2017年12月11日月曜日

大槻香奈個展「生の断面、死の断片」(2017)の感想

東京のアートコンプレックスセンターで開催されていた、大槻香奈さんの展示「生の断面 死の断片」(11/3-12/3, 2017)に行ってきました。

大槻さんの関わって展示を観に行ったときは、何らかの感想を書くことにしています。(例えば、「揺らぎの中のせいとし展」(2017)など)



そうして、感想を書くのは、大槻さんの展示空間の中で、そこに描かれ、構成されているものを自分なりに線で結ぶことを通じて、自分が考えたかったけれど、言葉にしていなかったことを明確化できるような感じがあるからなんです。

さておき、少し長くなると思いますが、お付き合いください。
使用した写真は、大槻さん自身がツイッターに挙げているものに限りました。
(以下、敬称略)




線を引くこと


『精霊の守り人』や『獣の奏者』で知られる作家・人類学者の上橋菜穂子は、『物語ること、生きること』(講談社文庫)の中で、こんなことを言っている。

物語は、見えなかった点と点を結ぶ線を、想像する力をくれます。想像力というのは、ありもしないことを、ただ空想することとは、少し違う気がします。こうあってほしいと願うことがあって、どうやったらそうなるのだろうと、自分なりに線を引いてみること。その線が間違っているかどうかは、きっと、現実が教えてくれるでしょう。 (p.184)

この心訴える表現を、小説のような「物語」に限定する必要はない。
というより、ここでは、「点と点を結ぶ線」という表現の方に注目しておきたい。上橋曰く、「私たちの想像力が、見えなかった点と点を結ぶ線を引く」。

こうした線は、私たち人間が、そのままでは無秩序でつかみどころのない世界を、取り扱うことのできるものに変えてくれる。
線というメタファーは、私たちが状況を整えるためになくてはならない道具立てだと言ってもいい。

一例を見よう。上橋は、国際アンデルセン賞を受賞という自身にとっては青天の霹靂のような体験を、タヌキに化かされているようだ、と述懐している。
でも、まだ、今でも手賀沼(千葉県)のあたりに住んでいるタヌキにだまされている気がします。朝起きたら、私の頭の上に木の葉が乗ってたらどうしようって(笑) ハフポスでの2014年のインタビュー

不可解な出来事を、キツネやタヌキのしわざにするということが、かつて日本の各地で行われていた。冗談としてではなく、説明しかねる出来事に対する納得のいく説明として、そうした論法は、幾度も使われてきた。
(内山節は、そうした説明が、20世紀後半に機能しなくなった、と指摘する。cf. 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

こちら側の秩序で説明がつかないものを、あちら側のせいだとして説明し、動揺した状況を静めようとする。線引きは、あらゆる意味で、私たちの生の基本にあると言っていい。


このとき、人間の住む「こちら」と、キツネやタヌキの生きる不可解な「あちら」とが線引きされている。
こうした見解を要約するような言葉を、社会人類学者のエドマンド・リーチは残している。
目に見えるむきだしの荒々しい自然は、無数の無秩序な曲線のごたまぜである。一直線に伸びる線もそこにはないし、規則性のあるどんな種類の幾何学的かたちもないに等しい。しかし、文化という人間によって作られ、飼いならされた世界は、直線、矩形、三角形、円などのさまざまなかたちをそこかしこに含んでいるのである。(Leach, Culture and Communication, Cambridge Univ. Press, p.51)

とはいえ、人類学者のティム・インゴルドは、「この意見は一見してかなり常軌を逸している」として、『ラインズ:線の文化史』でコメントを加えている。
「自然世界にはあらゆる種類の規則的な線と形態が満ちあふれている」し、「人間という居住者が生を営みながら制作するあらゆる線(lines)のなかに、まったく規則的なものはほんのわずかしかない」(工藤晋訳、238頁)。
インゴルド曰く、自然の生み出すライン、人間の文化が生み出すライン、そのいずれもが、それなりに即興的で荒々しく、それなりに規則的で整っている、というわけだ。
「自然は直線を憎悪する」と記したロマン派の建築家・造園家のウィリアム・ケントの言葉には、確かに一片の真理がある。しかし、それは事態の半分にすぎなかった。



線で囲うこと


以上のような話は、前置きにすぎないが、大槻の作品に沿うような道具を提供してくれている。

「揺らぎの中のせいとし展」でも展示されたこの作品には、格子が重ねられている。

「選び育つ」

ミシェル・ド・セルトーは、近代作家を世界から隔たって、孤立した主体とみなした。インゴルドは、セルトーの見解を印象的な言葉で要約している。

目の届くかぎりあらゆるものの主人である作家は、植民地生活者が地球に、都市計画者が荒れ地に対峙するがごとく、白紙に対峙して、その上に自らの制作を重ねていく。植民地支配された空間に社会がつくられるように、また、地図で囲い込まれた空間に都市がつくられるように、書かれたテクストはページという空間のなかで制作される。テクストとは、制作物――組み立てられ、つくられたもの――であり、以前何もなかったところに(あるいは、あらかじめそこにあったものは何であれ、その過程で撤去されて)築かれるものである。 (インゴルド『ラインズ』35頁)

