2015年5月27日水曜日

C.ブロンテ『ジェイン・エア』――「困難の克服」という問題


 イギリスが誇るシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を読みました。ヴィクトリア朝の小説にも関わらず、階級的な要素を割り引けば、それほどヴィクトリア朝的にも見えないのが不思議でした。当たり前に感じているからこそ描写しないものは多いのだろう、あるいは描写の作法が現代とはかなりかけ離れているのだろう――と思いながら読みました。

 さきほど酒見賢一の『後宮小説』と比較するブログを書いたので、そのままの勢いでこちらもブログ記事にしておきます。

 全体的な感想として、『ジェイン・エア』は今でも違和感なく読めるものでした。ただ、多少長いので読書慣れしない人は退屈するかもしれません。
ジェインの誠実たろうとする態度は、そのまっすぐさは『獣の奏者』を思い出させた。が、実際のところ、誠実さはキリスト教の育む卓越性の筆頭に他ならない。特定の宗教的文脈抜きには読めず、そして特定の階級的現実抜きにも読めない。



 <上巻でジェインは様々な危機に直面するが、この克服に着目すると面白い。彼女はそのほとんどを偶然によって、しかも外からやってくる偶然によって克服している。いずれもが、瑕疵なき幸福な克服とはいえない。上巻は、ゲイツヘッドにせよ学校にせよ、大切な友人との別れを伴っていた。
このことの意味は考えるに足る。>

 上巻の感想をこうメモしたが、下巻もこの仕方の危機の克服に溢れていた。
 遺産の受領は言うまでもなく(遺産の持ち主である)叔父の喪失を伴い、意中の人との結婚はソーンフィールド火災を通じて、邸宅、視力、夫人を喪失したことと不即不離である。
 偶然による危機の克服。人は努力や意志というよりも、天の配剤によって助けられる。『ジェイン・エア』において、困難を克服するためのきっかけは、徹底して「外から」やってくる。ジェインも全く努力しないというわけではない。絵を描くことや勉学の努力は惜しまなかったようだし、人間として立派であるために常に取り計らっている。しかし、そうした日常的な努力と、困難の克服は因果関係において結びついていない。単に、ジェインは助かる。誰かに助けられるのでもなく、ジェインの努力によって報われるのでもなく、単に助かるのだ。もちろん、日常的な努力すらないならば、そうした「偶然」すら彼女のもとに訪れなかっただろうが。
 それは悪く言えばご都合主義ということかもしれない。しかし、文学史上に残る作品をそう切って捨てるほどもったいないことはない。

 ジェインは単に助かる。しかし、「素直に助かる」というわけではない。ジェインが、外からやってくる偶然に助けられて困難を克服するとき、彼女は必ず何かを喪失している。精神的にもぼろぼろになる。しかし、彼女を取り巻く条件だけは、彼女が前進するための準備を整えてしまう。作中には偶然があふれているが、ひとつとしてそれを「幸運」と呼ぶことはできないと私は思う。

 『ジェイン・エア』という物語を通じて私の頭から離れなかったのはこのことだ。
 人は困難を克服する。ただし、自分の努力とは無関係の偶然によって。
 人はいつしか前に進む。ただし、喪失抜きには前進できない。

 シャーロット・ブロンテが時代を超えて、耳元でそうささやくような気すらした。まぁ、眠かったせいだろうけど。

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