2014年8月1日金曜日

7月31日、ガザ地区のこと

思う所あってSNSに書いた長文です。ほとんどそのまま転載します。


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ガザ地区(Gaza Strip)の件があまりにままならないので、せめて色々調べていたのですが、この少女のTwitterと、国境なき医師団の記事・声明とには、もうどうしようもない気分にさせられました。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/07/31/palestinian-teenager-farah-gazan_n_5636739.html
http://www.msf.or.jp/news/list_palestine.html




少女は、大好きだったモスクが破壊されたようです。
https://twitter.com/Farah_Gazan/status/494270782483468290

ユニセフの声明と状況の報告
http://www.unicef.or.jp/children/children_now/palestine/sek_pale25.html
アメリカの動き(停戦する一方、イスラエルに弾丸を供与)
https://twitter.com/aika2711/status/494847211935498241


報道ステーションって別にいいとも思えないけれど、こないだパレスチナとイスラエルと、一人ずつ死者の映像を流す、という仕方で紹介していたのはよかったと思う。
https://twitter.com/Farah_Gazan/status/494542794804199424 (←やや閲覧注意)たとえ、ジャーナリストがこんな目にあっても、単なる勧善懲悪(勧悪懲善?)の話にしていいわけもないと思うので。短いけどいい紹介だったと思う。


停戦しないことには、金銭的な支援もままならなさそうです。(国境なき医師団では、エボラ出血熱、中央アフリカの支援、シリアの支援が寄付先として選択できます)
http://www.msf.or.jp/donate/select.html

……なんというか、腐っていても仕方ないのですが、金銭的支援でなくても、忘れないでいること、覚えておくことも、こういった現実への、一つの抵抗なのだと思います。
実際、2008年にもガザ地区侵攻がありました。今回のほうが、ずっとひどいのですが。死者も倍じゃききません。覚えていたでしょうか。知っていたでしょうか。自分は(勉強していたくせに)思い出すのに、少し時間がかかりました。


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なんとなくですが、こういうエピソードを思い出します。
(実のところ、村上春樹のカタルーニャ国際賞スピーチを、レポートのために最近読んだのです。http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/800/85518.html

第二次世界大戦中、ロバート・オッペンハイマー博士は原爆開発の中心になりました。彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
それに対して、トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」。

まぁ、ちょっとできすぎたエピソードなのですが、情報が流通速度を早めていく昨今、私たちは慢性的な健忘症に、ちょっとくらい抵抗すべきなのかもしれません。2008年のパレスチナのことだって、自分自身「白いハンカチ」で吹いて、すっかり忘れてしまっていたわけですから。(もちろん、私が銃や爆弾で人を撃ったわけでも、その兵器を作ったわけでもないのですが、まぁ比喩的に)

「寄り添い」とかいう言葉は苦手なので使いません。「死者1300人にも生活が……」(激化しているのでもっと増えるでしょう)なんてすごく倫理的で、高邁なことも思いません。そんな聖人的ふるまい、できたとしてもいつまでも持続しません。
それでも、無意識に「白いハンカチ」で手を拭いたり、悲惨なものにかぶせて見ないようにしたがっている自分に気づくことくらいは、必要かもしれません。
ちょっと、覚えておくことです。とりあえず、忘れないでおこうとすること。せめて、知っておくこと(忘れてもまた思い出せるように)。


思うところあって、なんか語ってしまいました。
死者の冥福を祈ります、なんて言葉はどうしようもないだろうけど、それでも、一日も早く戦闘行為が集結しますように。

6時間過去に生きている(時差が約6時間だそうです)パレスチナ・イスラエルのみなさん、お先に、おやすみなさい。

2014年7月24日木曜日

ブクログを使ってみて

……と、タイトルを書いたものの、早速羊頭狗肉になる気しかしません。
お久しぶりです。ミルチです。
本日誕生日を迎えました。
これからもよろしくお願いします。

2014年度からブクログを利用し始めました。それ以前に読んだ本でも、再読であれば登録しています。
サイトの右下の方にブクログへのリンクがあるはずです。

なぜブクログを利用し始めたか


理由は大きく三つあります。
なぜブクログか。
なぜ読了本を登録するか。
前者はひとつの理由が、後者には二つの理由があります。

なぜ読書メーターでなくブクログか、という点については、以前少しだけ読書メーターを利用していたので、心機一転、真っさらから始めるのにはちょうどよかったからですね。

なぜ読書本を登録するか。
読んだ本について、読んだことを忘れてしまうこともあれば、読んだけれどタイトルを思い出せないということが結構あります。
読書好きの方は頷いてくれると思うのですが、「本には読むべき時期」というのがあります。好きでも、「なんか、今はちょっと読めないな」とか、読んではみたけど、「あれ、なんか目が滑って頭に入ってこないな」とか、そういう経験はあるかと思います。
これって、私生活や社会的出来事だけではなくて、今読んでいる本の前に読んでいる本に、現在の読書(体験)が影響されているからではないかなーとも思ったりします。

