2014年10月15日水曜日

上田秋成、中国文化、散文


レポートを晒そう、第四弾。
これは入門みたいな講義だったでしょうか。
大体『復興文化論』。
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 授業では、中国から伝えられた文化を扱っていた。レポートのテーマも「中国由来の文化をピックアップし、それにコメントを加える」ことである。以下では、上田秋成の『雨月物語』を採り上げることにする。漢字や漢詩が、中国からかなりストレートに持ち込まれた文化であるのに対して、国学的な教養を豊穣に持っていた町人たる秋成は、小説の中に、古い日本の文化と中国白話小説とをサンプリング的に取り込んでいるという点で、より複雑だろうが。なお、以下で明示なく()で頁を記したのは、ちくま学芸文庫『雨月物語』からのもの。


 『雨月物語』の最初「白峰」は西行と崇徳院が言い争う(言説の内容は構造的にすれ違っているが)ものだが、その冒頭の「道行文」は、歌枕・景勝地が連続的に重ねられていく。逢坂の関、鳴海がた、浮嶋がはら、大磯小磯の浦々、紫草、塩釜、木曽……加えてこの文章は、稲田篤信によれば『撰集抄』巻二「花林院永玄僧正之事」と同書巻一「新院御墓白峰之事」の文章の一部を下敷きに書かれたものだ(27-28頁)。
 事例はいくらでも挙げることができる。『雨月物語』の中でもとりわけ有名な「蛇性の婬」は、「冒頭の三輪崎に降りしきる雨からして明らかに文学的な出来事」だった。というのも、「文学的故地の記憶を巧妙に再生」しているのだ(福嶋、260頁/傍点は原文ママ)。例えば『万葉集』巻三・二六五の長忌寸奥麻呂の歌「苦しくも降り来る雨か神の崎狭野の渡りに家もあらなくに」などを参照せよ(三輪崎は歌枕だ)。豊雄の姉夫婦が住む石榴市も、崇神天皇の時代都があったと言われ、日本最古の文学的空間でありかつ、最古の政治・宗教的な空間のひとつだった。そこは、「交通の要衝であり、『海石榴市の八十のちまたに立ち平し結びし紐を解かまく惜しも』(『万葉集』巻十二・二九五一)等の歌が示すように歌垣……の場所であり、さらに初瀬川付近は仏教伝来の地とも伝えられ、後には長谷寺参詣の拠点としても賑わった」(福嶋、261頁)。
 それと同時に、『水滸伝』をはじめとする近世中国の白話小説も秋成の想像力の源泉となっている。『雨月物語』所収の「青頭巾」で、快庵禅師の訪れた人喰い住職の住む寺院は次のように描写される。
 「山院人とどまらねば、楼門は荊棘おひかかり、経閣もむなしく苔蒸ぬ。蜘網をむすびて諸仏を繋ぎ、燕来の糞護摩の牀をうづみ、方丈廊房すべて物すさまじく荒れはてぬ。日の影申にかたふく比、快庵禅師寺に入りて錫を鳴らし給ひ、『遍参の僧今夜ばかりの宿をかし給へ』と、あまたたび叫どもさらに応なし」(385-386頁)
 稲田の語釈によると、『水滸伝』第六回、僧形になったばかりの魯智深が訪れた『瓦罐之寺』――そこは強盗同然の悪僧の棲家になっており、もともといた僧侶たちは追い出されて縮こまっている――を詠んだ詩を踏まえて、秋成は怪物化した僧侶の棲む山院を記述したものだ。その詩は以下のようなものだ。「鐘楼は倒とうし、殿宇は崩催す。山門は尽く蒼苔長り、経閣は都て碧蘇生う。釈迦仏は盧芽膝を穿ち、渾かも雪嶺に在りし時の如し。観世音は荊棘身に纏い、却って香山を守りし日に似たり。諸天は壊損して、懐中に鳥雀巣を営み、帝釈はい斜して、口内に蜘蛛網を結ぶ」(福嶋、259頁からの引用/原文は『雨月物語』386頁の語釈にも載せられている)。

