2013年9月12日木曜日

@showitch さんの批評へのコメント――短歌、やっぱり衰退するんじゃないでしょうか。ただし…

短歌は衰退しますか――ポストモダンに防人はいない

今回の話題はこちら↑です。


2012年活動報告に書かれてある通り、実は京大短歌に所属しています。
会報誌?の『京大短歌』19号に、「短歌は衰退しました――短歌構造の素描と三つの短歌小説」という評論を書きました。
(なお、短歌小説論のうち、森田季節『ウタカイ』の一部分はこちらに掲載されています。)


反論というほどのことはありませんし、(今は京大短歌に興味を持った知り合いに貸していて、自分の原稿が参照できないこともあって)自分より自分の評論を読み込んでくれているのではないかと思います。
ありがたいお話です。

「ライトノベルが価値があることを前提としている時点で議論が弱い」というような、別の方の感想をお見かけしたので、そのような勘違いよりは辛辣さの方が心地よいものです。
辛辣どころか、吉田さんは丁寧に過ぎるくらいで。
(どちらかというと、ハイカルチャーとサブカルチャー、「純文学」と「俗文学」のような二項対立に還元したがる人にこそ、そのような偏見を解いて頂きたく書いたというのが本心なのですが。
つまり、ラノベを列挙したのは、「どうせ、こんな文脈知らないでしょ?」という煽りであり、釣りです。
実を言うと、どちらかというとラノベはそれほど沢山よみません。漫画は読みますが)



あの評論の意図は最初と最後とにまとめてあるので、お持ちの方は最初と最後だけでもご確認ください。

さて。その上でいくつかコメントを。

※手元に自分の原稿がないこと、院試の一週間程度前であることなどを踏まえて、「だらだらしたコメント」であること、「疑問に対する的確な答え」にはなっていないことについて、ご寛恕願います。


コミュニティ論としての側面


理論選択については書いている時点から疑問でした。
ポストモダンが進行していることは論じる余地がないと思います(東浩紀「ポストモダン再考」的な意味で)。
ただ、短歌にデータベース消費があるかというと、これは怪しいと思います(東浩紀『動物化するポストモダン』の用語)。

個々のコンテンツや出来事が、諸々の要素に還元された上で集積されていることが前提ですし(そうした営みは、更に「情報技術」によって大幅に勢いづけられた、技術的に高度な集積=データベース)。
それに比べて、短歌は情報技術や時代の変遷を前にして、何か変化を遂げたかというと、良くも悪くも「相変わらず」なのではないでしょうか。


なので、かなり本文での私の話はあずまんの言っていることと違うはずです(うろ覚え)
そのままの応用ではないはず。

※あずまんの例の本については、このへんとか、このへんとか。これが一番いいかというと疑問ですが。


うまくいかないかもしれないのになぜ、あの評論を書いたかということからお話するべきかもしれません。
「クラスタ」という言葉を使っているように、あれはある種のコミュニティ論のつもりでした。
短歌という磁場に集まった人たち、その集まりそのものを、まるっと対象にしたかったのです。

きょうびのコミュニティ論は、管見では以下のような所に話が既に向かっていると思います。
「もう開いている・繋がっていることは自明なところまでいったので、開きつつどう閉じるか、閉じることで個性・固有性を維持するか、開きつつ閉じることでどう変化に対応するか」

それなのに短歌ってなんか変なところがあるなぁ。閉じる所に寄り過ぎなんじゃないの?という疑問。上の話で言えば、スタート地点にすら立っていないように思える。
反論されるならば、これが杞憂であるならば、結構な話なのです。

阿呆陀羅経でも構わないなら簡単に作れるし、読むことも日本人なら簡単。
けど、それだけでは何の楽しみもない。
向こうから手を伸ばしかけている、クラスタ外の人にちゃんと短歌好きが手を伸ばさないといけないんじゃないの。
科学で言えば、科学コミュニケーションとか、アウトリーチ活動とか、啓蒙活動とか……こういうものに当たる営みが決定的に乏しい!と書きはじめる前は、そういうイメージを持っていたかもしれません。