インゴルド曰く、「表面とそこに築かれる構築物の所有権を主張する」点は、中世の西洋の制作物とは根本的に性格が異なるとしている。
大槻の絵の中の「囲い」は、そうした「近代的」性格を持っているのだろうか。


「水の窓」

この絵では、格子が途切れていたり、眼の下に隠されて目立たなくなっていることがわかる。
いや、それ以上に、線は揺らいでいるし、厳密な意味ではまっすぐとは言えない。
少なくとも、CADなどで引く線や、エクセルが各セルを囲う線とは大きく違っている。


小さい頃に遊ぶとき、「ちょっと待って」(関西弁的に言えば、「ちょいたんま」)と、おにごっこなり、かくれんぼなり、色鬼なりの中断を申し出るとき、足先で地面に円を描くことがあった。
そこが「無敵ゾーン」になるという印。
あるいは、両手を自分の肩に添えるように、クロスさせて、同じ言葉を言うという作法もあった。
自分の身体に、腕が作るバツ印を重ねることで、「わたし」を守り、中断することができるという証だった。
いずれも、「わたし」や「わたしのいる場所」を囲ったり、秩序ある線を重ねることで、「こちら側」を守ろうとする原初的な発想の現われのように思える。

そうした発想は、「家画」にも垣間見える。

「家画」

しかし、赤の枠を見ればわかるように、ここでは、囲うことそのものが頓挫している。囲おうとする、線を引こうとする欲求だけは残しながら。
世界を整え、秩序を維持したいのだが、それを完全に果たすことはできない、というように。



線を忘れる、線を裏切る


小さい頃、遊びに興じる子どもは、必死に線を引くのだが、そうして引いた線の多くを、人は忘れているだろう。
大槻は、会期中に、こうつぶやいている。

会期中に作品がじわじわ変化している事や、24時間でアーカイブが切れるインスタライブで作品解説していたりするのは「あれ、前どんなこと言ってたんだっけ?」みたいなものが特に今回の展示では必要だと思ってるから。どこまで実感出来るのか、覚えているか、大事に思うのか 2017/11/23

私たちは、知らず知らずのうちに、ありうる無数の可能性の中から、自分の引こうとする線を選び、線を引いている。

「消えないように線を引く」

この写真と併せて、「勢いのある線にみえるかもしれませんが、面としてじっくり色を乗せながら描いています」と書いている。
「私はやはり、クッションや絨毯の柄、あと線香、植木鉢のような形や、墓石のような塊を描いた時に、家を感じるようです」と続けられていることからわかるとおり、それは、慎重に選ばれ、引かれた線だ。2017/11/16
(私たちは、この言葉を、「選び育つ」の絵に添えられた、「選ばないと育たない」という言葉に、直接重ねて読んでいい。育つことには、選ぶことが、線を選ぶことが、付きまとう。たとえ、近代的な成熟とは異なる姿であっても、そのとき何かが「育って」いるのかもしれない。)


「かがみ」

少女の顔や胸のあたりを、はっきりと引かれた、不規則な楕円が取り囲んでいる。
画像が小さいために確認しづらい人もいるだろうが、そうした取り囲みの線を越えて、少女の絵は、展開されている。

この少女に重ねるように誰かが引いた線は、当の少女によってはみ出されている。
実は、こうした展開は展示内で執拗に繰り返されている。

「宿」

家を守るように、鰻のように描かれた紐のセクションと、家のセクションは、色で作られた境界により分割されている。
とはいえ、その家の切っ先は、海底のような濃紺のエリアに突き出して展開される。

他にも類似の目立った例は、枚挙にいとまがない。
展示空間、右方の両側に飾られていた長く大きい二つの作品は、継ぎ合わされた紙であり、それにより作られた格子状の模様に沿っているかに見えながら、各所で、そうした線引きを越えていくようなモチーフが描き込まれている。
(以下の写真に写った、長い作品にも、「格子」がある。)



アメリカの哲学者・心理学者のウィリアム・ジェイムズは、私たちは、規則的な事物を探しながら生きていると考えた。
点と点を結ぶ、見えない線を引きながら、私たちは世界に秩序を作り、名づけ、数えたり取り扱ったりできるものにしていく。
しかし、話はそれで済まない。