 では、秋成において、このような日本文学的想像力と中国近世白話小説的想像力は分裂しているのか、文章中に並置されているに過ぎないのか。文芸批評家の福嶋亮大はそうではない、と答える。「秋成は日本文学の閾下(サブリミナル)の領域に潜り込み、そこで仕事をする。しかも秋成はその閾下の領域に、論敵であった本居宣長のように『めでたくうるはしき』王朝時代の美学を見出すのではなく、むしろ幽霊や怪物が跳梁跋扈する不気味な風景を書き込んでいった」(福嶋、258頁)と福嶋は解するのだ。例えば、「蛇性の婬」は、日本古代文学の恋の聖地たる石榴市で、蛇の妖怪と人間との危険な出会いの場に書き換えた。他には、「天皇と万葉の歌人たちが国家につきまとう不吉さを洗い清めようとした吉野――、しかしその正常な空間は今や邪悪な蛇の霊と仙人の戦いの場となった。……古くからの霊地・吉野にもかえって不気味な瘴気が漂い始める。考えてみれば、さんざめく陽光を浴びて、自然の徴を惜しげもなく浮かび上がらせる畿内の温和なしぜんは、日本文学の発祥の地となり、無数の歌謡がその自然のサインを丹念に読み取ってきた。だが、秋成はその……風土に、蛇の執拗さを備えた女性の幽霊をあえて送り込み、由緒正しい文学的故地を危機的な場所に書き換え」たことが「蛇性の婬」で挙げておくべき箇所だろう(福嶋、261-262頁)。
 福嶋の見立てでは、短型詩を中心とした、「めでたくうるはしき」白昼の無邪気さとしてイメージされてきた(例えば宣長)「日本文学のプログラムの中枢に、不気味な瘴気を満たそうとした上田秋成も、近世中国文学のデータを吸い出すことによって……想像力を更新した作家」である(福嶋、227頁)。その意味で、『雨月物語』というタイトルはいかにも象徴的だろう。先に挙げた「蛇性の婬」(だけでなく他のいくつかの作品もなのだが)は、文章だけでなくプロット的な元ネタも中国から採られている。不安定化し、動揺させる力能を中国から借り、自家薬籠中の物としているのだ。

 最後に付言しておけば、このような日本的・中国的サンプリングは、思わぬ副産物も生み出している。ひとつに、散文という形態がそれだ。「精神からいえば、一脈それ[=『胆大小心録』]に通ずるような文章を[『春雨物語』所収の]「樊 噲」において書いております。……どこまでも伸びて行き、遠くに駆け出していくような性質をもった内容。……これは今日から振り返ってみて、散文という方法を江戸で使っためずらしい例ではないか」(石川、230-231頁)と石川淳の発言は注目に値するだろう。また、テーマ系自体中国小説からの借用だが、サルトルも注目した『雨月物語』の「菊花の約」――「交わりは軽薄な人と結ぶなかれ」という漢文の引用から始まる――にも関心を払っておくべきだろう(サルトル、124-125頁)。三島由紀夫も特別気にかけているこの話自体、軽薄さでなく忠実さこそが主題になっているように、少しねじれた形でテーマ系が取り入れられている。サルトルは、問いの一般性と具体的な状況という自家撞着・矛盾・ねじれに陥らざるを得ない作家という存在の象徴的な一例として、これを見ている(同、99-100頁、125頁)。中国小説だけでも駄目だったし、秋成が思いついた個人的な小説のアイデアだけでも成立しなかった副産物のもうひとつだと言えよう。

<参考文献>
石川淳(1991)『新釈雨月物語・新釈春雨物語』ちくま文庫
上田秋成(1997)『雨月物語』ちくま学芸文庫、高田衛・稲田篤信[校注]
小松左京(1993)『わたしの大阪』中公文庫
福嶋亮大(2013)『復興文化論』青土社
三島由紀夫「雨月物語について」、石川淳『新釈雨月物語・新釈春雨物語』ちくま文庫、所収
ジャン=ポール・サルトル(1967)「作家は知識人か」、『知識人の擁護』人文書院佐藤朔ほか[訳]、所収

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