…………。

何が言いたいかというと、時系列に本が登録することがそれ自体リマインダーになるってことですね。
前後を見ることで、その本自体も思い出せることが結構ある。

もう一点は簡単。読んだことを忘れてしまうならば、読んだという達成感もなくなる。
視覚的に読了本を示されることは、ちょっとした自信を生み出すのに役立つかもしれません。


利用してみて


Twitterだとそこまで実感ないですが、いわゆるレコーディングダイエットのように、特定のジャンルに特化したライフログは、自分の無意識的な習慣を可視化してくれるので、それ自体面白いです。

自分の読書の特徴を思いつくままに挙げてみます。

・同ジャンルがかたよる傾向にある
→宗教学を読み出すと、タタターッと宗教学の本を読む。
→小説を読み出すと、小説ばっかり読み出す。
→一定数(一定時間)あるジャンルを読みまくると、別のジャンルに移行する。

・雑誌を目に見えてよまなくなった
→昔はブルータス、クーリエ・ジャポン、WIREDは毎回。時々CUTやPENも読んでました。

一日に何冊も読む日もあれば、全く読まない時期もある
→本屋で新書を一気に2,3冊読了するときもあります。立ち読みで。面白いのはそのまま購入です。

意外とたくさん読んでいた
→映像作品も若干ありますけどね。4月から数えて、120日くらいで170冊。一日一冊強読んでいることになるわけです。
→こんなに読んでたことに驚きました。けど、「登録する」ということ自体がモチベーションになって、以前より一層積極的に本を読むようになった気もします。


ブクログの難点


論文や古書、同人誌が登録できないことです。
これは、アマゾンに登録されている商品しか、本棚に登録できないことに起因しています。
個々人で、そういうものを追加できる機能があればいいんですけど。


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思ってたより話すことなくて驚いてます。
ここまで書いてきたところでちょっと飽きたので、またそのうち追記・修正します。
それじゃまた。


2014年5月23日金曜日

マイケル・フィンドレー『アートの価値――マネー・パワー・ビューティ』


全体を通して面白い。
アートディーラーとしての経験・体験が随所に活かされた文章でした。
フィンドレーの略歴自体はネットにpdfで落ちていましたが、本の感想は全くありませんでした。。。
ので! 書きます。


読んでる最中に考えたことは、(もう人に話したりしたので)脇に置くとして眠い頭で考えた「読書感想文()」だけを書くとすれば……芸術作品が〈貨幣〉みたいだと感じた。つまり――お金を払って芸術作品を買っているというより、芸術作品を払ってお金を交換しているようだ、と。
そういう感想の元ネタとしては、マルセル・モースの『贈与論』に出てくる「印章」の話でしょうか。
それに、芸術作品って貨幣と同じで目減りしますよね(経年劣化とか)。


あと、考えれば考えるほど、アートというものって、位置づけが不思議ですね。
ピラミッドとも、プラトン(の思想)とも、『不思議の国のアリス』とも違う。どちらも人類の遺産だけれど、芸術作品と違って、誰も「所有」しようとしないし、できない。
もちろんエジプトに位置しているから、便宜的にエジプト政府が管理したりはしているでしょうけど。少なくとも建前的にはそうなっている。
『不思議の国のアリス』自体は、誰しもが(英語であれ日本語であれ)手に入れることができるし、そのストーリーにアクセスできる。この点では、本物もアウラもくそもない。(プラトンの思想も、この点では同じ)
稀覯本という観点では、確かに『不思議の国のアリス』の初版本は150万ドル(うろ覚え)くらいで落札されたことがあるようだけど、これですら、『不思議の国のアリス』という人類の遺産に対する所有欲ではないし、その芸術性・文学性(あるいは思想でもいい)に対する評価・心酔から来ている所有欲でもない。
(この辺を単なる物質的なフェティシズムに還元できるのかどうか、考える余地はあるだろうけど)

一方で、私たちはウォーホルやモネの作品を所有できるし、同時に人類の遺産だと考えている。これはかなり奇妙で面白い営みだと思う。改めて感じた。



とてもいい本で、エピソードや「実はこうだよ」的な裏話も門外漢には刺激的。「これはいいっ!」って言いたい。
ただし第三章、てめーはダメだ。

三章は「アートの本質的価値」と題されている。
三章以外は好印象だった。アートの市場の話や具体的なオークションのエピソード、作家の態度や制作、コレクターや画商、美術館の所有や設立などなどかなり外在的な説明だったから自分も受け入れられたのかもしれない。

「言葉にされたら終わり」「言葉できないものを表現してる」「言葉にできないものを感じるんだ」「ありのまま感じるんだ」
……みたいな話が突然やってくるんですよ。
けれど、こういうときの「言葉にできない」「言葉は信用ならない」という態度を留保なくとる輩は、(そう言いたい気持ちはわかるにせよ)気に入らないんです。気に入らないは言いすぎだとしても、その感性の繊細さを疑いたくなる。
(ちょうど今の私のように!)あまりに感情的すぎるし、なにより、そう言うときの「言葉にできない」って言葉が安すぎる。