私たちが探すのは、もっぱら規則的な類の事物であり、それを器用に発見し、自分の記憶に保存していきます。それが他の規則的な類のものと共に蓄積され、その集積が私たちの百科全書を埋めるのです。しかし、規則的な事物の間にも周囲にも、誰も一緒に考えたこともない諸対象の、私たちの注意を未だ惹きつけていない諸関係の、未確定で名の知れない混沌(an infinite anonymous chaos)が横たわっています。 William James, The Varieties of Religious Experiences, Dover, p.439

私たちが引く線を、線を重ねられた対象は常に裏切っていく。
私たちは、何か中身のあるものを取り扱っていると信じ、日常を送っているのだが、それは勘違いかもしれない。
本当は、不可解で規定されない混沌、私たちの知らない秩序が、そばに蠢いている。



構成する/侵入する断片


ティム・インゴルドは、フリーハンドで線を引くときと、定規を使って線を引くときを区別している。少し長いが、見ておこう。

徒歩旅行(wayfaring)の場合、旅行者はある場所に到達してはじめてそこに至るまでに自分が辿った経路を把握したと言える。歩いているあいだずっと彼は、進むにつれて変化しつづける眺望や地平線と連動する小道に注意を払わなくてはならない。あなたがペンや鉛筆を持つときも同じである。書くあいだずっと、書き進める方向に注意しながらそれを調節する必要がある。だからいくらか捻じれたり曲がったりすることは避けられない。輸送手段(transport)を用いる場合、徒歩旅行とは対照的に、旅行者は出発前からすでに経路を設定している。旅行とは、ただその筋書き(plot)を実行するだけのことだ。二点を結ぶために定規でラインを引くときもまったく同様である。定規をそのまっすぐな縁が二つの点に接するように置くだけで、ペン先や鉛筆の先端は、描かれる前から既に完全に決定されている。(中略)定規が使われるや否や、徒歩旅行をおこなうペンの本質であるリスクの高い技は、まっすぐ目的地に向かう確実な技へと変化する。  インゴルド『ラインズ』248頁

インゴルドは注意深く、現実の複雑さに注意を払っている。近代的な輸送(transport)も、完璧・理想的な直線ではなく、実際は常に「徒歩旅行の要素」を含んでいる。
同様に、「完璧にまっすぐな直線を――定規を使ってさえ、引くことなどできるものではない」。
定規がずれるかもしれず、手の動きでペンの角度が変わるかもしれず、ペン先にかける圧力を一定にすることは困難だ。そもそも、現実の定規が欠けたり歪んだりしていない保証はない。
(興味深いことに、「さらに言えば、ラインを引くには時間がかかる」と当たり前にも見える指摘をインゴルドは強調しているのだが、話が長くなるので割愛しておく。)

ここから導き出せる教訓は、私たちが、何らかの対象を、つまり、世界を把握しようとすべく、世界に描き込む線、境界線は、徒歩旅行のように曖昧で揺らいだ要素を備えている、ということだ。
恐らく、大槻の作品は、これを地で行くものだ。

「柱」


先に見た、「宿」という上下で色分けされた作品では、上に鯰か鰻のように、黒く曲がった線が描かれていた。
そこから示唆されるのは、そうして描き込まれる線自体が、時折人間の理解を越えて、動き出す「あちら側」のものかもしれない、ということではないだろうか。



異なる時間に見た同じ風景を張り合わせたような、ばらばらの時間に、ばらばらの人が見た思いを張り合わせたように背景は区切られている。
その区画化された秩序同士が、曖昧に溶け、混じり合い、重なっている。境界侵犯が起こっている。
(私は、2015年の大槻の個展「わたしを忘れないで。」を捉えるために、境界侵犯という言葉を使用した。そちらも参照のこと。)

ここでは、それ以上に、少女を線が貫いていることに視線を振っておきたい。
何かを別のものと区切ることで、私たちは世界を理解している。線を引くことは、こちらとあちらを分けたり、わたしを守ったりするためのものではなかったのか。

アメリカの哲学者、スタンリー・カヴェルは、エマソンの次の一節に注目している。

「私たちが最も固く握りしめる(clutch)とき、どんな対象も私たちの指から滑り落ちてしまう。私は、この虚ろさと儚さを、私たちの条件の最も不格好な(unhandsome)部分とみなす」とエマソンは書いた。  (S. Cavell, Conditions Handsome and Unhandsome, Chicago, p.38)

ハンサムといっても、イケメンとは(さしあたり)関係がない。ハンサムには、「整った」という意味があり、そこから、「格好」とか「結構」のよさという意味合いが導かれている。
手の中に――手の格子に――収めたそばから、それをはみ出していくという世界の捉えどころのなさ、究極的な掴み切れなさがある。
カヴェルは、この「手(hand)」のニュアンスに注目し、人間である限り避けることができない「条件」として、掴み切れなさを位置付けている。
私たちは、不格好(unhandsome)な条件から逃れられない。