いや、言えば言うほど安っぽいんですけど。
もっと、砕けた言い方を許してもらえるならば、「駄サイクル」(石黒正数)に見えてしまうことがあるんです。
歌壇ってちょっと大きい部室じゃないの?
部室の真ん中で、「芸術の真正性がー」「社会がー」みたいな話をされても、ちょっとなーと思うんです。


理論選択/創作の諸前提という側面


本当は、解釈学とかの理論(こういうイメージ)で話がしたかったのですが、力不足で。なので、とりあえず次善の策として、あずまんの理論を借りたのです。

リンクをご覧になれば、解釈学のアプローチによって、えぐり取られる側面が伝わるかと思います。
いかに当たり前のことを、当たり前に解釈することが困難かということ。
私たちが、何を受け取る時に、恐ろしいほどの前提を「自明視」するまでもなく前提にしていること。
その前提の洗練された集積のことを、「伝統」と言ったり、「文化」と言ったりするのでしょうね。

この前提を、コモン・ノレッジと呼んでいたのだと思います。
暗黙の諸前提=コモン・ノレッジもっと意識的に言葉化・可視化する努力をしてもいいんじゃないか。それをしないことで、作られている部外者への壁に気付いてもいいんじゃないか。

みたいな話だと思います。

心の習慣にしろ、暗黙の前提にしろ、互いの付き合いや作風の変化を織り込み済みにした批評にしろ……あんまりそれが肥大化しすぎると……ちょっと大きい部活の「部室」、タコツボ、内輪……なんと言ってもいいのですが。


いや、うまく言えませんが、それでいいのかな、短歌は。

……と思うのです。
そりゃ伝統あるし、魅力もあるけど。
でも、魅力的な「部室」ってどうなんやって思うじゃないですか、やっぱり。


「情報」について


ページ数まで挙げて頂いて、丁寧に読んでいただいている中、記憶で返すのがほんとに心苦しい。笑
ごめんなさい>< 今、短歌に興味あると言ってる友達に貸してるので、『京大短歌』が手元にないのです。
書いている当時も結構焦って書いていたので、使用語彙に甘さはあるかもしれません。


情報という言葉はまさに仰るとおりです。
「描かれてある文字数」です。解釈学について紹介したエントリでいえば、「ももたろう」についての文字列=「ももたろう」の情報です。

第一稿では、シャノン-ウィーバーの名前と共に、図まであったような気がします。デリダの名前はもっと意識的に出していく予定でした。前者は、出すだけややこしいかと思ってカット。後者は、やや力不足で。ディスコミュニケーションを強調すれば足りるかということで、あの程度にとどめました。


ただ、「それ以前の情報へのコメント」として、連作が機能するかについては結構怪しいと思います。
「短歌にコンテクスト構築能力はない」と断言していたらしいのですが、意識的にやっているなら、レトリックであり、政治的な意図だと思います。
実際には「弱い」と言うべきでしょう。

例えば、馬場めぐみさんの短歌研究新人賞の、選考座談会を読めば、少なくとも審査員のような「短歌クラスタを率いている偉い人」は、コンテクストを作るものとして読んでいないと言えるんじゃないでしょうか。
他には、誰だったか、「風邪をひいて、街を歩いて、イライラしたりして、最後は治る」という一連の体調変化・気分の変化の中にいる青年のシーンを、時系列にスナップショットで撮ったような連作を作っていたのですが、その歌会で「コンテクスト」に気付いていた人は誰もいなかったように思います。

※です↑

つまり、不可能ではないにしろ、結構現実的に無理なんじゃないかとは思います。そういう風に読むという「身体」を、短歌クラスタは持っていない。
すみません、今はこの2つくらいしか、いい例が浮かびません。


本文では『回転ドアは、順番に』をどう扱っていたか思い出せませんが(あれも連作みたいなものでした。詩もありましたが。大まかには章ごとに完結し、全体としてもストーリーになっている感じ。)、あれに収録されてる露骨なセックスの短歌が編集者には理解されていなかったそうですし。