考えてみてください。コミュニケーションをとるときに、相手の感情がいかに言葉にならないものだとしても、私たちは誤解をしたくないなら、延々とその感情と付き合い続けて、言葉を費やし続けますよね。それによって、ずっと私たちは他者の感情の解釈を――それゆえに、他者そのものの解釈を、不断に更新し続けますよね。
考えてみてください。「英語にしきれない日本語がー」って話がよくありますけど、その不可能性はどの程度でしょうか。私たちは思っている以上に伝えているんですよね。注釈による補足や文献への案内、言い換えや具体例、図版の挿入、ルビその他――そういう風に翻訳の工夫だってできます。(なぜ翻訳の話をしているのか、と思う方はinterpretationという言葉を思い出してください)
考えてみてください。草原に立っている私たちの視界にうさぎが入ってきたとき、私たちが「うさぎだ」と言語化する以前に――うさぎだと判断するまでもなく、頭ではうさぎとして処理されています。言語は私たちの現実認識の根っこにあるので、言語抜きの私たちなどもはや想像できないほどの根本から、私たちを作り上げているのです。(言語抜きの私たちを想像できるとしても、それはやはり言語を用いているまでもなく、言語の影響下にある。)

「言葉にできない」「言葉以前の」「言葉にしたら終わり」
こういう言葉の「できなさ」を深く語っている人はほとんど見ません(どういう「できなさ」で、どの程度「できなく」て、結果どのようなことが起こるのか、なぜ「できない」のか)
「言葉以前」というならば、どのような時間的プロセスにのっとった何を想定しているから「以前」と言っていて、どういう段階を経て「言葉」に至るのか、言葉に至ったら至ったで、その段階はどういう部分に分けられるのか――
「終わり」だってそうです。「◯◯はオワコン」程度の適当さで、「言葉なんてオワコン」って言いたいだけに思えるんですよね。

「言葉なんて」って言うやつの、感性の鈍感さが、私には信じられません。
少なくとも、無前提に、留保なく言う人は、言葉について語る繊細さを持ち合わせていないのではないかと思うのです。

……と怒りはこれくらいにしておきます。
(いや、もうちょっとだけ続くんじゃ)


事程左様に第三章のこういう仕方で「美」を語っているような多くの部分が無根拠だし、あまりに叙情的過ぎるのです(「お話」としては「綺麗」ではあるけど)。
はっきり言ってしまえば害悪ですらあると思います。

人間のコミュニケーションの歴史と、コミュニケーションにかける努力・試行錯誤をなめているし、哲学や文学、言語学や翻訳論といった分野が「言葉」や「(他者の)解釈」というものに費やしてきた、祈りのような思いと時間とを、個人的な鈍感さと無関心で粗野に放り捨てている。
フィンドレーは、芸術には敏感かもしれないけれど、それを覆い隠すほどに、言語・言葉には鈍感なのだと思う(自分は逆にどうか――というのは、のちの宿題にするとして)。


少し前、SF作家・神林長平の『言壺』の発言を引用しつつ、こんなことを言いました。
「核になるのは私の場合、言葉ではなく、非言語的な想いであって、表現したいことははっきりしているものの、言語レールにはもともとのせることができなくて、書いているうちになんとなくそれに近づいてくるのをよしとするものなのだ。真実があるとすれば、書くという行為、そのものにある、という説もあるが、なるほど、と思う。書き上げたとき、やはりこれと核になったものは違う、と思うのはそのせいだ。だから、また書く気になれる。これでよし、ということがない。想う能力があるかぎり」神林長平『言壺』
原理論を持ち出せば、そういう非言語的に思える部分、つまり無意識に刻まれた世界や自己に関する一次的な知覚・把握・直観が、「言語」抜きに成立しないものだったりする。それは、もはや表現するときの「言葉」とはかけ離れたものだろうけど

……などという「言語観」「他者観」については、デイヴィッドソンでも読んでください。入門書は、冨田さんのがいいのではないでしょうか。

あ、いや。ほんとに面白い、いい本なのです(今更?)
装丁もきれいだし、文字組も結構いい感じ。訳者注も邪魔じゃない範囲だし、痒いところに手が届く。



以上、本書を読んだからと言って、クリスティーズやサザビーズは一生縁がないだろうな――と思うミルチでした。

ではまた。



※ちなみに冒頭に貼っているのは、(一応は)ネオプラグマティストに数えられることもある、シュスターマンの芸術論・美学です。音楽とかそっち方向で本人は入ったようですが。

※アリスの初版本については、こちらに情報がありました。本書に出てくる金額に比べると、アリスの150万ドルなんてかわいい部類だなぁと思ってしまいます。