2015年7月22日水曜日

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので③

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので①

以上です。
今はもう読んだ記憶もほとんどないですけど、こんな勉強もしてたんだなぁと思いました。


上山安敏『法社会史』

第十二章 ゲルマ二ステンと政治的運動

三月革命前の時代は、学問が政治的社会的機能を動かした時代だった。ドイツでは、政治が大衆世論という形で、初めて権力構造を変質させた。しかし、この世論は、大学の政治的教授のもので、それは特に法学者と歴史家だった。

ドイツでは、三月革命前の歴史を駆動するのは、法・歴史・言語であった。国民の所属は、自由意思でなく、自然と歴史により規定された運命であるという認識が支配的であった。経済発展につれ、教養層が英仏型の「富と教養の階層」に近接し始め、学識者は次第に政治性を帯び始めた。大学も、純粋な研究の場だと自認しながら、国家の精神的支柱たる存在を固辞することで、政治運動の精神的指導者を生みだす契機を有していた。この中で政治的教授が生まれていった。ドイツにおいてリベラリズムは多義的で幅広い概念だった。彼らは、当時社会的な力となりつつあった与論を合言葉に用い始めていた。

ドイツの統一と自由を求めた運動は、反動体制の道具と化したドイツ連邦でなく、職業を通じた横の連帯を基盤に進められた。ゲルマ二ステン集会は、このような運動の典型だった。この集会では学会母体を、特に法学・歴史・言語に制限した。集会は法律家が主導し、議題も彼らが提示したものが総会の強い関心を引いた。ゲルマ二ステン運動は、その母体の歴史法学と同様、私法から出発したが、同時に新しい公法領域を開拓した。学問の枠を守る動きと政治的運動の微妙な衝突はあったものの、政治的な方向に傾いていった。


1、政治的教授の登場

ドイツにおいて、三月革命前期の歴史を駆動するのは、法・歴史・言語であった。国民の所属は、自由意思でなく、自然と歴史により規定された運命であるという認識が支配的であった。歴史や言語の文化運動は、言語と民族の統合による国民国家の形成という、ドイツ特殊的な政治運動の推進力となった。

フランスのバロのような弁護士団体は革命運動に対して大きな政治的役割を果たした。彼ら弁護士はブルジョア層の富と、学識者の教養とを所有する者であった。一方ドイツでは、経済発展の遅れのため法曹の自由営業化が阻害され、フランス型の政治的弁護士を生まなかった。ドイツでは、市民運動が国民国家・立憲国家・法治国家を作ろうとするとき、大学の法・政治的知識を持つ学識者が必要とされた。多くの人にとって学問は、それら国家との一致が必要であった。

経済が急速に発展するにつれ、教養層が英仏型の「富と教養の階層」に近接し始めた。学識者は次第に政治性を帯び始めた。大学も、純粋な研究の場だと自認しながら、国家の精神的支柱たる存在を固辞することで、政治運動の精神的指導者を生みだす契機を有していた。この中で政治的教授が生まれていった。


2、政治的教授とリベラリズム
ドイツで、リベラリズムとは多義的で幅広い概念だった。当時社会的な力となりつつあった与論を、彼らは合言葉に用い始めていた。また政治的には、立憲主義(中央右派)と議会主義(中央左派)に、大きく分類される。リベラリズムの思想的基調は、反封建、反啓蒙、反フランス革命、反自然法、反絶対制、反官僚制に帰結する。このような態度をとった彼らの理論的支柱は歴史法学の派の依拠した有機的発展理論だった。彼らによると、国家は契約的に建てられた社会でも、目的合理的な構成物でもなく、人間自然において作り出された有機的道義的共同体である。


3、ゲルマ二ステン集会

ドイツの統一と自由を求めた運動は、反動体制の道具と化したドイツ連邦でなく、職業を通じた横の連帯を基盤に進められた。ゲルマ二ステン集会は、このような運動の典型だった。学問と政治的理念が強力に結合した政治的なショーという意味で画期だった。この集会では学会母体を、特に法学・歴史・言語に制限した。集会は法律家が主導し、議題も彼らが提示したものが総会の強い関心を引いた。

集会内部は、三つのグループに分かれていた。旧世代の穏健派、急進派、中間グループである。穏健派はロマ二ステンに対して妥協的であり、集会の中核をなす急進派はドイツ固有のものとして取り入れられたローマ法は排除しようとするものではないとした。中間グループは中庸の態度だった。

ゲルマ二ステン運動は、その母体の歴史法学と同様、私法から出発したが、同時に新しい公法領域を開拓した。学問の枠を守る動きと政治的運動の微妙な衝突はあったものの、政治的な方向に傾いていった。

疑問点・論点

・学者の政治性

・純粋な研究の場は可能か→純粋な研究を自認するあまり、社会的な影響や悪用の可能性を度外視することもあるのでは?逆に政治的であることの弊害(学問の自由が無くなるなど)



同書
第十三章 裁判官層の自由主義化

1、ウィーン会議後のデマゴーグ迫害と警察


ウィーン会議では、勢力均衡や正統主義の下で反動体制がつくられ、一定の秩序が形成された。ドイツでは、ゆるく統合されたドイツ連邦が組織されたが、国民的統一への欲求を満たすものではなかった。体制は革命的潮流を嫌い、ブルシェンシャフトの弾圧に象徴されるように、弾圧の手段は過激化した。革命的な動きを取り締まるために、警察司法省の構成員からなる委員会が設置され、家宅捜索や逮捕が乱発した。

2、裁判所の抵抗
当は、司法は圧倒的にリベラルなもので、一方警察は体制保護的で反動的なものと捉えられた。


3、裁判官の自由主義化

三月革命前の官僚体制は、下からの運動たるリベラリズムの高揚と権力の反動化に伴う政治的対立を内部において反映しており、行政府と司法府との対立という形で現れた。プロイセンで、等族的なイデオロギーの擁護者から、進歩的自由主義の担い手となった司法府は、官僚機構の中でアウトサイダー的な立場を強いられた。


疑問点・論点

・当時の社会での受け取られよう、民衆の反応は?
・司法権の独立、体制との距離感→日本では?
・警察の思想的取り締まり→明治以降、戦前。特高など。

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