普通の短歌人同士では下手に伝わり合ってきたこともあってか、部外者には絶望的に伝わらないことを自覚してもいいんじゃないかな、と。



んー。用語の混乱は結構あるような気がしてきました。
造語しちゃうくらいがよかったのかもしれませんね。



うろ覚えで書いていて、自分でも答えになっていないような気がしてきたのでここらにしときますw


短歌、やっぱり衰退するんじゃないでしょうか。
ただし、短歌クラスタが「流通」に注意を払うならば、その限りではないでしょうけど。

短歌って、消費のされ方、受け取られ方を含めて、想像以上に「通じてない」「伝わってない」んですよね。
枡野浩一さんとかはわかりやすすぎるくらいわかりやすい歌も多いし、ドラえもん短歌(でしたっけ)も「共通体験」を意識的に使っているわけですし。
そりゃ「文学」が好きな人としては、枡野浩一をくさすのが「かっこいい」とか思ってるのかもしれませんが、そんなのクソッタレだと私は思っています。
ドラえもん短歌、いいじゃないですか。枡野浩一、最高じゃないですか。

気に入らないなら、お前がやれ。
――と、批判を聞く度に思います。



おらああ! 俺がちゃんと布教やってるよ!!
アウトリーチやってるよ、既に私がっ!!!

……というお兄さん、お姉さんが沢山いることを願っています。




以下、9月14日追記。「長めの蛇足」
理論的な問題点を抱えている点、意図は多くの人に汲んでもらったという点を見ても、もはやこれ以上自分からこの評論について語ることはないだろうと思います。
本来私はただの引きこもりだし、最近バイトや院試対策、身内の不幸で全然歌会行けてないんですよね。だから、本当は様々な意味で、別の人の仕事だったのだと思います。


勝手に埋め込んじゃいますが、その点、下に挙げる発言には同意なんですよね。そういう方向を選ぶことには同意できる。
それは、おおまかに認識を共有できているからです。大まかな現状認識は一緒だけど、問題を見出すところが違うというだけで。少なくとも、私の思う「問題」の解決には一切貢献しないし、疑問点はあるけど。(でも、この点も「逆もまた然り」、です。)

周回遅れのポストモダン(プレモダンである日本が周回遅れで先進的になる)という昔ながらの議論の構造を、宇野は焼きなおしているわけですが、それを個々の島宇宙=クラスタで主張しているのかなと思います。この種の議論のバリアントでしょう。

とはいえ、それも「開くことが自明になった上かな」というのが本心でして。

だから、そういう風には思うけど、 ほんとの所。

まさかあ
「馬人が悪い」が「猿人が悪い」にかわってるだけよ
何にも違わないわ 
そうかなあ 
そんなもの
なんにも違わないのよ
なーんにも

同じ生活形式ならば、時には、主張の違いなど些細な問題なのかもしれません。短歌のことが好きなら、なおさら。

1 件のコメント:

  1. こんばんは。
    そう、「反論を試みる」と僕は書いたのですが、実のところ、朝永さんの問題意識に近いものを僕はもっていると思われたので、僕が書いたことといえば論旨の甘さを指摘するくらいのものなんです。

    > ラノベを列挙したのは、「どうせ、こんな文脈知らないでしょ?」という煽りであり、釣りです。

    これは伝わりました(笑)なので、理論選択の甘さもこの流れから来ているのかもと。

    > 短歌ってなんか変なところがあるなぁ。閉じる所に寄り過ぎなんじゃないの?という疑問。

    この疑問は、僕にもあります。けれど、こういう閉じた感じでずっとやってきただろうから、これ以上「衰退」することってないのかも知れません。

    > 馬場めぐみさんの短歌研究新人賞の、選考座談会を読めば、

    すいません。読んでいないのでなんとも。読んでいないのですが別口で、「少なくとも審査員のような「短歌クラスタを率いている偉い人」は、コンテクストを作るものとして読んでいない」というか、短歌史上の位置づけを考えて読んでいるのかどうかという疑問は、ありますね。選考段階ではなく発表後に位置づけしているという感じ。

    「共有するデータベース」があるのならば、「もっと意識的に言葉化・可視化する努力をしてもいいんじゃないか」、そういう、短歌を読む楽しみを伝えていくことは重要だと僕も考えています。

    なので、結論ではおおよそ理解するものの、そこに至る論旨に疑問がある、というのが僕の立場で、およそ反論ではないんですよね。

    > 布教

    朝永さんがぜひ!(笑)

    返信削除