手を逃れる。私たちの把握を超える。
私たちが考えていたのとは違う秩序が存在する。
そうした感性を内面化したジャンルを私たちは知っている。
「ホラー」だ。
「ホラー」ないし「怪奇的なもの(the weird)」は、「私たちの考えているのとは違った仕方で、世界は動いているのかもしれない」という感覚に訴えるものに他ならない。

ある種の「ホラー」が、鑑賞者のために、謎解き的に構成され、それゆえ精緻で確固たる秩序として描かれてしまうのに対して、大槻の描く、異なる秩序(たち)は身近さと突飛さがあり、それらの侵入は、そっけなさで特徴づけられているように見える。
私たちは、日常的に不可解なものに侵入され、それらと相互浸透している。そうした感覚を彼女の絵は表現しているように思われる。

大槻の絵では、フィリップ・K・ディックほど異常でない仕方で、筒井康隆ほど突き抜けない仕方で、ぽこぽこと「何か」が「何か」溶け合っている。
(もし、そう確言してよいなら、以上のことが、大槻が本の表紙を描くとき、しばしばホラー小説のそれを描くことになるのかの説明になっている。)



何かが侵入すること、可能性がこびりつくこと


思えば、大槻の絵には、異なる秩序の侵入、異質なもの(かもよくわからないもの)がぽこぽこと侵入する絵が多数あった。



「家05」




規則性があるのかないのかも判然としない図形、線、面、色、不可解な生物(?)が、どんどんと侵入し、境界を揺らがせている。
いや、そもそも、それが人間の生なのではないか。

様々な、異なるリズムを持った断片に取り囲まれている。私たちは線を選び、線を描く。しかし、そのときですら、線を「完璧に」引くことはできない。
そうした線を裏切るように、世界は展開していくし、その線自体が、私たちを離れ、私たちの生に侵入し、折り合い、重なっている。





小さな四角を反復し、格子を構成するように、多くの断片としての絵――絵自体が、何らかの秩序に従って作られたもので、それが寄り集まって何かを構成しているのであれば、そう呼んでいいだろう――が、並べられることで、何らかの秩序を構成しているかのようだ。
(恐らく、大槻の展示自体が、そうして線を描き、秩序=星座を描くことでもあるのだが、話が長くなるので指摘に留めておく。)
(大槻の「整列」や、グッズの陳列は、秩序維持のジャンクな戦略として提示されているという見解は、「神なき世界のおまもり」(2016)に関連して書いたことがある。)

最も特徴的なのは、「ゆめしかちゃん改」だろう。


「ゆめしかちゃん」を取り囲むのは、無数の器であり、読み取ることも困難な文字の断片だ。
私たちがグッズを買い、絵を買い、服を買い、電子機器を買いそろえて、ツイートで自分を構成するとき、私たちは、「(現に)そうであるわたし」と、「(現に)そうではないわたし」を線引きしている。
数々の可能性を捨てて、今の自分を維持・構成しようとしている。
そして、そのとき、秩序維持に使うものたちは、他人にとって取るに足らないものであることが多い。砕け散った文字のように。

しかし、フジツボのように、ゆめしかちゃんのベッドや、ゆめしかちゃん自身に、色や図形が侵入しているように、それとは異なる無数の秩序が、彼女に侵入し、張り付いて、溶けている。
それを取り除くことは難しそうだ。

このこびりついた無数の何かは、「そうではない」として忘れてしまった秩序の断片、自分が描きえた秩序の欠片だとみなせないだろうか。
それは、引けたかもしれない線かもしれず、誰かが同じものを見て引いた線かも知れず、かつて自分が引いた線かも知れない。
私たちが「現実」として小ざっぱり収めている枠のすぐそばに、こびりついた可能性の断面を垣間見ている。おどろおどろしく、蠢く可能性の欠片を。

私たちは何かを選び、線を引き、当てはめるが、現実がそれに収まることはない。
常にそれを裏切っている。線は越えられる。時に忘れられ、放棄される。
しかし、漏れ出し、侵入し、こびりついた秩序は、今手にしている秩序を破壊することなく侵犯し、私たちの生を取り囲んでいる。
(多分、そうして「わたし」の境界を揺らがせて、それは、いつでも変化しうるし、変化するものだということを思い出させ、変わるよう誘っている。)



この絵と共につぶやかれた言葉はこうだ。

見た目だけじゃなく自分で描いていて退屈でない線ってどうやれば出てくるんだろうと模索している感じもあり。。空虚さを描くには線と向き合う必要がある 2017/12/2)




追記:
2017年12月、12-27日、伊丹の「創治郎」にて、大槻さんの個展「がたんごとんひるね」が開かれます。

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