと思う。
それ以前の経歴、来歴、環境、人生、人格、願望etc.の全てと無関係に、「別の名前」を与えられ、「別の生」を、「この生」に重ねながら生きるということ。
『傭兵の二千年史』で出てくる、驚くような例の一部には、金持ちや地位のある人間の三男坊とかが、身分を偽って傭兵として働くというものがある。
彼らは、匿名性、しかも複数的に匿名の仮面を付け替えられる(複数の偽名を持てる)ほど匿名が、可能になっているこの時代に生まれたら、「傭兵」をしていただろうか。

現在、この種の、元も子もないほど生のままの「自由」、「暴力」、「秩序」はどこにいくのだろうか。


40歳になるまでに、かなり実証的なレベルで、フーコーの系譜学のような形で、この思想史を追って行きたいと思う。
今日はとりあえず、走り書きだけど、メモという形で。この3年くらいこんなことも考えていました。
正直、考えるには、情報収集のお金も時間もなく、語学もどこまで追いつけるか…といった感じで、大変です。

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